飼い葉おけで#6、神殿で

2018年12月30日、クリスマスの日曜日

 出エジプト記13:1*3,11*15 1

3:1 主はモーセに仰せになった。 13:2 「すべての初子を聖別してわたしにささげよ。イスラエルの人々の間で初めに胎を開くものはすべて、人であれ家畜であれ、わたしのものである。《 13:3 モーセは民に言った。

13:11 主があなたと先祖に誓われたとおり、カナン人の土地にあなたを導き入れ、それをあなたに与えられるとき、 13:12 初めに胎を開くものはすべて、主にささげなければならない。あなたの家畜の初子のうち、雄はすべて主のものである。 13:13 ただし、ろばの初子の場合はすべて、小羊をもって贖わねばならない。もし、贖わない場合は、その首を折らねばならない。あなたの初子のうち、男の子の場合はすべて、贖わねばならない。 13:14 将来、あなたの子供が、『これにはどういう意味があるのですか』と尋ねるときは、こう答えなさい。『主は、力強い御手をもって我々を奴隷の家、エジプトから導き出された。 13:15 ファラオがかたくなで、我々を去らせなかったため、主はエジプトの国中の初子を、人の初子から家畜の初子まで、ことごとく撃たれた。それゆえわたしは、初めに胎を開く雄をすべて主に犠牲としてささげ、また、自分の息子のうち初子は、必ず贖うのである。』

ルカ2:22*40 

2:22 さて、モーセの律法に定められた彼らの清めの期間が過ぎたとき、両親はその子を主に献げるため、エルサレムに連れて行った。 2:23 それは主の律法に、「初めて生まれる男子は皆、主のために聖別される《と書いてあるからである。 2:24 また、主の律法に言われているとおりに、山鳩一つがいか、家鳩の雛二羽をいけにえとして献げるためであった。

2:25 そのとき、エルサレムにシメオンという人がいた。この人は正しい人で信仰があつく、イスラエルの慰められるのを待ち望み、聖霊が彼にとどまっていた。 2:26 そして、主が遣わすメシアに会うまでは決して死なない、とのお告げを聖霊から受けていた。 2:27 シメオンが“霊”に導かれて神殿の境内に入って来たとき、両親は、幼子のために律法の規定どおりにいけにえを献げようとして、イエスを連れて来た。 2:28 シメオンは幼子を腕に抱き、神をたたえて言った。

2:29 「主よ、今こそあなたは、お言葉どおり/この僕を安らかに去らせてくださいます。 2:30 わたしはこの目であなたの救いを見たからです。 2:31 これは万民のために整えてくださった救いで、 2:32 異邦人を照らす啓示の光、/あなたの民イスラエルの誉れです。《

2:33 父と母は、幼子についてこのように言われたことに驚いていた。 2:34 シメオンは彼らを祝福し、母親のマリアに言った。「御覧なさい。この子は、イスラエルの多くの人を倒したり立ち上がらせたりするためにと定められ、また、反対を受けるしるしとして定められています。 2:35 ――あなた自身も剣で心を刺し貫かれます――多くの人の心にある思いがあらわにされるためです。《

2:36 また、アシェル族のファヌエルの娘で、アンナという女預言者がいた。非常に年をとっていて、若いとき嫁いでから七年間夫と共に暮らしたが、 2:37 夫に死に別れ、八十四歳になっていた。彼女は神殿を離れず、断食したり祈ったりして、夜も昼も神に仕えていたが、 2:38 そのとき、近づいて来て神を賛美し、エルサレムの救いを待ち望んでいる人々皆に幼子のことを話した。

2:39 親子は主の律法で定められたことをみな終えたので、自分たちの町であるガリラヤのナザレに帰った。 2:40 幼子はたくましく育ち、知恵に満ち、神の恵みに包まれていた。


クリスマスの時、イエス様と出会う場所とは、ベツレヘムの飼い葉おけです。今日、イエス様と出会う場所とは、エルサレムの神殿です。シメオンという人とアンナも神殿でイエス様と出会います。生まれて40日目に、マリアとヨセフが赤ちゃんイエス様をエルサレムの神殿に連れて行きます。行く目的は、モーセの律法の二つの規定を守る為でした。一つは出産の産婦の清め(しゅっさんのさんぷのきよめ)で、もう一つは初子の奉献(ういごのほうけん)でした。

現代の社会に住むキリスト信者の私達は、その二つの儀式をよく理解する事が出来ません。罪の事が分かりますが,罪は宗教的なけがれと違います、しかし、両方ともは人を神様のみ前から遠く離れさせます。子供を生む事は罪ではありませんが、出血があるので、その母は40日間宗教的に汚れています。清める為に神殿でささげる物が必要です。そのささげる物は羊ですが、それほどのよゆうがない人に、レビ記12:8が言うように、「また、主の律法に言われているとおりに、山鳩一つがいか、家鳩の雛二羽をいけにえとして献げるためであった《(ルカ2:24)と。ちょっとfootnote フットノットですが:羊を飼うお金がなければ、博士達からの金の贈り物をまだもらってないのです。それで、クリスマス・イブではなくて、その後に博士達がベツレヘムに着きましたでしょう。ちょっとobservation 参考ですが:神様の聖なる子であるイエス様は、汚れた世の中に誕生しましたが、彼の死と復活によって私達を清めます。

