アダムの愛の歌

2015年10月4日

マルコ 10:2-12
10:2 ファリサイ派の人々が近寄って、「夫が妻を離縁することは、律法に適っているでしょうか」と尋ねた。イエスを試そうとしたのである。
10:3 イエスは、「モーセはあなたたちに何と命じたか」と問い返された。
10:4 彼らは、「モーセは、離縁状を書いて離縁することを許しました」と言った。
10:5 イエスは言われた。「あなたたちの心が頑固なので、このような掟をモーセは書いたのだ。10:6 しかし、天地創造の初めから、神は人を男と女とにお造りになった。10:7 それゆえ、人は父母を離れてその妻と結ばれ、10:8 二人は一体となる。だから二人はもはや別々ではなく、一体である。10:9 従って、神が結び合わせてくださったものを、人は離してはならない。」
10:10 家に戻ってから、弟子たちがまたこのことについて尋ねた。10:11 イエスは言われた。「妻を離縁して他の女を妻にする者は、妻に対して姦通の罪を犯すことになる。10:12 夫を離縁して他の男を夫にする者も、姦通の罪を犯すことになる。」
創世記
2:18 主なる神は言われた。「人が独りでいるのは良くない。彼に合う助ける者を造ろう。」 2:19 主なる神は、野のあらゆる獣、空のあらゆる鳥を土で形づくり、人のところへ持って来て、人がそれぞれをどう呼ぶか見ておられた。人が呼ぶと、それはすべて、生き物の名となった。 2:20 人はあらゆる家畜、空の鳥、野のあらゆる獣に名を付けたが、自分に合う助ける者は見つけることができなかった。 2:21 主なる神はそこで、人を深い眠りに落とされた。人が眠り込むと、あばら骨の一部を抜き取り、その跡を肉でふさがれた。 2:22 そして、人から抜き取ったあばら骨で女を造り上げられた。主なる神が彼女を人のところへ連れて来られると、 2:23 人は言った。
「ついに、これこそ/わたしの骨の骨/
わたしの肉の肉。
これをこそ、女(イシャー)と呼ぼう/
まさに、男(イシュ)から取られたものだから。」
2:24 こういうわけで、男は父母を離れて女と結ばれ、二人は一体となる。 2:25 人と妻は二人とも裸であったが、恥ずかしがりはしなかった。

アダムには大きな仕事がありました。エデンの園の管理でした。一人で、手伝うものがいませんでした。動物がいましたが、出来る事が限られていました。例えば、猿以外には、手がありませんでしたので、彼らには、庭の仕事の為の道具を使う事が出来ませんでした。それで、創世記2:20が言います、「自分に合う助ける者は見つけることができなかった」と。神様はアダムの淋しさと弱さを見ました。それで、神様はアダムの一本のあばら骨を取って、彼の為に女の人をお造りになりました。エバを見る時、アダムは大喜びしました。自分の為に完全な者でした。皆さん、自分の聖書で、アダムの最初の言葉の印刷の形を見たら、短い行で、詩のように書かれています。そうです、詩の形でアダムは自分の喜びを現しました。それは最初の愛の歌でした。


「ついに、これこそ/わたしの骨の骨/
わたしの肉の肉。
これをこそ、女(イシャー)と呼ぼう/
まさに、男(イシュ)から取られたものだから。」

アダムはもう寂しくない、弱い者ではありせんでした。神様は彼らを祝福しました。創世記2:24、「2:24 こういうわけで、男は父母を離れて女と結ばれ、二人は一体となる。2:25 人と妻は二人とも裸であったが、恥ずかしがりはしなかった。」後で、イエス様はこのように言われました、「10:6 しかし、天地創造の初めから、神は人を男と女とにお造りになった。10:7 それゆえ、人は父母を離れてその妻と結ばれ、10:8 二人は一体となる。だから二人はもはや別々ではなく、一体である。10:9 従って、神が結び合わせてくださったものを、人は離してはならない。」」

アダムとエバには、ほとんどすべての結婚生活の中にあるように、問題がありました。蛇にこころみられて罪に陥りました。カインは兄弟アベルを殺す時、その家族のわが破られました。しかし、二人はずっと一緒(いっしょ)でした。しかし、モーセの時代になりますと、罪や自己中心の思いなどの理由で、人は離婚したいと思いました。モーセは離婚が良い事だと決して言いませんでした。イエス様はモーセの律法をこのように説明しました、「あなたたちの心が頑固(がんこ)なので、このような掟をモーセは書いたのだ。」言い換えますと、人々の心と頭が頑固なので、法律的なコントロールが必要でした。これは、申命記24:1-4に書かれています。ファリサイ派の人々はその箇所をこのように要約しました:「モーセは、離縁状を書いて離縁することを許しました」と(マルコ10:4)。これは、その女の人を守る為にでした。例えば、嫁入り時の持参金を返す事などです。モーセは再婚を許しました。

