2006年5月〜8月

2006.5.7イエス様とわたしの関係 ヨハネ21:15-23
2006.5.14「神のなさること」 ルカ2:41-51
2006.5.21「イエス様の備え」 マルコ14:12-16
2006.5.28「満たされるイエス様」 マルコ8:1-10
2006.6.25「イエス様に近づこう」 ヘブル4:14-16
2006.7.16「神ご自身が・・・」 1ペテロ5:6-11
2006.8.6「人生が変わる時」 ヨハネ8:1-11
2006.8.13「わからないことがあっても」 ヨハネ 13:1-11
2006.8.20「イエス様にとどまる者」 ヨハネ15:1-11
2006.8.27


2006.5.7

「イエス様とわたしの関係」

ヨハネ21:15-23

1.主よ。あなたはいっさいのことをご存じです。:17

「イエス様は全てをご存じな方」

:17を見ると、ペテロがイエス様に対して「主よ。あなたはいっさいのことをご存じです。」と言っています。
イエス様は全てのご存じの上で、「あなたは私を愛しますか」とペテロに聞かれたということですね。

すべてを知っているというのは実際神様以外ないですよね。
神様はすべてお見通しです。
そんな中で、イエス様は「あなたは私を愛しますか」と聞かれるのです。
これには、わたしたちが告白することに意味があることを教えられているように感じます。
神様がすべてご存じなら、わたしたちが求めていることもご存じなのですから、祈る必要ないんじゃない?
いや、だからこそ祈るんですね。ご存知ですが、神様はそのことを祈る、告白することを願っておられるのだと思います。

イエス様は全てのことをご存知です。
その上で、私達はイエス様に祈り、告白することを継続していきたいものです。


2.わたしに従いなさい。:19

「全てをご存知の上で、イエス様は私達を招かれる方」

こう話してから、「私に従いなさい」といわれました。
イエス様は私達の全てのご存知です。
ですから、ペテロがイエス様を愛していることも知っているように、イエス様に従って行くことも知っておられたに違いないのです。
なのに、「従いなさい」といわれました。
イエス様は私達のことを知っている上で、選択させられます。
私達の自発的な行動を待っておられたり、促されたり、尋ねられたりするのです。

イエス様は全てを備えられました。
十字架で救いを完成し、復活して永遠のいのちを備え、天に住いを備え、聖霊として私達と共におることによって上からの力もそなえられました。
その上で私達はどうしますか。
イエス様は、「私を愛しますか」と聞かれます。
その上で、 イエス様は、「私に従いなさい」と促されます。

私はイエスさまに「主よ、あなたを愛します。あなたに従います」と告白するものでありたいです。
賛美もその告白のひとつですね。個人的な祈りもそうです。 日々の主との交わりの中でも告白できます。


3.あなたは、わたしに従いなさい。:22

「イエス様に従うことは、イエス様と自分との一対一の関係の中のこと。」

「主よ。この人はどうですか。」とペテロが聞きましたが、
「「あなたは」私に・・・」と言われました。
他の人は関係ないのです。
私がイエス様に従うのかどうかです。
イエス様に対して、自発的な告白を行動をする人は幸いです。
祈りましょう。



2006.5.14

「神のなさること」

ルカ2:41-51

序)母の日
今日は、イエス様の母、マリアの箇所から少し見ていきましょう。

1.理解できないこともある

神様がされること、言われることでその時は理解できないこともあります。

ここで、イエス様が取られた行動、そして、その時の言葉についても、両親には理解できなかったようです。
過越の祭りには、家族親族知人たちと総出で毎年エルサレムへ行っていたようです。 ここは、イエス様が12才の時の出来事です。 帰路についたものの、イエス様がいなかったのです。探しながら、エルサレムまで戻ると、そこには、少年イエスが宮で教師達の真ん中に座って、話しを聞いたり質問したちしている姿がありました。 両親であるヨセフとマリアは驚きましたが、ようやく見つけていいました。
「まあ、あなたはなぜ私たちにこんなことをしたのです。見なさい。父上も私も、心配してあなたを捜し回っていたのです。」
ところが、少年イエスは、 「どうしてわたしをお捜しになったのですか。わたしが必ず自分の父の家にいることを、ご存じなかったのですか。」 と答えました。 両親はその意味がわからなかったと書いてあります。
ヨセフとマリアにとっても、イエス様の言動は意味がわからないことがあったように、
私たちの人生、生活の中でも、神様がされること、言われることで、時には意味が理解できないこともあるのではないでしょうか。
でも、それらは後になってからわかることも多くありますね。
勿論、まだわからないこともあるかもしれません。
神様はわたしたちには理解しがたいようなことを言われたり、されたりすることもあるんですね。

では、私たちはそんな時はどうすればいいのでしょう?


