ヨハネ3:16は信仰告白のようです

受難節第2主日、2014年3月16日

 

ヨハネ 3:1 さて、ファリサイ派に属する、ニコデモという人がいた。ユダヤ人たちの議員であった。3:2 ある夜、イエスのもとに来て言った。「ラビ、わたしどもは、あなたが神のもとから来られた教師であることを知っています。神が共におられるのでなければ、あなたのなさるようなしるしを、だれも行うことはできないからです。」
3:3 イエスは答えて言われた。「はっきり言っておく。人は、新たに生まれなければ、神の国を見ることはできない。」
3:4 ニコデモは言った。「年をとった者が、どうして生まれることができましょう。もう一度母親の胎内に入って生まれることができるでしょうか。」
3:5 イエスはお答えになった。「はっきり言っておく。だれでも水と霊とによって生まれなければ、神の国に入ることはできない。3:6 肉から生まれたものは肉である。霊から生まれたものは霊である。3:7 『あなたがたは新たに生まれねばならない』とあなたに言ったことに、驚いてはならない。3:8 風は思いのままに吹く。あなたはその音を聞いても、それがどこから来て、どこへ行くかを知らない。霊から生まれた者も皆そのとおりである。」
3:9 するとニコデモは、「どうして、そんなことがありえましょうか」と言った。
3:10 イエスは答えて言われた。「あなたはイスラエルの教師でありながら、こんなことが分からないのか。3:11 はっきり言っておく。わたしたちは知っていることを語り、見たことを証ししているのに、あなたがたはわたしたちの証しを受け入れない。3:12 わたしが地上のことを話しても信じないとすれば、天上のことを話したところで、どうして信じるだろう。3:13 天から降って来た者、すなわち人の子のほかには、天に上った者はだれもいない。3:14 そして、モーセが荒れ野で蛇を上げたように、人の子も上げられねばならない。3:15 それは、信じる者が皆、人の子によって永遠の命を得るためである。
3:16 神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである。3:17 神が御子を世に遣わされたのは、世を裁くためではなく、御子によって世が救われるためである。

信条使徒
  われは天地の造り主、全能の父なる神を信ず。
  われはそのひとり子、われらの主イエス・キリストを信ず。主は聖霊によりて宿り、おとめマリヤより生まれ、ポンテオ・ピラトのもとに苦しみを受け、十字架につけられ、死にて葬られ、陰府(よみ)に下り、三日目に死人のうちよりよみがえり、天に上り、全能の父なる神の右に座したまえり。かしこより来たりまいて、生ける人と死にたる人を、裁きたまわん。
  われは聖霊を信ず。また聖なるキリスト教会・聖徒の交わり、罪のゆるし、からだのよみがえり、限りなきいのちを信ず。

  アーメン。




ヨハネ3:16は愛された聖句です。短くて解り安いキリスト教の信仰の要約であるからです。使徒信条のような短い信仰告白のようです。その二つを比べましょう。

ヨハネ3:16 神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである。

信条使徒

  われは天地の造り主、全能の父なる神を信ず。
  われはそのひとり子、われらの主イエス・キリストを信ず。主は聖霊によりて宿り、おとめマリヤより生まれ、ポンテオ・ピラトのもとに苦しみを受け、十字架につけられ、死にて葬られ、陰府(よみ)に下り、三日目に死人のうちよりよみがえり、天に上り、全能の父なる神の右に座したまえり。かしこより来たりまいて、生ける人と死にたる人を、裁きたまわん。
  われは聖霊を信ず。また聖なるキリスト教会・聖徒の交わり、罪のゆるし、からだのよみがえり、限りなきいのちを信ず。

  アーメン。

 

神は、世を愛された。われは天地の造り主、全能の父なる神を信ず。

神様は御自分の創造された世を愛します。

神は、その独り子をお与えになった。われはそのひとり子、われらの主イエス・キリストを信ず。

その独り子をお与えになった。愛された子を愛された世に与えました。この子は:聖霊によりて宿り、おとめマリヤより生まれ、ポンテオ・ピラトのもとに苦しみを受け、十字架につけられ、死にて葬られ、陰府(よみ)に下り、三日目に死人のうちよりよみがえりました。「与えた」と言う言葉の意味とは、父なる神様は、贈り物として、犠牲になる為にこの世に送った事です。それは、この世を救う為に、イエス様が御自分の「命を与える」為です。

独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである。聖霊の働きとは、御言葉と聖礼典によって、福音のメッセージを人々の心に述べ伝える事です。そして、私達がイエス様を自分の救い主として信じる時、私達は聖なるキリスト教会・聖徒の交わりに加えられて、罪がゆるされています。滅びないで、からだよみがえらされて、限りなきいのちを得ます。アーメン。

こうして、使徒信条が完全に短いヨハネ3:16に加えられています。

 

テレビで見ましたが、バスケットボールのゲームの見物客の一人は、大きな札を高く上げました。そこに『ヨハネ3:16』と書かれました。又、ある人は腕に刺青がありました:『ヨハネ3:16』と。その時、その人は自分の信仰を告白します。自分がキリスト信者で、そして、公に、クリスチャンとして自分の人生を送ろうと言います。信仰を始め、キリスト教の道徳、希望、愛、隣人の愛、慈愛、そして、キリストが自分の救い主であるので、その喜びと 感謝を持つ けんそん的なプライドです。

