2006年1月〜4月

2006.1.1「イエス様に心を向けて」 詩篇 103:1-14
2006.1.15「イエス様の祈り」 マタイ 26:36-46
2006.1.22「イエス様のとりなし」 ルカ 22:31-34
2006.1.29「イエス様のまなざし」 ルカ 22:54-62
2006.2.12「イエス様の前に」 ヨハネ8:1-11
2006.2.19「 神様が求めているもの 」 創世記4:1-7
2006.2.26「そこにある神の御業」 マルコ5:1-20
2006.3.12「誰の歓心を買うのか」 ガラテヤ1:6-10
2006.3.19「忠実であること」 マタイ25:14-30
2006.3.26「 羊と山羊 -愛と無関心-」 マタイ 25:31-:46
2006.4.2「よい事をする人」 マルコ 14:3-:9
2006.4.9「救いへの道」 ルカ 23:39-43
2006.4.16「復活のイエス様は共に」 マルコ16:1-8
2006.4.23「患難をも喜ぶ」 ローマ 5:1-11
2006.4.30「必要な忍耐」 ヘブル10:32-39

2006.1.1

「イエス様に心を向けて」

詩篇 103:1-14

序)どんな一年でしたか。
昨年一年はどんな一年でしたか。
それぞれに人生があり、それぞれにいろんなことがあったでしょう。
まずは、イエス様に全てのことを感謝し、イエス様を心からほめたたえたいですね。

今日は、主に心を向けることについてお話しします。


★主に心を向けよ。

@主をほめたたえよ。
ダビデは、自分の魂に命令しています。
「主をほめたたえよ」と。

私たちは、ついつい主に心を向けて、ほめたたえられるべき主をほめることを忘れてしまったり、
そのことそのものを困難に感じることがあります。
でも、聖書はいいます。 「主をほめたたえよ」と。

私も昨年、本業やいろんなことでストレスを感じ、メッセージ準備をするために聖書を開いても、何も進まないようなこともたびたびありました。 でも、その時に、祈ることによって、自分の中の何か妨げるようなものを気付かされて、更にイエス様に祈ることによって解放していただいて、乗り越えられたり、、
ある時は、まず賛美の選曲の準備をあえて先にして、ギターを弾いて賛美しました。 その賛美の中で解放されて、その後に聖書を開いていくとメッセージが与えられたりもしました。

つい、慣れてしまっていたりすると、イエス様に心を向けないで、形だけ主に何かをしているような時もあるかも知れません。 でも、心を向けて行く時に、主はそこにいろんな良きことをして下さるのです。
だから、主に心を向けられないなぁと感じる時も、自分の魂に 「主をほめたたえよ」と命じたり、 命じるように、主に祈ったり、主を賛美したりすることは素晴らしいことなのです。

主をほめたたえよ、と自分の魂に命じて、心を主に向けるものになりましょう。


A主の良くしてくださったことを何一つ忘れるな。
主は私たちによいことをして下さっています。
だからそのよくして下さったことをしっかりと心に留めましょう。
私たちは忘れやすいものです。
主がして下さったことを振返り、こころに留めることは聖書の命令なんですね。
忘れやすい私たちは、時々、振返って思い出すことによって、また心に留めることもできるでしょう。
このようなことはそれぞれがその機会を作ったりすることによって、できることです。
でも、ただそれだけではなく、心に留めることが大切なんですね。

そのためには、心を主に向けるものになることです。
心を主に向けているなら、主のよくして下さったことを思い出したり、数えることができたり、 感謝して心に留めることができることでしょう。
ですから、 主をほめたたえるものになるためにも、
主のよくして下さったことを何一つ忘れないためにも、
「主に心を向ける」ことが大切なのです。

結)主に心を向ける年にしよう。
1節、2節から話しましたが、3節以降には、主がどんなお方かが書かれてあります。
こんなに素晴らしい方で、素晴らしいことをして下さっているのだから、
主をほめたたえよ、主のよくしてくださったことを何一つ忘れるな、とダビデは自分の魂に命じているのです。

私たちも同じですね。
主が素晴らしい方、主がよいことをして下さっていることを知っています。
だから、主をほめたたえ、主のよくしてくださったことに心をとめましょう。

そして、これは昨年のことだけではないのです。
2006年、今日からスタートしたばかりですが、
この1年も主がほめたたえられるにふさわしい素晴らしい方であることは間違いありません。
この1年も主がよいことをして下さるに違いありません。

だから、今日から、 「主に心を向けて」スタートしましょう。
主をほめたたえることによって。
主のよくして下さることを心にとめることによって。

主に心を向ける人は幸いです。



2006.1.15


「イエス様の祈り」

マタイ 26:36-46

序)イエス様の祈り
今日は、私たちにとって、とても個人的な、神様と一対一の祈り・・・ そのような祈りについて、ゲッセマネのイエス様の祈りから一緒に見てきましょう。

:39 わが父よ。できますならば、この杯をわたしから過ぎ去らせてください。 しかし、わたしの願うようにではなく、あなたのみこころのように、なさってください。

1.本音の祈り

私たちはイエス様に祈る時、ついカッコつけて祈ったりすることはありませんか。

イエス様は、この後、十字架へ架かっていかなければならないことをご存知でした。
そのイエス様は、 「父よ、今から十字架に架かりに行きます。喜んでこのことをします。」とは祈られなかった。
「我が父よ。できますならば、この杯を私から過ぎ去らせて下さい・・・」でした。
イエス様でさえ、弱音を吐くような言葉で祈られた。

これは、私たちが、本当の気持ちを神様にぶつける祈りをしてもいいということをイエス様が地上の生涯の中で示された出来事だったのではないのでしょうか。
私たちは、神様の前に祈る時に、ついつい形式ばったり、カッコつけたり、マイナス的なことは言ってはいけないと思って、そのような祈りを”最初から”しようとします。
でも、イエス様はそうされなかった。
私たちが祈る時、まずはありのままの自分の本音を神様にぶつける祈りをしてもいいのです。
でも、これは神様と自分という一対一の祈りの中での話しです。


2.委ねる祈り

イエス様は、本音をぶつける祈りだけをされたでしょうか。
今一度、イエス様の祈りを見てみましょう。
:39 わが父よ。できますならば、この杯をわたしから過ぎ去らせてください。 しかし、わたしの願うようにではなく、あなたのみこころのように、なさってください。

本当は十字架に架かるというような苦い杯は受けたくない。 >ここまでは本音の祈りです。
でも、私の願うようにではなく、神様のみこころのようにして下さい。 >ここが委ねる祈りです。

イエス様は、本音を、ありのままの自分の気持ちを、ぶつける祈りをされました。
でも、その後に、それでも、あなたのみこころがなるように祈られたのです。

自分の気持ちをぶつけても構いません。
でも、決定権は神様に委ねるのです。

ここを間違うことがあるのです。
イエス様はありのままを受け入れて下さる。
本音のぶつけてもいいのだ。
でも、それは自分の思いを優先させることではないのです。
ありのままの自分をイエス様は受け入れて下さるし、本音をぶつけてもかまわないし、
そのあなたをイエス様は受け入れて、受け止めて下さるけども、
神様のみこころが自分の中になることを私たちもまた受け入れることが必要なのです。

あなたにとって、これは受け入れたくないと思うことがあるかもしれません。
でも、神様はそれをさせようとされるかもしれません。
この時、自分で判断してしまうことと、神様がさせようとされてることのどちらが正しいでしょうか。
自分の判断は不確かなものです。少なくとも私は。。。
しかし、神様は最善なる方で、いつもパーフェクトはことをされる方です。
この方に委ねることは、最善を選択することなのです。

私たちは、ありのままの本音をぶつけても構いません。
でも、その決定権は神様に委ねる、そんな祈りをささげたいですね。


結)神様は介入される。

そんな祈りを神様にささげ続ける時、どんなことが起こるのでしょう。

イエス様の変化を見てみましょう。
:38 「わたしは悲しみのあまり死ぬほどです。」
:39 「わが父よ。できますならば、この杯をわたしから過ぎ去らせてください。しかし、わたしの願うようにではなく、あなたのみこころのように、なさってください。」
:42 「わが父よ。どうしても飲まずには済まされぬ杯でしたら、どうぞみこころのとおりをなさってください。」
:45 「見なさい。時が来ました。人の子は罪人たちの手に渡されるのです。:46 立ちなさい。さあ、行くのです。見なさい。わたしを裏切る者が近づきました。」