2.心に留めた。

母マリアは、少年イエスの言動を心に留めました。

実は、マリアが同じようにイエス様のことで心に留めたことがこの前にも少なくとも一度出てきます。
それは、
ルカ 2:19 しかしマリヤは、これらのことをすべて心に納めて、思いを巡らしていた。
羊飼いの話しを聞いて他の人は驚いただけでしたが、マリアはそのことを心に留めて思い巡らしていたのです。

理解はできなくても、心に留めて、思い巡らしたり、心に留めておくだけでもすることなら、できるのではないでしょうか。
みなさんの生活の中で、人生の中で、理解できないようなことがあったとしたら、
今はわからなくても構わないし、理解できないからといって気にしないようにするばかりではなく、
「心に留める」ことをされることをお勧めします。

結)神のなさることはみな時にかなって美しい。
伝道 3:11 神のなさることは、すべて時にかなって美しい。神はまた、人の心に永遠を与えられた。しかし人は、神が行われるみわざを、初めから終わりまで見きわめることができない。

神様がされることは全てを理解することは無理でしょう。でも後になって理解できることもあります。
それでも、全てではないかもしれない。 たとえそうであっても、神様が私たちにとってよい方であることは変わりなく、この方のされることは皆時にかなって美しいのです。
私たちのまわりのいろんな出来事に心を留めて、神様を信頼する人生を歩みたいですね。
祈りましょう。



2006.5.21

「イエス様の備え」

マルコ14:12-16

序)備えてますか?
みなさんはいろんなことに備えてますか?
昨日の新聞で、地震保険の保険料の改定についてかかれてありました。
最新の地震の情報を元に保険料を計算しなおしたようです。
地震による被害の可能性の高いところは高く、低いところは低くされたようですね。
滋賀県もかなり安くなったようです。
さて、このように私たちはいろんな備えをしながら、生活をしていますよね。

今日読んでいただいたところから、イエス様がなされた備えを見ていきましょう。

1.弟子達は備えていなかった。

過越の祭りといえば、もっとも大切な祭りです。
その当日になって、弟子達は、「どこへ行って用意をしましょうか」と尋ねています。
「えーーー?用意してないのー?」って感じですね。
でももしかたら、弟子達は、「明日のことは思い煩うな」という御言葉を実践していたのかもしれませんね。
だから、今日になって、「どうしましょう」なんて言ったのかもしれません。
この解釈が正しいかどうかはわかりませんが、イエス様も別に責めておられる記事は出てきませんね。
案外、みこころにかなっていたのかもしれません。
どちらにせよ、イエス様の前には人間的な備えはあってもなくてもあまり関係ないようです。
それは、「イエス様を信頼する」ということで言えば、私たちが人間的にいろんなことを備えることは無力だからです。
勿論、備えておくに越したことはないですが、備えてないからどうというものでもないようです。
たとえ備えがなかったとしても、イエス様を信頼することはできます。
また、備えがあったとしても、その備えが無力になった時、イエス様を信頼しているなら、慌てることはしません。
備えがあってもなくても、それらが無力になった時に、本当にイエス様を信頼しているのかが問われるのではないでしょうか。
イエス様を本当に信頼しているなら、備えがなかろうと、備えが無駄になろうと、イエス様を信頼し続けることができるはずです。

逆境の時こそ、イエス様を信頼し続けたいですね。
この箇所から、どんな状況の中でもイエス様に信頼することを学ぶなら、本当に幸いです。

2.イエス様は備えておられた。

聖書には、
「するとその主人が自分で、席が整って用意のできた二階の広間を見せてくれます。」とあります。
イエス様は備えておられたんですね。
弟子達は備えていなかったのですが、イエス様は備えておられたのです。

私たちも備えていようが備えてなかろうが、イエス様は備えて下さっているのです。
だから、心配する必要はないんですね。
私たちが心を向けるのはイエス様であり、イエス様を信頼する信仰を備える必要があるのだと思います。
私たちが備えていてもいなくても、イエス様は備えて下さるお方です。
このイエス様を信頼しましょう。
私たちの備えよりももっともっと優れた備えをして下さるイエス様を信頼しましょう。
イエス様は備えて下さるからです。

決)イエス様の最大の備え

この出来事が起こったのは、過越の祭りのときです。
過越しはご存知のとおり、出エジプトの時に、主が命じて柱とカモイに子羊の血を塗り、死の使いが過越していき、イスラエルをエジプトの奴隷から開放された出来事を記念する祭りですが、
これは、イエス様の十字架の型です。
イエス様の十字架がなければ、今わたしたちは救われていませんし、このように集ってもいないでしょう。

イエス様の最大の備え・・・それは、十字架による罪の赦しの完成・・・「救い」です。

わたしたちにあらゆる備え、場所、人、物、お金・・・それらがどんなに備えられていても、罪の赦し、「救い」がなければ、むなしい人生です。 命を失ってはどんな備えも無意味です。
イエス様がしてくださった最大の備え、それは「救い」
このすばらしい備えを今日も受け取り、さらに人生の歩みの中で、あらゆる主の備えを体験していきたいですね。

その為に私たちに必要なのは、
イエス様の最大の備えである「救い」を受け入れ自分のものとして、
イエス様を信頼し続ける人生を歩むことではないでしょうか。
イエス様に目をむけて歩む人は幸いです。



2006.5.28

「満たされるイエス様」

マルコ8:1-10

序)集まる。
みなさんは、何かの為に集まったり、並んだりしたことはありますか?
ぼくはあります(^^;
学生の時には、パチンコ屋さんの開店前に並んだこともあります。
先着○名様とかのものをゲットするために並んだこともあります。

