がんばれ! Ganbare!

2013年10月20日

ルカ8:1ー8
イエスは、気を落とさずに絶えず祈らなければならないことを教えるために、弟子たちにたとえを話された。 「ある町に、神を畏れず人を人とも思わない裁判官がいた。 ところが、その町に一人のやもめがいて、裁判官のところに来ては、『相手を裁いて、わたしを守ってください』と言っていた。 裁判官は、しばらくの間は取り合おうとしなかった。しかし、その後に考えた。『自分は神など畏れないし、人を人とも思わない。 しかし、あのやもめは、うるさくてかなわないから、彼女のために裁判をしてやろう。さもないと、ひっきりなしにやって来て、わたしをさんざんな目に遭わすにちがいない。』」
それから、主は言われた。「この不正な裁判官の言いぐさを聞きなさい。 まして神は、昼も夜も叫び求めている選ばれた人たちのために裁きを行わずに、彼らをいつまでもほうっておかれることがあろうか。 言っておくが、神は速やかに裁いてくださる。しかし、人の子が来るとき、果たして地上に信仰を見いだすだろうか。」

今朝の英語の礼拝で、皆さんにまず日本語の言葉を教えました。「がんばる」と言う言葉です。日本語には、努力や忍ぶと言う言葉がありますが、がんばるとは違うでしょう。人に勇気と力を与える為に言う言葉です。マラソンを走る人が疲れている時、「がんばれ!あきらめないで、ゴールをめざして進んでくれ!」と。

私達のキリスト信者としての信仰生活のために、「がんばれ」は良い言葉でしょう。ルカ18章で、イエス様は例え話しを言われました。それは、「気を落とさずに絶えず祈らなければならない事を教えるために、弟子達に例えを話された」と。一人のやもめがいつも一人の不正な裁判官の所に来て、言いました、「相手を裁いて、私を守ってください」と。例え話しには、裁判官はこの女がうるさいと思いましたので、彼女の為に裁判をしてくれました。例え話しのポイントとは、神様はこの不正な裁判官のようではない事です。代えって、神様は信者達の祈りを聞いて、これに早く(速やかに)答える事です。ですから、イエス様は、私達に言われます、「がんばって、祈り続けて、あきらめないでね!」と。

イエス様は弟子達の事を心配したみたいです。この例え話しを話して、最後に聞きます、「しかし、人の子が来る時、果たして地上に信仰を見いだすだろうか。」と。すべてのことにおいて神様に信頼する信仰を見出すでしょうか。山を動かす為に、木を海に移す為に、わずかな、からし種ほどの信仰しかいりませんが、祈り続ける為の信仰があるでしょうか。

ゴールがあるので、人は走り続けるでしょう。ゴールがあるので、生徒は勉強を続けるでしょう。先生は教え続けるでしょう。ゴールがあるので、親達は子供の為にギブアップしないでしょう。ゴールがあるので、教会の牧師はみ言葉を語り続けるでしょう。イエス様が言われるのは、永遠のゴールがあるので、祈り続けなさいと。あきらめないで、がんばりましょうと。

しかし、祈ることをすぐ諦めてしまいます。祈りの結果、祈りの答えを見ない時、神様が私達の事に関心を持っていないと感じ、又、神様のプランが私達のプランと違っていて、私達は神様のプランが分からないと思う時です。祈りを止める理由を作ります。弁解iをします。普通の弁解のように、事実が少しありますが、なまけもですので、いい訳にします。自分の弱い信仰のようではなくて、立派な信仰のように言います。私にとって、面白い弁解はこのようなものです。例えば、「神様の時間と私達の時間が違います。神様にとっては、一年は千年のようです。」又、「私達が祈る前に、神様が私達が必要とするものが分かるので、祈らなくても良いです、ただし、感謝の祈りをしましょう。」又、一番好きな弁解は、これです、「僕はもう3回ぐらいこの事の為に祈りましたので、神様は私のニードが分かりますので、もう、神様にうるさい祈りをしないで、神様にゆだねます。」

祈りをあきらめましたら、神様をもあきらめますので、自分の救いをもあきらめます。

イエス様は「がんばって下さい!祈り続けなさい、諦めてはいけない!」と言われます。祈りは、私達の信仰の証拠だと私は思います。毎日の祈りや、食前の祈りは信仰のしるしでしょう。キリスト信者のしるしは、その人の良い業よりも、その人の祈りでしょう。歴史上の有名なキリスト信者は皆、祈りの人でした。公の礼拝の祈りを始め、個人の祈りも、特別のデボーションも、一日中、心から出て来る祈りもそうです。

福音書を読みますと、イエス様がよく祈ります。荒れ野の中、山の上、園の中、十字架上からも祈りました。ゲツセマネの園の祈りや十字架上の祈りの時、イエス様は苦しみの中でも、祈り続けました。ゲツセマネの園で、イエス様は、がんばる事が出来るように祈りました、「私の意志ではなくて、御心のままにして下さい。この苦しみの杯を全部飲むように助けて下さい。」十字架上にも、人間の目から見るともう希望がないようでしたが、祈り続けました。釘で十字架に付けられて、ご自分の希望は父なる神様の御手にあると分かりました。神様が自分を見捨てたみたいでしたが、最後に、このように祈る事が出来ました、「父よ、私の霊を御手にゆだねます」と。

どうしてイエス様が十字架までにつづけたでしょうか。どうして十字架の苦しみを受けたでしょうか。目標、ゴールがあったからです。そのゴールとは、私達信者達に救いと赦しと永遠の命を与える事でした。イエス様にとって、続ける力は愛でした。私達を愛して下さったからです。彼の愛は、私達、キリスト信者としての人生の力です。イエス様の愛があるので、私達にはゴールがあり、他の人を愛する事が出来、又、その愛を私たちの祈りのなかで表す事が出来ます。

人がマラソンを走る時、道のそばに立って応援する人がいる事は大切です。「がんばれ!走れ!あきらめないで!よくやった!」走る人がこの言葉を聞くと、希望と力と勇気が湧いてきます。どうしてでしょう。これは、「ばんばれ」と言う言葉の中に愛があるからです。一生懸命に勉強している子供にお母さんが「がんばて下さい」と言いますと、それは、「私があなたを愛して、あなたが成功すると希望しているよ」と意味します。走る人がこの言葉を聞くと、自分が一人で走っていないと分かって、又、自分だけの為に走らないで、道のそばで立って応援する人の為にも走っていると分かります。

祈り続け、がんばる事は、自分自身だけの為にではなくて、他の人の為に祈るので、その人の為に祈り続けます。イエス様が私達の祈りを大事にすると分かります。イエス様は「祈り続けよ!私はあなたを愛します。神もあなたを愛します。」イエス様が私達の信仰を見る事は楽しいです。私達の祈りをも聞いて嬉しいです。

アーメン。

マイケル・ニアフッド、牧師
沖縄ルーテル教会


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