二つの信仰:

「信じます。信仰のないわたしをお助けください。」

2009913日聖霊降臨後第15主日

マルコ9:14−29
9:14 一同がほかの弟子たちのところに来てみると、彼らは大勢の群衆に取り囲まれて、律法学者たちと議論していた。9:15 群衆は皆、イエスを見つけて非常に驚き、駆け寄って来て挨拶した。
9:16 イエスが、「何を議論しているのか」とお尋ねになると、
9:17 群衆の中のある者が答えた。「先生、息子をおそばに連れて参りました。この子は霊に取りつかれて、ものが言えません。9:18 霊がこの子に取りつくと、所かまわず地面に引き倒すのです。すると、この子は口から泡を出し、歯ぎしりして体をこわばらせてしまいます。この霊を追い出してくださるようにお弟子たちに申しましたが、できませんでした。」
9:19 イエスはお答えになった。「なんと信仰のない時代なのか。いつまでわたしはあなたがたと共にいられようか。いつまで、あなたがたに我慢しなければならないのか。その子をわたしのところに連れて来なさい。」

9:20 人々は息子をイエスのところに連れて来た。霊は、イエスを見ると、すぐにその子を引きつけさせた。その子は地面に倒れ、転び回って泡を吹いた。
9:21 イエスは父親に、「このようになったのは、いつごろからか」とお尋ねになった。

父親は言った。「幼い時からです。9:22 霊は息子を殺そうとして、もう何度も火の中や水の中に投げ込みました。おできになるなら、わたしどもを憐れんでお助けください。」

9:23 イエスは言われた。「『できれば』と言うか。信じる者には何でもできる。」

9:24 その子の父親はすぐに叫んだ。「信じます。信仰のないわたしをお助けください。」

9:25 イエスは、群衆が走り寄って来るのを見ると、汚れた霊をお叱りになった。「ものも言わせず、耳も聞こえさせない霊、わたしの命令だ。この子から出て行け。二度とこの子の中に入るな。」
9:26 すると、霊は叫び声をあげ、ひどく引きつけさせて出て行った。その子は死んだようになったので、多くの者が、「死んでしまった」と言った。9:27 しかし、イエスが手を取って起こされると、立ち上がった。
9:28 イエスが家の中に入られると、弟子たちはひそかに、「なぜ、わたしたちはあの霊を追い出せなかったのでしょうか」と尋ねた。

9:29 イエスは、「この種のものは、祈りによらなければ決して追い出すことはできないのだ」と言われた。

イエス様は多くの人々を癒して下さいました。病気の人を癒したら奇跡でした。同じように、魂の病気の人を癒したら、それも奇跡です。信仰上の問題を持つ人をも癒したいとイエス様は思いました。

マルコ9章の癒しの話しがあります。(マタイ17:15)男の子はてんかんでひどく苦しんでいます。又、その子は話す事が出来ませんでした。そのお父さんは彼の子供をイエス様の弟子達がいる所に連れて来て、癒して下さいとお願いしました。しかし弟子達はその子から悪霊を追い出す事が出来ませんでした。最後にイエス様はその子を癒して下さいますが、その前に、イエス様は弟子達やそのお父さんにあった問題を治さなければなりません。彼らの信仰を直す必要がありました。それで汚れた霊に取り付かれた子の話しは、信仰についての話しになります。

この福音書の箇所からの言葉を聞いて下さい。

9:19 イエスはお答えになった。「なんと信仰のない時代なのか。いつまでわたしはあなたがたと共にいられようか。いつまで、あなたがたに我慢しなければならないのか。その子をわたしのところに連れて来なさい。」

9:23 イエスは言われた。「『できれば』と言うか。信じる者には何でもできる。」

9:24 その子の父親はすぐに叫んだ。「信じます。信仰のないわたしをお助けください。」

このお父さんの言葉は忘れる事が出来ない言葉です。「信じます。信仰のないわたしをお助けください。」この言葉は私にとって分かりにくいでした。信仰があるのに、どうして同時に不信仰でありえるのでしょうか。弟子達がイエス様を信じているそのとき、同時に信仰のない者でありえるのでしょうか。しかしこのお父さんの言葉と同じ言葉が、もっと強い信仰の為に祈る時に使われています。もう既に神様を信じる人は「神様、私に信仰を下さい」と祈ります。矛盾しているみたいです。それで私はこのように理解します。

