山上の説教:怒り

2017年2月12日   顕現節第6主日

マルコ5:21-22

神の御国の中の活き方はどのような活き方でしょうか。山上の説教の中で、イエス様はこれについて語ります。今日、殺人と怒りについてのイエス様の言葉を見ましょう。

マタイ5:21 「あなたがたも聞いているとおり、昔の人は『殺すな。人を殺した者は裁きを受ける』と命じられている。5:22 しかし、わたしは言っておく。兄弟に腹を立てる者はだれでも裁きを受ける。兄弟に『ばか』と言う者は、最高法院に引き渡され、『愚か者』と言う者は、火の地獄に投げ込まれる。

皆は、どうして人を殺すのが悪いか分かるでしょう。それは他の人間の命を奪うからです。いつそれが犯罪的な殺人であるか、いつそれが法的に人を殺しても良いかについて論じ合う事が出来ます。即ち、戦争はどうでしょうか、又、自己防衛、死刑、安楽死、自殺、事故などはどうでしょうか。実は、全部が悪いのは、その状態が悪いからです。イエス様は、人を殺す事ほどの悪い事について話しました。怒りについて話しました。勿論、人殺しは犯罪で、裁かれて罰せられています。怒りと侮辱も裁かれて罰せられている犯罪であるとイエス様は言われました。

殺人の罪は、実際に物質的にその悪事をする事です。怒りは、その悪事をしたいと思う事です。侮辱は、人を苦しめ、人の魂を殺す方法です。侮辱は殺人の半分のようなものであるので、イエス様は言われました、「『愚か者』と言う者は、火の地獄に投げ込まれる。《

聖書の十戒も私達の国の法律も、社会の安全と益のために、人々の振る舞いを支配します。人は自分を正しくします。自分が人を殺した事がない、物を盗んだ事がない、いつも連れ合いに忠実にいます、裁判で嘘を言った事がない、罪の為に逮捕された事がないと言います。イエス様は、それ全部人の外面的な事であると言われます。大切なのは、心の中の事です。救いは、私達のする事ではなくて、私達の信仰によるからです。

私は、人を殺した事がありませんが、怒った事があります。皆は同じ事を言えるでしょう。イエス様は、私達の活き方について話す時、本当に真面目でしょう。どのように、怒らないで生きるでしょうか。ほとんど毎日、何かについて怒るか腹が立つでしょう。本当に怒っている時、誰かの首を締めたいと思います。もし部屋の床に突然に穴が開いて、相手がそこに落ちて、この地上から消えてしまったら、嬉しいでしょうか。その人が自分の人生の中から消えてほしいです。又、その人を罰したいと思います。げんこつで打つか、無礼な事を言ったりしたりするか、上安にさせるか、恨みをもつでしょうか。自分に出来なければ、政府になんとかしてもらいたいと思います。怒っている時、神様に祈る事もあります。神様がその人を滅ぼすように、呪うように祈ります。「地獄に行け《と言います。

イエス様は本当に真面目ですか。私達は簡単に怒ります。腹が立つ事が毎日あります。私達クリスチャンが怒るべき時があります。悪を見る時、また、罪と貧困と差別といじめと欲張りと無知と愚かな事を見る時、怒りは自然です、正しいです。もし怒りが罪でしたら、その悪を平気で無視する事も罪でしょう。イエス様御自身でさえも、神殿の中の様子を見た時怒って、商売人とお金を両変えする人を追い出して神殿を清めました。それで、正しく怒る時があるでしょう、そしてその時、正義と平和と平等の為に働くでしょう。しかし、私達の怒りが正しくても、罪を犯してはいけません。聖パウロはこの言葉を書きました、エペソ4:26「怒ることがあっても、罪を犯してはなりません。日が暮れるまで怒ったままでいてはいけません。悪魔にすきを与えてはなりません。《しかし、怒りはまだまだ、私達の為に大きな問題です。イエス様は言われました「わたしは言っておく。兄弟に腹を立てる者はだれでも裁きを受ける。兄弟に『ばか』と言う者は、最高法院に引き渡され、『愚か者』と言う者は、火の地獄に投げ込まれる。《

人を殺す事は悪いです、怒りも悪いですが、私達に取ってそれより悪いのは、神様の怒りです。神様が腹を立てると、全世界は危ないです。それは聖書のストーリです。ノアと箱舟のストーリに神様の怒りが見えます。怒って、地上からすべての生命を滅ぼそうと思いました。また、エジプトで、どのようにイスラエル人が奴隷になったかを見た時、怒りました。後で、その怒りがイスラエル人に対して、エルサレムを滅ぼし、人々をバビロニアの捕囚に連れていきました。しかし同時に、この出来事の中に、神様の絶えまない愛と憐れみと救いを見ます。ヨハネ3:16は有吊な聖句です。「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである。《このように、言葉を入れかえる事はどうでしょうか。「神は、その独り子をお与えになったほどに、世に対して怒った《と。神様はこの世の罪と悪に対して腹が立って、イエス様をこの罪深いー悪に満ちている世に送りました。しかし、怒りで滅ぼす為にではなくて、愛を持って、赦して、新しくする為でした。十字架上で、イエス様は世の憎しみと侮辱を受けました。最高法院に引き渡され、死刑にさばかれました。怒っている人はイエス様を殺しました。イエス様の死はその怒りの結果でした。

この所で、私達は自分の怒りからの解放を見つける事が出来ます。赦しがあるからです。イエス様は私達のフラストレイションが分かります。それで私達と共に、私達のそばにいます。信仰と祈りを持って、私達は自分の問題をイエス様にゆだねる事が出来ます。これは私達の平和です。

アーメン。

マイケル・ニアフッド、牧師
沖縄ルーテル教会


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