人は何か自分がほしいものを得るためであったり、何かを期待して集まったりします。
ここでは、4000人もの人がイエス様のもとに集まってきていたのです。

今日はここから、共に教えられたいと思います。


1.イエス様のもとに集まっていた。

4000人もの人はイエス様のもとに集まっていたのです。
それはイエス様を求め、イエス様に何かを期待し、そこに集まってきていたのでしょう。
聖書を見ると、3日間も食べるものもないのに、イエス様のもとに集まっていたようです。
ある人は遠くからきている人もいたようです。
3日も食べられないような状態でありながら、イエス様を求めて集まっていた人達。
本当にイエス様を求める心、信仰で溢れていたのでしょうね。
私もそのように本当にうえ乾いてイエス様を求めていただろうかと考えさせられました。

食べるものに困ることもないし、車でどこへでも行けるような時代。
なかなかこの時代のこの出来事を理解することは難しいかも知れません。
でも、ひとつ言えることは、イエス様を求める心、信仰をもつことは本当に大切なことであるということです。
10人や20人ではないのです。 4000人です。
マルコ伝のもっと前から読むと、男だけで5000人が集まっている記事も出てきます。 また、いろんな状況の人がイエス様を求め、イエス様に期待して集まり、並んでいることがわかります。

私たちの信仰をもう一度見直す機会となるなら、幸いです。

私たちは、 何の為に礼拝に集まるのでしょうか。
何の為に祈るのでしょう。 何の為に御言葉を読むのでしょう。 何の為に福音を伝えるのでしょう。 何の為に愛し合うのでしょう。
イエス様を求めるため、イエス様と出会うため、イエス様にささげるため、イエス様に触れるため、イエス様に近づくため、イエス様に期待して・・・。
イエス様の為に集まっていますね。

絶えず、イエス様のもとに集まり、イエス様に目をむけるものでありたいですね。


2.イエス様は満たされる。

さて、イエス様はその中でこの群衆たちをどうされたのでしょうか。
4000人もの人がいるのです。
弟子達も言っています。 「こんなへんぴな所で、どこからパンを手に入れて、この人たちに十分食べさせることができましょう。」
実際にパンは7つしかなく、魚が少しあっただけのようでした。
弟子達だけでわけても足りないんじゃないかというような量です。
それなのに、4000人もの人をどうやって・・・。
イエス様はこの7つのパンを感謝して裂いて配らせました。
すると、どうなったのか書いてませんが、4000人が満腹になったというのです。
イエス様がどのような方法でされたかを今日は注目しません。
イエス様はわたしたちが不可能と思えるような状況であっても、満たされるお方であるということを知りましょう。
パン7つで4000人を満腹にされたのです。
その前には、パン5つと魚2匹で男だけで5000人を満腹にされたのです。
何倍になったとかじゃないんです。

今あるもので全ての人を満たされるお方であることがわかります。

私たちはイエス様に期待し、イエス様を求めます。
そして、イエス様に目を向け続けます。 その時に、イエス様はわたしたちを満たすことができるお方であるということなのです。

そのポイントは、 「イエス様」です。

イエス様を求め、イエス様に期待するのです。
大きな集会でも、ワーシップリーダーでも、メッセンジャーでも、ミニスターでもないのです。
イエス様なのです。

私たちはイエス様を求め、イエス様に期待し、イエス様に目を向け続けるものでありたいですね。
今日もそう願い、今週もそう歩まれるなら、本当に幸いです。
イエス様がその全てを満たして下さるお方だからです。




2006.6.25

「イエス様に近づこう」

ヘブル4:14-16

順に見ていきましょう。

1.イエス様は大祭司

祭司とは、神と民の間で執り成す役割をする人ですね。
民の罪を羊等に負わせ、その羊をほふり、そのささげものをもって、神の前に立ち、民の罪の赦しを求めて執り成す人です。
民は神の前に直接立つことはできず、祭司を通して神様にささげものをしたりしていたわけです。
今は、私たちはイエス様の十字架のあがないによって、神様と交わることができるようにされています。
まさに、イエス様が祭司となって下さっているわけです。
だから、信仰の告白を堅く保とうではないかと勧めています。
私たちの信仰の告白が虚しく終わることもなく、無駄になることもないからです。
それは、イエス様が偉大な大祭司としておられるからです。
祈ったことは既になったと信じなさいとありますが、これも信仰の告白ですね。

こんな話しがあります。
昔、ある村で雨が長い間降らないので、作物にも悪い影響が出てきて困っていました。 その村の教会では、雨が降るように、神様に祈る祈り会がもたれていました。 その日も祈り会のある日でした。 ある婦人は、その日もいつものように祈り会にいく予定でした。 家では「早く祈りが聞かれて、雨が降ってくれないかねぇ」といっていました。 そして、祈り会にいく為に、教会へいこうと家を出ようとしたときに、 子供が言いました。
「お母さん、傘は持っていかなくていいの?」
お母さんは言いました。 「何いってるんだい。こんなにいい天気なのに、雨なんて降るわけないでしょ」 すると、子供は言いました。
「でも、今から神様にお祈りするんだから、帰りは雨が降るんじゃないの?」
おかあさん「・・・・・」
子供は神様を純粋に信じているんですね。
だから、イエス様も幼子のようにならなければ神の国に入れないとさえいわれたのでしょう。
私たちは、大祭司であるイエス様がおられるのですから、信仰の告白を辞めるものではなく、堅く保つものになりたいですね。


