権威

2012年1月29日、顕現節4B

福音書  マルコ1:21~28(新62)
1:21 一行はカファルナウムに着いた。イエスは、安息日に会堂に入って教え始められた。 1:22 人々はその教えに非常に驚いた。律法学者のようにではなく、権威ある者としてお教えになったからである。 1:23 そのとき、この会堂に汚れた霊に取りつかれた男がいて叫んだ。 1:24 「ナザレのイエス、かまわないでくれ。我々を滅ぼしに来たのか。正体は分かっている。神の聖者だ。」 1:25 イエスが、「黙れ。この人から出て行け」とお叱りになると、 1:26 汚れた霊はその人にけいれんを起こさせ、大声をあげて出て行った。 1:27 人々は皆驚いて、論じ合った。「これはいったいどういうことなのだ。権威ある新しい教えだ。この人が汚れた霊に命じると、その言うことを聴く。」 1:28 イエスの評判は、たちまちガリラヤ地方の隅々にまで広まった。

第2朗読  Ⅰコリント8: 1~13(新309)
8:1 偶像に供えられた肉について言えば、「我々は皆、知識を持っている」ということは確かです。ただ、知識は人を高ぶらせるが、愛は造り上げる。 8:2 自分は何か知っていると思う人がいたら、その人は、知らねばならぬことをまだ知らないのです。 8:3 しかし、神を愛する人がいれば、その人は神に知られているのです。
8:4 そこで、偶像に供えられた肉を食べることについてですが、世の中に偶像の神などはなく、また、唯一の神以外にいかなる神もいないことを、わたしたちは知っています。 8:5 現に多くの神々、多くの主がいると思われているように、たとえ天や地に神々と呼ばれるものがいても、 8:6 わたしたちにとっては、唯一の神、父である神がおられ、万物はこの神から出、わたしたちはこの神へ帰って行くのです。また、唯一の主、イエス・キリストがおられ、万物はこの主によって存在し、わたしたちもこの主によって存在しているのです。
8:7 しかし、この知識がだれにでもあるわけではありません。ある人たちは、今までの偶像になじんできた習慣にとらわれて、肉を食べる際に、それが偶像に供えられた肉だということが念頭から去らず、良心が弱いために汚されるのです。 8:8 わたしたちを神のもとに導くのは、食物ではありません。食べないからといって、何かを失うわけではなく、食べたからといって、何かを得るわけではありません。 8:9 ただ、あなたがたのこの自由な態度が、弱い人々を罪に誘うことにならないように、気をつけなさい。 8:10 知識を持っているあなたが偶像の神殿で食事の席に着いているのを、だれかが見ると、その人は弱いのに、その良心が強められて、偶像に供えられたものを食べるようにならないだろうか。 8:11 そうなると、あなたの知識によって、弱い人が滅びてしまいます。その兄弟のためにもキリストが死んでくださったのです。 8:12 このようにあなたがたが、兄弟たちに対して罪を犯し、彼らの弱い良心を傷つけるのは、キリストに対して罪を犯すことなのです。 8:13 それだから、食物のことがわたしの兄弟をつまずかせるくらいなら、兄弟をつまずかせないために、わたしは今後決して肉を口にしません。

イエス様が会堂で話した時、皆はイエス様の話し方に非常に驚きました。他のラビの先生や聖書学者の意見や説明を話しませんでした。自分の権威ではっきりと話しました。そしてその上、汚れた霊に取りつかれた男を癒して下さいました。それで『1:27 人々は皆驚いて、論じ合った。「これはいったいどういうことなのだ。権威ある新しい教えだ。この人が汚れた霊に命じると、その言うことを聴く。」』この権威はマルコの福音書の中の一つの大きいテーマです。イエス様の権威は何でしょうか。どこから来るでしょうか。私達の上にもその権威があるでしょうか。それで、今年の日曜日の説教と教えの大きなテーマの一つになります、即ち、イエス様の権威と私達とのかかわりです。

イエス様には神様の権威があったのは、御自分が神様であるからです。そして、神様は人間にも権威を与えます、即ち、福音を述べ伝えたり、御自分の民を教えたり導いたりする為の権威です。例えば、神様はモーセを呼んで権威を与えました。それで、神様の働きをする為の免許と許しがあるようで、そして、その働きをする為に、神様はモーセを支えてサポートします。それで、モーセはエジプトに下って、言葉と奇跡によって、イスラエルの民を奴隷状態から導き出しました。そして、シナイ山で、人々に神の律法を教える権威がありました。それは十戒を始め、すべての宗教の儀式的の律法と社会的の律法と掟です。それは旧約聖書の最初の5本に書かれています。この律法の目的は、勿論、犯罪をストップする為ですが、食べ物と着物などの掟には、もう一つの目的がありました。それは、イスラエルの民のアイデンテェティを造る為です。彼らは神様に捧げられた聖なる民でした。豚肉を食べない事や着物を着る方法によって、彼らは他の民族と違うと表します。彼らは特別民族でした。

