あなたも神様の愛された子です

2015年1月11日

マルコ 1:9-11

 1:9 そのころ、イエスはガリラヤのナザレから来て、ヨルダン川でヨハネから洗礼を受けられた。1:10 水の中から上がるとすぐ、天が裂けて“霊”が鳩のように御自分に降って来るのを、御覧になった。1:11 すると、「あなたはわたしの愛する子、わたしの心に適う者」という声が、天から聞こえた。

創世記 1:1–5

1:1 初めに、神は天地を創造された。 1:2 地は混沌であって、闇が深淵の面にあり、神の霊が水の面を動いていた。 1:3 神は言われた。「光あれ。」こうして、光があった。 1:4 神は光を見て、良しとされた。 1:5 光を昼と呼び、闇を夜と呼ばれた。夕べがあり、朝があった。第一の日である。

ローマ 6:1–11

6:1 では、どういうことになるのか。恵みが増すようにと、罪の中にとどまるべきだろうか。 6:2 決してそうではない。罪に対して死んだわたしたちが、どうして、なおも罪の中に生きることができるでしょう。 6:3 それともあなたがたは知らないのですか。キリスト・イエスに結ばれるために洗礼を受けたわたしたちが皆、またその死にあずかるために洗礼を受けたことを。 6:4 わたしたちは洗礼によってキリストと共に葬られ、その死にあずかるものとなりました。それは、キリストが御父の栄光によって死者の中から復活させられたように、わたしたちも新しい命に生きるためなのです。

6:5 もし、わたしたちがキリストと一体になってその死の姿にあやかるならば、その復活の姿にもあやかれるでしょう。 6:6 わたしたちの古い自分がキリストと共に十字架につけられたのは、罪に支配された体が滅ぼされ、もはや罪の奴隷にならないためであると知っています。 6:7 死んだ者は、罪から解放されています。 6:8 わたしたちは、キリストと共に死んだのなら、キリストと共に生きることにもなると信じます。 6:9 そして、死者の中から復活させられたキリストはもはや死ぬことがない、と知っています。死は、もはやキリストを支配しません。 6:10 キリストが死なれたのは、ただ一度罪に対して死なれたのであり、生きておられるのは、神に対して生きておられるのです。 6:11 このように、あなたがたも自分は罪に対して死んでいるが、キリスト・イエスに結ばれて、神に対して生きているのだと考えなさい。

毎年のこの日曜日の福音書の日課は、私達の主イエス・キリストの洗礼です。イエス様の洗礼について話しますと、私達が自分達の洗礼についても考える日です。

マルコの福音書にある記録は短いですが、私が考えることを話します。イエス様がヨルダン川に来られた日は、曇りの日でしたでしよう。イエス様とヨハネは共に川に入りました。イエス様が完全に水の下になり、洗礼をうけました。バプテスマのヨハネの洗礼は罪を赦す儀式でした:罪が溺れる、罪が洗い流される、新しく赦された人が水から上がります。勿論、イエス様が罪を犯した事がないので、イエス様の洗礼は罪の赦し以上のものをも指します。罪が人を聖なる神様から離すので、罪が赦されている時、その人が神様の近くになります。罪は神様に対する反抗ですので、悔い改めは自分の人生を神様に捧げる事です。イエス様の洗礼はイエス様の公の宣教の働きの初めです。そしてイエス様の働きが、完全に神様の働きをするようにと捧げられました。それは救いの働きです。

私の想像ですが、イエス様が洗礼を受ける日が曇りの日ですが、イエス様が水から上がりますと、太陽が出てきました。雲が開けて、イエス様の上に太陽の光を照らしたでしょう。そして聖霊は鳩の形で降りて来ました。公園で鳩を見た事があります。面白いです。飛び回りますが、パンクズを食べる為に人の近く降りて来ます。やさしい鳥でしょう、昔から平和のシンボルです。聖霊が降りて来てイエス様の肩に座ったと想像します。イエス様は平和の人だったので、聖霊は恐ろしいワシやタカの形よりも、やさしい鳩のように来たでしょう。そして、ノアの箱舟の話しの鳩を思い出します。オリブの枝をくちびるにくわえて箱舟に戻りました。神様との平和のしるしでした。人間の為の新しいスタートでした。そして、イエス様の十字架と復活も人間の為の新しいスタートになります。