2.イエス様は弱さを知っておられる

この大祭司なるイエス様ですが、私たちの弱さを知って下さっているのです。
同じように地上での罪の誘惑の世界を歩まれて、同じような試みに合われたお方です。
しかし、私たちと決定的に違うことは、罪を犯されなかったということです。
イエス様は罪を犯されなかったから、私たちの弱さを見て、軽蔑したりされることはなさいません。
その弱さに同情して下さる、その気持ちを分かって下さる方なのです。
私たちの弱さを理解してくださる理解者でもあるのです。 素晴らしいですね。
イエス様は、あなたの弱さもご存知で理解して下さるお方なのです。


3.イエス様に近づこう

ですから、私たちは、あわれみを受け、また恵みをいただいて、おりにかなった助けを受けるために、大胆に恵みの御座に近づこうではありませんか。

私たちは弱さを持った罪人です。イエス様の十字架がなければ、神の前に立つことなど到底できないものです。 でも、イエス様はわたしたちの為に、十字架にかかり、その罪の全ての支払いをして下さって、神様と私たちとの断たれていた関係の間に入って執り成して下さる大祭司として今もいて下さるのです。
このあわれみと恵みを受けることが赦されています。 なんという素晴らしいことでしょう。
そして、更に、あわれみと恵みを受けて、おりにかなった助けを受けることも約束されているのです。
その為に勧められているのが、
「大胆に恵みの御座に近づこう」ということです。
恵みの御座とは、 祈り、礼拝、賛美、等、神様と交わり、神様を思う場所がそうではないでしょうか。
「わたしは弱いもの、神様の前に出ることなんてできないもの・・・」と思い、遠ざかっていないでしょうか。
神様はもうすでにそんなことはご存知です。 あなたの弱さも嘆きも悲しみも・・・。 だから、受けることができる「あわれみと恵み」を用意して下さっているのです。
それは、イエス様の十字架による救いです。
このイエス様の救いを受け入れるために、受け入れたなら、更に受け続けるために、 恵みの御座に近づくものになりたいですね。
その時に、私たちの必要に対しても、おりにかなった助けを受けることができるのです。




2006.7.16

「神ご自身が・・・」

1ペテロ5:6-11

序)神様が顕れる人生とは・・
私たちは無力を感じることはありませんか。
いろんなことで、自分の力ではどうしようもないことを経験します。
また、感じることは多い。 また、普段の生活の中でもそんなことを感じること、体験することはあるんではないでしょうか。
それは、なぜでしょう。
答えは簡単です。
「私たちにはその程度の力しかないからです」
でも、失望することはありません。
神様が私たちの人生に、生活に介入してくださるなら、自分の力の無力さは体験すると同時に 神の力強さを体験することでしょう。

あなたは、神様の力が顕れる人生、神様が力を発揮して下さる生活を歩みたいですか?
神ご自身が力を現して下さるには、私たちはどうすべきなのか。

1.へりくだる。:6

:6 ですから、あなたがたは、神の力強い御手の下にへりくだりなさい。神が、ちょうど良い時に、あなたがたを高くしてくださるためです。

神の力強い御手の下にへりくださるのです。
まずは、自分の無力を自覚しましょう。
もちろん、私たちにできることもあるでしょう。 そのことを否定する必要はありません。
でも、ある領域になると無力を感じてしまったりします。
また、神様なんて必要ないと自分だけで何でもできると傲慢になったりすることがあるとすれば、それは高ぶりですね。
その高ぶった心でいるのではなく、へりくだりなさいといわれているのです。
神の力強い御手の下に・・・

私たちは限界のある力の弱いものですが、神様は力強い御手の方です。
だから、この方のもとにへりくだることが私たちのなすべきことです。
神様の前にへりくだるとき、神様はわたしたちを時にかなった時に高くして下さるのです。
それは高ぶらせたり、高ぶるためにではなく、私たちを立たせるためです。

ルカ 14:8 「婚宴に招かれたときには、上座につくな。あるいは、あなたよりも身分の高い人が招かれているかも知れない。 :9 その場合、あなたとその人とを招いた者がきて、『このかたに座を譲ってください』と言うであろう。そのとき、あなたは恥じ入って末座につくことになるであろう。 :10 むしろ、招かれた場合には、末座に行ってすわりなさい。そうすれば、招いてくれた人がきて、『友よ、上座の方へお進みください』と言うであろう。そのとき、あなたは席を共にするみんなの前で、面目をほどこすことになるであろう。

とイエス様ご自身がたとえを話されています。

神様の前にへりくださるときに、”神様が”高くして下さるのです。
自分から高くなろうとするんではなく、へりくだることによって神様に高くしていただくものになりたいですね。
これが神ご自身が私たちの中に力を現して下さる道です。


