棕櫚の十字架

聖金曜日、2008年3月21日

今週の日曜日は、「しゅろの枝日曜日」でした。イエス様がエルサレムに入城した時、人々は彼を迎え入れました。「ホサナ」と叫んで、しゅろの木の枝をふりました。日曜日の礼拝の時、私達もしゅろの枝をふって、「ホサナ」と言う賛美を歌って、イエス様を迎え入れました。

一つの習慣とは、礼拝に使ったしゅろの枝を家に持って帰って、家を飾る事です。枝をそのまま飾っても良いですが、ある人は、その枝を十字架の形に折ります。私はこの習慣が好きです。見るたびに、思い出すのは、日曜日の「ホサナ、ホサナ」の叫びは、金曜日には「十字架につけよ、十字架につけよ」と言う叫びになった事です。人間の心はそんなに速く変わります。それは罪の結果です。私達の心もすぐ変わります。私達のクリスチャンとしての人生に、神様への賛美は、時には神様への冒涜〔ぼうとく〕になる事があります。罪の為に、私達の心が冷たくなるとき私達の「ホサナ」は「十字架につけよ」となります。もし「ホサナ」が「主よ来て、私達を救って下さい」と意味するならば、「十字架につけよ」は「イエス様私達をほっておいて下さい」と意味します。毎週日曜日の朝、イエス様に大きな賛美を歌いますが、毎週金曜日になると、自分が罪を沢山犯してしまったので、この状態で神様を賛美すると、自分が偽善者だと感じるでしょう。

自分の罪の為に、私達はイエス様を否定したペテロのようです。イエス様を裏切ったユダのようです。イエス様を見捨てて逃げてしまって身を隠した弟子達のようです。又、イエス様の十字架の下で立ってイエス様の為に泣くマリアのようです。イエス様が葬られた時泣く女の人々のようです。

自分の罪を告白しますと、私達の「十字架につけよ」と言う叫びには新しい意味があります。それは、私達の罪を赦す為にイエス様が死んで下さった神様への感謝です。イエス様が私達の罪の為に死んで下さいと願います。私達の罪も彼の上に有るように願います。赦しを願います。

イエス様は私達の為に苦しみの苦い杯を飲んで下さいました。私達の為に、ムチに打たれ、侮辱され、苦しめられました。拷問〔ごうもん〕までと言えないでしょうが、ひどい痛みが加えられました、体にも霊的にもです。この聖金曜日に、私達はこれを覚えて、私達の為にイエス様がして下さったものすごい犠牲を考えます。私達のために十字架上で死んで下さいました。

そのしゅろの枝で出来た十字架は、私達の変わりやすい信仰のようです。これとの対比として、神様の変わらない真実さを考えさせます。私達の人生には、私達は、賛美からのろいへ、呪いから賛美へ、呪いから賛美によく変わります。しかし、神様は永遠に信頼できる方です。私達のしゅろの十字架はかれてしまいますが、救いの十字架は永遠です。

アーメン。

マイケル・ニアフッド、牧師
沖縄ルーテル教会


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