私は永遠の命のパン

2018年8月12日


ヨハネ 6:35–51

6:35 イエスは言われた。「わたしが命のパンである。わたしのもとに来る者は決して飢えることがなく、わたしを信じる者は決して渇くことがない。

6:36 しかし、前にも言ったように、あなたがたはわたしを見ているのに、信じない。6:37 父がわたしにお与えになる人は皆、わたしのところに来る。わたしのもとに来る人を、わたしは決して追い出さない。6:38 わたしが天から降って来たのは、自分の意志を行うためではなく、わたしをお遣わしになった方の御心を行うためである。6:39 わたしをお遣わしになった方の御心とは、わたしに与えてくださった人を一人も失わないで、終わりの日に復活させることである。6:40 わたしの父の御心は、子を見て信じる者が皆永遠の命を得ることであり、わたしがその人を終わりの日に復活させることだからである。《

6:41 ユダヤ人たちは、イエスが「わたしは天から降って来たパンである《と言われたので、イエスのことでつぶやき始め、6:42 こう言った。「これはヨセフの息子のイエスではないか。我々はその父も母も知っている。どうして今、『わたしは天から降って来た』などと言うのか。《6:43 イエスは答えて言われた。「つぶやき合うのはやめなさい。6:44 わたしをお遣わしになった父が引き寄せてくださらなければ、だれもわたしのもとへ来ることはできない。わたしはその人を終わりの日に復活させる。6:45 預言者の書に、『彼らは皆、神によって教えられる』と書いてある。父から聞いて学んだ者は皆、わたしのもとに来る。6:46 父を見た者は一人もいない。神のもとから来た者だけが父を見たのである。6:47 はっきり言っておく。信じる者は永遠の命を得ている。6:48 わたしは命のパンである。6:49 あなたたちの先祖は荒れ野でマンナを食べたが、死んでしまった。6:50 しかし、これは、天から降って来たパンであり、これを食べる者は死なない。6:51 わたしは、天から降って来た生きたパンである。このパンを食べるならば、その人は永遠に生きる。わたしが与えるパンとは、世を生かすためのわたしの肉のことである。《


イエス様は言われました、「私が命のパンである。《今日、「命《について話しましょう。英語では「Lifeライフ《ですが、その一つの言葉には多くの翻訳と使い方があります。死ぬ事の反対の生きる事。ライフ・ストーリは、日本語では、人生や伝記です。ライフ・スタイルは生活ぶりです。又は、活動的、意味がある、生きている人生もあります。又、永遠の命です。

ただ生きる為に、人が働いたり戦ったりします。自分が食べて、家族を食べさえる事も必要です。住まい、頭の上の屋根が必要です。様ざまの物から自分を守らなければなりません。例えば、病気、暴力、乱暴、泥棒、戦争、飢饉、台風、などの災害です。神様は私達に命を与えたので、命は大切です。自分自身には尊いものですし、他の人の命も尊いです。クリスチャンの愛があるので、他の人を生かして、特に苦しい時や災害の時です。愛があるので、自己中心的な思いから解放されて、他の人にある命を見ます。しかし、すべての人々には死が近寄る時があります。あなたはその時の準備をしていますか?

生きる為に、人にはパンやご飯や他の食べ物が必要です。しかし、人生は、ただ生き残る戦いではありません。楽しい、価値がある人生を送る為に、神様は私達を祝福します。パンの小麦粉と共に、多くの野菜と果物や香辛料, スパイスと、おいしいソースも下さいます。人生はきれいです。うつくしい花があります。人生は楽しいです。神様はおかしいサルと子猫と小さい子供を下さいました。ゲームやスポーツを下さいました。冒険があり、仕事があります。 伝道の書を書いた人、コヘレトは言いました、「3:12 わたしは知った/人間にとって最も幸福なのは/喜び楽しんで一生を送ることだ、と3:13 人だれもが飲み食いし/その労苦によって満足するのは/神の賜物だ、と。《実は、自分の仕事が楽しいと思う時、それは本当に恵みです。神様に感謝します。しかし、人生が楽しくない時があります。偲んで、自分で自分の重荷を背負う時があり、他の人の助けによって頑張る時があります。しかし、ある時、その痛みや恥は多過ぎます。その時、人は自分の部屋に戸じこもります。自殺の思いがあります。又、いきどおりや仕返しをしたいという思いがり、暴力や人殺しの思いもあります。