変化しているのがわかります。
最初は、十字架のことを思うと、悲しみのあまり死ぬほどの思いになられています。
そして、本音をぶつけ、委ねる祈りをし、その祈りを続けられた時、
「どうしても飲まずには済まされぬ杯でしたら、どうぞみこころの通りになさって下さい」と父の思いを受け入れ始められる様子が伺えます。
更に同じ言葉で祈り続けられた後、
「さあ、行くのです。見なさい。わたしを裏切るものが近づいてきました」とその苦い杯を飲む覚悟ができて、そこに自ら向かっていこうとする勇ましい姿をうかがうことができます。
すごい変化です。
これは、神様に本音をぶつけ、ありのままの自分をそのまま神様の前にさらけだし、 神様に委ねる祈りをし続けることによって、神様が介入されて、 神様のみこころを受け入れるだけではなく、 そのことに向かっていく、力を受けるということが示されているのではないでしょうか。

私たちがこのような祈り 本音の祈り、神に委ねる祈り、をし続けることにより、
神様の介入を見ることができるのです。

イエス様はここでは、3時間ほどの祈りだったかもしれません。
いや、イエス様でも3時間はかかったといった方がいいかもしれませんね。
私たちは、3時間くらいじゃ足りないかもしれません。
でも、何日でも、何ヵ月でも、何年でも祈り続けるなら、そこに確実に神様の介入があるのです。
ぶっ通しで、何時間も何日も祈ることは困難かもしれない。
でも、構いません。そう本音を祈りましょう。
そして、少しずつでもいいから、祈り続けることが重要です。
その時に、神様の介入があるのです。
イエス様の祈りを模範とし、私たちも祈り続けるものになりたいですね。
そう願い応答する人は幸いです。 祈りましょう。



2006.1.22

「イエス様のとりなし」

ルカ 22:31-34
:31 シモン、シモン。見なさい。サタンが、あなたがたを麦のようにふるいにかけることを願って聞き届けられました。 :32 しかし、わたしは、あなたの信仰がなくならないように、あなたのために祈りました。だからあなたは、立ち直ったら、兄弟たちを力づけてやりなさい。」 :33 シモンはイエスに言った。「主よ。ごいっしょになら、牢であろうと、死であろうと、覚悟はできております。」 :34 しかし、イエスは言われた。「ペテロ。あなたに言いますが、きょう鶏が鳴くまでに、あなたは三度、わたしを知らないと言います。」

序)私たちはつまづいたり、倒れることもある者

子供はよくこけます。 ぼくもそうでした。
幼稚園が小学校の低学年のころ、市内のちょっとした山に遠足に行ったのですが、
その時、下り坂から上り坂になるようなところがあり、
そこを一気に下り、そのいきおいで上るという感じでみんなやり始めたので、
ぼくも調子に乗って、走って下りはじめました。
ところが、思った以上に下りがながく、足がついていかずに、のぼりになるまでに前のめりに転んでしまいました。
相当痛い想い出です。
いまだに下り坂は走りません。。

私たちは、つまずいたり、転んだり、倒れたりしますが、
これは人生、生活においてもそうですね。

クリスチャンになる前に、タバコを吸っていたのですが、
もうやめようと思い、禁煙にチャレンジしました。
でも、途中で挫折してしまいました。
そんなことが何度もありました。

また、学生のころ、1年以上つきあっていた彼女に振られた時は、人生につまずきました。
というと大袈裟ですが、そのころのぼくにとってはそれくらいの打撃でした。
毎晩飲み歩いて、つけをため込んだ時期でもあります。

みなさんはこんなつまずきや挫折を経験されてないかもしれませんが、
少なくとも何らかのことで、よく似た経験をしたことはあるのではないでしょうか。

やってはいけないと思いつつも、やってしまって、罪を犯してしまったこと。
今年こそ○○するぞ。と新年に決めたのに、もう既にできていない・・・とか。

人生には、つまずいてしまったり、思ったようにできなかったりして、倒れてしまうような経験が大なり小なりあると思います。
でも、私たちはそういう者なのです。
だからといって、何やってもいいというわけではないですよ。

努力しても、思うようにできないこともある、人はそういう弱さを持っていたり、 サタンがそのように誘惑してきて、それに耐えられない時もある、そういう者であるということなのです。

:31 シモン、シモン。見なさい。サタンが、あなたがたを麦のようにふるいにかけることを願って聞き届けられました。

どちらにしても、まず自分自身をそのままの自分を受け止めましょう。

スポーツ選手でも、自分の弱点を知らずして、成長はないんですね。
その弱点を克服するように訓練することによって、成長していくのです。

高ぶることなく、まずは、自分はそういうものである事実をしっかり受け止めましょう。

さて、それだけでは、私たちは、自己嫌悪に陥ったり、 凹んじゃいますよね。
自分ってなんて情けない、弱い、愚かなやつなんだ・・・って。

でも、イエス様は私たちをどう見ておられるのでしょう。


1.あなたのために祈って下さる。
:32 しかし、わたしは、あなたの信仰がなくならないように、あなたのために祈りました。
ヘブル 7:24-25 しかし、キリストは永遠に存在されるのであって、変わることのない祭司の務めを持っておられます。 したがって、ご自分によって神に近づく人々を、完全に救うことがおできになります。キリストはいつも生きていて、彼らのために、とりなしをしておられるからです。
イザヤ 43:4 わたしの目には、あなたは高価で尊い。わたしはあなたを愛している。

イエス様は私たちのために祈って下さるお方です。
そんな弱さを持ち、つまずいたり、倒れたりすることをご存知の上で、私たちの為に祈って下さるお方なのです。
私たちの為に日々執り成し、祈ってくださっているのです。

ペテロはじめ弟子達を愛して、祈られたイエス様。
今、イエス様は私たちがどんなに弱く、倒れるものであっても、私たちを愛して、尊いものとしてみて下さり、 私たちの為に執り成して祈って下さるのです。
ここで、ペテロがつまずき、散らされてしまうことをご存知で、ペテロの為に祈ったと言われています。

もし、過去の罪やイエス様に応えられなかったことや失敗やつまずきをそのまま引きずらないと生きていけないなら、なんという苦しい人生でしょう。
ぼくは、とてもここに立てませんし、教会へも行けないと思います。

でも、イエス様はそうは言われてない。
ペテロに対して、麦のように振るわれるでしょう。でも、信仰がなくならないように祈ったよ。と言われた。
たとえ、失敗しても、つまずいても、倒れても、見捨てないよ。という神様のメッセージを見ることができますね。

見よ、私は世の終りまであなたがたと共にいる。と言われた主が、 見捨てない、共にいる、愛している、祈っている、、、と言われるのです。

ですから、もし、こんな失敗をした、倒れてしまった、、、 神様に申し訳ない、と思っても、大丈夫です。
イエス様は、既に、そして今もあなたの為に祈って下さっていますから。

だから、私たちは、もう一度立ち上がれるのです。


2.あなたは立ち直れる。
:32・・・・・だからあなたは、立ち直ったら、・・・

イエス様が祈って下さったから、ペテロは立ち直れたのです。
イエス様がここでペテロに言われました。
「あなたの信仰がなくならないように祈ったから、立ち直るのです。」と。

私たちはつまずいたり、失敗したり、倒れたりするけれども、
イエス様が祈って下さっているから、立ち直れるのです。
感謝ですね。

私自身、何度もそうやって立ち直ってきました。
それはイエス様が祈って下さっていたから。
また、イエス様によって、私のまわりの人がたくさん祈ってくれていたからだと思います。
そうやってこれからも立ち直ることができるのです。

これはイエス様によるのです。自分によるのではないのですね。
へりくだって主に感謝しましょう。

年頭のメッセージでもあったように、 イエス様にいつも心を向けましょう。
イエス様が弱い私たちの為に今も祈っていて下さるから。
このお方によって、立ち直ることができるから。

このことを経験するなら、ますますイエス様を信頼し、
心を向けるものとなるでしょう。


結)立ち直ったら・・・
ペテロがイエス様の祈りによって、立ち直ったあとに、するべきこととして言われたことは、
「兄弟たちを力づけてやりなさい」でした。
イエス様の祈りによって、信仰がなくならず、自分の弱さに打ちひしがれ、倒れてしまったペテロが立ち直った時に、兄弟達を力づけるということを命じられました。