イエス様は弟子達に権威を与えました。一番偉い権威とは、罪を赦す事です。これは言われている『聖務のカギ』です。このカギは罪の束縛をつけたり解いたり、天国の門を開いたり閉めたりします。又、イエス様は弟子達に聖霊を下さいました。聖霊の権威を持って、弟子達は救いの福音を述べ伝える事によって、人々を救い主であるキリストに導きました。

この権威があったので、弟子達は神様を正しく理解する事が出来、又、私達の神様との間の本当の関係を理解する事が出来ました。私達が神様につながれているのは、私達のする技によってではなくて、かえって、イエスキリストによって神様がなさった事によって神様との縁が結ばれています。ですから、私達はモーセの宗教的の儀式を守る義務がありません。それで、聖パウロは、コリントにある教会に教える事が出来たのは、彼らは、もう、モーセの食べ物についての律法を従わなくてもいい事です。偶像(ぐうぞう)に捧げられた食べ物を食べるかどうの問題についてこのように言いました、(1 コリント8:8-9)『8:8 わたしたちを神のもとに導くのは、食物ではありません。食べないからといって、何かを失うわけではなく、食べたからといって、何かを得るわけではありません。8:9 ただ、あなたがたのこの自由な態度が、弱い人々を罪に誘うことにならないように、気をつけなさい。』モーセは決してそのように言うはずがありません。モーセが言うのは、そのような食べ物は汚れいるだと言いますので、その物が決してイスラエル人に食べてはいけません。モーセが恐れたのは、その事が信仰のつまずかせるものになりますので、それを食べる一人だけの問題ではなくて、イスラエル全体を弱くする事です。

しかし、使徒パウロがこのように話す事が出来るのは、イエス様の権威があるからです。イエス様が来られて、悪魔や汚れた霊や言われた神々と偶像の力を破壊(はかい)したからです。それで聖パウロは書きました(1コリント8:4)『8:4 そこで、偶像に供えられた肉を食べることについてですが、世の中に偶像の神などはなく、また、唯一の神以外にいかなる神もいないことを、わたしたちは知っています。』

モーセの権威と使徒達の権威の違いがもう一つあります。モーセは、全世界のすべての民族と違う、他の民族から離れた特別なイスラエルの民を造りました。しかし、イエス様は使徒達にその偉大なる宣教の命令を下った時、彼らは全世界に行くように、全世界に弟子達を造るように語りました。それは福音と赦しと自由です。

現在の教会の権威は、使徒達にあったものと同じです。即ち、福音を述べ伝え、聖礼典を実行し、罪を赦す事です。それはまことの教会の真の印です。聖霊は教会にそれをする免許を下さいました。ですから、福音の自由の中で生きる許しがあります。豚肉を食べてもいいです。教会の礼拝堂に入る時頭の上に帽子やヴェルをかぶらなくてもいいです。悪霊や偶像を恐れなくてもいいです。しかし、聖パウロは、私達にある一つの大きい義務を思い起こします。即ち、隣人を愛さなければなりません。あるクリスチャンの一人の信仰がそのようなものに対してまだ弱いので、私達は彼らの信仰をダメジしてはいけません。聖パウロは、言いました、『8:13 それだから、食物のことがわたしの兄弟をつまずかせるくらいなら、兄弟をつまずかせないために、わたしは今後決して肉を口にしません。』それをする為に、聖パウロには、自由があり、愛がありました。

イエス様の権威を見て、人々は驚きました。今も教会がいろいろの事について話しますと、人々は驚きます。人々はイエス様の権威を拒否しました。同じように、教会の役割と信者達のみ言葉を話す役割を認めません。しかし、神様から与えられた権威と共に、神様から与えられた義務もあります。その義務とは、隣人を愛する事です。祈りと行動によって私達はそれをします。それは、イエス様がその汚れた霊に取りつかれた男を癒した時と同じ力強い事です。私達の業も驚くべきです!

アーメン。

マイケル・ニアフッド、牧師
沖縄ルーテル教会


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