神は我々と共におられる。ハレルヤ! インマヌエル!

待降節第4主日、2010年12月19日

マタイ1:18−25
1:18 イエス・キリストの誕生の次第は次のようであった。母マリアはヨセフと婚約していたが、二人が一緒になる前に、聖霊によって身ごもっていることが明らかになった。1:19 夫ヨセフは正しい人であったので、マリアのことを表ざたにするのを望まず、ひそかに縁を切ろうと決心した。1:20 このように考えていると、主の天使が夢に現れて言った。「ダビデの子ヨセフ、恐れず妻マリアを迎え入れなさい。マリアの胎の子は聖霊によって宿ったのである。1:21 マリアは男の子を産む。その子をイエスと名付けなさい。この子は自分の民を罪から救うからである。」1:22 このすべてのことが起こったのは、主が預言者を通して言われていたことが実現するためであった。1:23 「見よ、おとめが身ごもって男の子を産む。その名はインマヌエルと呼ばれる。」この名は、「神は我々と共におられる」という意味である。1:24 ヨセフは眠りから覚めると、主の天使が命じたとおり、妻を迎え入れ、1:25 男の子が生まれるまでマリアと関係することはなかった。そして、その子をイエスと名付けた。

赤ちゃんのキリストの名前はイエス様ですが、ニックネームや肩書きは、「インマヌエル」です。「イエス様」と言う名前の意味とは、「主は救われる」で、「インマヌエル」の名前は「神は我々と共におられる」と意味します。この二つをあわせますと、主は私達と共にいる事によって私達を救うと意味します。それで全能の神様は人間として生まれ、私達人間と共に住んで、人間として生きて、死んで、甦ります。それは、私達と共にいることによって、永遠の命へ入らせるために、私達を救う為です。この現在の生涯の為にも私達と共におられます。インマヌエル。神様が私たちと共にいます。これはマタイによる福音書のテーマです。インマヌエルの降誕から始め、この福音書の一番最後の一節でイエス様は約束します。「わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる。」と。このイエス様の約束及び祝福は、私達の人生の一部ですし、私達の礼拝生活の一部になります。例えば、私達の礼拝の途中で、「おはようございます」といません。「主が共にいるように」「また、あなたと共に」と言います。「インマヌエル!」

インマヌエルの反対とは、神様が私達と共にいない事でしょう。これには二つの意味があります。

1.まず、神様が物質的に私達と共にいない事です。と言うのは、神様は遠く離れていて、宇宙のどこかにいて、私達や私達の世界に全然関心を持たない事です。この世界を創造して旅に行ってしまったみたいです。七日目に休んで、今も休んでいるみたいです。そうでしたら、神様はこの世界の動きに触れない事で、天災の嵐や洪水にも、人間の戦争や美術や愛にも、あなたと私のような人の個人の人生の中に入らない事です。そうでしたら、このような神は救いの神様ではないでしょう。私達の祈りや献金や犠牲や良い業をも見ないでしょう。それで私達はそのような神を拝まないでしょう。

インマヌエルの意味とは、神様がこの世を愛して、この世に関心をもっています。どれ程の関心かと言いますと、御自分の一人子を送る程です。それで、この子を信じる人には永遠の命があります。インマヌエルの意味とは、神様が私達を愛する事です。ですから、私達の祈りには希望があります。私達の人生の為に喜びがあります。私達の礼拝には平和があります。

2.インマヌエルの反対2つ目の意味とは、神様が私達と共(とも)にいないので、神様が私達の側、味方ではない事です。私達のチームに入っていない事です。私たちに反対するものです。私達と戦う者です。神様は私達の罪を支えません。私達の反抗的な振る舞いを認めません。私達が他の人に害を与える時、神様は私達と共にいません。私達の欲望や仕返しをするとき、私達と共にその仕返しに参加しません。私達がひそかに罪を犯す時、私達と共にいません。私達のいたずらの共謀者(きょうぼうしゃ)ではありません。実は罪深い状態にいる時、私達はインマヌエルが欲しくありません、神様が私達と共にいない方が良いと思います。何故ならば、もし神様がいましたら、そのような時に、イエス様は救い主よりも裁き主として来られるからです。私達の罪を否定します。悔い改めなさいと言われます。私達が彼と共になるように命令します。神様と共に神様のプログラムに参加しなさいと命令します。

これこそは問題です。ですからクリスマスが必要です。問題とは、人間が神様と共になる事が出来ません。自分の力で出来ません。このように言いましょう。神様が天国にいますが私達は地上にいます。それで自分の力で私達が天国に行って、神様と共にいる方法がありません。私たちには罪となまけと自己満足などがあり、私達を助ける事が出来る神様のそばから私達は迷い出でています。

それで、クリスマスが必要です。クリスマスとは、神様が私達の所に来られる事をお祝いします。イエス様が私達と共にいる為に来られます。一年中どのような事があっても私達と共にいます。良い時も悪い時も共にいますし、私達が良い事をしても悪い事をしても、私達と共にいます。いつも私達と共にいるように約束しました。ですから、私達が良い人で教会の中にいる時だけではなくて、私達が罪人でいる時にも私達と共にいます。私達が罪を犯している最中にも、イエス様が私達と共にいます。それで、自分がその罪の為に悩み苦しんでいる時に、私達を赦す為に、慰める為に、力を与える為にイエス様がいます。悪魔やこの世のもので誘惑に落ちいっても、悪より救い出す為にイエス様がいます。自分の苦しみや悲しみの十字架を背負っている時にも、イエス様が御自分の十字架を背負って私達のそばにいます。十字架上にいる時、イエス様が私達と共にいました。又、甦った時にも、私達と共にいました。ですから、私達が復活する時にもイエス様が共にいます。

これはクリスマスのメッセージです。インマヌエルです。神様が我々と共にいる事です。それを表すもう一つの表現とは、「愛」です。私達は私達の愛する人と共に、一緒にいたいと思います。それで、その愛を表す為に、自分の時間とギフトを

分かち合います。その人と共にいるように特別なイベントも作ります。神様はすべての人々と共にいたいと思います。それで、クリスマスの愛の良い知らせを述べ伝えます。救いはすべての人々の為です。何故ならば、ヨハネ3:16が言うようです。「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである。」

アーメン。 主、汝らと共にいまさんことを。(主、汝の霊と共にいまさんことを。)

人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安が、あなた方の心と思いとを、キリスト・イエスにあって守るように。アーメン。

マイケル・ニアフッド牧師
沖縄ルーテル教会


Home Index Page ホーム