後で、旧約聖書には、特にホセアの預言書には、主なる神様とイスラエルの民の関係を結婚に例えられていました。神様はイスラエルに対して誠実でしたが、イスラエルは、姦淫するように、ほかの神々に行きました。しかし、それなのに、神様は忠実で、イスラエルに手を伸ばして、悔い改めと赦しとを再び受け入れるように言われます。

新約聖書に行きますと、イエス様が花婿で、教会が花嫁のような絵があります。バプテスマによって、私達は神様の家族に入ります。この幸せな家族です。又、天国が喜びに溢れている結婚の披露宴のように描かれています。

しかし、今、この地上では、家族の争いや結婚と離婚があります。離婚がなくても、ある結婚した人は、淋しくて弱いアダムのように感じます。結婚していない人に必要なのは、健康的な交際、愛、約束と助けです。淋しさは悲しいです。力がない、誰も助けてくれない、希望がないように感じます。どうしたら良いか分からない時、ある人は自殺を考えます、ある人は他の人に対する暴力を考えます。

神様は私達の状態を御存知です。十字架上のイエス様は叫びました、「わが神、わが神、なぜ私をお見捨てになったのですか」と。“なぜ私が独りにになったのですか。なぜ天使が私を救う為に来ないのですか”と。しかし、イエス様はその答えを知りました。それは神様のみこここだからです。この為に産まれました。クリスマスの話しははっきりします。イエス・キリストは人間として生まれました。アダムには必要なのは、自分のような手伝いと仲間でした。私達も同じです。私達との完全な親しい関係を造る為に、イエス様は肉と骨と血がある体を取る事が必要でした。ですから私達の罪がイエス様の上に置かれる事が出来ました。ですから彼の復活と永遠の命が私達の上になる事が出来ます。それで、ちょっと言葉を換えて、私達はアダムの歌を歌います:


「ついに、これこそ/わたしの骨の骨/
わたしの肉の肉。
これをこそ、イエスと呼ぼう/
まさに、私達の罪を私達から取られたものだから。」

現代のアダムとエバ達は、これをお祝いする多くの讃美歌を書きました。ある歌は、私達が寂しいや弱いと感じる時にも、イエス様が私達と共にいますので、私達の祈りを聞いて、私達を導いて下さいます。それで、多くの人々は「いつくしみ深き友なるイエスは」又「Amazing Grace」などが好きです。そして、私達はイエス・キリストによる神様の愛を知るので、力が与えられていますので、私達の心に近い人に分かち合う事が出来ます。キリストの愛と赦しがありますので、自分の家族を愛して赦す許可と力があります。

今は2015年で、今朝、二つの事について話さなければなりません。最初の問題点は、ファリサイ派の人々がイエス様に聞いた質問と同じです。「夫が妻を離縁することは、律法に適っているでしょうか」と(10:2)。イエス様は離婚が好きではありませんでした。又、再婚が一夫多妻(いっぷたさい)のように考えてみたいです。しかし、私達はどうしますか。心が堅い、頭が頑固な時代、この世に住むからです。モーセには同じ問題がありました。モーセは律法によって答えましたが、私達は福音によって答えなめればなりません。罪を決して大目に見ないで、争いや離婚の理由の悲劇を決して軽くしないで、私達の応答には、愛と赦しと忍耐と理解と同情と助けがあります。再婚になりますと、私の個人的な思いですが、人の淋しさと必要性を考えて、創世記2章の神様の言葉を覚えたら良いでしょう、「2:18 主なる神は言われた。「人が独りでいるのは良くない。彼に合う助ける者を造ろう。」」

そして、2015年の今日話すトピックのもう一つとは、「同姓結婚」です。私は言葉を大事にする英語の先生であるので、「同姓結婚」と言う表現がおかしいと思います。「結婚」とは二つの正反対のものを結ぶ事だからです。又は、結婚の役割は、以前関係のない二人を家族にする事です。この世には多くの淋しい人がいます。その淋しさと弱さを乗り越えたい気持ちを理解する事が出来ると思います。家族は大切です。特別な良い友達の兄弟や姉妹になりたいと思う気持ちが分かると思います。私達は「同姓結婚」やゲイの生活振りを認めなくても良いですが、それが許されている社会に住んでいます。先に言いましたように、この問題に対する応答とは、愛と赦しと忍耐と理解と同情と友情と助けです。言い換えます、私達はクリスチャンとして生きるのです。

どうか、神様が私達のすべての家族を祝福して下さるように祈ります。   アーメン。

マイケル・ニアフッド、牧師
沖縄ルーテル教会


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