祈りをする二人r

2010年10月24日
ルカ18:9−17

福音書ルカ 18:9-17
18:9 自分は正しい人間だとうぬぼれて、他人を見下している人々に対しても、イエスは次のたとえを話された。18:10 「二人の人が祈るために神殿に上った。一人はファリサイ派の人で、もう一人は徴税人だった。18:11 ファリサイ派の人は立って、心の中でこのように祈った。『神様、わたしはほかの人たちのように、奪い取る者、不正な者、姦通を犯す者でなく、また、この徴税人のような者でもないことを感謝します。18:12 わたしは週に二度断食し、全収入の十分の一を献げています。』18:13 ところが、徴税人は遠くに立って、目を天に上げようともせず、胸を打ちながら言った。『神様、罪人のわたしを憐れんでください。』18:14 言っておくが、義とされて家に帰ったのは、この人であって、あのファリサイ派の人ではない。だれでも高ぶる者は低くされ、へりくだる者は高められる。」
18:15 イエスに触れていただくために、人々は乳飲み子までも連れて来た。弟子たちは、これを見て叱った。18:16 しかし、イエスは乳飲み子たちを呼び寄せて言われた。「子供たちをわたしのところに来させなさい。妨げてはならない。神の国はこのような者たちのものである。18:17 はっきり言っておく。子供のように神の国を受け入れる人でなければ、決してそこに入ることはできない。」

今日どのように祈るかを調べます。先ず、例え話の祈る二人を見て、そして、祈るイエス様を見て、私達の祈りを見ます。その最初の三人を見ながら、私達の祈り方を考えます。そして最後に祈ります。

例え話には二人がいます、一人は宗教に熱心なユダヤ人で、もう一人はそれ程熱心ではありません。一人は厳しいファリサイ派の人で、もう一人は徴税人(ちょうぜいじん)だったのです。ファリサイ派の人の祈りの良い点とその悪い点を見て、徴税人の祈りの良い点と危ない点も見ます。

先ず、二人とも祈る為に神殿に昇ります。自分の家でも祈る事が出来ますが、私達にも分かるように、神殿又教会の中では、何か神様の近くにいるように感じます。静かで、邪魔をするものが少ないからでしょう。最初ファリサイ派の人は神様に感謝します。これは良いです。賛美です。しかし彼の祈りは自己中心的です。彼は自分が、ほかの人達と違うので本当に感謝します。彼は奪い取る者、不正な者、姦通を犯す者でないでしょう。その理由とは、自分が自分の力によって自分を清い者にしたと思うからでしょう。その上、自分の宗教的な活動に、彼自身のプライドがあります。週に二度断食しますが、モーセの律法の中では、年一回、一日だけ断食をするように命令されています。それは、罪を贖いの日です(Lev. 16:26)。又、十分の一の献金を小さい点まできちんと収めます。又自分のする事にはプライドがありました。それで神様も彼のことでプライドを持って、彼の事で嬉しくなり、なおさらに彼を祝福するべきだと思ったでしょう。この人の本当の問題とは、彼が自己中心的で、自分の為にだけ祈る事です。その徴税人を軽蔑(けいべつ)することよりも、彼の為に祈るべきです。それはプライドの問題の一つです。それは他の人の問題を無視するからです。プライドは自分自身の問題を無視します。そのファリサイ派の人は自分の問題と自分の罪が見えないので、赦しの為に祈りませんでした。ですから自分の罪をそのまま残しました。罪が赦されないで家に帰りました。義とされませんでした。

他方では、そのもう一人の徴税人は、神様の御前で、自分をへりくだりました。自分の罪の為に恥を感じました。自分の目を天に上げようとしませんでした。自分の胸を打ちました。多分手をもみながら祈りました。『神様、罪人のわたしを憐れんでください。』自分の罪を知りました。もしかしたら、ファリサイ派の人が言ったように、自分が奪い取る者、不正な者、姦通を犯す者かもしれません。それで、自分の為に、神様の憐れみ祈りました。自分は自分を義としませんでした。それで神様は彼を赦しました。彼の方が赦され義とされて家に帰りました。