2.ゆだねる。:7

:7 あなたがたの思い煩いを、いっさい神にゆだねなさい。神があなたがたのことを心配してくださるからです。

私たちはいろんなことで思い煩うようなことに遭遇するでしょう。
そんな時に、その思い煩いを一切神にゆだねなさい、と言われるのです。

思い煩いとは、どういうものでしょうか。 これは、自分ではどうしようもできないことが多いですね。
私達は旅行に行くとか、キャンプに行くとか、現場に測量に行くとか^^;、そういう時は天気が心配です。
でも、こればっかりは、どうしようもありません。
それをいつまでも、思い煩って、「雨が降ったらどうしよう・・・」と思い煩うことはどうでしょうか?
私たちには変えられないことがあります。そのことを思い煩ったからといって、天気が変わるわけではないのです。

変えられることもありますね。
わたしは学生の頃、バンドをやっていました。
年に2回くらいだったと思いますが、同好会で会館を借りて、コンサートをしていました。
「間違えないだろうか。ちゃんと演奏できるだろうか・・」と心配しても仕方ないから、ゆだねよう・・・だけではだめです。
間違えないように、練習すればいいんですね。
自分でできることも、変えられることもあります。 でも、当日まで練習してきて、当日を迎えたら、あとはゆだねるしかありませんが。。。
私たちは、自分で努力してできることは努力すればいいんです。 いや、努力しましょう。その力を神様から与えられているんですから。
でも、自分の努力や能力ではどうしようもないこともあるんですね。
その部分についは、神様にゆだねるものになりましょう。
神様を知らない人はゆだねることができませんから、「開き直る」ことをされます。
神様にゆだねる時、神様が心配して下さるのです。
神ご自身が私たちの中に、私たちの人生にご自身の力を現して下さるために、私たちの思い煩いを神様にゆだねましょう。


3.悪魔に立ち向かう。:9

:8 身を慎み、目をさましていなさい。あなたがたの敵である悪魔が、ほえたけるししのように、食い尽くすべきものを捜し求めながら、歩き回っています。 :9 堅く信仰に立って、この悪魔に立ち向かいなさい。ご承知のように、世にあるあなたがたの兄弟である人々は同じ苦しみを通って来たのです。

悪魔は私たちの敵です。 はっきりさせておきましょう。決してだまされてはなりません。
そして、悪魔は全面的な戦争をしようとはしてきません。
ある時は光の天使を装ってやってくるとまで書いてあります。
多くのよいもの、よいことに少しの毒を混ぜてくるように巧みに攻撃してきます。

この敵である悪魔は、私たちを食い尽くそうと捜し求めながら、歩き回っているのです。
その悪魔に対して、神様は逃げろ、隠れろとはいわれなかった。
「堅く信仰に立って、立ち向かえ」といわれているのです。

私たちの人生に、歩みに、神様の力が顕れるために、
「悪魔に立ち向かう」のです。
でも、そのために、身を慎み、目を覚ますこと、堅く信仰に立つことがいわれています。

身を慎むとは、霊的にどんなことでも受け入れてしまうことの危険性を言っているのかも知れませんし、 御言葉によって身を慎むことを示しているのかも知れません。
目を覚ましているとは、祈っていることを示しているのでしょう。 ゲッセマネでイエス様が祈られた時、弟子達は寝てしまいました。その時、イエス様は目を覚まして祈っていなさいと言われました。
堅く信仰に立つとは、御言葉という土台の上に立つことでしょう。 K兄弟が祈りでよく言われますが、 「御言葉にこうあるので、そうなったと信じます・・」と。。 御言葉にこうあるから、信仰によって、すでになったと信じますという告白ですね。 まさに、信仰に堅く立つとはそのようなことなのでしょう。

敵である悪魔にこのように立ち向かう時に、
:10 あらゆる恵みに満ちた神、すなわち、あなたがたをキリストにあってその永遠の栄光の中に招き入れてくださった”神ご自身が”、あなたがたをしばらくの苦しみのあとで完全にし、堅く立たせ、強くし、不動の者としてくださいます。

神ご自身にそうしていただけるものになりたいですね。
悪魔に立ち向かうものになりましょう。

結)神に支配された人生
:11 どうか、神のご支配が世々限りなくありますように。アーメン。

神様が私たちの人生に顕れて下さり、私たちの力ではなく、神ご自身の力によって、神ご自身が私たちを高くし、心配し、完全にし、堅く立たせ、強くし、不動のものとしてくださるということは、 神に支配された人生ということができるでしょう。
神の支配が私たちの人生にあるならば、このような素晴らしいことが起こってくるのだということと言えるのです。
そのような素晴らしい人生を歩む人は幸いです。
祈りましょう。


2006.8.6

「人生が変わる時」

ヨハネ8:1-11

序)評論家?専門家?
今、読んでいただいた箇所では、姦淫の罪を犯した女を連れてきて、 非難し、イエス様になんだかんだと詰め寄ったのです。
この人達は、この女になんの助けも与えず、やったことに対して、意見や見解を述べているだけです。
ここから、これらの人とイエス様の違いを見て、教えられたいと思います。


1.女を連れてきた人々

姦淫の場で捕えられたひとりの女を連れてきた人々は、女の犯した罪を責め、律法にはこう書いてある、この女のしたことは、石打にあたると見解を示し、イエス様に「あなたはどうするのか?」と詰め寄りました。
イエス様は黙っておられたようですが、 :7には、「問い続けてやめなかった」とあります。
これらの人々は、自分がどうかとか関係なしに、罪を犯した女を裁こうとして、イエス様に詰め寄り続けたのです。

