弟子の塩

2013年9月8日


ルカ14:25−35 14:25 大勢の群衆が一緒について来たが、イエスは振り向いて言われた。14:26 「もし、だれかがわたしのもとに来るとしても、父、母、妻、子供、兄弟、姉妹を、更に自分の命であろうとも、これを憎まないなら、わたしの弟子ではありえない。14:27 自分の十字架を背負ってついて来る者でなければ、だれであれ、わたしの弟子ではありえない。14:28 あなたがたのうち、塔を建てようとするとき、造り上げるのに十分な費用があるかどうか、まず腰をすえて計算しない者がいるだろうか。14:29 そうしないと、土台を築いただけで完成できず、見ていた人々は皆あざけって、14:30 『あの人は建て始めたが、完成することはできなかった』と言うだろう。14:31 また、どんな王でも、ほかの王と戦いに行こうとするときは、二万の兵を率いて進軍して来る敵を、自分の一万の兵で迎え撃つことができるかどうか、まず腰をすえて考えてみないだろうか。14:32 もしできないと分かれば、敵がまだ遠方にいる間に使節を送って、和を求めるだろう。14:33 だから、同じように、自分の持ち物を一切捨てないならば、あなたがたのだれ一人としてわたしの弟子ではありえない。」

14:34 「確かに塩は良いものだ。だが、塩も塩気がなくなれば、その塩は何によって味が付けられようか。14:35 畑にも肥料にも、役立たず、外に投げ捨てられるだけだ。聞く耳のある者は聞きなさい。」

今日の福音書の日課で、イエス様は弟子になる値段について話しました。その話しの最後に、要約する為に、塩についてのことわざを言われました。

昔のローマの軍隊で賃金をもらう時、お金も塩ももらいました。塩は食べ物に味をつける為に使いましたが、天候が暑い沖縄に住む私達に分かるように、暑い時、塩が健康の為に、元気になる為に必要です。ラテン語の「塩」と言う言葉とは、「sal サル」です。現代の「salary サラリー」がそのラテン語の言葉から来ます。英語のことわざですが、よく働く人が金銀をもらう価値があるので、「塩をもらう価値がある」と言います。

それでキリストの弟子の「サラリー」は何でしょうか。最終的に言うと、永遠の命と救いです。その前には、その弟子のサラリーとは神様の愛でしょう。普通、働く人は賃金をもらいます、仕事をしてからお金をもらいます。しかし、イエス様はそれを逆にします。弟子達に「自分の持ち物を一切捨てないならば、あなたがたのだれ一人としてわたしの弟子ではありえない。」と言われます。それだけではなくて、「父、母、妻、子供、兄弟、姉妹を、更に自分の命であろうとも、これを憎まないなら、わたしの弟子ではありえない。」憎む事、捨てる事、一番愛するものを憎んで捨てる事です。ほかの時、イエス様は「隣人を愛しなさい」と言われましたので、どうして今度その人達を憎むでしょうか。多分、イエス様が意味するのは、私達がイエス様を愛する愛が非常に大きいので、それに比べましたら、ほかの愛が憎みのように見えるでしょう。又、多分イエス様が意味するのは、私達が憎むのは、私達が弟子になりたいと思う時、それを防ぐ、そのいらいらさせる他の人や家族やたの責任などでしょう。又、多分イエス様が意味するのは、弟子になろうと思う時、家族や自分の心と戦うからです。何かを憎みましたら、そのものが私達の人生に邪魔をしないように、そのものを捨てたいと思います。イエス様に従いたいと思う時、そのようになります。私達に縄をつけるものから逃げなければなりません。父と母を愛し続けても良いですが、父と母も私達のようにイエス様の弟子ではなければ、その人を後で捨てる時、それが憎みのように見えるでしょう。

弟子になろうと思う人々に、イエス様は、そのコストを計算しなければいけないと言われました。弟子になる価値があるでしょうか。弟子がもらうのは、十字架だけみたいです。それを背負ってイエス様の後に従って生きます。サラリーが十字架だけでしたら、生活できるでしょうか。生きていけるでしょうか。

塔を建てようとする人についてイエス様は話しました。土台(どだい)を築(きず)いただけで完成できませんでした。それで皆があざけったのです。イエス様に従い始める弟子はどうでしょうか。弟子は信仰の土台を築きます:即ち、聖書を読んで、小教理問答書を学んで、洗礼や堅信式を受けます。しかし、それから、どのように人生を送るでしょうか。その土台の上に、弟子のように、キリストに仕えて、キリスト信者の人生を建てて生き続けるしょうか。

又、イエス様は王の例をあげます。敵の王が近づきます。敵の軍は自分の軍よりはるかに多いです。それで、敵がまだ遠方にいる間に使節を送って、和を求めるでしょう。イエス様の弟子として、この世の敵、悪魔、又私達の罪深い心が自分を攻撃する時、私達も和平を求めます。王の場合、平和の為に、又自分の国民の安全の為に、敵にみつぎもののお金を払ったり、国の領域を敵に与えます。弟子は、何を敵に与えるでしょうか。家族、友達、財産を失うでしょうか。しかし、神様の御国の中の安全・救いの為にはその価値があります。

もう既に弟子である事をやめた人の場合はどうでしょうか。塔を建て始めたけど、終える事が出来ない人と同じように、愚かな者であるとイエス様は言われるでしょう。イエス様にもう従わないので、彼らが馬鹿だとイエス様は言われるでしょう。イエス様はそのような弟子が欲しくありません。御自分にとっては、価値の無い物です。「塩を受ける価値が無い者です。」味のない塩です。食べ物に美味しい味を与えません。庭の雑草を殺す事さえも出来ません。肥料として使わないので、肥やしよりも価値がありません。外に投げ捨てます。信仰から離れてしまった人と同じです。神の国にとっては、その人に価値がありません。

しかし、救い主に従いたいと思う人に、イエス様は普通と違うサラリーを与えます。信者に背負う十字架を与えます。多くの人々は、自分の人生の十字架を捨てる為にクリスチャンになるでしょう。人生の問題と争いである十字架をおろす為にイエス様の所に来るでしょう。しかし、イエス様から与えられた十字架は違います。ただの重荷ではありません。一つの道具です。その道具を使って、イエス・キリストが築(きず)いた土台(どだい)の上に建てます。その道具がものを造ります。赦します、愛します、慰めます。私達の十字架は、イエス様の十字架のようです。死ぬ所ですが、その死は復活になります。罪を表す所ですが、イエス様が罪を赦す所です。苦しみの所ですが、イエス様の恵みと愛が現れる場所です。十字架は私達の人生の中の道具になって、私達はイエス様の弟子になる事が出来ます。弟子として私達の仕事とは、十字架を背負って、十字架を述べ伝えて、十字架の救いを他の人の人生にも持って行く事です。例えば、その十字架を父、母、兄弟姉妹、連れ合いに見せます。キリストの為に「憎む」者は、本当に最も愛する者だからです。

キリストの弟子に塩が与えられています。その味とは、イエス様の愛です。

アーメン。

マイケル・ニアフッド、牧師
沖縄ルーテル教会


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