これは、イエス様によって立ち直った人は、自分だけでなく、周りの人にまでその愛を、恵みを流し出す人になれるということではないでしょうか。

私たちは、同じような苦しみを味わった人の気持ちがわかるでしょう。
その時、その人の気持ちを理解して、執り成して祈ることもできるでしょう。

イエス様は十字架に至るまでの地上の生涯の中で、あらゆる苦しみや痛みを経験されました。
だから、私たちの苦しみを理解して、祈って下さるのです。

そして、このイエス様によって立ち直ることができた人は、
今度は他の人を力づけることまでもできるようになるのです。

私たちの人生に無駄なことなど何一つありません。
失敗したことも、倒れてしまっていた時間も、罪を犯してしまったことも、
イエス様はすべてを益にして下さるお方です。
そして、このお方が「信仰がなくならないように」祈って下さるのです。
イエス様を知った私たちは、どんなに回り道をしたとしても、
立ち直れるのです。
そして、兄弟達を力づけることができるのです。

今、自分が倒れているという人は、主に心を向け続けてましょう。
必ず、立ち直れます。なぜならイエス様が祈って下さっているから。
今、自分が立ち直ったという人は、さらに主に心を向け続けてましょう。
弱っている人を力づけることができます。
これは、直接声をかけることばかりでなく、 主が私たちにして下さっているように、執り成して祈ることによってもできます。

本当に感謝です。
この素晴らしいイエス様に今日も心を向けましょう。
祈りましょう。



2006.1.29

「イエス様のまなざし」

ルカ 22:54-62

序)泣くという表現
みなさんは、激しく泣いたことってありますか?
私は、クリスチャンになってから、感情が回復したような経験があります。
お笑い番組を見て、面白いと思っても、声を出して笑うことはほとんどありませんでした。
感動するような映画やドラマを見ても、ジーンと来たとしても、涙が出るようなこともありませんでした。
ところが、クリスチャンになってから、お笑い番組を見ていて、面白いところで、つい声を出して笑っていたり、吹き出したりするようになりましたし、
感動した時に、涙を流すようになったのです。
自分の中の感情が回復したのでしょうか。
素直に反応するようになったような感じでした。

そして、これは年を追う毎に顕著になっているようです。。。年のせい?^^;

今朝、この、ペテロが激しく泣いた箇所を共に見ていきたいと思います。


1.激しく泣いた。

ペテロは激しく泣きました。
激しく泣くというと、 肉親を亡くしたり、友人を亡くしたり、あるいは失恋して恋人を失ったり、等、
激しく泣くというとそれくらいのことを想像したりしますよね。
確かにそういう時もあるでしょう。

サムエルの母ハンナは、まだ子供がない時に、神様の前に激しく泣き、祈りました。
それは、ある種のうめきのような、叫びのようなものだったのでしょう。
また、出エジプトの時、過越の祭りの原点でもある、 死の使いがエジプトを巡り、家の初子が次々と死んでいった時に、大きな悲しみと共に泣き叫ぶ声が聞こえました。
また、生まれてすぐのイエス様を殺そうとヘロデがベツレヘムとその近辺の男の子をみな殺した時にも、泣き、嘆き叫ぶ声が聞こえました。

みなさんはいかがですか。
激しく泣いた経験はありますか。
そこまでの経験はなくとも、こころで泣くような経験はあるんじゃないでしょうか。
イエス様の前に、罪を犯してしまって、悔改めて・・・と泣く。
イエス様に応えられなくて、申し訳なくて・・・泣く。

「牢であろうと死であろうと、イエス様にご一緒します」と言ったペテロはここで、
イエス様が言われたように、鶏が鳴く前に3度、イエス様を知らないと言いました。
そのことに気付いて、我に返ったペテロは、外に出て激しく泣いたのです。
自分が情けないと思ったのでしょうか。
イエス様に申し訳ないと思ったのでしょうか。
いろんな思いが交錯したから、激しく泣いたのでしょう。

余談ですが、激しく泣くときは、理由は単純ではないと思います。
自分の無力さ、亡くした悲しみ、同情、悔しさ、理不尽な思い・・・・・いろんな思いが交錯するから、激しくなくのではないかと思うのです。

とにかく、ペテロは激しく泣きました。
でも、これは後のペテロにとっては大きな貴重な経験となったと思います。

先程、みなさんは激しく泣いたことはありますか、とお聞きしました。
激しくでなくても、泣いたことはあるんじゃないでしょうか。
その経験はあなたにとってどのようなものでしょうか。
泣くほどの出来事によって、私たちが経験するのは、とても貴重なことが多いと思います。

泣いたことによって、すっきりして立ち直ったという経験もあるかもしれません。
泣いたことによって、人の気持ちがわかるようになったかもしれません。
泣いたことによって、二度の同じ過ちを犯さないようになったかもしれません。

いろんな経験をし、いろんなことを学び、体得してきていることがあると思うのです。

ペテロはここで激しく泣きました。
しかし、この経験から、後にイエス様が祈って下さっていたように、信仰をなくすことなく、立ち直ったときに、兄弟たちを力づけることができたのだと思うのです。
二度と主を拒むことをしなかった。

この経験はペテロしかできなかったのです。
なぜなら、他の弟子達は、逃げてしまって、こっそりでもついていったのはペテロだけだったからです。

ペテロの経験は、貴重なものでした。

もし、あなたが今でも過去にでも泣いた経験があるなら、
それは貴重な経験になっているのだと思います。
ましてや、イエス様に心を向けているからこそ、泣いていたなら、泣いているなら、
それは信仰の上で、とても大きな貴重な経験となるでしょう。

今は泣くほどに苦しい思いをしていたとしてもです。


さて、この時のイエス様は・・・


2.見つめられた。

イエス様は、ペテロが3度イエス様を知らないと言った時、
振り向いてペテロを見つめられた、のです。

イエス様が見つめられた「目」はどんな視線だったのでしょうか。
「ほらみろ、ペテロ。さっき言った通りだろ?だからお前はだめなんだよ。いい加減なこと言って、結局裏切っちゃうんだから・・」とか
「ペテロ、やっぱり裏切ったな。結局誰もついてこないじゃないか。この恨みは・・・」とか?

そうじゃないはずです。

イエス様はペテロを、睨まれたのでもなく、威嚇されたのでもない。。。

見つめられた、のです。

ぼくには、この表現から、イエス様は、ペテロに対して、 愛に満ちたまなざしで見つめられたのだと感じました。
だから、ペテロは激しく泣いたんだし、その後、イエス様の為に命を惜しまず、立ち上がれたと思うのです。

「ペテロ、あなたはそういう弱さを持っていることを私は知っているよ。
だから、前に言ったように、私を知らないと言ってしまっただろう。
でも、大丈夫、その時に言ったように、私はあなたの信仰がなくならないように祈ったから。
自分の力に頼って、信仰生活を歩むんじゃなくて、
神に祈り、神に信頼し、神の霊によって信仰生活を送るんだよ。
自分の弱さも自覚した上で、更に祈って歩みなさい。
私はあなたを愛している。わかったかい?」

まるで、そんな声が聞こえてくるようでした。私には・・・。

私たちがイエス様の前に罪を犯してしまって、悔改めて泣いた時、
イエス様に応えられなくて、申し訳なくて泣いた時、
イエス様は責められず、愛のまなざしで私たちを見つめていて下さる。

そして、その愛に心打たれて、泣き、そして、立ち直るのです。


結)イエス様のまなざしがいつも注がれている。
私たちの信仰生活には、イエス様の愛のあたたかいまなざしがいつも注がれているのです。
私たちが失敗したり、罪を犯してしまったり、いろんな経験をする時、
イエス様は愛のまなざしで私たちを見つめて下さり、いつも見守って下さるのです。

私たちは、罪を犯してもいいのではありません。
イエス様のまなざしが向けられていることを体験し、そこから立ち直るものになりたい。
自分の力ではなくて、神の力によって。
祈りましょう。



2006.2.12

「イエス様の前に」

ヨハネ8:1-11

序)映画パッションのシーンにこの箇所がありました。
地面に指で何かを書いておられるイエス様
姦淫の罪を犯したという女
そしてその女を連れてきた人達
人々の手から落ちていく石
そして去っていく人々・・・

