うめきの祈り

2008年7月20日

ローマ8:18−27
8:18 現在の苦しみは、将来わたしたちに現されるはずの栄光に比べると、取るに足りないとわたしは思います。8:19 被造物は、神の子たちの現れるのを切に待ち望んでいます。8:20 被造物は虚無に服していますが、それは、自分の意志によるものではなく、服従させた方の意志によるものであり、同時に希望も持っています。8:21 つまり、被造物も、いつか滅びへの隷属から解放されて、神の子供たちの栄光に輝く自由にあずかれるからです。8:22 被造物がすべて今日まで、共にうめき、共に産みの苦しみを味わっていることを、わたしたちは知っています。8:23 被造物だけでなく、“霊”の初穂をいただいているわたしたちも、神の子とされること、つまり、体の贖われることを、心の中でうめきながら待ち望んでいます。8:24 わたしたちは、このような希望によって救われているのです。見えるものに対する希望は希望ではありません。現に見ているものをだれがなお望むでしょうか。8:25 わたしたちは、目に見えないものを望んでいるなら、忍耐して待ち望むのです。

8:26 同様に、“霊”も弱いわたしたちを助けてくださいます。わたしたちはどう祈るべきかを知りませんが、“霊”自らが、言葉に表せないうめきをもって執り成してくださるからです。8:27 人の心を見抜く方は、“霊”の思いが何であるかを知っておられます。“霊”は、神の御心に従って、聖なる者たちのために執り成してくださるからです。

うめきの祈り

ある人は、文句を言う事が好きみたいです。先週、アメリカの政治家の一人は、「アメリカはぐちをこぼす人の国だ」と言いました。政治家達は、選挙で選ばれたら、自分が国民のその不平と恐れや不安を解消し満足させると約束します。勿論、そんなことは出来ません、世界の歴史の中で、どの政治家でも完全に幸せな国を作った事がありません。私達が、この堕落した世の中で生きる限り不可能です。

人間だけではなくて、自然界もうめきをもって不平を表しています。ローマ人への手紙で、聖パウロは書きました、8:20−22、「8:20 被造物は虚無に服していますが、それは、自分の意志によるものではなく、服従させた方の意志によるものであり、同時に希望も持っています。21 つまり、被造物も、いつか滅びへの隷属から解放されて、神の子供たちの栄光に輝く自由にあずかれるからです。22 被造物がすべて今日まで、共にうめき、共に産みの苦しみを味わっていることを、わたしたちは知っています。 人間の罪の重荷の為に、被造物はうめいています。 地面を動かす地震の轟きの音があります。台風の音こそはうめきや泣き叫ぶ声のようです。津波の破壊(はかい)。 北極の氷が溶けて割れて暖かくなった海にしぶきをあげて落ちます。山火事は燃える火によって恐れと災害を増やします。空気汚染(おせん)は私達吸う空気を汚(よご)します。聖パウロは、これを地球温暖化、Global Warming といわないで、Global Warning, 地球にたいする警報だと言います。その虚無、その滅びへの隷属が終わると言う警報や宣言です。マタイ24:7−8で、イエス様はこの事について語りました、「民は民に、国は国に敵対して立ち上がり、方々に飢饉や地震が起こる。しかし、これらはすべて産みの苦しみの始まりである。」

イエス様も聖パウロも、自然のうめきを「生みの苦しみ」と言います。新しいものをそろそろ生みます。自由が生みます。救いが生みます。これは、私達クリスチャンが持つ希望です。被造物は、いつか滅びへのから 自由になります。そして、聖霊によって生まれ変わった者である私達が、「神の子とされること、つまり、体の贖われることを」いただきます。この希望があるので、忍耐して待ち望んでいます

この堕落した世でうめきをもって苦しんでいますので、忍耐は難しいと思います。キリスト信者の忍耐は、希望に基づいています。この希望は、イエス・キリストに対する信仰と信頼に基づいています、即ち、約束を守るイエス・キリストに基づいています。しかし、時々私達の信仰が弱いです。この世の問題を見る時、この世のうめきを聞く時、どうなるかなと思います。自然のうめき、人間のうめきと不満、経済状態がメチャメチャ、戦争があり、新しい戦争のうわさがあり、家族の問題、そして、私達一人一人の問題があるので、私達もうめきます。心配も、自分の痛みと病気もあります。いつよくなるでしょうか。がまんする事が出来るでしょうか。忍耐が本当に必要です。

自分の苦しみについて不平を言う時、イエス様の苦しみを考えなければなりません。聖書によりますと、この世の苦しみをご自分の上に取って下さった時、不平を言われませんでした。逮捕された時、ご自分を告発(こくはつ)した人にも、ご自分を十字架につけた人にも、のろいの叫びをあげませんでした。ご自分の死によって、世の罪を赦しました。そして、御自分の復活によって、この世に希望を与えました。復活と救いの希望があるので、私達の苦しみの中にも希望があります。それで、希望と忍耐があります。

主の祈りの中では、私達は世の救いの為に祈ります。「み国を来たらせたまえ。み心の天になるごとく、地にもなさせたまえ。」しかし、私達の祈りが弱い時、疑いがある時、聖霊は私達に力を下さいます。今日の使徒書の箇所の最後の言葉が大好きです。「8:26 同様に、“霊”も弱いわたしたちを助けてくださいます。わたしたちはどう祈るべきかを知りませんが、“霊”自らが、言葉に表せないうめきをもって執り成してくださるからです。8:27 人の心を見抜く方は、“霊”の思いが何であるかを知っておられます。“霊”は、神の御心に従って、聖なる者たちのために執り成してくださるからです。」時々、何の為に祈れば良いか分かりません。しかし、神様が私達の必要なものが分かります。山の上の説教、マタイ6:8「あなたがたの父は、願う前から、あなたがたに必要なものをご存じなのだ。」と。それは私達の祈りに力を与えます。クリスチャンの交わりの中でも、公に祈りたくない時があります。自分の言葉が綺麗ではないと心配するからです。実は、綺麗な言葉は、その祈りの言葉を聞く人々の心に力を与えます。しかし、聖霊は私達の為に神様に祈っています。私達の為に「執り成して」下さいますので、神様が私達の祈りが分からないと心配する必要がありません。

又、どうやって祈れば良いか分からないのは、自分の苦しみが多すぎるからです。体や心のストレスがすごくひどい時、何もちゃんと考える事が出来ません。時々、私個人には、ひどい頭痛があります。その時、2つの考えしかありません:即ち、「頭痛の薬はどこですか」と「神様、助けて下さい」と。ある時、私達の祈りがうめきです、「Ugh, アーメン。」緊急の時、綺麗な祈りを作る時間がありません。「オー、ガッド!神よ!」「主よ、助けて下さい!」と。多くのアメリカ人が、この言葉を驚く時などに使います。神様の名前を「みだりに」使っているようです。(十戒第二戒め。)しかし、困っている時、神様の名前を唱えて祈れば、すばらしいです。「オー、マイガッド、アーメン。」と言ったら良いでしょう。「アーメン。」をつけると、その祈りに信仰と確信と希望と証しをします。

実は、文句や不平を言うべきものが沢山あります。しかし、同時に、私達はイエス・キリストによって希望があるので、祈ったり、働いたりするべきものも沢山あります。どうか、聖霊が、あなたに信仰と希望と平和と満足で満たすように祈ります。

アーメン。

マイケル・ニアフッド、牧師
沖縄ルーテル教会


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