エッサイの若枝、最初のクリスマス・ツリー

アドベントII, 2010年12月5日、合同礼拝

イザヤ11:1
「エッサイの株(かぶ)からひとつの芽(め)が萌(も)えいで/
その根(ね)からひとつの若枝(わかえだ)が育(そだ)ち」

今日、クリスマス・ツリーについて話しましょう。クリスマスの飾りとして、マルティン・ルターの時代から使われています。冬には、多くの花や植物が眠っていますが、松やモミの木は緑で覆われていてきれいです。ルダーはクリスマスの木を、エデンの園の命の木のように考えました。クリスマス・ツリーの電気の光、又ルターが使ったロウソクの光は、イエス様が生まれた夜にベツレヘムの野原で歌っていた天使達を表します。木のてっぺんの星は、生まれた王様を拝む為に博士達を導いた星です。ある飾りには意味がありますが、他の飾りはただきれいです。

この説教の準備の為に、今日の旧約聖書の日課を読んで、クリスマス・ツリーの事を考えました。イザヤ11:1「エッサイの株(かぶ)からひとつの芽(め)が萌(も)えいで/その根(ね)からひとつの若枝(わかえだ)が育(そだ)ち」と。イザヤは、神様の預言者でした。彼はイスラエルの破壊をも、神様の民の復活をも見ました。その滅びの理由とは、イスラエルの悪や不信仰の為でした。バビロンによってその罰をイスラエルに行います。しかし、イザヤは神様の愛をも知りました。神様は御自分のアブラハムとダビデへの約束を忘れません:それは土地の約束と子孫の約束でした。

私達のテキストは言います。「エッサイの株(かぶ)からひとつの芽(め)が萌(も)えいで」と。この「株」とは、切り倒した木の地面に残された幹の部分です。その木の根が残っているので、その株には生命が残っています。それで、その株から新しい芽が出て、新しい木が切り倒した木の代わりに生えて来ます。これはイザヤの話です。この木とは「エッサイ」です。エッサイとはダビデ王の父の名前です。バビロニアの捕囚(ほしゅう)の時、イスラエルの民がバビロニアに奴隷として連れて行かれたとき、ダビデの王国が滅びました。切り倒されました。しかしイザヤが予言したのは、ダビデ王の子孫の一人が、イスラエルの中で新しい王として現れる事を予言しました。

この新しい王とはキリストです。マタイの福音書がはっきり言うのは、イエス様がダビデ王の子孫であるヨセフの妻マリアによって生まれた事です。又、クリスマスの天使が羊飼い達に告げたのは、イエス様がダビデの町のベツレヘムで生まれた事です。イエス様はエッサイの株の芽です。この意味ではイエス様御自身は、最初のクリスマス・ツリーでした。

普通に考えますと、イエス様を別の木につけられていると思います。それは十字架の木です。きれいな飾りのように、イエス様がその十字架の木につけられないで、ひどい乱暴と憎しみによって、その木につけられました。世のすべての憎しみと罪が彼の上に掛けられたのです。光よりも闇がありました。木の上に輝く星はありませんでしたが、一つの書き札がありました。「これはユダヤ人の王ナザレのイエスだ」と。それで正式的には、この木こそがエッサイの株の芽でした。この木の命が切り倒されました。しかし3日目に甦りました。そして、新しい命を持つ芽のように、その木には実がありました。即ち、平和、愛、赦しと永遠の救いです。

それで今年のクリスマスに、クリスマス・ツリーに対して新しい尊敬が私にはあります。暗い12月に光を与えます。エッサイの枝として神様の約束を思い出して、そして、その約束の成就 はイエス様である事を思い出します。これは十字架の木を指しますし、復活の新しい命をも指します。その星と電気と飾りには、色々の意味と思い出があります。この木は希望のしるしですので、平和と喜びと主イエス・キリストの愛を私たちに運びます。

アーメン。

マイケル・ニアフッド牧師
沖縄ルーテル教会


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