だれがいちばん偉いか?

2018年9月23日


福音書  マルコ9:30~37 (新79)

30一行はそこを去って、ガリラヤを通って行った。しかし、イエスは人に気づかれるのを好まれなかった。 31それは弟子たちに、「人の子は、人々の手に引き渡され、殺される。殺されて三日の後に復活する《と言っておられたからである。 32弟子たちはこの言葉が分からなかったが、怖くて尋ねられなかった。

33一行はカファルナウムに来た。家に着いてから、イエスは弟子たちに、「途中で何を議論していたのか《とお尋ねになった。 34彼らは黙っていた。途中でだれがいちばん偉いかと議論し合っていたからである。 35イエスが座り、十二人を呼び寄せて言われた。「いちばん先になりたい者は、すべての人の後になり、すべての人に仕える者になりなさい。《 36そして、一人の子供の手を取って彼らの真ん中に立たせ、抱き上げて言われた。 37「わたしの吊のためにこのような子供の一人を受け入れる者は、わたしを受け入れるのである。わたしを受け入れる者は、わたしではなくて、わたしをお遣わしになった方を受け入れるのである。《

だれがいちばん偉いでしょうか?イエス様の弟子達はこのことを議論し合いました。現代の教会の人々も同じ事を議論します、公にも心の中でもこの事を考えます。人間の人生のすべての分野でこの格闘があります:家族の中にも初め、学校、仕事場、政府、クラブ、教会の中でもそうです。聖書によりますと、この議論はエデンの園で始まりました。「誰が一番偉いか?僕か神か。その善悪を知る木の実を食べたら、一番偉いのは誰か分かるでしょう。《食べて、すぐ分かってきました。アダムとエバの話は、私達のストーリーです。私達も自分自身を一番偉くします、神様よりも偉くします!

「いや。僕はちがう《とあなたは言いますか?では、それを調べましょう。

この世界の目で見ると、「偉い《人とは、ボースです、皆はそのボースの為に働くからです。大勢のスタッフやチームが必要ですが、皆はそのボースを支えます。そしてボースはすべての誉れを受けます。ボースにはプライドを感じます。「偉い《スポーツ選手とは、ゲームに多くのポイントを作りますので、自分のチームが勝ちます。他のチームのメンバーに支えられて、MVP Most Valuable Player もっとも大切なプレーヤーとなり、その人には、プライドが有ります。そして、私達は、自分の自己中心で、もらうはずの誉れが来なくても、自分自身が自分がもっとも大切なメンバーであると思います。チームやクラスや仕事や友達や家族や教会の中で、自分が一番だと思います。

多くの「偉い《人は、自分の仕事が上手です。しかし、愛や尊敬を受けるのは、何でしょうか。イエス様はその答えを下さいました。35「いちばん先になりたい者は、すべての人の後になり、すべての人に仕える者になりなさい。《その事を教える為に、一人の子供を腕に抱いて、言われました、37「私の吊のためにこのような子供の一人を受け入れる者は、私を受け入れるのである。私を受け入れる者は、私ではなくて、私をお遣わしになった方を受け入れるのである。《 言い換えますと、「偉い《人は、社会的に一番低い者を愛して、その人への関心を持って、その人の尊さを表わします。しかし、それはイエス様の「吊のために《します。即ち、信仰を持って、イエス様の力によってします。それをするには、自分自身には力がありません。何故ならば、アダムとエバの堕落以来、人間が一番になりたいと思った時以来、罪が自分を上に上げて他の人を下に置く事をし始めた時以来、人間の性質は、他の人を愛して使える事では有りません。イエス様の「吊《によってだけ、信仰のみによって、本当に他の人に使え始める事が出来ます。

私達が人に仕えるのは、イエス様が最初に私達に仕えて下さったからです。今日の福音書の日課は、どのようにしてイエス様がそれをして下さったか教えます。「30一行はそこを去って、ガリラヤを通って行った。しかし、イエスは人に気づかれるのを好まれなかった。 31それは弟子たちに、『人の子は、人々の手に引き渡され、殺される。殺されて三日の後に復活する』と言っておられたからである。《こうしてイエス様は私達に仕えました。ご自分の上に世の罪を取りました:特に、このような罪でした:プライド、自己中心、へんけん、差別、いじめなどです。その罪をご自分の上に取る事によって、私達から取って下さいました。それで、その罪、プライド、自己中心、へんけん、差別、いじめなどは、もう、私達の毎日の振舞いにないはずです。しかし、私達はりんごを食べ続けます。

希望があるでしょうか。希望があるのは、イエス様が私達を小さい子供のように、ご自分の腕の中で私達を抱き上げる時です。十字架上で、赦しをもって、ご自分の腕を広くしました。又、私達を抱く他の人の手もあります。イエス様の吊前と信仰を持って、私達を受け入れて、私達を愛して赦す人です。私達を受け入れるのは、自分がイエス様によって、天の父なる神様によっても受け入れられたからです。

私達の教会の英語を話す教会の議長であるジョシュ・アームストロング兄は、ボンヘッファーの「共に生きる生活《という小さい本の数冊を買って、私達がそれを読むように願いました。先週、私は始めてその本を読みました。読みますと、良いルーテル教会の説教のようでした:律法と福音です。理想的なキリスト信者達の交わりを語ります。しかし、私達は、その高い地位に落ちます。それで、そのゴールに着くために、イエス様の力を教えます。カギとは、赦しです。十字架上でイエス様は私達の罪を赦すために私達に仕えました。それで、私達はイエス様とつながれています。各信者は、イエス様によって、他の信者につながれています。私達は赦し合います。私達皆は赦された罪人です。イエス様は罪人に仕えましたので、私達も同じようにします。イエス様は私達の中の一番低い者に使えましたので、私達も同じにします。

アーメン。

マイケル・ニアフッド、牧師
沖縄ルーテル教会


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