私たちも時に、 「あの人はあんなことをして、なんであんなにのうのうと生活できるんですか?神様、不公平ですよ!」とか、 「あの人がこんなことをするせいで、私はこんな思いになって、不愉快だ。神様、なんとかなりませんか?」とか、 神様に詰め寄るようなことを言うことはありませんか。

ここで、この女は確かに律法によれば、罪を犯したのですから、裁かれても当然というような状況です。
別にまわりの人が言うことは間違いではありません。
でも、イエス様は黙っておられた。 そして、問い続けてやまなかったので、イエス様はとうとう口を開いてこう言われました。
「あなたがたのうちで罪のない者が、最初に彼女に石を投げなさい。」
するとどうでしょう。 年長者から始まって、全員が出ていってしまったのです。 私たちも人を裁こうとしてしまうことがあるかもしれませんね。 でも、自分はどうでしょうか。 先程のようなことを神様に言った時に、神様はどういわれるでしょう。
「あなたは、どうなのですか」と聞かれるかもしれませんね。

私が中学校の時の英語の先生でこんなことを言う先生がいました。
「人に注意する前に、まず自分が注意されることがないかをよく考えよ。自分ができてから、人のことを言え。」
25年以上たった今でもこの言葉が心に残っています。
でも、今日の箇所を読むと、ある意味真理だなぁって思います。

この女は確かに罪を犯したのです。 裁かれても文句の言えない状況でした。
でも、裁くのは、人ではないのですね。
イエス様は、「罪のない者が・・」といわれましたが、これは 「では、聞きますが、あなたには罪はないのですか?」と言いたかったのでしょう。
明らかに罪を犯した者に目をむけ、自分のことは棚に上げて、その女を裁くことにしか目が見えていなかった人々の心の目を自分に向けさせ、神様の前に罪を自覚させた素晴らしい一言だったのです。

ここで、実は、この女を連れてきた人々もイエス様の言葉によって、自分の罪に気付き、後に悔改めた人もいたかも知れないと思いました。
この女一人が裁かれて終わるのではなく、その女を連れてきた人をも罪を自覚させ、自分にも救いが必要であることに気付かせられたイエス様の言葉はなんと力強く、知恵に満ち、素晴らしいのでしょう。

私たちも人のことばかり神様の前に責めて詰め寄るようなものではなく、神様の前に自分の罪を自覚し、救いを求める者になりたいですね。

さて、イエス様はその後、この女にどうされたでしょう。


2.罪に定めなかったイエス様

イエスは身を起こして、その女に言われた。「婦人よ。あの人たちは今どこにいますか。あなたを罪に定める者はなかったのですか。」 彼女は言った。「だれもいません。」そこで、イエスは言われた。「わたしもあなたを罪に定めない。行きなさい。今からは決して罪を犯してはなりません。」

イエス様は、裁くことができるお方であり、その裁きは正しい方です。
でも、そのイエス様もこの女に対して「私もあなたを罪に定めない」といわれました。
しかし、その後に続けてこうも言われています。
「行きなさい。今からは決して罪を犯してはなりません。」と。

この女は、この後どうしたでしょう。
「ラッキー、赦されちゃった。じゃ、もう一度、罪をおかしても 大丈夫だ・・」と思ったのでしょうか。
いいえ、おそらくこの女は生涯、罪を犯さないように努力したに違いないと思います。

イエス様は、正しいことを話されます。また、その知識は計り知れません。
でも、それだけでなく、この罪を犯した女の人生に介入され、問題を本当の意味での解決への導かれたといえるのではないでしょうか。
罪に定めることができたにもかかわらず、罪に定めず、この女を帰された。
この女の人生を素晴らしい方向へと導いて下さったのです。
私たちも罪人です。 この女のように、神の御前に出れば、裁きを受けても仕方のない存在です。
でも、神様は罪に定めず、解決し、最善への導かれることをここを通してみることができるのではないでしょうか。


結)イエス様の前に出る時・・

ここで、人生が変わった人は誰でしょう。
これは私の推測もありますが、 この女と、そして、その女を連れてきた人々全員だったと思うのです。
女は罪を赦され、その後の人生を罪を犯さないよう生きたでしょう。
また、イエス様を信じて、救われたでしょう。
連れてきた人々も自分の罪を自覚し、神様の前に祈ったと信じたい。
少なくとも、「罪のない人」といわれて、一人も自分は罪がないとは言えなかったのですから、なんらかの形でこれらの人々もイエス様の救いにその後預かったのかも知れません。
そして、それらはどうして起きたのでしょう。
女は、イエス様の前に無理矢理連れてこられ、
連れてきた人々はイエス様を試そうとして、イエス様の前に出て来たのです。
方法は様々であっても、「イエス様の前に出た」のです。

人はイエス様の前に出る時、こんなにも素晴らしいことを体験するのです。
私たちは今、イエス様の前に出られることが当たり前のように思ってしまいがちですが、これは素晴らしい特権であるのです。
そして、イエス様は私たちの為に、十字架で命を捨てて、全ての人が救われる準備を完成させて下さっています。 また、聖霊として今も共にいて下さるのです。
このお方の前に、いつも出る者でありたいですね。
そして、この女や連れてきた人々のように、人生に介入していただき、最善の道へと導いていただきましょう。
今日も主の前に出られることを感謝し、祈りましょう。