今日はそんな聖書の箇所から、そのそれぞれの立場から教えられていきましょう。


1.裁こうとする人

律法学者とパリサイ人は、姦淫の場で捕えられた女を連れてきて、イエス様を試すために裁こうとした。
私たちは、つい人を裁いてしまったり、裁こうとしてしまったりすることはありませんか。

私は、いかに自分が人を裁こうとしやすいものかを自覚しています。
不法なそして長時間の路上駐車で迷惑した時に、イライラっとして、心の中で裁いている自分。。。
まあいろいろあります。

この聖書の箇所でも、多くの人がいましたが、イエス様に 「あなたがたのうちで罪のない者が、最初に彼女に石を投げなさい。」 と言われて、 年長者からはじめて、全員が裁くことができずに去っていきました。

私もいろんな時にその人を裁こうとしている自分を見つけますが、
その時はいつも、 「あなたがたのうちで罪のない者が、最初に彼女に石を投げなさい。」 を思い出し、自分も罪人でイエス様によって許されてるから今があるということを思い出して、悔改めるのです。

私たちは裁こうとする人になりたいですか?
できれば、なりたくないですよね。
「人のふりみて、我がふりなおせ」とはよくいったものです。
自分の罪は見えずに、人のアラや悪いところばかりに目が行ってしまいやすい私たちをイエス様はそうはならないように、このような出来事を聖書に残して下さっているのだと信じます。

マタイ7には、 「さばいてはいけません。さばかれないためです。 あなたがたがさばくとおりに、あなたがたもさばかれ、あなたがたが量るとおりに、あなたがたも量られるからです。 また、なぜあなたは、兄弟の目の中のちりに目をつけるが、自分の目の中の梁には気がつかないのですか。 兄弟に向かって、『あなたの目のちりを取らせてください。』などとどうして言うのですか。見なさい、自分の目には梁があるではありませんか。 偽善者よ。まず自分の目から梁を取りのけなさい。そうすれば、はっきり見えて、兄弟の目からも、ちりを取り除くことができます。」

私たちは裁くものにはならず、そのようなことを思った時は、自分を見直す時として用いるならば、主は更に成長させて下さるでしょう。


2.罪を犯した人

姦淫の場で捕えられた女は、確かに罪を犯した人でした。
でも、最後はゆるされました。

私たちは罪を犯していないのでしょうか。
いえ、同じ罪を犯してはいないとしても、罪を犯していない人ではないはずです。
義人は一人もいません。
私たちは皆、神様の前には罪人の一人に過ぎません。

罪人はどうすべきでしょうか。
ここで、この女は無理矢理ではありましたが、イエス様の前に出てくることになりました。
ここにヒントがありますね。

罪人は、イエス様の前に出るのです。

私たちもイエス様の前に出て、罪を告白し、悔改めた時にイエス様に赦されました。
私たちは既に罪赦された罪人ですが、それでも、罪を犯してしまうこともあるかも知れません。
そんな時はどうするのでしょう。
イエス様の前に出るのです。
そして悔改めるのです。
女も自らではなかったですが、結果的にイエス様の前に出ました。
もし、この女が捕えられずに罪を犯してもそのままでいたなら、また罪を犯してしまったかも知れません。 あるいは、罪を犯し続けたかも知れません。
でも、イエス様の前に出ることによって、その罪の赦しを得ることができました。
そして、きっとその後は罪を犯さないような人生を歩む努力をしたと信じます。

私たちにとっては罪を犯していない時の方がイエス様の前に出やすいですよね。
でも、罪を犯してしまった時、イエス様の前に出ることを困難に感じることもあるでしょう。
だからこそ、そんなときであるからこそ、イエス様の前に出なくてはならないのです。
罪を赦してもらうために。。。

勿論、その為には、イエス様に罪を告白し言い表し、悔改めなければなりません。
でも、そうするなら、
1ヨハネ 1:9 もし、私たちが自分の罪を言い表わすなら、神は真実で正しい方ですから、その罪を赦し、すべての悪から私たちをきよめてくださいます。
のです。

罪を犯してしまった時、そうでない時もですが、イエス様の前に出るものになりましょう。


3.罪を裁かれない方

イエス様は、裁くことができない方ではありませんでした。
でも、裁かれなかった。
「わたしもあなたを罪に定めない。行きなさい。今からは決して罪を犯してはなりません。」
女はきっとイエス様の愛に触れたことでしょう。
もし、イエス様の前に出ることがなかったら、罪を犯し続けていたかも知れない女でしたが、 無理矢理ではあったけれども、イエス様の前にでることによって、 罪が赦され、イエス様の愛に触れ、この後の人生で同じ罪を二度と犯さないようになったと信じます。

罪を裁かれない方、イエス様は、罪を赦すことができるお方です。
なぜなら、イエス様は私たちの罪の為に、その命を代償としてささげて、 罪の代価を支払って下さった方だからです。
私たちがイエス様の前に出て、悔改める時、許されるのはなぜでしょうか。
それは、イエス様が命を捨てて下さったから、 イエス様が私たちを愛して、私たちの為に、罪を負って下さり、その罰を受けて下さったから、 そのことを知る時に、同じ罪を二度と犯さないようにその人生を歩もうとするのではないでしょうか。
でも、確かに人間には弱さがあります。
それでもまた同じ罪を犯すこともあるかもしれない。
それはまだまだ自分の力で歩もうとしているからです。
そんな時こと、更にイエス様の前に出て、イエス様により頼んで、
イエス様を自分の力として、歩むように導いておられる時だと信じます。

結)私たちは、人を裁くことができるようなものではありません。
罪人です。 でも、イエス様の前に出る時に、その罪は赦され、イエス様の愛に触れ、 イエス様と共に、歩む人生を送ることができるのです。
このお方を今日も見上げて、このお方の前に今日も出て、 歩み続ける人は幸いです。
祈りましょう。




2006.2.19

「 神様が求めているもの 」

創世記4:1-7

神様が私たちに何を求めておられるのかをこのささげものの箇所から見ていきましょう。

序)プレゼントは誰のため?
プレゼントは誰のためにするのでしょう?
もちろん、プレゼントを渡す相手のためです。
大切なのは相手の気持ちです。そこに関心があります。
でも、相手の反応を知りたい!喜んでくれるかどうか? ということは自分のプレゼントが、どう思われるか?ということにも、とても関心がある、ということなのです。
実は自分のためにプレゼントしていることもある、ということです。それはけして悪いことではありません。

でも、神様と私たちの関係の場合、どうでしょうか?

1.はじめての“ささげもの” :3 :5

今日はこの個所から神様が私たちにもとめておられるものは何かを教えられていきたいと思います。
さて、アダムとエバに二人の子供が与えられました。 兄のカイン、弟のアベルです。 兄のカインは、土地を耕しました。そして弟のアベルは羊飼いになりました。 日がたって、カインは地の産物を持ってきて、主に供え物とした。 さて、それから日がたったとき、カインは自分が作ったもの持ってきました。
そして神様に感謝のささげものとして供えました。
「神様!ありがとうございます。この野菜が収穫ができたのもあなたのおかげです。ありがとうございます!」といってささげたのでしょう。
また弟のアベルも自分が育てた羊をささげものとして持ってきました。
「神様!ありがとうございます。羊たちが守られ、増えていったのは、あなたの祝福のおかげです。ありがとうございます!」

これは聖書に出てくるはじめてのささげものです。
なぜささげものをするのか?という時、とても大切なことがあります。それはすべてのものは神様のものだ、ということです。

・詩篇 24:1 地とそれに満ちているもの、世界とその中に住むものは主のものである。

神様がすべてのものを造られました。 そして、今神様からすべてのものを与えられている、ということです。土地も神様のもの、雨も神様のもの、光も神様のもの、種も神様のもの。だからその土地でできた野菜や果物は神様のもの。すべてが神様の恵みによって生まれてきたのです。 だから、与えてくださった神様に感謝して、全部神様のものだけど、その中から一部分を神様に感謝してささげる・・・・ということです。

・レビ記 27:26 しかし、家畜の初子は、主のものである。初子として生まれたのであるから、だれもこれを聖別してはならない。牛であっても、羊であっても、それは主のものである。
・レビ記 27:30 こうして地の十分の一は、地の産物であっても、木の実であっても、みな主のものである。それは主の聖なるものである。

でも、それだけでないですね。すべてのものは神様の恵みによって与えられているものです。 時間もそうですね。感謝もそうです。喜び、証・・・・すべて神様から恵みによって与えられたものです。


