一番偉いこと

2009年9月20日
マルコ9:30−37

9:30 一行はそこを去って、ガリラヤを通って行った。しかし、イエスは人に気づかれるのを好まれなかった。 9:31 それは弟子たちに、「人の子は、人々の手に引き渡され、殺される。殺されて三日の後に復活する」と言っておられたからである。 9:32 弟子たちはこの言葉が分からなかったが、怖くて尋ねられなかった。 9:33 一行はカファルナウムに来た。家に着いてから、イエスは弟子たちに、「途中で何を議論していたのか」とお尋ねになった。 9:34 彼らは黙っていた。途中でだれがいちばん偉いかと議論し合っていたからである。 9:35 イエスが座り、十二人を呼び寄せて言われた。「いちばん先になりたい者は、すべての人の後になり、すべての人に仕える者になりなさい。」 9:36 そして、一人の子供の手を取って彼らの真ん中に立たせ、抱き上げて言われた。 9:37 「わたしの名のためにこのような子供の一人を受け入れる者は、わたしを受け入れるのである。わたしを受け入れる者は、わたしではなくて、わたしをお遣わしになった方を受け入れるのである。」

私達の学校では先生が教える為に、先ず教室と黒板などがあります。イエス様は先生でしたが教室がありませんでした。その時代、ギリシャのアテネの教育センターのような所にも、多くの先生や哲学者達には教室がありませんでした。それで、青空の下の公園や畑で教えました。ある先生は町の道を歩いて、その生徒が先生の言葉を聞きながら先生の後について歩きました。文字通りの先生の後に従がう「followers」でした。イエス様もこのようにして自分に従う弟子達に教えました。 町から町へ歩きながら、イエス様は弟子達に神様の御言葉を教えました。

イエス様達がガリラヤを通って行った時、町の群衆から離れている時、個人的に弟子達に教えました。自分にこれから何が起こるか教えました。預言しました。ご自分にたいする裏切り、御自分の苦しみや死と復活について話しました。言われました。「人の子は、人々の手に引き渡され、殺される。殺されて三日の後に復活する」と。しかし弟子達には、このことが全然分かりませんでした。自分の愛する先生が殺される事を想像する事が出来ませんでした。十字架上で殺された人が3日目に復活する事は信じられませんでした。それで普通の生徒達のように、勉強が分からない時、お互いに話し合う事をしました。

勿論、小学校の先生達は自分の生徒が先生の言う言葉に注意を払っていないとき、それが分かります。そしてそのような時を捕らえて、新しい事を教える事が出来ます。イエス様もこの機会を利用して新しい事を教えました。

弟子達は、歩いている途中で、自分達の中でだれがいちばん偉いかと議論し合っていたからです。これはイエス様の話されていたことと、まったく逆でした。それで家に帰りますと、イエス様は新しいレッスンを教えました。マルコ9:35−37。 35 イエスが座り、十二人を呼び寄せて言われた。「いちばん先になりたい者は、すべての人の後になり、すべての人に仕える者になりなさい。」36 そして、一人の子供の手を取って彼らの真ん中に立たせ、抱き上げて言われた。37 「わたしの名のためにこのような子供の一人を受け入れる者は、わたしを受け入れるのである。わたしを受け入れる者は、わたしではなくて、わたしをお遣わしになった方を受け入れるのである。」

普通の考え方ですが、偉い人には他の全ての人々が仕えています。皆はこの偉い人の為に働きます。でもイエス様はこの反対の事を言われます。即ち、偉い人は他の全ての人々の為に働いて彼らに仕えます。このように考えますと、総理大臣は一番偉い公務員(こうむいん)なのは、彼が国の全ての人々に仕えるからです。政治家はこの事をよく分かります。即ち、自分の県や町の人々の為に働かなければ、次の選挙で落ちるからです。お店のセールマンも、お客様に仕えることの大切さが分かります。そうです。お客様が一番でお客様に仕える事です。イエス様が言われるのは、弟子達は社会的な一番低い人に仕える程偉くなければなりません。小さい子供には、力がないし、お返しに何も与える事が出来ませんが、弟子達は、その小さい子供に仕える程、偉くなければなりません。その意味でイエス様は「幼な子を受けいれる」と言われます。私達は人を受け入れる時、自分の家にも迎え入れます。その時、食べ物や飲み物をもってその人に仕えて、彼がくつろげるようにつとめます。お客様は家の人に仕えません。そして、この「受け入れる」と言う言葉には、その人を尊敬して仕える事には、喜びやプライドがあるみたいです。このような偉い考え方をイエス様は弟子達に与えようと思います。子供や孤児を助ける事だけではなくて、社会的な貧しい全ての人々にたいしてです。自分が一番と思うのが私たちのプライドですから、すべての人に使えるということは、自分がもう一番ではなく最後だと分かります。