2006.8.13

「わからないことがあっても」

ヨハネ 13:1-11

序)わからないこと。
私たちの人生でのわからないことについて、お読みいただいた箇所から、今日見ていこうと思います。

1.今はわからないこと

:7 イエスは答えて言われた。「わたしがしていることは、今はあなたにはわからないが、あとでわかるようになります。」

私たちも人生を歩む中で、わからないこと、理解できないことに遭遇することはありますね。
イエス様が私たちの人生を導いて下さっているにも関わらず、わからないことがあるのです。
でも、イエス様は、「今はわからないが、あとでわかるようになります」と言われます。
ただ、一つ言えることは、ここでペテロにイエス様が言われたように、 今はわからないが、あとでわかるようになる、ということはあるのだということです。
私たちの人生で「今はわからないが、あとでわかるようになること」はあるのです。
それは、イエス様がそう言われているのですから。。。

では、私たちは、今はわからない時、どうすればいいのでしょうか?
ペテロの行動から見てみましょう。

2.ペテロの行動から・・・

@主に委ねる。
ペテロは、「今はわからないが、あとでわかる」といわれているのに、 「決して私の足を洗わないで下さい」と言いました。すると、イエス様は、 「じゃあ、あなたと私は何の関係もなくなるよ」といわれたので、あわてて、ペテロは 「じゃあ、手も頭も洗って下さい・・」と。でもイエス様は 「いや、足だけでいいんだ。それ以外は既にきよいから・・」といわれました。 ペテロが言うことが全部裏目に出てしまいました。
イエス様がされようとすることに対して、私たちはイエス様に委ねることが大切だということがわかるのではないでしょうか。 それなのに、ペテロは、人間的な考えで、行動しようとしてしまいました。 確かに普通に考えたら、主であり師であるイエス様がしもべのやることである足を洗うということをしようとされるわけですから、「やめて下さい」というのもわかります。 でも、イエス様は「今は理解できないかもしれないが、あとになってわかるのだから、私がやることをそのまま受け入れなさい」というメッセージを送られたのではないかと思うのです。
ですから、私たちもまた、理解できなくても、主がなされておられることに対して、
「主に委ねる」ものでありたい。

A主に尋ねる。
先程お話ししたように、ペテロは、言うことがことごとく裏目にでて、恥ずかしいことになっちゃいました。
でも、私たちはこの出来事があったから、手や頭は洗わなくてもよかった、足だけでよかった、というふうに理解できるわけです。
ペテロがここで他の弟子達同様、黙っていたら、ここまでのことはわからなかったかもしれません。
これは、ペテロがいろいろと行動してくれたからわかったことですね。
私たちも理解できないことに遭遇した時に、行動してしまい、裏目に出ることもあるかも知れません。
そこではじめて、「これではだめだったのか」とか理解できることもあるでしょう。
でも、できることなら、行動してしまうのではなく、主に尋ねてから行動すれば、もっといいのではないかと思ったのです。
このペテロの行動力は、長所でもあり短所でもあるかもしれません。
ぼくは好きですが^^;
でも、ここでもし、ペテロが 「主よ、主が私の足を洗わないとだめなのでしょうか?主であり、師であるあなたが弟子である私の足を洗うなど、あってはならないと思うのですが・・」と尋ねていたらどうでしょう。 きっとイエス様は「もしわたしが洗わなければ、あなたはわたしと何の関係もありません。」 と言われたのでは、と思います。 その時にペテロがまた、 「では主よ。足だけでいいのですか?あなたとの関係がもっと深くなりたいと願っていますから、私の手も頭も洗っていただきたいのですが」と言えば、きっとイエス様は、 「水浴した者は、足以外は洗う必要がありません。全身きよいのです。あなたがたはきよいのですが、みながそうではありません。」 と答えて下さったと思うのです。
つまり、結果は同じ、「行動する」のですが、こちらの願いや考えを突きつけるのではなく、
「尋ねる」のです。
その時、どうすべきなのかがわかるのです。
もちろん、まだこの時点では、なぜイエス様が私の足を洗われるのか、その意味は何か、ということはわからないかもしれません。 それは後になってわかることでしょう。
でも、足を洗ってもらうことは今してもらうべきことなのだということはわかるでしょうし、主がなされることに委ねることができるようになると思います。
主に尋ねる、とは、主に祈ることですね。
そういう意味でも、主との祈りというのは大切な時間と言えますね。
私たちもまた、理解できないことにあったときに、主に委ねるものでありたいですが、
本当にこれでいいのか、また、このことは主から出ていることなのか、と思うでしょう。
その時に、主に祈り尋ね、主から答えをいただいて、「何故か」はわからなくても、主から出ていることであるなら、委ねるものになりたいですね。