2.神様はあなたの“心”を求めています。

ところがです。カインがもってきた白菜やにんじん、キャベツを見た神様はチラッと見ておわりです。
でもアベルがもってきた供え物をみた神様はそのささげものに目を留められたのです。
それを見たカインは「なんで!なんで僕のはダメで弟のはいいんだ!神様はおかしい!間違ってる!」といって顔を伏せました。大いに憤って・・とありますから。

私はこの個所を見ると、うらやましいです。
確かにカインのささげものには目を留められなかったんですが、でもそのことがわかるんです。
「あっ!なんだよ。弟と弟の供え物にばっかり」とか「あれ?なんで僕の供え物を無視するんだよ」 ということがわかるんです。
それは神様ととても近い関係だからではないでしょうか?
うらやましいですね。もっと神様の気持ちが手にとるようにわかるようになりたいな、そう思います。
でもそれだけ神様に近く、神様を感じることのできるカインが罪を犯してしまったのです。
ここから教えられることは多いですね。

4:4 また、アベルは彼の羊の初子の中から、それも最良のものを、それも自分自身で、持って来た。主は、アベルとそのささげ物とに目を留められた。
アベルのささげもの・・・それは羊のういごの中から最良のものだったのです。そして自分自身で持ってきました。
カインはどうだったのでしょう?
アベルは最高のものをささげ、カインは最高のものではなかったので、神様は目を留めなかったのでしょうか?
でもみなさん、神様は最高のものを求めておられる方ではありません。
最高の羊が欲しい!最高の野菜が欲しい!とは言われないのです。
なぜ?全部主のものだからです。神様が造られたからなのです。 だから、どんなものであっても、私たちのささげるものをイエス様は喜んで受け取ってくださるでしょう。

アベルが最高のものをささげたのには理由があります。
イエス様は最高のものをささげるのにふさわしいお方だからです。
なぜなら、イエス様は私たちのために最高のものをささげて下さったからです。
それは神であるイエス様ご自身を、罪を許すためささげてくださったからなのです。
黙示録 4:11 「主よ。われらの神よ。あなたは、栄光と誉れと力とを受けるにふさわしい方です。あなたは万物を創造し、あなたのみこころゆえに、万物は存在し、また創造されたのですから。」

神様が求めておられるのは、今自分にとってできる、最高のものをささげたい、そう願う心です。

レプタ二つをささげたやもめ・・・最高のささげもの。
それは心がささげられているから。
カインはアベルと比べていたのです。その心を神様は悲しまれました。
もし、自分にとって最高のものをささげていれば、けして憤る必要はなかったでしょう。

:7 あなたが正しく行なったのであれば、受け入れられる。(新改訳)
:7 正しい事をしているのでしたら、顔をあげたらよいでしょう。(口語訳)

ささげたものを他の人と比べるのはおろかなことです。
それは自分自身を傷つけてしまうからです。

賛美も、ちょっとはずれてもいいのです。自分にできる最高なら!
祈りも・・・そんなにかっこいい言葉で祈らなくてもいいのです。
証も他の人と比べる必要はありません!

神様との関係は、人と比べてあるのではないのですね。
オリンピックでなかなかメダルが取れません。
これは、人同士が比べて順位をつけている以上、メダルを取れる人とそうじゃない人がいます。
でも、神様は私たち全員に与えるだけのメダルを用意して下さっています。
他の人と比べる必要もなく、他の教会と比べる必要もありません。
1対1なのです。神様と私。

他と比べることなく、神様に「最高の心」をささげたいですね。

結)神様は心を求めています。
神様は“カインの心”をも求めておられたのです。
いまできる最高のものを・・・
正しい関係となるように。
主は愛するものを訓練するお方ですから。
でも気付かないなら・・それはとても悲しいことです。
私たちもそのように比べてしまって、心を傷付けていませんか。
そうではない。神様は人と比べて同じ物やそれ以上のものを求めておられません。
今のあなたの最高の心を求めておられるのです。
その神様の思いに応答できる人は幸いです。
祈りましょう。



2006.2.26

「そこにある神の御業」

マルコ5:1-20

序)ある一人の男の話
彼は、いろんなものに支配されていました。
酒に溺れ、タバコで体はボロボロ。。。
スナックの店のカウンター越しに愛想よくしてくれる女性の気をひこうと毎日通いづめて飲み代にお金はつぎこまれ、それでもお金儲けをしようと野望は持っているけれども、実現が難しいとわかると、半分人生をあきらめて、その日その日がよければそれでいい、というような生活になっていったのでした。 それでも、彼は自分自身にコンプレックスを持っており、悩みのないような振りをしていたけれども、本当は悩みだらけでした。
そんな彼に転機が訪れました。
友人から、イエス様の話しを聞いたのです。 彼は、聖書の話しなんて聞いたこともなかったし、教会にもいったことはありませんでした。 それでも、仲のいい友人だから、話しに一応耳を傾けました。 その話しを聞いている最中もビールを片手に、タバコを吸い、聖書の話し、友人がクリスチャンになった話しを聞きました。 彼は半信半疑でしたが、友人がしきりに進めるので、一度友人がいっている教会へ足を運ぶことにしました。
彼は、日曜の朝、友人と一緒に教会にいき、礼拝に出席しました。 一種異様な雰囲気を感じた彼は驚き、毎週日曜を死ぬまで教会に通わなければならないなら、なんという不幸な選択だろうと感じました。 でも、同時に、本当にここで言っている、聖書に書いてある神様が本当の神様なら、無視するわけにはいかないと思ったのです。
次の週は仕事で礼拝には行けませんでしたが、その翌週はもう一度行こうと思っていました。 しかし、また用事が入っていけませんでした。 彼は「仕方ない。来週行こう」と思いました。 しかし、直前に今度は仕事が入ったのです。 「まあ、仕方ない、来週は行こう」 そう思ったのです。 しかし、その次の週も急な用事が入り、教会には行けませんでした。
彼はこの時、思ったのです。
「自分は教会にもう一度だけ行ってみようと思っている。 それなのに、行こうと思っているのに、行けない。 もし友人が行っているように、神様と悪魔のいるなら、 悪魔は俺が神様のもとに行って、神様のことがわかるようにならないように 行くことができないように、妨げられているのかも知れない・・・。 そして、そのまま行けなくして、神様からおれを遠ざけようと悪魔がしているのかもしれない。 もし、そうだとしたら、俺は来週、どんなことがあっても、教会にいくべきだ。 なぜなら、そこは本当の神様の存在を知ることができる場所かも知れないから。。」と。
そうして、彼は次の週、あらゆる用事や仕事が入ろうとしても、断って教会に行きました。 そして、とにかくここでクリスチャン達が言っている神様が本物なのかどうか、わかるまでいってみようと決意したのです。 その決意の故に、彼はその礼拝後、洗礼を受けました。
そして、その後、彼は神様の存在を確信し、イエス様の救いを確信し、 教会に通い、神様を愛するクリスチャンの一人となりました。
彼は今、自分の召しを神様に問いつつ、 今自分にできることを精一杯神様の前にささげつつ、 ある教会で奉仕し、一人でも多くの人が神様の愛を体験し、 イエス様の救いに預かって、イエス様につながることができるように願い、 その信仰生活を送っているのです。

そして、その「男」とは、ぼくです(^^;

これはぼくの救われた時の証しから現在の証しですが、
一人の男の話として、外から見るように話すと このようになるんですね。

さて、これと同様に、今日、お読みいただいたこの汚れた霊につかれた男の話しから、
神様がどんなに素晴らしい方か、 どんなことをして下さる方かを見て、 共に神様をあがめたいと思います。

1.人の力の限界

人の力ではどうしようもできないこともある。

この男は汚れた霊につかれており、もはや誰も、鎖をもってしても、彼をつないでおくことができなかったのです。

私たちの生活する中で、自分の力ではどうすることもできないようなことも体験するのではないでしょうか。

最初に話した私のことですが、就職した年の4月に仕事中に自分のミスもあり、事故で死ぬような経験をしました。 特にそれからというもの、人間どんなにがんばっていても、いつどんなことで死ぬかもしれないということを思うようになり、 その日その日が楽しければそれでいいじゃないか・・・というような気持ちを持って生活するように自分を追込むようになっていきました。 自分ではどうすることもできないという経験でもありました。

