神の森。誠の平和への道。#2

2013年12月8日、アドベント第2主日


福音書  マタイ3: 1〜12(新3頁)
3:1 そのころ、洗礼者ヨハネが現れて、ユダヤの荒れ野で宣べ伝え、3:2 「悔い改めよ。天の国は近づいた」と言った。3:3 これは預言者イザヤによってこう言われている人である。「荒れ野で叫ぶ者の声がする。『主の道を整え、/その道筋をまっすぐにせよ。』」
3:4 ヨハネは、らくだの毛衣を着、腰に革の帯を締め、いなごと野蜜を食べ物としていた。3:5 そこで、エルサレムとユダヤ全土から、また、ヨルダン川沿いの地方一帯から、人々がヨハネのもとに来て、3:6 罪を告白し、ヨルダン川で彼から洗礼を受けた。
3:7 ヨハネは、ファリサイ派やサドカイ派の人々が大勢、洗礼を受けに来たのを見て、こう言った。「蝮の子らよ、差し迫った神の怒りを免れると、だれが教えたのか。3:8 悔い改めにふさわしい実を結べ。3:9 『我々の父はアブラハムだ』などと思ってもみるな。言っておくが、神はこんな石からでも、アブラハムの子たちを造り出すことがおできになる。3:10 斧は既に木の根元に置かれている。良い実を結ばない木はみな、切り倒されて火に投げ込まれる。
3:11 わたしは、悔い改めに導くために、あなたたちに水で洗礼を授けているが、わたしの後から来る方は、わたしよりも優れておられる。わたしは、その履物をお脱がせする値打ちもない。その方は、聖霊と火であなたたちに洗礼をお授けになる。3:12 そして、手に箕を持って、脱穀場を隅々まできれいにし、麦を集めて倉に入れ、殻を消えることのない火で焼き払われる。」
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斧を使って木を倒す事がありますか。私はボーイスカウトの時、それをするのが大好きでした。森の中には、いつも小さな枯れてしまった木があります。あんまり大きくなく、15センチぐらいの太さです。斧を使って木を倒しました。次に、更に小さいピースに切ってマキにしました。ノコギリの使い方と違うので、斧を使うと、多くの小さいピースがあちこちに飛びます。以前一本の木があった所には、散らばったピースばかりです。それを拾って、キャンプファイヤのまきにしました。

バプテスマのヨハネは、イスラエルの国が、斧によって倒される森のようになると告げました。イスラエルの国の宗教は枯れています。良い実がありませんでした。良いアブラハムの子がいませんでした。それでヨハネはイスラエルの国の滅びを告げます。言いました、「3:10 斧は既に木の根元に置かれている。良い実を結ばない木はみな、切り倒されて火に投げ込まれる。」ヨハネは政治上の事だけではなくて、国の人々の毎日の生活振りを話します。人の毎日の振る舞いが悪いので、国全体が切り倒されます。それで皆が自分の罪を告白して、悔い改めて、洗礼を受けるように言いました。このようにして、来られるメシアの為に彼らの心を準備します。

ヨハネはイスラエルの国の指導者をも、イスラエルの国民も批難しました。現代の説教者も自分の国やその国民を批判します。面白いと思うのは、自分の国が非難されている時、その人々の反応を見る事です。時々人は怒ってきます。自分の国を弁解します。何故ならば、国だけではなくて、自分自身も批判されているからです。その人の生活振りが見られています。良い実がありません。それで、自分を切り倒す斧を恐れます。

聖書の中で、人を切り倒す事は「悔い改め」と言います。人々は「ごめんなさい」と言います。罰を受けないように希望しますので、それを言います。しかし、「すみません」とだけ言うのは、悔い改めではありません。何か悪い事をしたので気分が悪いでしょうか、捕まったので運が悪いと思うでしょう。罰を恐れるでしょう。しかし、それは悔い改めではありません。悔い改めとは切り倒される事です。神様のみ言葉は、斧のように私達をたたきます。斧のように私達を小さいピースにします。第一戒め、第二戒め、第3戒め….それは最初の10のピースだけです。その上、私達の犯した悪い罪があれば、私達のしなかった良い事もあります。悔い改めましたら、私達はマキになります。そして聖書の焚き火とは地獄です。

切り倒されて、私達はただの株のようになります。ある時、株から一つの芽が萌えいで、それが枝や新しい木になります。しかし、いつもそうではありません。その木の根が枯れてしまったら、芽が出る事がありません。根が生きていましたら、復活の可能性があります。それは、イエス・キリストを信じる信仰です。イエス様は素晴しい木のようでした。彼には愛と喜びと癒しと希望と正義がありました。しかし、国の指導者が思ったのは、その実が自分達にとって危ない事です。それで、木であるキリストを切り倒そうと思いました。彼らの斧とは、憎しみと恐れと嫉妬と誤解でした。実にイエス様を切り倒す事よりも、イエス様を十字架の木に高くあげました。そこでイエス様を殺しました。しかし3日目に甦りました。これでイザヤの予言が更に成就(じょうじゅ)されました。(第1朗読 イザヤ11: 1) 「 エッサイの株からひとつの芽(め)が萌え(も)いで/その根からひとつの若枝が育ち/その上に主の霊がとどまる。」

ですから教会のミッションとは、あなたに根を与える事です。あなたの人生の中に、切り倒される時期が来るでしょう。その時良い根があれば、生き残って栄えるでしょう。ある時、あなたが小さいピースに切られるでしょう。病気やけがあれば、文字通りに、体の一部を切る場合があります。いじめる人はあなたを小さくしようと思います。お金や家や評判を失う事があります。又、他の人から切り離されます:人が死ぬ、人が遠く引っ越します。失敗と負けと失恋と後悔と失望とうつ病は、精神的に人の心を傷つけます。あなたの神様を信じる信仰はいつも不信者の斧に打たれています。信仰の疑いで弱くなります。しかし私達によく分かるのは、私達を完全に殺す事が出来る斧は一つだけです。それは神様の斧です。私達の罪の為に神様は私達を切り倒します。私達が罪を犯すごとに、私達は神様の斧を研(と)ぎます。

バプセスマのヨハネとイエス様が悔い改めについて話しました。その悔い改めは私達を切り倒します。私達から全部を取ってしまいます。悔い改める時、自分がただの枯れている株であると告白します。自分が何も出来ないと言う告白です。しかし希望があります。それは信仰の告白です。復活が必要です。洗礼とは、私達の魂を生かす神様の水です。それで私達は新しい芽のようです。芽から枝に、枝からイエス様の為に実を結ぶ木になります。その為に神様は私達を切り倒すのです。即ち、新しくめばえて生きる為です。

先週一つのデボーションを読みました。それによりますと、私達クリスチャンが、松の木のように常緑(じょうりょく)の木、(ときわ木)です。私達のクリスマスのツリの為に、葉っぱが落ちる、冬に枯れたように見える、りんごの木のような木を使いません。いつも元気で生き生きとしている木を使います。何故ならば、キリストによって、私達はそのようであるからです。それはクリスマスの平和です。

アーメン。

マイケル・ニアフッド、牧師
沖縄ルーテル教会


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