私達の心の中には、ファリサイ派の人のような者も、その徴税人のような者もいるでしょう。それで祝福の為に神様に感謝して、罪の赦しの為に祈る事も出来ます。しかし、自分の良い振舞いを、自分の良い業のように考えてはいけません。それも祈りの答えです。「試みにあわせず、悪より救い出したまえ」と。聖霊の守りによって、私達はある誘惑を受けなかったのです。誘惑がありましたが、その罪に陥いりませんでした。私達の謙遜(けんそん)でさえも一つのワナになります。それは、このように祈る時です。『神様、私はほかの人たちのように、特に、そのファリサイ派の人のようではない事を感謝します。あの人はうぬぼれの強いもので、自分の事だけを考える偽善者だからです。私がそのようではないので良かったです!』。けんそんとは、自分が罪人であると分かります。けんそんは、自分が神様の憐れみと恵みを受ける為に、自分が何もしていないと分かります。『神様、罪人の私を憐れんでください。』と祈る時だけ、平和があります。心の中、思いの中、魂の中の平和です。その平和を得る時とは、義とされて家に帰る時です。

イエス様はそのファリサイ派の人のように、実に、誇る事が出来ました。彼はほかの人のようではありませんでした。イエス様は奪い取る者、不正な者、姦通を犯す者、又その徴税人ような罪人ではありませんでした。イエス様は同時に神様であり人間であるので、イエス様は一つの罪も犯しませんでした。しかし十字架上で、御自分の上に私達の罪、世の罪を取りましたので、罪人になりました。奪い取る者、不正な者、姦通を犯す者などのすべての罪人になりました。神様の子羊は、世の罪人になりましたので、世の罪を取り去る事が出来ました。イエス様は『神様、罪人のわたしを憐れんでください』と言う言葉を言われませんでしたが、このような言葉を言われました、

  • * 「父よ、御心なら、この杯をわたしから取りのけてください。しかし、わたしの願いではなく、御心のままに行ってください。」ルカ23:42
  • * 「わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか」マルコ15:34
  • * 「父よ、彼らをお赦しください。自分が何をしているのか知らないのです。」ルカ23:34
    しかしながら、イエス様は私達の為に祈りました。私達の為にその犠牲の業を行いました。このように祈ったでしょう:『神様、罪人の私を憐れまないで下さい。その代わりに、私を信じる世の罪人、私の十字架上の犠牲によって赦されている罪人を憐れんでください。』と。そして、復活の中に、その憐れみを見ます。イエス様は死んで、葬られて、地獄に下って、三日目に甦って、天に昇りました。彼こそが義とされて家に帰る者でした。彼によって私達も義とされます。

    最後の晩餐の時、イエス様は弟子達とすべての信者達の為に祈りました。彼らの救いの為を始め、安全の為にも、愛と働きのために一つとなるように祈りました。聖霊を送るように約束しました。聖霊の働きとは、イエス様の祈りを充実する事です。それで、聖霊は私達に信仰、救い、愛とキリストの働きの為の導きも下さいます。

    どのように私達が祈りましょうか?主の祈りを祈る事が出来ます。詩篇を祈ります。ある賛美歌は実は祈りです。苦しみの中でうめきの声をあげて、聖霊はそれを祈りに変えます。とっても綺麗な美しい祈りは良いですし、めちゃめちゃの祈りもOKです。子供のように祈ります。沈黙の祈りもあります。しかし、イエス・キリストの信仰によっての祈りでしたら、神様にふさわしいものです。それで、けんそんと子供のような信頼を持って祈ります、『神様、罪人の私を憐れんでください。』神様は、憐れみ深いです。

    アーメン。

    マイケル・ニアフッド、牧師
    沖縄ルーテル教会


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