シャロームの平和、赦し、信仰

2007年4月15日
イースターの第2主日

ヨハネ20:19-31
20:19イエスが来て真ん中に立ち、「あなたがたに平和があるように」と言われた。
20:22 彼らに息を吹きかけて言われた。「聖霊を受けなさい。だれの罪でも、あなたがたが赦せば、その罪は赦される。だれの罪でも、あなたがたが赦さなければ、赦されないまま残る。」
20:28 トマスは答えて、「わたしの主、わたしの神よ」と言った。
20:31 これらのことが書かれたのは、あなたがたが、イエスは神の子メシアであると信じるためであり、また、信じてイエスの名により命を受けるためである。

 

イエス様は弟子達がいる部屋に入って、「シャローム」と言われました。

弟子達は、その最初のイースターの日の夕方、そして、その次の日曜日も集まりました。私達の教会の礼拝堂のような2階の部屋だったかも知れません。家の戸に鍵をかけていました。しかし、お墓の封印された大きな石がイエス様にとってジャマでなければ、鍵がかかっている戸も問題ではありません。本当に、これはイエス様でした。釘に刺された手と槍に刺された脇がその証拠になります。

イエス様の挨拶は、「シャローム」でした。この言葉の意味とは、「平和」です。しかし、その時代にも、現代の中近東の国々にも、普通の挨拶でした。挨拶ですので、ある聖書の翻訳は「イエス様は部屋に入って『こんにちは』と言われた」と言います。そうかもしれませんが、しかし、イエス様が『平和』と言われる時、本当にその平和を下さいます。私達の毎日の挨拶も、実は、小さな祈りです。「本当に良い朝がありますように、お早うございます。」「今日(きょう)、今日(こんにち)は、あなたに祝福された日になりますように祈ります。」「お休みなさい!良く寝て、良い夢を見るように祈ります。」

イエス様は「シャローム・平和」と言われますと、そのシャローム・平和を弟子達に与え、私達の所に来られる時にも私達にもそのシャローム・平和を下さいます。イエス様がおられるので、その平和があります。弟子達と共に、又、私達と共にいる時、自分が安全であると分かり、安心して、幸せに満たされます。

私達に平和があるのは、イエス様がご自分の働きを続けるからです。

「あなたがたに平和があるように。父が私をお遣わしになったように、私もあなた方を遣わす。」イエス様の働きとは、私達の罪を赦す為に十字架上で死ぬ事です。今度、その働きが私達に与えられています。私達は十字架上で死にませんが、イエス様の死と復活の結果を他の人に持って行きます。イエス様は弟子達に息を吹きかけて言われました。「聖霊を受けなさい。だれの罪でも、あなたがたが赦せば、その罪は赦される。だれの罪でも、あなたがたが赦さなければ、赦されないまま残る。」罪を赦す為に、神様の権威(けんい)と力が必要なので、イエス様は弟子達に聖霊を下さいました。私達がイエス・キリストの福音を述べ伝える時も罪を赦します。もし福音を語らなければ、人々は神様の恵みと愛を知らないので、赦されません。赦しが大切であるのは、赦しが平和を与えるからです。平和があるというのは、もう戦わないという事です。神様と戦うと、神様の御前に行く事が出来ません。他の人と戦うと、その人々と愛と親切とを分かち合う事が出来ません。ですから赦しはとっても大切です。キリスト教の一番大切な教えです。教会の一番大切な教えは、十戒でもないし、2つの愛の戒めでもありません。一番大事なものとは、キリストの十字架であり、洗礼であり、聖餐式であり、主の祈りによって生きる赦しの人生です。

キリストのシャローム・平和がもたらしてくださるのは、宣教の働き、聖霊、罪の赦しと信仰です。皆はトマスの話が大好きです、何故ならば、トマスに、自分と同じような人を見るからです。トマスは「ディディモ」と呼ばれていました。「ディディモ」とは、「双子」と意味します。彼の実際の双子の兄弟姉妹が誰であるか私達には分かりませんが、私達の信仰の人生は彼と同じです。 私達にも、イエス様に対する疑いがあります。イエス様を疑っているように見えるでしょうが、実は、自分自身や自分自身の信仰を疑っている時もあるでしょう。「あの方の手に釘の跡を〔私が〕見この〔私の〕指を釘跡に入れてみなければ、又、この〔私の〕手をその腹(はら)に入れてみなければ、私は決して信じない。」どうしてこの考え方が間違っているか分かりますか。間違っているのは、信仰と救いが、自分自身の行いに基づいていると思うからです。「私が見る、私が触る、私が信じる」という事です。私達の目は弱いです、私達の感触(かんしょく)はにぶいです、私達の信仰が疑い深いものです。ですから、復活祭の福音は、トマスが見たり触ったり信じたりするのは、イエス様が彼の所に来られるからです。イエス様が見せているから見える、触らせて上げるから触る事が出来る、イエス様が信頼できる方であるので、信じる事が出来ます。イエス様の約束は信頼する事が出来るものです。又、イエス様はご自分の愛する人に忠実であるからです。イエス様はトマスを愛して、あなたと私をも愛して下さいます。ですから、今日、私達が祝福されています。イエス様はトマスにも私達にも言われます、「私を見たから信じたのか。見ないのに信じる人は、幸(さいわ)いである。」

しかし、私達はトマスと同じ理由で信じます。それは、イエス様が私達のところに来られて、御言葉や洗礼や聖餐式によってご自分を表してくださるからです。パンとぶどう酒によって、ご自分の尊い体と血によって私達に来られます。それは見る事も、触る事も、信じる事も出来るものです。キリストが私達に来られて、そして、牧師はキリストの祝福の言葉を言います、「主の平安、常に汝らと共にあらん事を」。そして、会衆は答えます、「アーメン。汝の霊と共にあらん事を」。これは、聖なる瞬間(しゅんかん)です。キリストが私達の間にいます。私達が赦しと命と永遠の救いと平和で祝福されています。

アーメン。

マイケル・ニアフッド牧師
沖縄ルーテル教会

ニアフッド牧師の説教