もしイエス様が昇天されなければ

昇天主日 2023年5月21日

今日は私達の主の昇天主日です。ニケア信条はこのように告白します:

「聖書に従い三日目によみがえり、天に上り、父の右に座したまえり。また生ける人と死にたる人とをさばくために、栄光をもって再び来たりたまわん。そのみ国は終わることなし。《

どうして主の昇天が大切か、どうしてこの日がお祝いの日かを理解する為に、今日、違う立場からそれを見たいと思います。即ち、「もしイエス様が昇天されなければ、どうなるでしょうか?《と。

先ず、もしイエス様が昇天されなければ、もし物質的にこの地上から離れて天国に行かなければ、彼の敵が再び彼を逮捕して、再び彼を十字架上で殺すでしょう。そして勿論、イエス様は再び復活します。それで敵がイエス様を探して、もう一度殺します。そして勿論イエス様はもう一度甦ります。何回もこれを繰り返すでしょう。十字架よりも、今度は頭を切るか、体を燃やして遺灰を海に散らすでしょう。しかし、それはイエス様の復活の邪魔をしません。同じように、世の終わりの時、私達の復活を妨(さまた)げるものがありません。

第二、この世の罪を赦す為に、十字架上で死ぬ一回だけの犠牲で充分です。その犠牲を再びする必要がありません。

第三、もしイエス様は何回も復活する事が出来て、人々の前に立って御自分を示したら、人々がイエス様を信じて礼拝する事になると思うでしょうが、私はそう思いません。人間は罪深くて頑固なので、真実を決して受け入れません。それでニケア信条の言う事が必要です。即ち、「また生ける人と死にたる人とをさばくために、栄光をもって再び来たりたまわん。そのみ国は終わることなし。」その時だけに、上信仰と罪が征朊されます。勿論、イエス様の何回もの復活を見たら、ある人は紊得して信じるでしょう。しかし何を見るでしょうか。ただの奇跡が出来る人でしょうか、それとも本当に救い主を見るでしょうか。見る為に、信仰は本当に大切です。私達は復活された主を見なくても、キリストを信じます。この信仰は聖霊の贈り物(送り物)です。信仰を持って、イエス様がこの世に戻る時に、私達の復活を待ち望みます。信仰によって自分の罪を知ります。又、その罪の為に私達もイエス様を十字架につけた事も知るでしょう。しかし、その信仰があるので、イエス様の死が私達に罪の赦しと命を与える事をも知ります。私達の罪が赦されて、神様に忘れられています。上信仰は、「父の右に座したまう」キリストを礼拝する信仰に変えられています。

第四、もしイエス様がまだ物質的にこの地上にいましたら、そろそろ2000年になっても、彼を殺したいと思う敵がまだまだいるでしょう。イエス様がまだ地上にいましたら、イエス様の本部はどこにあるでしょうか。お城や屋敷や神殿があるでしょうか。そして、キリストを見たいと思う礼拝者はそこに行かなければならないでしょうか。例えば、それがエルサレムでしたら、別の所に住む人々は、祈りをイエス様にささげる為にエルサレムまで行かなければならないでしょうか。そして、同じように祈ったり何かをイエス様に願ったりする人々が何百万人もの行列の後ろに何日も待たなければならないでしょうか。日本からそこに行けるでしょうか。昔の人々と違って、現代の人々はイエス様にEメールを送る事が出来るでしょうか、イエス様はその沢山のEメールに答える事が出来るでしょうか。人々は全世界に住みますので、イエス様から遠く離れているでしょう。しかし、イエス様は昇天されたので、誰からも遠く離れていません。同じように均等(きんとう)に皆の近くにいます。私達のそばに立って、私達の手を握(にぎ)って、人生の問題の時、私達を抱いて、御手の中で私達を守ります。同じように均等(きんとう)に皆の近くにいますので、私達皆の祈りを聞く事が出来ます。それが出来るのは、ニケア信条が説明します、「天に上り、父の右に座したまえり。」父なる神様の「右の手の人」です。即ち、父なる神様の御心、その意思を果たす権利と力があるからです。父なる神様の御心とは、私達を愛して、私達を赦して、救って、私達の祈りを聞いてかなえる事です。イエス様が私達の祈りに答える事が出来る事が私達は知っているので、大胆に祈ります。イエス様が私達を愛して、私達の為に一番良い事を知るので、私達の為に一番良い事のように祈りに答えると私達は知ります。

第五、もしイエス様は昇天されなければ、物質的にこの地上にいて、彼の敵が今も彼を殺そうと思いましたら、言われている地上の天国になりません。神様の国の成就ではありません。

第六、イエス様が昇天することが必要なのは、再び地上に下る為です。「また生ける人と死にたる人とをさばくために、栄光をもって再び来たりたまわん。そのみ国は終わることなし。」これはキリスト教の一番大きい教えの一つです。キリスト信者になる価値を与えます。人生に意味を与えます。希望があるからです。同時に、自分の人生の責任を取る事があると意味します。報いがあります。裁きがあります。救いも滅びもあります。すべての人間の為に、上信者の為にも、救いがあると聖書は教えません。ですから、イエス様はペンテコステの日に聖霊を送りました。それは、弟子達が全世界に福音を述べ伝える為でした。昇天する時、イエス様は弟子達にこのように言われました、使徒1:7-8、「あなたがたの上に聖霊が降ると、あなたがたは力を受ける。そして、エルサレムばかりでなく、ユダヤとサマリアの全土で、また、地の果てに至るまで、私の証人となる。」

又、ルカ24章45-49節、「そしてイエスは、聖書を悟satoらせるために彼らの心の目を開いて、言われた。「次のように書いてある。『メシアは苦しみを受け、三日目に死者の中から復活する。又、罪の赦しを得させる悔い改めが、その吊によってあらゆる国の人々に宣べ伝えられる』と。エルサレムから始めて、あなたがたはこれらの事の証人となる。私は、父が約束されたものをあなたがたに送る。」それで、今日覚えるのは、イエス様は私達にミッションを下さった事です。そのミションとは、イエス様の働きを続ける事です。イエス様の仕事とは、十字架上で死ぬ事です。私達の仕事は、イエス様のなさった事を述べ伝える事です。イエス様は私達の罪を赦す為に死にました。その赦しを広げる為にキリスト信者が生きています。この赦しがあるので、私達はイエス様の再臨を喜んで待ち望みます。信仰があれば、裁きの日は恐ろしい日ではなくて、救いの為に喜ぶ日です。教会はそれを述べ伝えます。

そして、第七は、喜びがあるのは、「そのみ国は終わることなし」だからです。その喜びは、救いのお祝いです、私達の天に昇る事を期待するからです。又、もう既に、死んで主と共にいる私達の愛する人を記念する時です。私達はこのような慰めを与える言葉を言います、「彼は死んで天国に行きました。《又、「彼女は天国の家に帰るように呼ばれました。天に招(まね)かれました。《「昇天・招天されました。《と。

祈りましょう。(主の昇天の特別の祈り)

全能の神様。御子は天に迎えられ、御前で私たちのために執り成してくださっています。全世界のための私たちの祈りを聞き、終わりの時に万物をあなたの栄光へと導いてください。あなたと聖霊とともにただ独りの神、永遠の支配者、御子、主イエス・キリストによって祈ります。 アーメン

Michael Nearhood, Pastor
Okinawa Lutheran Church


Sermon Index

マイケル・ニアフッド、牧師
沖縄ルーテル教会


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