信仰と言う言葉には2つの異なった使い方があるでしょう。救う信仰と生きる信仰です。私達を救う信仰があり、そして、その信仰の力によって生きる信仰、即ち、その信仰を生かす信仰です。救う信仰はランプの電気スイッチのようです。ただスイッチが入っているか入っていないかと言う事です。半分の選択がありません。救われているか滅びに定められているかと言う事です。しかし生きる信仰は電気の加減抵抗器のようです。ラジオの音量のコントロールのようです。この信仰は明るくなったり暗くなったりします。強くなったり弱くなったりします。山を動かす事が出来たり、ただ動かす事を希望したりします。しかし救いの信仰は完全なものです。

救いの信仰は神様の存在を認めます。イエス様が救い主であり、自分個人の救い主と信じます。この救いの信仰は実は聖霊の働きです。聖霊は神様の御言葉によってこの信仰を私達に下さいます。ですから私達を救う力があります。この信仰はマルチン・ルターの小教理問答書の使徒信条の第3条の説明にあります。

問: これはどんな意味ですか?
答: 私は、自分の理性や能力によっては、私の主イエス・キリストを信じることも、みもとに来ることもできないことを信じます。けれども聖霊が、福音によって私を召し、その賜物をもって私を照らし、まことの信仰のうちに私をきよめ、支えてくださることを信じます。

キリスト信者の為に、これは最高の慰めです。ある時、私達の信仰が弱いように感じます。自分が本当に救われているかどうか心配します。しかし本当に救われています。救われたのは十字架上のイエス様の働きによってです。私達の罪はその働きを無駄にする事が出来ません。私達の弱い信仰はそれを無駄にする事が出来ません。何も私達をキリストイエスによる神様の愛から離す事が出来ません。

しかし、私達の毎日の生活の中で信仰を生かす時、キリストを信じる信仰によって人生を送りますと、自分の信仰が強くなりまた弱くなりみたいです。今日の福音書の日課のお父さんのように問題がある時、私達も祈ります。「信じます。信仰のないわたしをお助けください。」実は、これは弱いクリスチャンの祈りではありません。自分の本当の助けの源を知るすべてのクリスチャンの祈りです。すべてのことの為に、完全にキリストに頼る事です。イエス様の言葉を完全に信じる事です。イエス様は言われました、「信じる者には何でもできる。」

では、どのように私達が不可能な事をしましょうか。弟子達がその男の子を癒す事が出来なかったので、どのように私達が自分の子供を癒す事が出来るでしょうか。ただ一つの答えはイエス様が弟子達に説明した事です。9:28 イエスが家の中に入られると、弟子たちはひそかに、「なぜ、わたしたちはあの霊を追い出せなかったのでしょうか」と尋ねた。 9:29 イエスは、「この種のものは、祈りによらなければ決して追い出すことはできないのだ」と言われた。

どうして祈りによって出来るでしょうか。祈りは魔法ではありません。祈りは、神様が何でも出来ると分かります。もしイエス様が十字架上で死んで3日目に甦る事が出来ましたら、何でも出来ます。もしイエス様が私の罪を赦す事が出来ましたら、私を清める事が出来ます。もしイエス様が私に悔い改めて自分の人生を変えよと命令しましたら、私を清める力のある聖霊を下さいます。

福音書のお父さんは、もっと強い信仰をと頼みませんでした。「信じます。信仰のないわたしをお助けください」と言いました。私達は強い信仰が必要ありません。もっともっとの信仰が要りません。ある時イエス様は教えました。からし種ほどの信仰があれば、山を動かせると言われました。ほんの少しの信仰が十分であるのは、その山を動かすのは、私ではなくて神様であるからです。ちっちゃな信仰が十分であるのは、自分の罪を赦す為に、自分が自分の人生を犠牲にするからではなく、イエス様が十字架上で私の罪を赦して下さったからです。ほんの少しの信仰が十分であるのは、自分が自分の人生が良くになるようにと人生を変えるからではなくて、聖霊が私の人生の中で働くからです。聖霊は私の祈りを導きます。そして、この信仰を持って、私達は自分の子供達の健康の為に祈り、人生の成功の為に祈り、世界平和の為に祈り、教会の成長の為に祈り、又、友達の幸せの為に祈ります。

それで、信仰を持って自分の信仰を告白して言います:
アーメン。

マイケル・ニアフッド、牧師
沖縄ルーテル教会