手のひらに刻みつける

2011年2月20日


第一日課 イザヤ書49章13節〜18節(旧 p.1143)
49:13 天よ、喜び歌え、地よ、喜び躍れ。山々よ、歓声をあげよ。主は御自分の民を慰め/その貧しい人々を憐れんでくださった。
49:14 シオンは言う。主はわたしを見捨てられた/わたしの主はわたしを忘れられた、と。
49:15 女が自分の乳飲み子を忘れるであろうか。母親が自分の産んだ子を憐れまないであろうか。たとえ、女たちが忘れようとも/わたしがあなたを忘れることは決してない。
49:16 見よ、わたしはあなたを/わたしの手のひらに刻みつける。あなたの城壁は常にわたしの前にある。
49:17 あなたを破壊した者は速やかに来たが/あなたを建てる者は更に速やかに来る。あなたを廃虚とした者はあなたを去る。
49:18 目を上げて、見渡すがよい。彼らはすべて集められ、あなたのもとに来る。わたしは生きている、と主は言われる。あなたは彼らのすべてを飾りのように身にまとい/花嫁の帯のように結ぶであろう。

福音書 マタイによる福音書6章25節〜34節 (新 p.10)
6:25 「だから、言っておく。自分の命のことで何を食べようか何を飲もうかと、また自分の体のことで何を着ようかと思い悩むな。命は食べ物よりも大切であり、体は衣服よりも大切ではないか。 6:26 空の鳥をよく見なさい。種も蒔かず、刈り入れもせず、倉に納めもしない。だが、あなたがたの天の父は鳥を養ってくださる。あなたがたは、鳥よりも価値あるものではないか。 6:27 あなたがたのうちだれが、思い悩んだからといって、寿命をわずかでも延ばすことができようか。 6:28 なぜ、衣服のことで思い悩むのか。野の花がどのように育つのか、注意して見なさい。働きもせず、紡ぎもしない。 6:29 しかし、言っておく。栄華を極めたソロモンでさえ、この花の一つほどにも着飾ってはいなかった。 6:30 今日は生えていて、明日は炉に投げ込まれる野の草でさえ、神はこのように装ってくださる。まして、あなたがたにはなおさらのことではないか、信仰の薄い者たちよ。 6:31 だから、『何を食べようか』『何を飲もうか』『何を着ようか』と言って、思い悩むな。 6:32 それはみな、異邦人が切に求めているものだ。あなたがたの天の父は、これらのものがみなあなたがたに必要なことをご存じである。 6:33 何よりもまず、神の国と神の義を求めなさい。そうすれば、これらのものはみな加えて与えられる。 6:34 だから、明日のことまで思い悩むな。明日のことは明日自らが思い悩む。その日の苦労は、その日だけで十分である。」

手のひらに刻みつける

「悩むな」とイエス様は言われました。様々なものについて心配してはいけないと言われました。命は食べ物や着物より大切だからです。神様は空のとりを食べさせます。野原のユリの花をきれいにさかせます。私達人間の価値は、鳥や花より遥かに多いですので、神様は私達を食べさせたり着させたりします。私達の天の父は私達の必要な事をご存じです。神様は私達を愛しますので、私達の必要を知っています。ですから、必要なものの為に神様を信頼する事が出来ます。

それで何を食べようか、何を身につけようか心配しなくてもいいです。しかし、神様の国と神様の義について心配すべきです。もしそれを見つけなければ、即ち救いを見つけなければ、本当に心配しなければなりません。

イスラエル人は神の国を求めました。預言者イザヤは彼らに話しました。彼らはバビロンで捕囚(ほしゅう)されていました。毎日の生活の為に心配しましたが、その上に、捕らえられていた 人としての心配がありました。彼らにとって神の国を求める事とは、約束された地、エルサレムに帰る事でした。捕囚はもう70年ぐらいになりました。神様は彼らを忘れたかどうかと心配しました。古里に帰る希望が無くなりました。

しかし、イザヤは「悩むな」と言いました。何故ならば先ず、神様は彼らのことを憐れまれたからです。又、母が自分の子を忘れる事が出来ないように、神様はイスラエルの事を忘れません。イスラエル人は神様のみ手にあり、その手のひらから取りさる事が出来ません。主は言われます、「49:16 見よ、わたしはあなたを/わたしの手のひらに刻(きざ)みつける。」消す事が出来ないイレズミのようです。神様はいつもご自分の民をおぼえます。


私達も神様の御手の中にいます。古い黒人霊歌の歌のようです、"He's got the whole world in his hands. He's got you and me, sister and brother, in his hands."「ご自分の手の中には全世界があります。神様のみ手の中に、僕も、君も、兄弟姉妹もいます。」

人はものを忘れないように自分の手にメモを書きます。テストの前に、生徒は手の平に答えを書きます。看護婦は患者の血圧の数字を手に書いて、ナースステーションに戻って患者のカルテに書きます。神様は私達を忘れる事が出来ません。御自分の目の前には私達がいます。そして私達の必要を知ります。私達の必要をメモします。私達の恐れと涙を知ります。詩篇56:9が言います、「あなたはわたしの嘆(なげ)きを数えられたはずです。あなたの記録に/それが載(の)っているではありませんか。あなたの革(かわ)袋(ぶくろ)にわたしの涙(なみだ)を蓄(たくわ)えてください。」

ご自分の手に私達を書く為に、神様は水で洗い落とす事が出来るインクを使いません。イレズミのようでしょうか、深く手に切り込まれています。言われました、「見よ、わたしはあなたを/わたしの手のひらに刻(きざ)みつける。」刻kizaみ付ける為に、鉄(てつ)の道具(どうぐ)を使います。するどい道具、するどいくぎのようなものです。即ち十字架のくぎです。その釘がイエス様の手に押し込まれました。同時に私達の罪も、イエス様の手に付けられて、刻まれて、切り込まれていました。キリストによって、私達がキリストと共に十字架につけられました。ですから私達の罪が赦されています。十字架は神の国のキリストの王座になりました。そこで私達は神の国と神の義を見つけます。神様の愛を見つけます。私達を愛して、私達の人生を祝福して下さいます。ですから心配しなくてもいいです。

甦られたイエス様は御自分の手をトマスに見せて下さいました。もしかしたら、イエス様はトマスにこう言われたのでしょう。そして、私達にも言われるでしょう。『トマス、私の手を見なさい。この傷跡を見なさい。私の手の中に、あなたの心配を取りました、又、あなたの疑いも、罪も、あなたの涙も、あなたの命と救いをも手に取りました。私は決してあなたを忘れません。あなたの為の犠牲を決して忘れません。あなたの為の愛を決して忘れません。』

イエス様の御手の中に、私達は神の国と神の義を求めて見つけます。そして、それに加えられた物をも見つけます。主の祈りで祈ります。「日ごとの糧を今日も与えたまえ」と。この祈りの言葉は感謝の言葉になります。何故ならば、父なる神様は私達の必要をご存知で、そなえるからです。命を初め、信仰、洗礼、救い、愛、日ごとの糧も下さいます。ですから心配がないと、神様の平和あります。人知ではとうてい測り知る事のできない神の平安が、あなたの心と思いをキリスト・イエスにあって守るように。

アーメン。

マイケル・ニアフッド、牧師
沖縄ルーテル教会


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