憐れみのパン屑

2017年8月20日


マタイ15:21-28
15:21 イエスはそこをたち、ティルスとシドンの地方に行かれた。22 すると、この地に生まれたカナンの女が出て来て、「主よ、ダビデの子よ、わたしを憐れんでください。娘が悪霊にひどく苦しめられています《と叫んだ。23 しかし、イエスは何もお答えにならなかった。そこで、弟子たちが近寄って来て願った。「この女を追い払ってください。叫びながらついて来ますので。《24 イエスは、「わたしは、イスラエルの家の失われた羊のところにしか遣わされていない《とお答えになった。25 しかし、女は来て、イエスの前にひれ伏し、「主よ、どうかお助けください《と言った。26 イエスが、「子供たちのパンを取って小犬にやってはいけない《とお答えになると、27 女は言った。「主よ、ごもっともです。しかし、小犬も主人の食卓から落ちるパン屑はいただくのです。《28 そこで、イエスはお答えになった。「婦人よ、あなたの信仰は立派だ。あなたの願いどおりになるように。《そのとき、娘の病気はいやされた。

聖書とは神の御言葉です。聖書とは、私達に話して下さる神様です。聖霊は2千年や3千年前に、聖書を書く人々に霊感を与えて、現代にも、聖霊は聖書を読んだり、聞いたり、話したりする人にも霊感を与えます。この聖書の言葉を通して、聖霊はあなたと私に話します。私達が聖書の物語の人物であるように、聖霊は私達に話します。あなたはモーセになり、又は、ギデオンやダビデやエレミヤになり、又は、バト・シェバやイゼベルになるかも知れません。あなたはペテロやパウロになり、又はユダやヘロデになるかも知れません。又は、放蕩息子や失った羊になるかも知れません。慰めの言葉があれば、裁きの言葉もあります。喜びを与える言葉があれば、私達の罪に対する神様の裁きがあるので恐ろしい言葉でもあります。同時に、困って上安におびえる心に対する素晴らしい福音の言葉もあります。

今日の福音書の日課の中で、あなたは誰でしょうか。イエス様を始め、弟子達、カナンの女、その病気の娘、イスラエルの家の失われた羊、又、ペットの犬でしょうか。

犬から始めましょう。もし、あなたは家の中で犬を飼っていましたら、この話が分かるでしょう。食事の時、私の犬が食卓のそばに座ります。もし私達のフォークから何か偶然に床に落ちましたら、犬はすぐそれをたべます。又、パンの屑やヌードルを受けるのを、楽しみにして待ちます。小さい物でしても、嬉しそうに食べます。犬と僕の間には関係があります。犬の世話sewaをする事、食べさせる義務があります。犬は人間ではありませんが、愛の絆があります。 *** 神様の御前には私達はそのようです。神様から来るパン屑のような哀れみを待っています。私達の日々の生活の為に必要な物、全部が神様から来ます。今日の話はパン屑についてですので、私はキリストの食卓から来る小さいパンを考えます。ワインの一口を考えます。喜びを持って、キリストが私に御自分の体と血を与えた事を考えます。教会に来られない人の家に行く時や、入院した人を訪ねる時、いつも小さい聖餐式セットを持って行きます。「聖餐式を受けますか《と聞く時、ちょっと興奮があるみたい、キリストの体と血を受ける楽しみがあります。何故ならば、それと共に、罪の赦し、永遠の救いと神様の哀れみがあるからです。又、キリストが自分を神様の子供として受け入れる知識と喜びがあります。全能の神様の御前に、自分の価値が犬のようでしても、御自分のすべての創造物に、御自分のすべての子供達に対する創造主なる神様の愛を見ます。

そして、勿論そのカナンの女は自分の娘を愛します。その娘も、神様の創造物の大切な一人です。それで、神様が彼女を守る事は当然です。即ち、イエス様が彼女を憐れむ事は当然です。何故でしょうか?彼女は良い人であるからではありません、だって、娘が悪霊にひどく苦しめられているからです。特権を持っているユダヤ人でもありません。異邦人で、神様と関係がない人のようです。 *** 神様の御前では私達もそのようです。私達もユダヤ人ではありません。悪霊に取り付かれている事のように、私達には罪や癖kuseがあります。自分で自分を癒す事が出来ません。独りでイエス様に近寄る事が出来ません。自分の為に仲介chuukaiする人、執り成してくれる人の助けが必要です。

お母さんは娘の為にとりなして助けます。イエス様が町に来られた、と聞いて迎いに行きました。「私を憐れんでください《と叫びました。イエス様の後に続いて行って叫び続けました。ようやく、イエス様は彼女に話しましたが、彼女はイエス様の「No《と言う答えを受け入れません。彼女はイエス様がどなたであるか知ります。メシア、ダビデの子です。それで、イエス様には癒す力があると知って、自分のような人を憐れむ愛があると知ります。 *** 神様の御前には私達もそのようです。私達も神様の力と愛と憐れみを知ります。私達も私達が愛する人の為に祈ります:自分の子供を始め、両親、友達、教会の信者同士、自分自身の為に祈ります。又、自分の為に祈る事が出来ない他の人の為にも祈ります:例えば、赤ちゃん、まだ生まれていない赤ちゃん、ハンディキャップを持つ人、圧迫されている人です。私達皆がこのカナンの女のようになったら良いと思います。キリスト信者達のための模範になります。

弟子達はイエス様を守ろうと思います。もしかしたら、イエス様は休暇を取って旅行中でしょう。ユダの国の外である、地中海に面しているティルスとシドンの地方に行かれたのです。それで、イスラエルの家の羊である弟子達は、イエス様が群集やうるさい女から、静かな時を持てるようにしたいと思います。最初は、イエス様がそれと同じように思っているようです。彼女の願いを拒否して言われました、「私は、イスラエルの家の失われた羊の所にしか遣わされていない《と。私達は、イエス様がいつもやさしい人で、すべての人に親切で哀れみ深いと思いますので、ここで、イエス様が多分、その女の信仰や弟子達の信仰を試していると解釈します。彼女が自分の信仰を表すように手伝います。それで、弟子達がそれを聞いて、本当の立派な信仰は何であるかが、分かるようにしようと思うでしょう。このようにして、弟子達が良いクリスチャンになるでしょう。  *** 神様の御前には私達もそのような時があります。自分達が神様の選ばれた民であるので、教会を外のものから守らなければならないと思います。時々、日曜日の朝、ホームレスの人や精神的に問題がある人が教会に来ます。その人に親切にしますが、来週来ないようにと思います。又は、うるさい子供や泣く赤ちゃんがいます。違う宗教的な経験や礼拝の習慣がある人が来ます。弟子達のように、私達の教会の秩序や清さを守りたいと思います。しかし、弟子達がその日に習った事を、私達もならうべきです。彼らはヨハネ3:16が述べ伝える事を習いました。即ち、神様が世のすべての人々を愛する事です。人を追い出す事ではなくて、どのように人をイエス様の元に連れて行くかを習います。

キリストはその女の立派な信仰を見て、娘をすぐに癒して下さいました。私達はその大きな信仰、大きな憐れみと、大きな力を見ます。活動的な福音を見ます。 *** 神様の御前には私達はそのようです。聖霊は私達にも霊感を与えます。その力で、私達には信仰があり、憐れみがあり、愛があります。

アーメン。

マイケル・ニアフッド、牧師
沖縄ルーテル教会


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