そして空から父なる神様の声もありました。「あなたはわたしの愛する子、わたしの心に適う者」と。その日、ヨルダン川に集まった人々の中のある人は、その音は、天気が悪い曇った日の雷でしかないと思ったでしょう。はっきした声でしても、ある人はそれが雷だろうと勝手に思うでしょう。しかしバプテスマのヨハネと他の人は、神様を信じたから、神様の声を聞きました。この声はイエス様がどなたであるか教えました。イエス様はただの普通の人ではなくて、神様の子です。神様の心に喜びがありました。それは、バプテスマを受けて、イエス様が救いの働きを始めるからです。それをする為に神様は御自分の御子をこの世に送りました。それで神様は喜びます。新しい天地創造のようでした。創世記1章のようです。「1:1 初めに、神は天地を創造された。地は混沌であって、闇が深淵の面にあり、神の霊が水の面を動いていた。神は言われた。「光あれ。」こうして、光があった。神は光を見て、良しとされた。」

イエス様が洗礼を受けた時、神様は喜びました。私達も洗礼を受ける時、神様は喜びます。

1 私達が神様の子供になるので喜びます。家族がない子供が養子として正式にある家族に入る儀式のようです。神様の名前が私達の名前に付けられています。私達は神様の家族に入りますので、神様は誇りを持つ父親のようです。洗礼の儀式の時、私達は使徒信条を告白します。その時、私達は三位一体の神様を自分の神として受け入れます。

2 神様が喜ぶのは、私達の罪が赦されて、洗いおとされて、溺れるのです。勿論、それがイエス様の十字架上での死によってですが、その恵みが洗礼の時に私達に与えられています。

3 神様が喜ぶのは、洗礼が悔い改めの為であるからです。力を与えます。悔い改めて、自分の人生を変える、チェンジする力です。

4 神様が喜ぶのは、私達は彼の命令に従うからです。マタイ28章18-20節 「わたしは天と地の一切の権能を授かっている。だから、あなたがたは行って、すべての民をわたしの弟子にしなさい。彼らに父と子と聖霊の名によって洗礼を授け、 あなたがたに命じておいたことをすべて守るように教えなさい。わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる。」

それで、親達が子供に洗礼を受ける為に連れて来る時、神様はうれしいです。又、友達が洗礼を受けるように勧める時、神様はうれしいです。

イエス様が「水の中から上がるとすぐ、天が裂けて“霊”が鳩のように御自分に降って来るのを、御覧になった」のです。私達の洗礼は空の雲が裂けるかのように、光が私達の上に照らす事のようです。それで、将来の為の希望と今現在の為の慰めを与えるはずです。暗闇の中に生きているような時があります。人生の問題と心配と患いがあります。自分だけで独りでいますと、淋しく、いらいらし、寂しいです。自分の罪の為に患い。自分の間違いの為の患いがあります。私達の洗礼はイエス様の洗礼のようです。イエス様の道が十字架に至りました。私達の罪の為に死んだ時、十字架上にいる一日は暗い日でした。しかし3日目に甦られて、永遠の命と無限の希望を持って復活しました。今日の使徒書で、ローマ6:3-4章で、聖パウロはこのように言いました、

6:3 それともあなたがたは知らないのですか。キリスト・イエスに結ばれるために洗礼を受けたわたしたちが皆、またその死にあずかるために洗礼を受けたことを。6:4 わたしたちは洗礼によってキリストと共に葬られ、その死にあずかるものとなりました。それは、キリストが御父の栄光によって死者の中から復活させられたように、わたしたちも新しい命に生きるためなのです。

イエス様が「水の中から上がるとすぐ、天が裂けて“霊”が鳩のように御自分に降りて来るのを、御覧になった。」大人として洗礼を受ける人のほとんどの場合には、洗礼を受ける以前に、聖霊は既に彼らの上に降りて来て、彼の心に入りました。福音を信じるように導きました。それで人は洗礼を受けたいと思います。私はルーテル教会の牧師であるので、「キリストを信じるように決心した」と言う表現を使いたくありません。その代わりに言いたいのは、人が、イエス様が自分の救い主であると分かって来たので、洗礼を受ける事が当然であると、彼らが感じる事です。赤ちゃんとして洗礼を受けた人の場合には、ずーと聖霊は彼らの人生の中で働いていたので、いつか、イエス様が自分の羊飼い、自分の救い主であると分かって来て、堅信式でその信仰を告白する事は当然であると感じる事です。

キリスト教会の信仰の喜びとは、自分が神様の愛された子であると分かる事です。

アーメン。

マイケル・ニアフッド、牧師
沖縄ルーテル教会


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