綺麗な手と心

2015年8月23日



マルコ7:1-13
7:1 ファリサイ派の人々と数人の律法学者たちが、エルサレムから来て、イエスのもとに集まった。7:2 そして、イエスの弟子たちの中に汚れた手、つまり洗わない手で食事をする者がいるのを見た。7:3 ――ファリサイ派の人々をはじめユダヤ人は皆、昔の人の言い伝えを固く守って、念入りに手を洗ってからでないと食事をせず、7:4 また、市場から帰ったときには、身を清めてからでないと食事をしない。そのほか、杯、鉢、銅の器や寝台を洗うことなど、昔から受け継いで固く守っていることがたくさんある。――7:5 そこで、ファリサイ派の人々と律法学者たちが尋ねた。「なぜ、あなたの弟子たちは昔の人の言い伝えに従って歩まず、汚れた手で食事をするのですか。」
7:6 イエスは言われた。「イザヤは、あなたたちのような偽善者のことを見事に預言したものだ。彼はこう書いている。『この民は口先ではわたしを敬うが、/その心はわたしから遠く離れている。7:7 人間の戒めを教えとしておしえ、/むなしくわたしをあがめている。』7:8 あなたたちは神の掟を捨てて、人間の言い伝えを固く守っている。」
7:9 更に、イエスは言われた。「あなたたちは自分の言い伝えを大事にして、よくも神の掟をないがしろにしたものである。7:10 モーセは、『父と母を敬え』と言い、『父または母をののしる者は死刑に処せられるべきである』とも言っている。7:11 それなのに、あなたたちは言っている。『もし、だれかが父または母に対して、「あなたに差し上げるべきものは、何でもコルバン、つまり神への供え物です」と言えば、
7:12 その人はもはや父または母に対して何もしないで済むのだ』と。7:13 こうして、あなたたちは、受け継いだ言い伝えで神の言葉を無にしている。また、これと同じようなことをたくさん行っている。」7:14 それから、イエスは再び群衆を呼び寄せて言われた。「皆、わたしの言うことを聞いて悟りなさい。

聖書は、ほぼ2千年前に書かれた物です。しかし、そのメッセジは今日も私達にも語ります。何故ならば、永遠に生きている聖霊によって書かれた物だからです。イエス様はファリサイ派の人々と律法学者達と偽善者達に話しましたが、私達はその人々の後に来るので、私達に当てはまります。ファリサイ派の人々はマルコの福音書を読みませんでしたが、私達は読みますので、その御言葉は私達の為にかかれています。それは、私達が彼らの無知とプライドからはなれて、キリストの信者としての純粋な人生を送る為です。 

今日の福音書の日課は、手を洗うというテーマで始まります。

危ない病気があります:エボラ、豚の風邪、鳥の風邪、新型インフルエンザ、普通の風邪もあります。病気にならないように、又その病気が広がらないように、家に戻る時、ちゃんと手を洗って口をうがいするように教えられています。そのばい菌を殺す事は大事です。昔からお母さん達は食事の前に、皆が手を洗うように言います。犬と遊んだり、庭の掃除をしたり、車を治したり、モールのような大勢の人がいる所から帰ったりすると、どのばい菌を拾うでしょうか。ですから気をつけて、きれいに手を洗いましょう。

イエス様の時代の人々はばい菌やヴィルスの事を知りませんでした。ファリサイ派の人々は手が汚(よご)れて汚(きたな)い事よりも、手が汚(けが)れている事について感心を持ちました。これは宗教的な汚(けが)れの事です。最初これを正しく守る事は立派な事でした。マルコ7:4が言います、「また、市場から帰った時には、身を清めてからでないと食事をしない。」インフルエンザや別の病気を心配しませんでした。マーケット市場には、ばい菌より危ないものがありました!罪の多い所でした。正直ではない店の人、収税人、聖書の食べ物に対する規定を守らないユダヤ人と異邦人、異教のローマ人、色々の罪からの誘惑(ゆうわく)、噂(うわさ)や嘘(うそ)もありました。このような罪深いものが心と思いを汚(げが)します。ですから人が市場から家に帰りますと、手を洗う事は祈りをする事のようでした。「どうか神様、今日私が見た罪から私を守って下さい。犯した罪があれば赦して下さい。私を清めて、聖なる者として、誠の信仰を守る事が出来るようにして下さい。アーメン。」と。