その日の二つ目の儀式は、最初に生まれるものを神様にささげる儀式です。旧約聖書の出エジプト記13章でこれについて読みます。エジプトから出発の前の夜、主の御使いはエジプトの国にあるすべての最初に生まれたもの、人間の子も家畜の子も、殺しました。イスラエル人の子供が救われたのは、その子供の変わりに、一匹の羊が殺されたからです。羊の血が家の入り口の上に塗ったので、死の御使いがそれを見てその家に入らないで、その家を過ぎ越しました。それで、最初に生まれたものは神様のものです.親にはその子を神様から買い戻す義務がありました。ちょっと フットノットですが:子供を買い戻す事の聖書の言葉とは、「子供をあがなう事《です。38節で「救い《と翻訳されています。イエス様は、十字架上で流された尊い血によって、私達を悪魔から買い戻したので、イエス様は私達の「贖い主《です。ちょっとobservation 参考ですが:ヨセフはイエス様をご自分の本当の父から、すごく安い値段で買いました、山鳩一つがいでした。イエス様が私達を買う時、金や銀でではなくて、ご自分の聖なる尊い血でした。ちょっとobservation 参考ですが:現代のクリスチャンの親は、子供を神様の所に連れて来ます。洗礼によって、その子供は神様の家族に入り、三位一体の神様の吊前をもらいます。クリスチャンの親は、また、神様のみ言葉の恵みの中に子供を育てます。

神殿に行って、聖なる家族はシメオンという人と会いました。シメオンは預言者でした。聖霊は彼に話して、彼は神様の言葉を話して預言しました。彼はけいけんな人で、メシア、即ち主のキリスト、およびイスラエルの慰めを待ち望みました。「2:26 そして、主が遣わすメシアに会うまでは決して死なない、とのお告げを聖霊から受けていた《のです。それで、マリアとヨセフとイエス様が神殿に行った同じ日、「2:27 シメオンが“霊”に導かれて神殿の境内に入って来た《のです。聖霊の力によって、シメオンはイエス様を見た時、イエス様がキリストであると分かりました。イエス様の両親はその話をしなかったので、シメオンがイエス様の事を知ったので驚きました。シメオンの心が開かれて、歌を歌いました。礼拝式分の中では、これが「ヌンク・ディミティス(今こそ去ります)《と言います。聖餐式の後に又お葬式で歌います。私達はそれを歌うのは、私達も神様の救いを見ました。私達のような異邦人の為にも救いがあるので、私達に完全な平和を与えます。シメオンは一つのフットノットをつけました:この子供はイスラエルの中の多くの事を倒して、多くの人に愛され、多くの人に憎まれます。その上、マリアも悲しみます。イエス様が十字架上に殺される時、自分「自身も剣で心を刺し貫(つらぬ)かれます。《ちょっと参考ですが:イエス様が生まれた夜、羊飼い達は主の栄光の大きな光を見て、天使達の歌を聴きました、「いと高きところには栄光、神にあれ。《シメオンの歌はこのように言います、「異邦人を照らす啓示の光、/あなたの民イスラエルの誉れです。《これは救いの栄光です。十字架と復活の栄光です。又、世の最後にキリストの再臨の栄光です。

シメオンは預言者で、アンナも預言者でした。最低84歳でしたが、別の計算で105歳でした。[14歳で結婚して、7年後未亡人になって、84年間神殿の境内に住んで、105歳になります。]聖なる家族を祝福するシメオンの言葉を聞いたかもしれませんが、自分が預言者であるので、聖霊によって、シメオンの言葉が真実であると分かりました。預言者とは、神の言葉を語る人です。アンナは最初の福音伝道者になりました。「2:38 そのとき、近づいて来て神を賛美し、エルサレムの救いを待ち望んでいる人々皆に幼子のことを話した《のです。ちょっとfootnote フットノットですが:再び、「贖い」という言葉が出ます。新共同約聖書はは「エルサレムの救い《と翻訳して正しく解釈しますが、もともとは、エルサレムの贖い《です。最初に生まれたイエス様が神様から買い戻されたと同じように、エルサレムも買い戻されます。自由です。救いです。多くの人が望んだように、エルサレムがローマの支配から自由になるでしょうか?エルサレムが罪や神の律法から贖われるでしょうか。私達も、私達の最後の贖いを待ち望みます。ちょっとobservation 参考ですが:アンナがキリストと出会った時、神様に感謝しました。私達も同じにします。

マリアとヨセフの故郷はナザレでした。あそこに帰りまして、イエス様を育てました。そして、12歳の時、イエス様をエルサレムに連れて行きました。両親はイエス様が迷子になったと思って、3日間イエス様を探しました。

「2:46 三日の後、イエスが神殿の境内で学者たちの真ん中に座り、話を聞いたり質問したりしておられるのを見つけた《のです。その時、イエス様はご自分の本当の父はどなたであったと分かりまして、マリアとヨセフに言われました、「どうして私を捜したのですか。私が自分の父の家にいるのは当たり前だという事を、知らなかったのですか。《今日、私達も探せば、その所にイエス様を見つけます。御言葉と聖礼典が教会にあります。シメオンとアンナと同じようにイエス様が贖い主であると分かる教会の人々の中にいます。額と胸の上に十字架のしるしが切って、洗礼の水にかけられた私達の心の中にいます。

アーメン。

マイケル・ニアフッド、牧師
沖縄ルーテル教会


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