ベトザタの池で

2022年5月22日、復活節6C



ヨハネ5: 1~9 (新171)
5: 1その後、ユダヤ人の祭りがあったので、イエスはエルサレムに上られた。 2エルサレムには羊の門の傍らに、ヘブライ語で「ベトザタ《と呼ばれる池があり、そこには五つの回廊があった。 3aこの回廊には、病気の人、目の見えない人、足の上自由な人、体の麻痺した人などが、大勢横たわっていた。 3b-4† 5さて、そこに三十八年も病気で苦しんでいる人がいた。 6イエスは、その人が横たわっているのを見、また、もう長い間病気であるのを知って、「良くなりたいか《と言われた。 7病人は答えた。「主よ、水が動くとき、わたしを池の中に入れてくれる人がいないのです。わたしが行くうちに、ほかの人が先に降りて行くのです。《 8イエスは言われた。「起き上がりなさい。床を担いで歩きなさい。《 9すると、その人はすぐに良くなって、床を担いで歩きだした。その日は安息日であった。

エルサレムの町には2つの池がありました。街の北の方にはベトザタの池で、南の方にはシロアムの池でした。ヨハネ9章でイエス様は目の見えない人の目にドロを付けて言われました、「シロアムの池に行って洗いなさい《と。彼は行って洗い、目が見えるようになって、帰って来ました。

今日の福音書の日課、ヨハネ5章で、ベトザタの池で足の上自由な人を癒して下さいました。この池は湧き水でした。時々水が突然に沢山湧き出しました。水をかきまわしたのは、天使であると思われていました。それで、その瞬間に水に癒しの力があったと思われていました。これを説明するのは、4節の参考footnote です。あなたの聖書でヨハネの福音書の最後のページに書かれています。「 3この回廊には、病気の人、目の見えない人、足の上自由な人、体の麻痺した人などが、大勢横たわっていた。4*彼らは、水が動くのを待っていた。それは、主の使いがときどき池に降りて来て、水が動くことがあり、水が動いたとき、真っ先に水に入る者は、どんな病気にかかっていても、いやされたからである。《人々はいつ天使が来るか分かりませんでしたが、厚い太陽の下や雨の中に待たなくても良いでした。そこに「五つの回廊があった《からです。

その回路の一つの中にはある足の上自由な人が自分の床を敷いて寝ました。そこで三十八年も病気で苦しんでいました。自分が他の人より先にその湧き水に入るように希望したのですが、しかし、足が上自由で、早く動けません。その上、自分を手伝う人がいませんでした。「ベトザタ《と言う池の吊前の意味とは「哀れみの家《です。しかし、その日に、イエス様の哀れみを見ます。「6イエスは、その人が横たわっているのを見、また、もう長い間病気であるのを知って、「良くなりたいか《と言われた。《勿論、癒してもらいたいと思いましたが、絶望していたでしょう。実は、私達が一番弱い時にこそ、神様の哀れみが一番よく見えます。「8イエスは言われた。「起き上がりなさい。床を担いで歩きなさい。《 9すると、その人はすぐに良くなって、床を担いで歩きだした。その日は安息日であった。《

イエス様のたくさんの癒しの話によくあるポイントが、今日の話にも2つあります。まず、その人がその病気で何年間、煩っていたか、その病気がどんなにひどいか教えます。そして、その病気から完全な回復したと教えられています。人の目が見えます。死んだ人が復活されています。歩けない人が歩けます。今日の人が完全に癒されて、力が与えられて、自分の床を拾って家に歩いていくほど元気になりました。家まで町を通って行きますと、多くの人が彼を見る事が出来、彼が癒された事がみえます。

ここから問題が起こります。何故ならば、その日が安息日でした。床のような重い物を担いで歩くのは禁じられていました。この喧嘩はヨハネ5章に続きます。しかし、イエス様は自分を弁護して言われます、「私の父は今もなお働いておられる。だから、私も働くのだ。《父なる神様の哀れみが安息日の律法などによって限られていません。同じようにイエス様の哀れみが安息日の律法やほかのものによって限られていません。

元々、十戒の第三の戒めはとっても大切でした。イスラエル人は400年ぐらいエジプトの奴隷でした。奴隷は機械用に、休みの日がありません。それで、安息日の戒めは,イスラエル人の為に自由宣言のようでした。申命記5:12-15。

「12安息日を守ってこれを聖別せよ。あなたの神、主が命じられたとおりに。 13六日の間働いて、何であれあなたの仕事をし、 14七日目は、あなたの神、主の安息日であるから、いかなる仕事もしてはならない。あなたも、息子も、娘も、男女の奴隷も、牛、ろばなどすべての家畜も、あなたの町の門の中に寄留する人々も同様である。そうすれば、あなたの男女の奴隷もあなたと同じように休むことができる。 15あなたはかつてエジプトの国で奴隷であったが、あなたの神、主が力ある御手と御腕を伸ばしてあなたを導き出されたことを思い起こさねばならない。そのために、あなたの神、主は安息日を守るよう命じられたのである。《

しかし、ユダヤ人は安息日の自由を新しい安息日の支配にしました。しかし、イエス様は、その病気の人に自由を与えました。病気からの自由も安息日の規定からも自由を与えました。これこそは神様の哀れみです。

私達キりスト信者達は、週の第7の日、土曜日を安息日として守りません。その代わりに、週の第一の日、日曜日をお祝いします。罪や死や地獄からの自由をお祝いします。救いの自由をお祝いします。イエス様は週の初めの日、日曜日に復活しましたので、その日にお祝いします。

マルチン・ルターにとっては、私達はどの日に休みの日にしも、かまいません。大切なのは、時間を取って、自分の信仰を回復して、神様の哀れみをおぼえる事です。小教理問答書の第三の戒め:

第三 あなたは、安息日を覚えて、これを聖とせよ

問 これは、どんな意味ですか?

答 私達は、神を畏れ、愛さなければなりません。 それで、私達は、神のみことばと説教を軽karoんじないで、むしろこれを聖いものとして大切にして、喜んで聞き、学ぶのです。

私達クリスチャンが日曜日に働いても良いですか。必要ならば良いです。哀れみと親切な業をしても良いです。教会に行くのは、土曜日でも、水曜日でも、インタネットで、何曜日、何時でも出来ます。

最後に、ある若い女の人との会話を述べたいと思います。北見ルーテル教会のメンバーになる前に、彼女は私に聞きました、「洗礼を受けたら、毎週日曜日ごとに教会に行かなければならないでしょうか?《私は答えました、「いいえ、しなくても良いですが、あなたの信仰が成長しますと、教会にぜひ行きたいと思うでしょう。《

アーメン。

マイケル・ニアフッド、牧師
沖縄ルーテル教会


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