子供をターゲットにした、悲痛な事件が後を立ちません。
学校や幼稚園、保護者や地域が一生懸命になって、子供を守ろうとしても、 その保護者が加害者になることもあります。 また、地域の人が加害者になることもあるのです。
どんなに法律で規制しても、その抜け道を探し出し、悪いことをする人がいます。
自分達ができる限りのことをやったとしても、守れない時もあるのです。
また、どうしても限界もあります。
地震に強い家を作ったり、地震の振動を免れる家を人間は作ります。 津波から守る為に高い防波堤を作ります。 雪に強い建造物も作ります。
それでも、それを越える自然災害がやってくることもあります。
雪で建物が崩壊することもこの冬はありました。
人には限界があるのです。 どうしようもない人間の力の限界は体験することはあるのです。
地震で、津波で、雪害で、暑さで、台風で、ウイルスで、病気で・・・。

この汚れた霊につかれた男もそんな人間の限界を越えてしまって、 どうしようもない状況でした。
でも、そこにイエス様が来られたのです。


2.イエス様に不可能はない

イエス様はその限界をも打ち破られるお方です。

イエス様は、人の力ではどうすることもできなかった男を正気に返らせられたのです。
私の場合も、イエス様との出会いがなければ、
「太く短く生きればいい」 「その日その日が楽しければそれでいい」 「人間、いつ死ぬかわからないのだから」 と思って生きていったと思います。
もし、そうしていたら、今私はどうなっていたのでしょう。
もう死んでいなかったかもしれない。
いたとしても、体はボロボロ、心もボロボロ、とにかくなんとなく過ごしていたかもしれない。
でも、そんな私を救って下さったのが、イエス様でした。
今は本当に健康にもなって、無茶するような人生ではなく、神様に信頼し、委ねつつも自分だけでなく、周りの人のことも配慮することができるようになり、 苦しかったり、悲しかったりすることもありますが、楽しく感謝な日々を送ることができています。
イエス様には不可能はないのです。
今の時代、いろんな問題があります。
でも、私たちはイエス様にあって、希望を持つことができるのです。

Iさんは、病気で娘さんを亡くされました。
でも、天国でまた会えるという希望があります。

イエス様は無から有を生み出し、死人をよみがえらせることのできるお方です。
不可能はないのです。
このお方に私たちは希望を見出すものになりたいですね。
そして、イエス様に希望があることを一人でも多くの人に知ってもらいたいと祈ります。

さて、イエス様によって解放された男は、イエス様についていきたいと願いましたが、
イエス様はどうされたでしょう。


3.召しと賜物

イエス様についていくだけが召しではない。

イエス様に救われた人は、イエス様についていきたいといいました。
でも、イエス様はそれを許されず、そこに留まり、家族や地方の人々に証ししたのです。

私が救われた時は、京都市に住んでいました。
半年後に地元長浜に戻ってきて、ここに住み、滋賀の救われた教会で過ごしました。
今は地元長浜で、主にささげているわけですが、
これは、ぼくの場合です。

人によっては、どこかに送り出されるでしょう。
そこに留まって仕えることに導きがあるかもしれません。
牧師になる人もいれば、伝道者になる人や、宣教師になる人もいるでしょう。
そうではなく、教会で仕えつつ、職場で用いられる人もいるでしょう。
あるいは地域で用いられる人もいるかも知れません。
病気がちで入院されている人なら、病院で用いられるかもしれません。

神様は一人一人に自由に賜物を与え、それぞれに召しを用意されているのです。
何もみんなが同じ道を歩むのではないのです。
ペテロやヨハネ等、弟子達は、仕事も捨て、家族とも別れ、イエス様についていくことが召しでした。
でも、この男はそこに留まり、そこで神様が自分になさったことをいい広めることが召しでした。
私たちも一人一人、召しが違います。
誰とも比べる必要もないのです。
神様の召しに従って、歩むことが神様が私たちに願っておられることです。

結)一人の人の人生に神様が関わって下さる時、それは素晴らしい神様の御業です。
あなたの人生にも神様は関わって下さるし、それは神様の御業の一つなのです。
人の人生の数だけ、神様の御業はあります。
どんな悲観的な状況であっても、神様に希望を見出すことができ、
神様がそこに介入される時、素晴らしい御業があらわされ、
更にその人の人生を通して、多くの人に影響を与えていくのです。

このイエス様に希望をおき、イエス様の召しに従って、
イエス様を見上げつつ、歩む人は幸いです。




2006.3.12

「誰の歓心を買うのか」

ガラテヤ1:6-10

序)召しはどこから。
私たちが召されたのは、キリストの恵みによる。
神が恵みによって、呼ばれ召して下さった。
まずは、私たちが召されたのは、神様によることを心にもう一度とめましょう。
そして、それは私たちからでたのではなく、神様の恵みによるのだということを。
本当に感謝ですね。
そのことを踏まえて、お読みいただいたところから共に教えられたいと思います。

1.誰の歓心を買うのか。

@人に喜ばれようとしているのか、人の歓心を買おうとしているのか。
もし、そうだとしたら、キリストのしもべとは言えない、と聖書はいいます。

歓心・・・喜ぶ気持ち、うれしいと思う心

人に喜んでもらうことが悪いことだといっているのではないのです。
その中身のことであり、また、優先順位のことを言っているのです。
まわりのクリスチャンの歓心を買おうとしたり、牧師の歓心を買おうとしたりすることに対して、パウロは警告しているのだと思います。
なぜなら、パウロは11節以降で、使徒達の歓心を買おうとしていないことを書いています。
私は神から啓示を受け、神の恵みによって、示されたことを人に相談せずに、先輩の使徒達にも相談せずに行動したことを書いています。
パウロがいかに人の影響を受けずに、神の影響を受けて行動したかがうかがえます。

マインドコントロールとか、カルト等といわれるようなことについて、
その特徴の一つに、人々がその教祖や指導者達の言うことを聞くだけになったり、
その人達の歓心を買おうとすることがあります。
そこから抜け出すためにも、人ではなく、神とつながり、神から教えられるものになることが大切です。

私たちは、まわりのクリスチャンやまわりの教会からよく見られようとすることで歓心を買おうとするなら、それは間違っています。

A神の歓心を買おうとする。
私は、神様が私に示されたと信じる通りに歩もうとして今も歩んできています。
でも、ダビデのように、罪人であり、弱さもあり、打ちひしがれたり、うなだれ、嘆いている時もあります。
それでも、神様の前にはいつも出ようとし、神様から目をそらさないようにと願っています。
私にとって、人の歓心を買おうとすることとは、多くの先生からよく見られたり、認められたり、仲良くすることなのかもしれません。
勿論、仲良くすることはいいことですし、人から認められることも素晴らしいことです。
でも、それが神の歓心を買っている結果としてそうであるなら、素晴らしいですが、
人の歓心を買おうとしてそうであるなら、神様の前に残念なことです。
また、私がみなさんの前で、みなさんの歓心を買おうとして、みなさんが喜ぶようなことを語り、歓心を買おうといろんなことをしているとしたら、私は間違っています。
ですから、はっきりといいますが、私はみなさんの歓心を買うつもりはありません。
ただ、神の歓心を買おうとします。
それは、神を愛し、人々をみなさんを愛することがそのことにつながるからです。
間違えないでほしいのは、 これらは、まわりが間違いで私たちが正しいから、まわりを気にしないで私たちのやり方でやりましょうとか言っているのではないということです。
まわりが正しいかどうか、私たちが正しいかどうかは、神様が決められることです。
確かに明らかに間違いだということについては言うまでもありませんが。。。

今お話ししているのは、私たちが神の前に示されていると信じるところに従って歩みましょうということです。
神様がそのように導かれていると信じるなら、それがたとえまわりのクリスチャンや教会からは歓心を買えなくても、神様の歓心を買うためにそうするべきですよということです。
私は、私に神様が示されていると信じたように、歩もうと思っています。
それが教会全体に及ぶことで、みなさんが神様に示されていると信じていることと違うなら、私に従う必要はありません。 神様に従って下さいね。
私は決してみなさんを見放すとかいうのではなく、みなさんが神様と直接つながって信仰生活を歩んでほしいのです。
私の言葉で歩んでほしくないからこのように言うのです。
神様は求めるものに報いて下さる方だからです。

結)神様の歓心を買おう。
みなさんも神様の歓心を買おうとすることは神の前に正しいことです。
まわりの歓心を買おうとしたり、牧師の歓心を買おうとしたりする必要はありません。
神の歓心を買うためにも、神様の前に出て、神様に心を向けて、ますます歩むものになるなら、幸いです。
祈りましょう。