9:37 「わたしの名のためにこのような子供の一人を受け入れる者は、わたしを受け入れるのである。わたしを受け入れる者は、わたしではなくて、わたしをお遣わしになった方を受け入れるのである。」子供を受け入れる事、即ち、どのように子供に使える事がイエス様に仕えるでしょうか。その時、私達はイエス様の働きをしているからです。そしてイエス様の為に働く時、父なる神様にも仕えるのです。先ず、イエス様は私達の為に働いて下さったのです。それは私達を教えて、私達を癒やして、私達の罪を赦す為に十字架で死んで下さった事です。私達は他の人の為に良い事をする時、特に、罪の赦しの福音を与える時私達はその人に仕えます。心から人を赦すとき、どのように神様は御自分の心から赦して下さる事を教える時です。イエス様は御自分の偉さで、すごく謙遜でした。苦しんで十字架上で死ぬ程謙遜でした。イエス様の復活の偉さは、彼は今も私達に仕え続ける事です。私達に恵みと慰めと人生の喜びを与える為に、聖霊を送って下さいます。

イエス様は言われました、「いちばん先になりたい者は、すべての人の後になり、すべての人に仕える者になりなさい。」神様との関係やクリスチャン同士の関係の場合には、この言葉が分かるでしょうが、ほかの生活の場合にはうまく出来るでしょうか。他の人に仕える時、自分が偉いと感じますか。自分を一番後にする時、自分が偉いと感じますか。謙遜で自分を低くする時、職場や社会的に効果的に働けるでしょうか。他の人と分かち合う時や他の人の事を大事にする時、その人々が私達を軽蔑するでしょうか。一番謙遜な時、自分が一番偉いと感じますか。一番最後になれば、自分が一番最初と思いますか。オリンピック選手に聞きましょう。競争に最後にゴールに着く人には何のメダルもありません。でも彼に与えられる名誉は、自分を尽くして、そのスポーツの優秀さを世界に現す人やチームに行きます。そのメダルが苦労の後に来ます。今日の謙遜の話しのテーマの為にオリンピックは良い例ではないでしょう。皆は一番後ではなくて、一番先になりたい人ばかりだからです。しかし聖パウロは、オリンピックのチャンピオンの例を話しました。(第一コリント9:24−27)

9:24 あなたがたは知らないのですか。競技場で走る者は皆走るけれども、賞を受けるのは一人だけです。あなたがたも賞を得るように走りなさい。 9:25 競技をする人は皆、すべてに節制します。彼らは朽ちる冠を得るためにそうするのですが、わたしたちは、朽ちない冠を得るために節制するのです。 9:26 だから、わたしとしては、やみくもに走ったりしないし、空を打つような拳闘もしません。 9:27 むしろ、自分の体を打ちたたいて服従させます。それは、他の人々に宣教しておきながら、自分の方が失格者になってしまわないためです。

これこそは、私達が求める誠の偉い事ではありませんか。永遠の命の冠をもらう事です。イエス・キリストから与えられたものです。永遠の命と赦しを与える為に、十字架上で死んで下さった程、私達が偉いと思って私達に仕えて下さいました。

私達の職場や家族や社会上の付き合いの中で自分を低くしたら、皆さんの目には、私達は一番でしょうか。時々そうでしょう。そうでなければ、その人々は、この世界を逆さまにする力強い福音を知らないからでしょう。私達は世に受け入れられなくても良いです。イエス様が、愛と恵みをもって私達をもう受け入れて下さったからです。父なる神様の子供達として私達に仕えて下さったのです。

アーメン。

マイケル・ニアフッド
沖縄ルーテル教会牧師