洗礼の人生(ぬれていて生きる)

主の洗礼主日、2008年1月13日

ローマ6:1−11
6:1 では、どういうことになるのか。恵みが増すようにと、罪の中にとどまるべきだろうか。 6:2 決してそうではない。罪に対して死んだわたしたちが、どうして、なおも罪の中に生きることができ るでしょう。 6:3 それともあなたがたは知らないのですか。キリスト・イエスに結ばれるために洗礼を受けたわたした ちが皆、またその死にあずかるために洗礼を受けたことを。 6:4 わたしたちは洗礼によってキリストと共に葬られ、その死にあずかるものとなりました。それは、キ リストが御父の栄光によって死者の中から復活させられたように、わたしたちも新しい命に生きるためな のです。

6:5 もし、わたしたちがキリストと一体になってその死の姿にあやかるならば、その復活の姿にもあやかれるでしょう。 6:6 わたしたちの古い自分がキリストと共に十字架につけられたのは、罪に支配された体が滅ぼされ、も はや罪の奴隷にならないためであると知っています。 6:7 死んだ者は、罪から解放されています。 6:8 わたしたちは、キリストと共に死んだのなら、キリストと共に生きることにもなると信じます。 6:9 そして、死者の中から復活させられたキリストはもはや死ぬことがない、と知っています。死は、も はやキリストを支配しません。 6:10 キリストが死なれたのは、ただ一度罪に対して死なれたのであり、生きておられるのは、神に対し て生きておられるのです。 6:11 このように、あなたがたも自分は罪に対して死んでいるが、キリスト・イエスに結ばれて、神に対 して生きているのだと考えなさい。

マタイ3:13−17
3:13 そのとき、イエスが、ガリラヤからヨルダン川のヨハネのところへ来られた。彼から洗 礼を受けるためである。 3:14 ところが、ヨハネは、それを思いとどまらせようとして言った。「わたしこそ、あなたから洗礼を受 けるべきなのに、あなたが、わたしのところへ来られたのですか。」 3:15 しかし、イエスはお答えになった。「今は、止めないでほしい。正しいことをすべて行うのは、我々 にふさわしいことです。」そこで、ヨハネはイエスの言われるとおりにした。 3:16 イエスは洗礼を受けると、すぐ水の中から上がられた。そのとき、天がイエスに向かって開いた。 イエスは、神の霊が鳩のように御自分の上に降って来るのを御覧になった。 3:17 そのとき、「これはわたしの愛する子、わたしの心に適う者」と言う声が、天から聞こえた。

ヨルダン川に来られた時、イエス様とヨハネには、この対話がありまし た。「わたしこそ、あなたから洗礼を受けるべきなのに、あなたが、わたしのと ころへ来られたのですか。」しかし、イエスはお答えになった。「今は、止めな いでほしい。正しいことをすべて行うのは、我々にふさわしいことです。」 人々の罪を赦すために、ヨハネはユダヤ人達に洗礼をほどこしました。しかし、 イエス様には罪がありませんでしたので、自分の為に罪の赦しが必要ではあり ませんでした。しかし、十字架上で死んだ時、世の罪を取り除く為の犠牲にな りました。

私達は罪人であるので、洗礼が必要です。私達の場合には、洗礼は本当 に私達の罪を赦します。そして、生きている間、いつも私達の罪を赦し続けま すので、洗礼は一回限りのものではありません。勿論、カレンダーに書く事が 出来ます。自分が洗礼を受けた日付hizukeをおぼえていますか。私の場合には、 1949年11月6日です。しかし、先に申しましたように、洗礼は一回限り のものではありません。洗礼は、私達が誰であるかを変えます。自分が誰であ るか、どのものであるかを変えます。化学的な変化henkaみたいです。洗礼盤は 試験管のようです。しかし、これは霊的な変化です。H2O + 神のみ言葉+私達 の信仰です。新しい人に生まれ変わります。その人は神様との間に、正しい関 係を結びますので、イエス様の表現で、「ふさわしいことです。」神様とのふさ わしい縁を結びます。洗礼は、水プラス神様の約束のみ言葉です。その約束と は、マルコ16:16です。「信じて洗礼を受ける者は救われる」と。そして、 信仰を持ってその約束をおぼえる時、私達の罪が再び赦されて、神様の約束が 尚更に確認する事が出来ます。私達が救われています。自分のする行いによっ てではなくて、救われているのは、洗礼の中にある神様の約束によってです。 そして、その約束は私達の信仰より強く、全世界の海の水より強いです。洗礼 は一回限りのものではありません、イエス・キリストによる私達の新しい存在 です。