2006.3.19

「忠実であること」

マタイ25:14-30

序) この箇所はそれぞれ5、2、1タラントを預かった者の話しですが、まずはこのタラントという通貨の価値を見てみましょう。
1タラントは6000デナリです。1デナリは当時の一日分の労働賃金であったようです。
例えば日当1万円だとすると、1タラントは6000万円ということですから、5タラント預かったものは、3億円ということになりますね。
じゃあ1デナリが1日の労賃なら、一年で約300日働いたとすれば、年収は300デナリです。 ということは1タラント(6000デナリ)は20年分の年収ということになりますね。
年収300万円なら6000万円
年収400万円なら8000万円
年収500万円なら1億円が1タラントということですから、
5タラントというのは、3億円から5億円ということになりますね。
2タラントは、1億2000万円から2億円。
どちらにせよすごい金額です。
こんな大金を預かった3人はそれぞれの行動に出ました。
なんと5タラント預かった人と2タラント預かった人はこの大金を使って商売をして倍にしたのです。
なんと大胆な人でしょう。商売がうまくいったからよかったようなものを失敗したときのことを考えると・・・。
ところが1タラントを渡されたものだけは、地を掘りこれを埋めたようです。この方が少なくとも減らすことをしないのでいいようにも見えます。

さて、その結果とその時の主人の言葉から、わたしたちは神様が私達に伝えたいと願っておられるメッセージを見ていきたいと思います。

1.預かった者の姿勢、態度を見られた。

『よくやった。良い忠実なしもべだ。あなたは、わずかな物に忠実だったから、私はあなたにたくさんの物を任せよう。主人の喜びをともに喜んでくれ。』
この言葉は、5タラントで5タラント儲けた人も、2タラントで2タラント儲けた人にも全く同じ言葉をかけられています。
主人は儲けた額に対して評価されたのではなかったようですね。

「忠実」という言葉がこの短い言葉の中に2回も出てきます。
主人はこのしもべの預かったものに対する忠実さを見られたのでしょう。
仮に商売に失敗して減らしてしまった時に、主人はどうしたでしょうか。
これは私の推測ですが、「そうか、失敗してしまったか。しかしよくがんばった。忠実に取組んだことを私は知っている。ではもう一度、5タラントを預けるから、やってみなさい。」といわれるような気がします。

神様は私達にいろいろなタラントを与えて下さっています。これは、自分のものではありません。神様から与えられているものです。ある人は1タラント、ある人は2タラント、ある人は5タラントかも知れません。しかし、その与えられているタラントに対して忠実な態度・姿勢で用いるならば、それは10タラントにも20タラントにもなる可能性があるのです。
与えられているものだということを忘れてはなりません。 まるで自分のものだと勘違いして、大事にもっているだけで使わないのでは、神様はその態度や姿勢を悲しまれるのではないかと思うのです。
私達が与えられているタラントを神様から預かっているものだと自覚できるならば、これを使って神様をお喜ばせしたいと願うのではないでしょうか。
与えられているタラントに忠実であることはそれを用いることでもあります。
その時に、その実を結ぶことができるかも知れません。
そして更に大きなタラントを神様から預かることになるでしょう。

さて、ここで1タラントを預かったが地に隠しておいた人に言われた主人の言葉を見てみましょう。
『悪いなまけ者のしもべだ。私が蒔かない所から刈り取り、散らさない所から集めることを知っていたというのか。 :27 だったら、おまえはその私の金を、銀行に預けておくべきだった。そうすれば私は帰って来たときに、利息がついて返してもらえたのだ。 :28 だから、そのタラントを彼から取り上げて、それを十タラント持っている者にやりなさい。』 :29 だれでも持っている者は、与えられて豊かになり、持たない者は、持っているものまでも取り上げられるのです。 :30 役に立たぬしもべは、外の暗やみに追い出しなさい。そこで泣いて歯ぎしりするのです。

ひどいですね(笑)
余談ですが、この時代にすでに銀行があったんですね(^^;
もしこの主人がお金を確実に増やしたいだけなら、この8タラントを銀行に預けたでしょう。そうすれば、かなりの利子を得られたでしょうから。
しかし、しもべたちに預けたのです。これは、お金を増やすことが目的ではないことを意味するのではないでしょうか。
1タラントを預かった人は失敗を恐れて・・・これは少しでも減らしたもんなら、ひどいことにあうと思っていたのでしょうか・・・地に隠しておいたので、一銭たりとも減らしてないのです。それにもかかわらず、ひどく怒られ、取り上げられ、すでに10タラントも持っている人にあげてしまったのです。

ここからも神様のメッセージを見ましょう。
神様は私達に多い少ないの差はあっても、タラントを与えて預けて下さっています。
そのタラントを用いないならば、その人に持たしても意味がなくなるのです。
ですから、多くのタラントに対して忠実で管理できる人にもう1タラント任せても大丈夫だから・・・と委ねられるのです。

イエス様はその生涯を見る時、忠実でした。
両親や家族に仕え、自分に与えられていることに対して忠実でした。
罪深い私達の中で、弟子に仕え、人々に仕え、自分の使命に忠実でした。
そして、十字架の死に至るまで忠実であられたイエス様。
ピリピ 2:6-8 キリストは神の御姿である方なのに、神のあり方を捨てられないとは考えず、 ご自分を無にして、仕える者の姿をとり、人間と同じようになられました。人としての性質をもって現れ、 自分を卑しくし、死にまで従い、実に十字架の死にまでも従われました。

イエス様は本当に忠実な姿を私達に示して下さっています。
私達は、このお方を模範にこのお方を見上げ目指して歩むものでありたいと願います。

さあ、私達はどうでしょう。
与えられているタラントを用いることに忠実でしょうか?
小さなタラントだから大したことはないから用いなくてもいいでしょうか。いいえ、そのタラントに忠実であることを神様は願っておられます。
大きなタラントすぎて用いることができないと思いますか。大丈夫です。そのタラントに忠実でいるなら、用いていくなら、神様は最善をして下さいます。
たとえ失敗してもそのタラントを取り上げることはされません。
失敗というのは、成功するまでに辞めてしまう時に失敗となります。
そして、忠実である時にそこに必ず実が結ばれてくるでしょう。
すると更に大きなタラントを委ねられることになります。
その時には、あなたはその大きなタラントを管理できる人と成長しているからです。

ルカ 16:10 小さい事に忠実な人は、大きい事にも忠実であり、小さい事に不忠実な人は、大きい事にも不忠実です。


2.神様と喜びを共にできる。
その時、どんなことが待っているのでしょうか。
「主人の喜びをともに喜んでくれ。」主人と喜びを共にしてくれ、という意味です。
イエス様の喜びを共に喜びとできるのです。 素晴らしいことです。
この喜びを私達も体験したいですね。
祈りましょう。




2006.3.26

「 羊と山羊 -愛と無関心-」

マタイ 25:31-:46

序)まずは羊と山羊の違いを見てみましょう。
羊も山羊も偶蹄目・反すう亜目・ウシ科です。そういう意味では同類と言えるかも知れません。
ということはもしかすると、この箇所でいう羊と山羊は、クリスチャンであっても、天国と地獄の違いがあるというふうにも解釈ですますね。
さて、毛は違います。
羊は羊特有の毛は細く柔らかく、ひきつれてからみやすい。もともと羊には羊毛と獣毛が共生していたが、品種改良によって獣毛が減らされた。
山羊は粗くてかたい真っ直ぐな獣毛。
また象徴としては、  
羊: 無垢・単純・誠実・愛情,キリスト・犠牲・清浄,群居性・指導者への追従
山羊: 敏捷・優雅・自由・社交性,サタン・魔女・罪人,気まぐれ・放浪癖
と明らかに違いますね。まるで天と地ほどの差です。
私達も羊にも山羊にもなりうると思って読んでみると、神の前に謙遜になれるのではないかと思うとそのように読んで教えられていきたいとも思います。

