わたしの杯を溢れさせてくださる

復活後第3主日  (2016年4月17日)



詩篇23篇
23:1 主は羊飼い、わたしには何も欠けることがない。
23:2 主はわたしを青草の原に休ませ/憩いの水のほとりに伴い
23:3 魂を生き返らせてくださる。主は御名にふさわしく/わたしを正しい道に導かれる。
23:4 死の陰の谷を行くときも/わたしは災いを恐れない。あなたがわたしと共にいてくださる。あなたの鞭、あなたの杖/それがわたしを力づける。
23:5 わたしを苦しめる者を前にしても/あなたはわたしに食卓を整えてくださる。わたしの頭に香油を注ぎ/わたしの杯を溢れさせてくださる。
23:6 命のある限り/恵みと慈しみはいつもわたしを追う。主の家にわたしは帰り/生涯、そこにとどまるであろう。

今日、詩篇23篇5節を見ましょう。
わたしを苦しめる者を前にしても/あなたはわたしに食卓を整えてくださる。
わたしの頭に香油を注ぎ/わたしの杯を溢れさせてくださる。

特に、「わたしの杯を溢れさせてくださる」と言う言葉を見たいと思います。

宴会場のようです。私はとこのまの前に座っています。私の敵、私の競争相手もいます。そして、彼らは嫉妬しています。私がそのように偉くになったからです。何かの地位が高くなった時の昇進の儀式でしょうか。頭に香油を注ぐ事は、勝利のげっけい樹の葉の冠を受ける事のようでしょう。食事は美味しく、ぶどう酒は沢山あります。聖書の中で、ぶどう酒が意味するのは、収穫のほうさく、豊かな事、お祝い、又神様の祝福です。それは神様の「恵(めぐ)みと慈(いつく)しみ」のしるしで、その「恵(めぐ)みと慈(いつく)しみ」が私の生涯、死ぬまで、いや、永遠にあることのしるしです。

溢れる杯は、昔からの日本の習慣のようです。赤提灯の店や屋台(ヤダイ)で酒を注文します。空っぽのコップを、枡の中や皿の上に置きます。そして、溢れるまで、酒がコップに注がれます。その酒を注文するのが楽しいのは、先ず、ちゃんと、注文した量を受ける事です。それを確認する事が出来ます。そして、皿に溢れた分を、飲む事が出来ますので、なにか、ボーナスかおまけを受けた気分です。豊かな気分で、贅沢な気持ちで、気前が良いホストのようです。神様は気前が良いホストで、豊かに、私達に「恵(めぐ)みと慈(いつく)しみ」と愛を注ぎます。

詩篇23篇を詠む時、それは未来の天国の絵のようでしょうか?緑(みどり)の牧場、 憩(いこ)いの水(みず)のほとり、溢れる盃。でしょうか。又、私達の今のイエス様と共にある人生でしょうか?生き返った魂、人生の死(し)の陰(かげ)の谷(たに)を行(ゆ)く時の安全、恵みと慈しみで一杯の、幸せな人生でしょうか。それとも、私達の人生の本当の状態でしょうか?欠けるものが有り、毎日は枯れている草のようで、人生の道に死と痛みと問題の恐れがあり、神さまの鞭と杖でたたかれて、私達の敵と競争相手が私達の不幸を笑って、私達の盃が空っぽでなければ、悲しみと痛みと苦しみで一杯で、いや悲しみで溢れて、そして、幸せなとどまる所がないような事でしょうか。

それで、この詩篇はただ天国の事を、言っているように感じる時があります。詩篇に絵書かれている幸せが、自分の毎日と違う見たいです。私達の盃には、良い、楽しい物がありますが、にがいものが混じっています。

イエス様には盃がありました;二つ有りました。一つは最後の晩餐の時でした。その時言われました、「取って飲みなさい。これは罪のゆるしのため、あなたがたと、多くの人々のために流す、私の血における新しい契約である。私の記念のため、これを行ないなさい。」その時から、この盃は、キリスト信者達の為に、救いの契約の約束で溢れます。その同じ夜、ゲツセマネの園で、イエス様にはもう一つの盃もありました。その時このように言われました。「父よ、できることなら、この杯を私から過ぎ去らせてください。しかし、私の願いどおりではなく、御心のままに」(マタイ26:39)。この苦(にが)い盃とは、イエス様の苦(くる)しみと死でした。詩篇が言うように、イエス様は苦(くる)しめる者(もの)を前(まえ)にしても、それを飲みました。十字架上にいる時、喉が渇く時、酸いぶどう酒が彼に与えられました。死ぬまで、その盃が溢れました。しかし、その点で止まりました。何故なれば、私達の救いの業が終わった(完成された)からです。

クリスチャンにとって最高の慰めとは、イエス様がいつも私達と共にいると知る事です。特に人生の危険の時や問題がある時です。私達の人生の盃が苦(にが)くて、酸っぱい時、イエス様は私達と同じ物を飲みます。イエス様が私達の良い羊飼いであるので、私達には希望が有るので、失望しないで、諦めません。何故ならば、私達の盃が、イエス様の愛で溢れているからです。そして、その余(あま)っている愛と恵みと慈しみがあるので、それを必要とする人に与えます。彼らのコップが一杯ではないからです。古い哲学的な質問があります。水がコップの半分まで入っている時、一杯の半分か、それとも、空っぽの半分でしょうか。このように答えましょう。愛を入れる余地(よち)があります。神様の愛と赦しと導きと、平和の福音を聞く必要があり、私達からそれを受ける必要があります。その人を救いのみどりの牧場と、憩いの水場に導く必要があります。彼らの為に、私達は良い羊飼いになる必要があります。

最後に、聖餐式のばいさんの時、もし私があなたの小さいコップにぶどう酒を入れ過ぎましたら、ごめんなさい。手を舐(な)めたり、布のナップキンで手を拭(ふ)いたりしてください。そして、私達の為にキリストの溢れるほどの愛の為に、イエス様に感謝する事を忘れないで下さい。

アーメン。

マイケル・ニアフッド、牧師
沖縄ルーテル教会


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