イエス様の生まれる400年も前に、ユダヤ人たちはバビロニアの捕囚(ほしゅう)から約束の地に帰りました。二度と神様の罰を受けないように、自分達を守りたいと思いました。生活のルールが厳しくなりました。十戒や他のモーセの律法を守る為に、聖書に書いていない多くの言い伝えや習慣を作りました。それは神様の命令をよく守る為でした。しかし、いつのまにか、ものごとが逆になりました。言い伝えや習慣が神様の十戒より大切になりました。その習慣を守るために、厳しく守ったので、精神病の脅迫(きょうはく)された衝動(しょうどう)行動(こうどう) compulsive behavior に近くなったと思います。その時、 その言い伝えの本当の意味がなくなりました。例えば手を洗うのは、もう祈りではなくて、自分が律法を守る人であるしるしになりました。手を洗うと、自分が社会を支配するファリサイ派の人々に従う人のしるしでした。ファリサイ派の人々はイエス様に聞きました。「なぜ、あなたの弟子達は昔の人の言い伝えに従って歩まず、汚れた手で食事をするのですか。」言い換えますと、「どうして弟子達が私達の言う事を聞かないのでしょうか。」もう神様に願っている赦しの為の祈りではなくて、宗教の指導者に対する従順(じゅうじゅん)のしるしになりました。彼らが思ったのは、イエス様がそのユダヤ教の習慣を破(やぶ)って、そのユダヤ教のアイデンテティもイスラエルの国のアイデンテティをも弱くし、その宗教を破壊(はかい)すると。

イエス様は彼らを「偽善者(ぎぜんしゃ)」と呼びました。聖書の言葉は、「芝居をする役者」と意味します。ファリサイ派の人々は何かを言いますが、神様の律法を守るふりをするだけという事です。清い人生を送るように公に見せますが、実は神様の律法に従わないで、むしろ自分達が作った習慣を守ります。イエス様は旧約聖書の預言者イザヤから引用しました。

7:6 イエスは言われた。「イザヤは、あなたたちのような偽善者の事を見事に預言したものだ。彼はこう書いている。『この民は口先では私を敬(うやま)うが、/その心は私から遠く離れている。7:7 人間の戒めを教えとして教え、/むなしく私をあがめている。』7:8 あなたたちは神の掟を捨てて、人間の言い伝えを固く守っている。」

私達には、ファリサイ派の人々のように偽善者になる事があります。自分にはそれが分かりません。ファリサイ派の人々と同じように、自分が正しい、自分が義人であると思います。それで、私達はけんそんを持つ事が必要です。私達がする事の本当の意味を理解する事が必要です。他の人をすぐ裁かないで、その人に親切に愛する事が必要です。イエス・キリストの福音の中で、何が本当に大切か分かります。

言い換えますと、手を洗う事よりも、心を清める事の方が大切であるとイエス様は言われます。心の中には、すべての罪と悪があるからです。水と石けんを使って心をきれいにする事が出来ません。ただバプテスマの水によってだけがそれをする事が出来ます。十字架上で死んだキリストの血によってだけです。罪の赦しによってだけです。私達を信仰に導く聖霊の働きによってだけによってです。

ユダヤ人が市場から帰りますと手を洗ったように、私達もそうした方が良いでしょうか。と言うのは、教会や自分の家の安全な所から出かけますと、私達の周りには多くの悪と多くの罪を犯させる誘惑があります。誘惑がいつもあります:麻薬、飲みすぎ、カケごと、性欲の罪、人をだます事、嘘つき、欲張り、暴力、等。出かける前に守りの為に祈ればよいでしょう。家に帰りますと赦しを祈ります。又、安全に家に帰った感謝の祈りが良いでしょう。

罪を犯す誘惑がいつも私達の所にありますが、イエス様の赦しもいつも私達の所にあります。イエス様が私達と共にいるのは、私達が自分の手を洗うからではありません。又、私達が良い子になるように一所懸命にするからでもありません。むしろイエス様が私達と共にいるのは、イエス様が私達を愛する救い主であるからです。

しかし手を洗うよりも、耳を洗って、読書のメガネを磨く必要があるでしょう。神様の御言葉は私達の心を清めます。神様の愛についての言葉は私達の心の中に愛を作ります。自分の手が汚(よご)れていても、聖書やデボーションの本を開いて毎日読みましょう。平和と赦しの言葉を聞きましょう。食事の前に手を洗いますが、食べる前に、食前の祈りを祈りましょう。勇気と希望の言葉を聞きましょう。詩編と讃美歌と聖歌の言葉は神様を信頼する信仰を作ります。家の中にも車の中にもクリスチャンの音楽を聞きましょう。心と唇を開いて神様に賛美して感謝しましょう。

アーメン。

マイケル・ニアフッド、牧師
沖縄ルーテル教会


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