ホサナ!

待降節第一主日 B
マルコ1:1−11

イエス様はエルサレムに入城した時、群衆は、「ホサナ!」と叫びました。「ホサナ!」と言うのへブル語の聖書の言葉の意味とは、「今、救い出して下さい」です。元々は「神様、今私達を助けて下さい」と言う祈りでしたが、神様が確かに救い出して下さる信仰の叫びになりました。それで、「神様は誠に救い出して下さる」と言う誉める言葉になりました。この意味では、「主を褒め讃え!ハレルヤ!」と同じようになりました。このホサナと言う言葉は、救い主のメシアを待ち望む人々の為に、希望で満ちている言葉で した。ロバに乗ってエルサレム入城するイエス様を見た時、人々がこの  イエス様がメシアである希望で満たされました。もう、彼を自分たちの王様にする気持があったので、この日のホサナの言葉は、「王様 万歳」と同じでした。「万歳」と叫ぶ時、人々は手を空に上げます。旗が有れば、振れるでしょう、ハンガチはどうでしょうか、花は、又、その時代の習慣で、木の枝、特に、しゅろの枝が良いでしょう。イエス様に万歳!救い主、万歳! ホサナ!アーメン!

今日は待降節第一主日ですが、今日の福音書は、受難節、イエス様が十字架上で死んだ一週間前です。待降節の時、私達はクリスマスを待ち望み、イエス様の誕生を望みます。彼の死を待ち望みません。ですから、この福音書の日課は、適当ではないようです。受難節ではないので、イエス様の死ではなくて、彼の降誕をお祝いしたいと思います、悲しくなりたくないで、嬉しくなりたいと思います。でも、実は、イエス様がどうしてこの地上に 生まれたか理解する為に、この箇所はとっともふさわしいです。イエス様が生まれたのは、私達がお互いにクリスマスプレゼントを交換する為にではなくて、私達が一番大きな贈り物、即ち、救いと永遠の命をいただく為です。そして、神様がその恵みを下さる方法は、彼の御子、イエス・キリストが 私達の罪の為に死ななければなりません。それがなる為に、神様はイエス様の形で、人間としてこの世に来られました。この人間の形でイエス様は十字架上で、罪を赦す犠牲として死にました。そして、そのいけにえが効果的であった証拠として、3日目にイエス様が甦りました。その復活には、神様の和解と平和が有りますので、永遠の命が有ります。ハレルヤ!ホサナ!

これは待降節のホサナです。この世に来られるイエス様を見ます。 でも、馬小屋で生まれた子について喜ぶ前に、この子がどうなるかについて喜ばなければなりません。自分の救い主と王様としてイエス様を受け入れる事が出来ましたら、まぶねのイエス様をただの小さな赤ちゃんとしてより 偉大なる者として受け入れる事が出来ます。この子に、神の子を見る事が 出来ます。これは希望のホサナです:この子が私達に神様のすべての祝福を与える希望です。この希望が主なる神様に有るので、確かなものです。この希望は平和と慰めと喜びと歌を与えます。その歌とは、「いと高き所に、 ホサナ」と唱えます。イエス様が生まれた時、クリスマスの天使は歌いました、「いと高きところでは、神に栄光があるように、地の上では、み心に かなう人々に平和があるように。」しゅろ日曜日の歌でも歌っても良かったでしょう、「いと高き所に、ホサナ。地の上では、み心に かなう人々に平和があるように。」

ホサナは来kitaる王様の為の挨拶です。王なるキリストはこの世に生まれる為にベツレヘムに来ました、死んで甦る為にエルサレムに来ました、そして永遠の救いを私達に与える為に世の終わりに来ます。私達が歌うホサナは、イエス様が早く再び来る為の祈りです。主の祈りの中で、「御国を来たらせ たまえ」と言います。これは、神様が「今救い出すように」と言う祈りです。「御こころの天になるごとく、地にもなさせたまえ」と言う祈りです。  天使が歌った地上の平和が成るように祈ります。ホサナは希望の言葉です、ですから、キリスト信者達は楽観的な人々です。神様は約束を与えましたので、それを果たす為に待ち望みます。ホサナは助けと救いの為の祈りであるので、キリスト信者達は祈りを絶えず続けます。自分自身の為にや他の人の為にや全世界の為にも祈ります。その救い主は来ます、再び来ます!

