動詞である「恵み《と言う言葉

2020年10月25日、宗教改革主日

ローマ3:19-28

「私達の父である神と主イエス・キリストからの恵みと平和が、あなたがたにあるように。《このようにして、聖パウロはローマにあった教会に挨拶しました(1:7)。そして、3章では、このように言います。「3:23 人は皆、罪を犯して神の栄光を受けられなくなっていますが、3:24 ただキリスト・イエスによる贖いの業を通して、神の恵みにより無償で義とされるのです。《ヨハネによる福音書は教えます、「1:14 言は肉となって、わたしたちの間に宿られた。わたしたちはその栄光を見た。それは父の独り子としての栄光であって、恵みと真理とに満ちていた。… 1:16 わたしたちは皆、この方の満ちあふれる豊かさの中から、恵みの上に、更に恵みを受けた。1:17 律法はモーセを通して与えられたが、恵みと真理はイエス・キリストを通して現れたからである。《(1:14, 16, 17).

「恵み《という言葉は楽しい言葉です。神様のすべての愛と親切とご好意が入っているからです。神様は私達が好きですと意味します。神様は私達を祝福したい、私達の人生を幸せにしたいと思います。単語の定義ですが、恵みは目上の人から目下の人への気持ちです。神様は私達を恵まれますが、私達は神様を恵みません。恵みは義務ではありません。神様は神であるので、私達を愛して私達に親切にしなくてもいいです。私達を救わなければならない訳ではありません。ですから恵みはギフトです。私達がそれを受ける価値がない者です。私達に与えられているのは、私達の働きによる賃金ではありません。

最近雑誌を読む時、この表現がありました、文法的に「『恵み』と言う言葉は動詞である《と。日本語には、吊詞の「恵み」と動詞の「恵む《と言う言葉がありますが、英語では動詞ではあまり使いません。「恵む《と言いますと、神様の御心の気持ちが、恵み深い御業によって実行されています。私達は恵みによって救われていると言う表現の意味とは、私達を救う為に神様が何かをなさった事です。それは「恵みと真理とに満ちていた《イエス・キリストの死と復活の働きです。同じように、神様の愛はただの気持ちではありません。一人御子を送る行動です。その愛と恵みは私達に永遠の命を下さいます。

宗教改革時代のすべての人は、私達が神様の恵みによって救われていると知って信じました。ルターとローマの教会と他のプロテスタントがそれを信じました。マルチン・ルターが強調したのは、私達が恵みだけによって救われている事です。一つのラテン語の言葉、「Sola Gratia: 恵みのみ《がその意味のすべてを表わすショート・ハンドになりました。即ち、私達を救う為に神様はすべての仕事をしました。それを得る為に私達は何も出来ません。私達にそれをもらう価値がありません。ギフトです。無償です。私達がするのは一つだけあります。即ち、それを受け入れる事だけです。その受ける事とは「信仰《と呼びます。それで、もう一つのラテン語の表現がそのすべてを表わします、「Sola Fide: 信仰のみ《と言うショート・ハンドになりました。信仰とは、私達が救いを買う事が出来ないと意味します。得る為に働く事が出来ません。信仰とは私達がする事ではありません。神様が恵みによって私達に救いを下さった事を認める事です。

もしあなたがルーテル教会に通う事が長くなくても、何回もこの事を聞いた事があるでしょう。どうしていつも言い続けるしょうか。どうしてそんなに大切でしょうか。

大切なのは、そのようにして私達は毎日の生活を送るからです。神様の恵みはの人生のすべての所にあります。主の祈りを祈る時、それを告白します。

天にましますわれらの父よ、
願わくはみ吊をあがめさせたまえ。(恵み深い)み国を来らせたまえ。
(恵み深い)みこころの天になるごとく、地にもなさせたまえ。
われらの日ごとのかてをきょうも与えたまえ、
われらに罪を犯すものを、われらがゆるすごとく、
われらの罪をもゆるしたまえ。
われらを試みに会わせず、悪より救い出したまえ。
国と力と栄えとは、限りなくなんじのものなればなり。
アーメン。

神様の恵みは私達に毎日のパンを下さいますし、私達の罪を赦しますし、誘惑と悪の時に私達を守ります。それで、毎日、私達の活動の中で、神様の活動的な恵みを見ます。それで、神様が私達を恵まれる事を見ます。そして、それが私達の信仰を造ります。

神様の恵みが私達に聖霊を下さいました。聖霊の働きとは、私達を聖なる者にする為です。神様の恵みが私達の心の中で働くと、私達の心はだんだん神様の恵み深い心のようになります。愛と親切と好意が私達の心の中にありますので、それを他の人に与える事が出来ます。それは義務ではありません。自由にそれが出来ます。それは愛です。それは純粋な喜びと平和です。

数年も前ですが、ある教会学校の男の子は、自分の礼拝の一番好きな所を書きました。それは、礼拝の最後の祝福の言葉です。それを聞いて、すぐ教会を出て遊ぶ事が出来るからと私達が笑って彼に言いました。「いいえ、違う《と彼は反対しました。その言葉が大好きだからだと言いました。実は、その言葉がほとんどすべてのキリスト信者に愛されています。何故ならば、純粋な福音であるからです。その言葉を宣言する平和と恵みが本当に私達に与えられています。それで、説教の終わりで、その言葉を言います。

祝福

願わくは、主があなたを祝福し、 あなたを守られるように、

願わくは、主がみ顔をもってあなたを照らし、 あなたを恵まれるように、

願わくは、主がみ顔をあなたに向け、 あなたに平安を賜るように、

父と、(+)子と、聖霊とのみ吊により。

アーメン。 マイケル・ニアフッド、牧師  沖縄ルーテル教会

マイケル・ニアフッド、牧師
沖縄ルーテル教会


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