良い羊は誰?

2015年4月26日


ヨハネ10:11-18
10:11 わたしは良い羊飼いである。良い羊飼いは羊のために命を捨てる。10:12 羊飼いでなく、自分の羊を持たない雇い人は、狼が来るのを見ると、羊を置き去りにして逃げる。――狼は羊を奪い、また追い散らす。―― 10:13 彼は雇い人で、羊のことを心にかけていないからである。
10:14 わたしは良い羊飼いである。わたしは自分の羊を知っており、羊もわたしを知っている。10:15 それは、父がわたしを知っておられ、わたしが父を知っているのと同じである。わたしは羊のために命を捨てる。10:16 わたしには、この囲いに入っていないほかの羊もいる。その羊をも導かなければならない。その羊もわたしの声を聞き分ける。こうして、羊は一人の羊飼いに導かれ、一つの群れになる。10:17 わたしは命を、再び受けるために、捨てる。それゆえ、父はわたしを愛してくださる。10:18 だれもわたしから命を奪い取ることはできない。わたしは自分でそれを捨てる。わたしは命を捨てることもでき、それを再び受けることもできる。これは、わたしが父から受けた掟である。」


詩編 23編

主はわたしの羊飼い、
わたしには何も欠けることがない。
主はわたしを緑の野に休ませ、
憩いの水のほとりに伴い、
わたしの魂を生き返らせてくださる。
主はみ名にふさわしく、わたしを 
正しい道に導かれる。
死の陰の谷を行くときも 
わたしは災いを恐れない。
あなたがわたしと共にいてくださる。
あなたの鞭、あなたの杖、それがわたしを力づける。
わたしを苦しめる者を前にしても、
あなたはわたしに食卓を整えてくださる。
わたしの頭に香油を注ぎ、
わたしの杯を溢れさせてくださる。
命ある限り、恵みと慈しみはいつもわたしを追う。
主の家にわたしは帰り、
いつまでも、そこにとどまる。

聖書の中では神様を見せる為に、又、私達の神様との関係を描く為に、多くの絵があります。創造主と創造物。旧約聖書には、ご主人と妻。新約聖書には、花婿と花嫁。将軍と兵達。農家とオリブの木。ぶどうの木とその枝。神殿の建物とそのレンガ。など。

今日の福音書で私達の神様との関係は、羊飼いとその羊に例えられています。イエス様は言われました、「私は良い羊飼いである」と。

しかし、どの点でイエス様が「良い」羊飼いになるでしょうか。イエス様はそれをこのように説明して下さいました。「私は良い羊飼いである。良い羊飼いは羊のために命を捨てる。」又更に、「私は良い羊飼いである。私は自分の羊を知っており、羊も私を知っている。」又、詩篇23篇の絵があります。「主は私の羊飼い、 私には何も欠ける事がない。」結局、イエス様が「良い」羊飼いであるのは、イエス様が私達の為に良い事をなさるからです。十字架上で私達の為に御自分の命を捨ててくださいました。その死ぬ事によって、私達を「奪い、また追い散らす」狼である悪魔と死と戦いました。その後、私達を集めて、私達を一つにして下さいました。イエス様は私達を知っています。私達を御自分の群れの囲いに連れていかれ、集められました。それはバプテスマの聖礼典によってです。又、聖餐式の聖礼典によって、御自分の約束を再び思い起こさせます。そして、その時、私達はイエス様を、私達の為にご自分の命を捨てて下った主と、羊飼いとしての信仰を告白します。

イエス様が「良い」羊飼いである事は分かり易いです。しかし、私達は「良い」羊でしょうか?どのように私達が「良い」ものになるでしょうか。羊のように、私達は羊飼いであるイエス様に従うでしょうか。するべきでしょうか。又、何故でしょうか。

私達の礼拝の最初に罪を告白します。神様の御前で、私達はいつもイエス様に従わない事を認めます。私達を導こうと思う他の声に従ってしまいました。罪を犯しました。「良い」ことをしませんでした。この世のわずらいによって食い散らされ、また追い散らされました。さまざまな欲望と誘惑、この世の心配と痛み、苦しみがいつも絶えず私達を攻撃します。これらのものが私達より強いです。ですから弱い羊である私達に、イエス様のような全能の羊飼いの神様が必要です。しかし、この世の中には、自分がイエス様よりも、良い羊飼いであると言うものがあります。それは約束します:より良い緑の牧場、より良いいこいの水のほとり、より安全な死の陰の谷を通る事です。しかし、この指導者になりたいと思うもののムチとツエは、慰めや力を与えるよりも、私達を圧迫して、私達を死ぬまでたたきます。私達の上に多くの大きな重荷や罪や有罪感をおしつけます。イエス様から私達を離し、ほかのものの所に連れて行きます。誠の救いから私達を引き離します。偽の宗教、哲学、セルフヘルプのグルップや麻薬などなどがあります。しかし、その中には、イエス様のような物が一つもありません。イエス様のように、愛を見せてくれるものがひとつもありません。誰かの為に自分の命を捨てたものは、イエス様以外に一つもありません。

良い羊がだれであるかと言いますと、それは、その羊を救う為にイエス様がご自分の命を捨てた羊です。又、イエス様に知られた者で、イエス様を知る者です。私達が良い者であるのは、イエス様が私達を良い者にしたからです。それが福音です。私達がイエス様に従うから良い訳ではありません。良いのは、イエス様が私達を導くからです。同じように見えるでしょう、同じ行列のように見えるでしょう。それで、自分がイエス様に従うように決断した事を誇る事は良くありません。反対に、イエス様が私達を選んだ事を誇ります。それがけんそんです。ある教会の伝道方法は、人がイエス様を信じるように決断するように言います。イエス様に従って行くように決める事です。伝導集会の良いやり方かもしれません。しかしルーテル教会の中で、そのような話し方をほとんど聞く事がありません。その代わり言いたいと思うのは、「キリストがあなたを導くように決めて下さった事を分かって下さい」と。福音によってキリストが私達を呼びました。私達は彼の声を聞きます。それで、バプテスマのいこいの水までイエス様に従う事が当然になります。

私達はイエス様の愛を知ります。先頭に立って、十字架を背負って道を歩みました。私達の先頭に立って、死んで3日目に甦りました。戻って来られて、永遠の命へ私達を連れて行きます。イエス様は良い羊飼いであり、神の子羊でもあります。イエス様が神の子羊であるので、私達も神様の子羊達になりました。どのように私達が神様のふさわしい羊として生きるかを分かる為に、私達はイエス様を見ます。それで、どのように人生を送るかがわかります。即ち、完全に神様に頼る事です。何があっても、希望と安心をもって生きる事です。何があっても、愛の生き方です。何があっても、イエス様の指導に従う事です。私達はイエス様の声を聞きます:それを聞く所とは聖書で初め、礼拝、祈り、歌と交わりです。

アーメン。

マイケル・ニアフッド、牧師
沖縄ルーテル教会


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