結)そこには、イエス様の愛がある。
:1世にいる自分のものを愛されたイエスは、その愛を残るところなく示された。

イエス様は、この時、弟子達にその愛を残るところなく、最後まで愛を示されたのです。
その愛を示したこととして、この出来事が書かれています。
私たちが理解できないことに出会う時、主に祈り尋ね、あとは主に委ねて行く時に、後でわかるようになります。
そして、これらは、イエス様の大きな愛から出ていることを知りましょう。
だから、理解できない不安やどうなるのかわからない不安を持ち続けるのではなく、 イエス様が私を愛して下さっているから、この道を今歩んでいるんだという信仰を持っていくなら、本当に幸いです。

今、あなたは、どんな道を歩んでおられるでしょうか。
大なり小なり、理解できないこともあるのかもしれません。
でも、主に委ねて、時には主に祈り尋ねて、イエス様に目をむけて歩み続ける者でありたいと願います。



2006.8.20

「イエス様にとどまる者」

ヨハネ 15:1-11

序)実を結ぶ枝になる。
先日、いただきもののぶどうを食べました。 デラウェアだったので、小さい実がたくさんびっしりとついていました。 本当にたくさんの実でした。数えようかと一瞬考えましたが、あまりの多さにやめました。
実を結ぶことは本当にすばらしい祝福をまわりにも与えますね。

私たちは枝だと書いてあります。 そして、実を結ばない枝は取り除かれ、実を結ぶものは刈り込みをされるとあります。
同じ枝なら、実を結ぶ枝になりたいですね。
実を結ぶ枝になるために聖書から見ていきましょう。

1.木にとどまらないと・・・

枝がぶどうの木にとどまっていなければ、実を結ぶことはできません。
枝だけでは枯れてしまいます。

私たちが実を結ぶために必要なことは、
「ぶどうの木であるイエス様にとどまること」です。

とどまっていないとどうなるのでしょう。

@実を結ぶことができない。
枝だけでは実を結ぶことができません。
当たり前ですが、実を結ぶための栄養が送られることがないため、実を結ぶことができず、枯れてしまいます。
枝が木につながっていなければ、実を結ぶことはできないのです。

A何もすることができない。
枝だけでは何もすることができないのです。
枝が木から離れてしまってはもう何もできずに枯れてしまうだけですね。
枝が木にとどまっていないと、実を結ぶことはできず、何もすることもできず、いずれは枯れてしまい、燃やされてしまうのです。

私たちもまた、木であるイエス様にとどまっていないと、実を結ぶことはできず、何もすることができない人生を歩むことになってしまうということですね。
イエス様につながることが私たちにとってどれだけ大切なことかがわかります。


2.イエス様にとどまるとは・・・

では、イエス様にとどまるとはどうすることなのでしょうか。

@御言葉にとどまる。
:7 あなたがたがわたしにとどまり、わたしのことばがあなたがたにとどまるなら、何でもあなたがたのほしいものを求めなさい。そうすれば、あなたがたのためにそれがかなえられます。

イエス様にとどまっているなら、御言葉が私たちのうちにとどまるのです。
御言葉ににとどまるとは、御言葉を実践することではないでしょうか。
救いを得るのに、行いは不要です。
イエス様を救い主として信じて、バプテスマを受けるだけです。
そこに何ら善行などは不要です。
でも、聖書にある祝福を受けるためには御言葉を実践する必要があります。
私たちが御言葉を実践する時に、祝福の神様はわたしたちの求めるものを与えて下さるのです。
御言葉にとどまる、つまり御言葉を実践して行く時に私たちは神様によって多くの実を結び、イエス様の弟子となり、神様に栄光をお返しすることができるのです。
そして、これがイエス様にとどまるということなのです。

A神の愛の中にとどまる。
:9 父がわたしを愛されたように、わたしもあなたがたを愛しました。わたしの愛の中にとどまりなさい。

神様の愛の中にとどまるとは、戒めを守るということです。
「わたしの戒めを守るなら、あなたがたはわたしの愛の中にとどまるのです」といわれていますから。
これは、戒めをすべて守ることに重点を置いているわけではないようです。
戒めを守るなら、あなたを愛しましょうといわれているのではありません。
まず、イエス様がわたしたちを愛して下さったのです。
だから、この愛の中にとどまりなさいといわれています。

神を愛する時、戒めにある「わたしのほかに、他の神々があってはならない」を破って他に神をつくるでしょうか。
神の愛で人を愛する時、戒めにある「盗んではならない」を破るでしょうか。
全ての戒めは、神を愛し、自分を愛し、人を愛する時に全うされるのです。
ですから、神の愛の中にとどまることは、同時に戒めを守ることであるのです。

私たちは神様に愛され、神と人とを愛し、戒めを守り、神の愛の中にとどまるものになりたいですね。

イエス様にとどまるとは、御言葉を実践し、神の愛の中で戒めを守ること。
イエス様にとどまる時に、多くの実を結び、さらに刈り入れされて成長し、成熟していくのです。
そして、神様の栄光を見ることができるでしょう。

結)喜びが満たされる。
ぶどうの木であるイエス様に、枝である私たちがつながる時にすばらしい祝福があることがわかりました。
そして、それらは、イエス様の喜びがわたしたちのうちにあり、私たちの喜びが満たされるためです。
イエス様によって、喜びが満たされるような素晴らしいこの話しをイエス様から聞けることを感謝し、喜びを満たしていただきましょう。
「イエス様にとどまる者」でありたいですね。
祈りましょう。




2006.8.27




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