洗礼は、入会式、入門式のようによく考えられています。人が正式にク リスチャンなることです。公の信仰の証しです。赤ちゃんの時に洗礼を受ける 場合、それはその赤ちゃんの親の公の信仰の証しです。大きくなると、自分で その証しをします。堅信式はそうです。又、その証しをよくします。教会に来 るたびに、自分の罪を告白し、ざんげして赦しを受けるたびに、また祭壇の前 に立つたびに、献金をするたびに、言葉や業によって福音を分かち合うたびに 信仰の証しをします。 

洗礼式の中で自分の信仰を告白し、悪魔を否定して、クリスチャンとし て生きるように約束します。洗礼は、契約、約束のようです。私達も神様も約 束します。私達は神様の民になると約束して、神様は私達の神になると約束し ます。神として、私達を養yashinaって、私達を守って、私達を救って永遠の命 を下さるように約束します。私達は、神様の民として、神様に恥をかけないよ うに約束します。洗礼は一回限りのものではありません、かえって、約束の始 まり、父と子と聖霊の三位一体の神様にある人生のはじまりです。

   洗礼は罪の赦しの為ですが、洗礼を受けても、私達人間が罪を犯し続け ます。どうして私達が罪を犯すでしょうか。聖パウロの為にも不思議なもので した。神様の民でしたら、どうして罪を犯すでしょうか。聖パウロは聞きまし た、「罪に対して死んだわたしたちが、どうして、なおも罪の中に生きることが できるでしょう。わたしたちは洗礼によってキリストと共に葬られ、その死に あずかるものとなりました。それは、キリストが御父の栄光によって死者の中 から復活させられたように、わたしたちも新しい命に生きるためなのです。」聖 パウロは言うのは、洗礼は新しい人生を送る力です。何故ならば、私達が素晴 しい方法で、キリストと結musuばれているからです。どのようにキリストと結 ばれているかと言いますと、キリストの死と復活が自分の死と復活になるほど です。私達も十字架上に死んで、私達も3日目に復活した事のようです。聖パ ウロが言いました。「6:5 もし、わたしたちがキリストと一体になってその死の 姿にあやかるならば、その復活の姿にもあやかれるでしょう。」これは私達の新 しい人生の生きるための力を教えます。罪に対して死んで、キリスト・イエス によって神様に対し生きるのです。これは、私達の人生の道徳の力です。聖パ ウロが言います、「6:7 死んだ者は、罪から解放されています。6:8 わたしたち は、キリストと共に死んだのなら、キリストと共に生きることにもなると信じ ます。」私達がもう罪の奴隷ではなくて、キリストにあって自由なものです。キ リストは、私達の人生の新しい生き方です。

洗礼は、入会式、入門式のようによく考えられています。わりに簡単な 入会式です。ある宗教やカルトや団体には、とっても不思議な,又は、とって もひどい入会式があります。入れ墨などです。あるカルトは、入会しようと思 う人から、すべてのお金や持ち物をそのカルトにささげる事を要求します。キ リスト教は簡単です。ただ水をかける事です。川の中に身体全体を水に入るこ とがあっても、めんどうくさいかも知りませんが、痛みがありません。洗礼は、 体にいつまでも残る傷を付けません。洗礼の変わりに、私達の額hitaiに十字架 の入れ墨があれば、どうなるでしょうか。クリスト信者の生き方が簡単になる でしょうか。ただし、この世の中のある所では、そのような刺青があるとそれ で尚更に危ないでしょう!しかし、洗礼は目で見る事が出来ないものです。キ リスト教は心の宗教です。しかし、自分の洗礼をおぼえる時、信仰によってキ リストのみ名を呼び求める時、再び水が自分の上にかけられているようです。 私達の魂が再びぬれています。洗礼は一回限りのものではありません、継続的 な状態です。文法的に言うと、「洗礼を受けた」と言うよりも「洗礼を受けてい る」と言ったらよいでしょう。自分がキリストと共に死にました。洗礼の時、 溺oboれました。私達の罪が洗い、流されています。今、キリストにあって、 生きています。

アーメン。

マイケル・ニアフッド牧師
沖縄ルーテル教会