もしアメリカ人が「1776年」と掛かれた大きな札を高く上げましたら、自分の国への忠誠を宣言します。又、1776年にアメリカがイギリスからの自由を宣言しました。それで、そのような札を上げる人は、自分の人生をその自由によって生きるようにすると言います。即ち、自分の自由、他の人の自由、他の人の自由の為に戦う事、又、すべての圧迫といじめを反対する事です。それがどこにあってもそうです、学校を始め、仕事、上司、会社、政府もそうです。「1776年」とは、その人の希望、道徳、慈善、その喜びと 感謝を持つ けんそん的なプライドです。

日本では、どうでしょうか?日の丸の旗を振る事でしょうか、伝統的な着物を着るでしょうか、日本の食物を食べる事などでしょうか。愛国、国のプライド、自分の国の精神、その魂によって活きる事でしょう。信仰告白のようでしょうか。

しかし、そのような確信と堅信は自然ではありません。経験と信頼によって来ます。特に、キリスト教の信仰はそうです。ある人は簡単に信条やヨハネ3:16を受け入れて、簡単に喜びで溢れる信仰に入ります。しかし、他の人は、教会の教えと格闘して、数年後、納得して、信仰を告白します。そのような人の一人はニコデモと言う人でした。他の人の考えを恐れましたので、夜、密かにイエス様の所に行きました。ニコデモはイエス様に多くの事を聞きたいと思いました。

ニコデモとはどなたでしょうか。実は、あなたと私と同じような人でした。又、イエス様の事を知りたいすべての人のようです。私達はニコデモのように直接にイエス様に聞く事が出来ないので、私達は牧師に聞いたり、教会学校の先生に聞いたり、聖書の辞典で調べます。ある答えは解りにくいです。その単語が解っても、その文法が解っても、まだ解らない時があります。その時、私達はニコデモのようです。彼は真面目に理解したいと思いました。ヨハネ3:4、ニコデモは言った。「年をとった者が、どうして生まれることができましょう。もう一度母親の胎内に入って生まれることができるでしょうか。」9節、「どうして、そんなことがありえましょうか」と言いました。私はニコデモが好きです。恐れないで、解らない事の説明を聞きました。彼は真理を知りたい、救いについて知りたいと思いました。しかし、解りにくいでした。何故か、彼は世俗的な事を考えたからです。しかし、イエス様は霊的な事について話したのです。神の国、霊的な生まれ変わり、洗礼、信仰、又聖霊について話しました。このような事を解るのが難しいです。いや、分かるのが不可能です。イエス様は言われました。3節、「はっきり言っておく。人は、新たに生まれなければ、神の国を見ることはできない。」。5&6節、「はっきり言っておく。だれでも水と霊とによって生まれなければ、神の国に入ることはできない。3:6 肉から生まれたものは肉である。霊から生まれたものは霊である。」

言い換えますと、人の心に聖霊がなければ、聖霊を理解する事が出来ません。人がこの世に住めば、世俗的な事しか理解する事が出来ません。天国を理解する為に、天からの生まれ変わりが必要です。心から信じる為に、神様が自分の心の中にいなければなりません。それは聖霊の働きです。

聖霊の働きがなければ、イエス様を信じて永遠の命を得る事が出来ません。聖霊は雷で人に当たって信仰を与えません。聖霊は、御言葉の述べ伝える事と聖礼典を通して働きます。聖書の物語の言葉を通して働きます。十字架に上げられたイエス様を見せます。それが神様の愛であると見ます。十字架によって私達は神様の愛を見ます。

神様は二つの愛に引っ張られていました。先ず、神様はこの世を愛します。あなたと私を愛します。私達人間が父親の愛が分かります。子供が悪い事をしても、父親は自分の子供を愛し続ける事が出来ます。父親の目的とは、自分の子供達を育てる事です。それで、その子供が親の愛を返して、家族の皆を愛する事です。この世は神様の家族です。私達を愛して下さいます。しかし、この世を愛する愛と御自分の愛する独り子に対する愛に引っ張られていました。勿論、父なる神様の御計画通りに、イエス様が3日目に甦りました。しかし、そのお墓の中にいる時がつらいでしたと思います。十字上でイエス様は叫びました、「わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか」と。子供が父親にこのよう言うでしょう、「お父さん、あなたの独りの息子である僕より、その罪深い人々を愛するのですか?」ここで、イエス様の苦しみと神様の悲しみが見えるでしょう。

しかし、神様はこの世をイエス様より愛しませんで、イエス様と同じように愛して下さいました。その愛で、イエス様を三日目に死人のうちよりよみがえらせました。この同じ愛で、世の最後の時、私達をも甦らせます。滅びないで、永遠の命を得るためである。

聖霊が私達を新しく産まれさせますと、私達は神様の愛を見ます。その愛を見る時、私達には永遠の命があります。イエス様が自分のすくい主であると信じます。私達の罪を赦す為にイエス様が十字架上で死んで下さったと信じます。

ニコデモには、私達と同じように多くの質問がありました。天国で直接にイエス様に聞くまで、その答えが分からないものがあります。その時を楽しみにします。しかし、今もう、この世の一番大きい問題の答えを知ります。その問題とは、この世の憎しみと罪です。その答えとは、ヨハネ3:16にあります。「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである。
アーメン。

マイケル・ニアフッド、牧師
沖縄ルーテル教会


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