詩篇90篇10節が言います、「人生の年月は七十年程のものです。健やかな人が八十年を数えても/得るところは労苦と災いにすぎません。瞬く間に時は過ぎ、わたしたちは飛び去ります。《古いことわざによりますと、人生に確かなものが2つしかありません、即ち、死ぬ事と税金です。しかし、死ぬ事は神様のご計画に従っていますか。創世記によりますと、人は永遠に生きるはずでした。エデンの園の中には、2本の木がありました。命の木と善悪の知識の木でした。罪を犯して禁じられた木の実を食べて、アダムとエバは楽園から追い出されました。それは、その命の木から食べる事が出来ない為でした。言い換えますと、死は自然ではないと聖書が教えます。神様の最初のご計画の一部ではありませんでした。死は罪の結果です。あなたと私は、そのリンゴを食べなかったのですが、私達とすべての人は、それそれ、神様の命令に対して罪を犯した事があります。ですから、すべての人々はその命の木から遠く離されました。私達はエデンに帰る事が出来ません。ですから永遠に生きる事が出来ません。私達は死にます。

しかし、恵み深い神様は、命を与える新しい木を下さいます。十字架の木です。死を与える木です。しかし、イエス様の死が命を与えます。命を与える事が出来るのは、十字架が私達の罪より強いからです。私達の罪を赦すからです。神様の命令を破るよりも、神様のご計画に従います。イエス様はそれをこのように言われました、「6:38 わたしが天から降って来たのは、自分の意志を行うためではなく、わたしをお遣わしになった方の御心を行うためである。6:39 わたしをお遣わしになった方の御心とは、わたしに与えてくださった人を一人も失わないで、終わりの日に復活させることである。6:40 わたしの父の御心は、子を見て信じる者が皆永遠の命を得ることであり、わたしがその人を終わりの日に復活させることだからである。《イエス様を信じる時、私達には永遠の命があります。

又、イエス様は言われました、「6:51 わたしは、天から降って来た生きたパンである。このパンを食べるならば、その人は永遠に生きる。わたしが与えるパンとは、世を生かすためのわたしの肉のことである。《この言葉は聖餐式を思いださせます。また、イエス様が物質的に私達を救われた事を思いおこさせます。ご自分の肉によって私達を救います。殺す為に十字架に掛けられた肉体的の体によって私達を救います。イエス様の肉はお墓に収められました。3日目に、肉体的に、イエス様は甦られました。私達にとって、これがとっても大切であるのは、私達人間には体と肉があるのです。体が死にます。体が復活されなければなりません。罪の為に体が死ななければなりません。赦しがあるので、その体が再び甦ります。私達クリスチャンがこのイエス様の約束を信じます。私達の信仰の告白で、二ケア信条で最後に喜びを持って言います:「死者のよみがえりと来世のいのちを待ち望む。アーメン。《

永遠の命の約束は確かなものであるので、私達クリスチャンは、死と地獄を心配しません。天国の希望は確かなものであるので、今生きる自由があります。エフェソの信徒への手紙で、聖パウロは、その生活ぶりを教えます。要約として、言います、「4:31 無慈悲、憤り、怒り、わめき、そしりなどすべてを、一切の悪意と一緒に捨てなさい。4:32 互いに親切にし、憐れみの心で接し、神がキリストによってあなたがたを赦してくださったように、赦し合いなさい。5:1 あなたがたは神に愛されている子供ですから、神に倣う者となりなさい。5:2 キリストがわたしたちを愛して、御自分を香りのよい供え物、つまり、いけにえとしてわたしたちのために神に献げてくださったように、あなたがたも愛によって歩みなさい。《

時々、人生の意味は何だろうかと思います。自信がない時や哲学的や宗教的な大きな事を考える時もあります。イエス様によりますと、ご自分の人生の目的とは、私達に命を与える為でした。伝道の書を書いた人はこのように書きました、「12:13 すべてに耳を傾けて得た結論。神を畏れ、その戒めを守れ。《これこそ、人間のすべて。《

私達の人生の目的とは何ですか。それは、イエス様を自分の主、自分の救い主として信じて、洗礼を受けて神の子供として生きる事です。

アーメン。

マイケル・ニアフッド、牧師
沖縄ルーテル教会


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