ホサナはパレードの言葉です、祭りの言葉です!人々はエルサレムの道のそばに立って、イエス様にホサナと叫びました。静かな傍観者ではなくて、参加者として、イエス様の前後に行って枝を振りました。そして、そのパレード、その行列はどこまで行ったでしょうか。神殿でした。もし私達がイエス様に従ったら、私達もいつも神殿に至ります。イエス様に従う人は、弟子や信者や会員と言います。私達の旅は神殿で終わります、そこでイエス様を祭司としても犠牲としても見ますし、そこで祈ったり礼拝したりします。受難週に、イエス様はもう一つの行列に加えられました、今度は、十字架 なる神殿まででした。私達はそこまでイエス様に従って行きます。主よ、 私達を助けて下さい!そして、十字架上から、イエス様は本当に私達を助け、救います。御自分の手を上げて、釘で十字架に付けられて、父に手を上げて私達の為に祈って下さいました。私達がイエス様に従って生きる時、私達も自分の手を上げます、それは、イエス様のように十字架上で死ぬ為ではなくて、父なる神様に祈る為です。又、救いの良い知らせを他の人にもって行くために手を上げます。

ボランティアが頼まれた時、私達は手を上げて「私はします。私を 行かせて下さい」と言います。子供達に「誰がアイスクリムが欲しかい」と聞きましたら、片手を高く上げて「僕だ」と言います。そして、自分を  目出す為に、両手を上げて振れて、「僕だ、僕だ」と言うでしょう。もし「誰がクリスチャンか」と聞くんでしたら、あなたの手をどのぐらい高く するでしょうか?高く指してホサナと叫んで、ハレルヤ!アーメン!と、 テロイストに鉄砲で打たれるかも知れませんが、イエス様の経験と同じです!

日曜日の礼拝の中で聖餐式を行う時、聖餐式の式文には、もう2000年ぐらい前から歌われた歌が有ります、「聖なる聖なる聖なるかな、万軍の主なる神、主の栄光天地にみつ、いと高き所にホサナ。主の御名によりてきたるものに恵みあれ、いと高き所にホサナ。」聖餐式に特別の形で来られる私達の主に挨拶します。聖餐式には、そのパンと杯の中、下、共に、  イエス様の誠の臨在、その誠の血と体が有りますので、キリストが私達に 来られます。自分の心の中にも、自分の人生の中にも彼を受け入れます。 彼は救いと罪の赦しをもって来られます。私達のホサナは私達の信仰と希望を現します。その時、式文の言葉のように、「心を上げて主をあおきます」と自分の手も上げます。自然の事ですが、我々ルーテル教会の人々があんまりそうしようと思いません、何か適当ではないかなと感じます。貴方は、 ペンテコステ派の教会の礼拝に参加して、又、見た事がありますか。人々は賛美と祈りに手を上げます。聖霊によって満たされていると言います。  この同じ聖霊は今日私達を満たされます、ホサナを言う事が出来る信仰を 与えます。私達はジェスチャーでそれを現したくないかも知れませんが、 よろしければ、やってみて下さい、楽しいかも知れません。小さなホサナ、このように -- v -- 又は、大きなホサナ、このように -- V --。隣の人の手にぶつかるかも知れません、自分のしゅろの枝はその人の顔に当たるかも知れませんが、大丈夫でしょう!良いルーテル教会の会員は、聖霊に満ちているイエス様に従う弟子です。ホサナをもって従って、祈りをもって従って、 神殿まで、十字架まで、空っぽのお墓まで、人生の全部は主に従って生きる事です。ある時、手を組んで頭を下がって深く祈ります、ある時、喜びを もって頭を上げ、心を上げ、手を上げます。

ホサナは良い言葉です!「今、救いたまえ」と意味します。「今で さえも救って下さいます」と意味します。「今の救いと永遠の救いの為に、主に感謝して褒め讃えます!」と意味します。

アーメン!ホサナ!

マイケル・ニアフッド
沖縄ルーテル教会牧師


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