わが主よ、わが神よ」

2011年5月8日、復活際後第2主日

トマスがイエス様の御手とわき腹を見た瞬間に、彼の疑いが消えました。何故ならば、イエス様が本当に甦られたと確認したからです。しかし、トマスはもっと深い事も分かって来ました。それは、イエス様が本当にどなたであるかが分かって来たからです。そして、その偉大なる信仰告白を言いました。「わたしの主、わたしの神よ」。死にましたが今生きているイエス様はただの普通の人ではありません。又、神様からの偉大なる教師や預言者でもありません。復活はイエス様がどなたであるかをしるす啓示です。トマスが信仰によって分かるのは、イエス様は主であり、である事です。

イエス様は主であり、神でありますが、その上に、トマス自身の主であり神さまです。神様の存在を知る事だけは足りません。悪魔もそれを知るからです。トマスは信仰告白をして、又、イエス様に対する忠誠を宣言します。イエス様は自分の「主」ですと言います。「主」と言う言葉の意味は、「主人、ボス、王様」などです。もし誰かがあなたのボスでしたら、あなたはその人の下で、その人の為に働くように約束します。もし誰かがあなたの王様でしたら、天皇陛下のような者でしたら、その支配者の為に戦って、死ぬまでその人に仕えるよう忠誠を誓います。誰かがあなたの主人でしたら、弟子として、先生が指導するように人生を生きるようにします。トマスは、イエス様に対する完全な忠誠を誓います。イエス様は自分のボス、主人、神です。トマスはイエス様が自分の神であると分かるので、すべての疑いを越える確信があります。

そして、イエス様はトマスに言われました、「わたしを見たから信じたのか。見ないのに信じる人は、幸いである。」トマスはイエス様に祝福されて、私達も祝福されています。私達は自分の目でイエス様を見、自分の手でイエス様を触れていませんが、私達は神の御言葉を聞いたり読んだりしています。ヨハネはヨハネの福音書に書きました。「20:31 これらのことが書かれたのは、あなたがたが、イエスは神の子メシアであると信じるためであり、また、信じてイエスの名により命を受けるためである。」

トマスの評判が悪いです。彼は「疑い深いトマス」と呼ばれています。トマスがかわいそうと思います。何故ならば、すべての人には時々疑いがあるからです。私達も、このイエス様は本当に神であるかなと思い、自分の主として彼に自分の忠誠を誓ったら良いかどうか考えます。何故ならば、もしイエス様が本当に自分のボスならば、私達は自由に好きなように出来ないからです。彼の弟子ならば、イエス様の御言葉に従って生きなければなりません。トマスは、イエス様の手とわき腹の死のしるしを見た時、その疑いが消えました。その印は愛の印でした。トマスはイエス様の素晴らしい愛を見ました。その愛は、弱い疑い深いトマスのような人の為に死んだことを現わすからです。ですから多くの人々はこの物語が大好きです。何故ならば、もしイエス様はトマスのような弱い、疑い深い者を再び受け入れて、祝福する事が出来ましたら、私のような疑い深い罪人をも再び受け入れる事が出来ます。トマスはヒーローになり、信仰の模範になります。

疑いは私達の信仰を試ます。この人生の色々な問題の中で、私達はイエス様が本当に主であり、神であるかどうかと考えて、又、私の主、私の神であるかどうか考えます。私とイエス様の間の関係は何でしょうか。私の主、私の神として、イエス様が私の事を大事にするでしょうか。例えば、自分や愛する人が病気や危険の状態でしたら、イエス様が癒す力があるかどうか疑う事があります。人生のさきゆき、将来が分からない時、私達の社会の中の乱れ、私達の主としてイエス様が私達を導く事が出来るでしょうか考えます。私達の社会の中の道徳や倫理的な状態を見たら、イエス様の教えが現代の世界にふさわしいかどうか考えます。周りの人々が私達のイエス・キリストにある信仰と希望を持たない時、私達の信仰を怪しいと思います。キリスト信者が少ないと、私達の確信を失うでしょうか。

しかし、信仰に対する一番大きな試みは、罪を犯した時でしょう。私達の主人に対する義務を果たさない時です。忠実にしなかったからです。私達の先生の教えに従わなかったからです。イエス様との関係の強さを疑います。この疑いは、失望や不信仰に至る事があります。ですから、トマスと同じように、私達もイエス様の愛の証拠を見たいと思います。奇跡のしるしを見たら良いでしょう。しかし、必要なしるしはもう既に聖書に記録されています。ヨハネは書きます。「20:31 これらのことが書かれたのは、あなたがたが、イエスは神の子メシアであると信じるためであり、また、信じてイエスの名により命を受けるためである。」ところが、疑いを超える為に、聖書を読む事が十分でしょうか。効果的でしょうか。聖書を読む事が信仰を与えるでしょうか。勿論出来るでしょう。何故ならば、聖書の御言葉や聖礼典の御言葉によって、聖霊は私達の心に来られて、福音によって私達に呼びかけます。そして、福音の御言葉は、福音のすべての約束を与えます。罪の赦し、永遠の命と救いを与えます。

福音を聞くたびに、私達はトマスと共に、彼の信仰告白をして、彼の忠誠の宣言も私達のものもなります。「私の主、私の神よ!」

アーメン。

マイケル・ニアフッド牧師
沖縄ルーテル教会


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