さて、早速見てみましょう。

1.羊・・・愛する心を持っていた。:34-40

羊は、このようにいわれました。
:34 そうして、王は、その右にいる者たちに言います。『さあ、わたしの父に祝福された人たち。世の初めから、あなたがたのために備えられた御国を継ぎなさい。 :35 あなたがたは、わたしが空腹であったとき、わたしに食べる物を与え、わたしが渇いていたとき、わたしに飲ませ、わたしが旅人であったとき、わたしに宿を貸し、 :36 わたしが裸のとき、わたしに着る物を与え、わたしが病気をしたとき、わたしを見舞い、わたしが牢にいたとき、わたしをたずねてくれたからです。』 :37 すると、その正しい人たちは、答えて言います。『主よ。いつ、私たちは、あなたが空腹なのを見て、食べる物を差し上げ、渇いておられるのを見て、飲ませてあげましたか。 :38 いつ、あなたが旅をしておられるときに、泊まらせてあげ、裸なのを見て、着る物を差し上げましたか。 :39 また、いつ、私たちは、あなたのご病気やあなたが牢におられるのを見て、おたずねしましたか。』 :40 すると、王は彼らに答えて言います。『まことに、あなたがたに告げます。あなたがたが、これらのわたしの兄弟たち、しかも最も小さい者たちのひとりにしたのは、わたしにしたのです。』

羊は「私はそんなことをした覚えはありませんよ。」
でも、「小さい者のひとりにしたのは私にしたのです。」といわれました。

よく、「これはあなたのために言ってるのよ。」という言葉を聞くことがありますが、果たしてホントにそうなのでしょうか?
奥さんが主人に・・・酒、タバコ。。。
親が子供に・・・しつけ、勉強。。。
牧師が信徒に・・・伝道、態度。。。
意外と、自分が相手を思うように動かしたいがために言っていることが多いかも知れません。
本当にその人のためになってない場合もあるかも知れません。
しかし、私はまだまだだ・・・などと思っている人の方が意外と人のためになっていたりすることもあるようですね。
本当に相手のためになることは、相手が必要に思っていることに手を差し伸べてあげたりすることではないでしょうか。
実際には、恥ずかしかったり勇気がなくて、行動はできないこともあるかも知れません。
でも、「あ、何か困っておられるのかな?」「助けを必要をしているのかな?」と思うことはできると思います。
そう思うことすらなくしてしまってはいけないと思います。

友人が入院したと聞けば、「大丈夫かな?」とお見舞いに行く。
誰もその病気を治しに行く人はいません。
なんとかしてあげたい、よし、手術してあげようといってナイフを持っていたら捕まります。
心配して訪問するだけでいいのです。

神様のためにと思っていたことが実はそうなっていないこともあるんですね。
サマリヤ人の話しから・・・神様を礼拝しにいくのだから、困っている人をほっといて行くよりも困っている人を助けることを優先したサマリヤ人と同じようにすることが隣り人を愛することになるとイエス様は言われました。
自分を愛するように隣り人を愛することが神様を愛することにもなっているんですね。

愛する心はうしなわないように、聖霊によって守っていただきましょう。


2.山羊・・・無関心だった。:41-46

山羊は、このように言われました。
:41 それから、王はまた、その左にいる者たちに言います。『のろわれた者ども。わたしから離れて、悪魔とその使いたちのために用意された永遠の火にはいれ。 :42 おまえたちは、わたしが空腹であったとき、食べる物をくれず、渇いていたときにも飲ませず、 :43 わたしが旅人であったときにも泊まらせず、裸であったときにも着る物をくれず、病気のときや牢にいたときにもたずねてくれなかった。』 :44 そのとき、彼らも答えて言います。『主よ。いつ、私たちは、あなたが空腹であり、渇き、旅をし、裸であり、病気をし、牢におられるのを見て、お世話をしなかったのでしょうか。』 :45 すると、王は彼らに答えて言います。『まことに、おまえたちに告げます。おまえたちが、この最も小さい者たちのひとりにしなかったのは、わたしにしなかったのです。』 :46 こうして、この人たちは永遠の刑罰にはいり、正しい人たちは永遠のいのちにはいるのです。」

これは私の解釈ですが、山羊はこう言いたかったのだと思います。
「いつあなたが空腹だったり、旅人だったり、裸であったり、病気であったり、獄におられたりしましたか?そんなことなかったでしょう」と。
そこで、主は「小さい者のひとりにしなかったのは、私にしなかったのだ」と言われました。

前回のタラントの話しで1タラントの人が何も減らさなかったのに、叱責されましたね。
今回も同じです。別にこの人達は、小さな者に暴力を振るったり、盗んだり、殺したりしたわけではなかったと思います。
しかし、永遠の刑罰を受けることになった。
神様の前では、何もしないことは罪のようです。

さて、愛の対極にあるのはなんでしょうか?憎しみ?
でも、これらの聖書を見ていくと、愛の対極にあるのは、「無関心」であるようです。

サマリヤ人のたとえ・・・パリサイ人や律法学者は強盗に襲われた人に更に追い討ちをかけたわけじゃない。悪いことは何もしてない。
そう、「何もしないこと」を主は悲しまれるのです。
それは無関心です。
ですから、羊の話しの時にお話したように、関心を示す心を守りましょうと言ったのです。

無関心の対極にあるのは、愛だからです。
愛をなくしてはいけません。

決) 世界各地で地震や津波や災害があったり、戦争でたくさんの人が命を失うことを聞きます。家族を家を失った人もいます。
私達には関係ないのでしょうか。行ってボランティアすることはできないけど、募金ならできる。でもそんなこと言い出したら、あっちにもこっちにも募金しなくちゃいけなくなってしまいます。それができるならそれも素晴らしいことですが、できないこともあります。
病気で入院している友人の病気を治すことはできなくても、見舞うことはできる。もし、見舞うこともできなくても、私達は祈ることができます。
私達は、困っている人がいたら、「関心」を持ちましょう。
それが愛のまず第一歩です。そしてできることをしてあげられたら、それはもうプラス以上の素晴らしい愛の実践です。
そのような人は、私達のまわりにたくさんいるんじゃないでしょうか。
祈りましょう。



2006.4.2

「よい事をする人」

マルコ 14:3-:9

序)みなさんにとって、よい事って何ですか?
さて、この箇所で、イエス様が「よい事」といわれる事はどんなことでしょう。

1.よい事をしてくれた。:6

女がした事をイエス様は「よい事」といわれた。

見ていきましょう。
非常に高価で純粋なナルドの香油を全部注いでしまったんですね。
それも入れ物のつぼをこわしたと書いてます。こわしてしまったということは、もう一度ふたして残しておくってわけにはいかない、つまり全てを注いだってことですね。
どうも売ると300デナリ以上になるくらいだったようです。また登場ですね。「デナリ」(笑)
1デナリは当時の一日分の労賃といわれていますから、300デナリというと300日分ということになりますね。
年収くらいでしょうか。300万とも500万とも考えられますね。 高級車が買えちゃいます(^^)

弟子達には、無駄遣いに思えたようです。
でもイエス様は、「私によい事をしてくれた。」と言われました。
では、弟子達が言った「貧しい人に施すこと」はよい事ではないのでしょうか?
そうではないですよね。それもよい事です。実際イエス様もそれを否定されたわけではありません。
女を困らせるなといわれただけです。
「貧しい人たちはいつもあなたがたと一緒にいるから、したいときにはいつでも、よい事をしてやれる。」とそのこともよい事と言われています。
よい事とは、ひとつじゃないんです。

与えられたものをどう使うか、どうよい事に使うかはそれぞれ判断が違うでしょう。
でも、イエス様はそれらをよい事と言われた。
私達も祈ってばかりいないで伝道に行け。という人もいるかもしれない。
でも祈る事もイエス様は「よい事」だから、するままにさせておきなさいといわれるのではないでしょうか。
伝道ばっかりしてないで、奉仕もしなさい。これもどうでしょう。
助け、交わり、祈り、伝道、奉仕、ボランティア、ささげもの・・・どれがよい事でどれが悪い事かなんて、わたしたちが判断すべきものではないのです。また、全てよい事です。

弟子が言った「貧しい人への施し」もよい事ですし、イエス様に香油を注ぐ事もよい事です。
私達が、「よい事とはこれだ!」と言えるものではないのです。

では、よい事はたくさんあるが、私達は何をどの程度すればいいのでしょうか。

2.できる限りの事をしたのだ。:8

女はできる限りの事をした。
私達もできる限りのことをすればいいのです。できない事をする必要はない。

女は、自分の罪深さを知っていたのでしょう。イエス様に何かしたいという強い思いから、全財産(嫁入りように貯えられていたものと思われる)とも言える香油を全てささげました。女にとってできる最高のことだったのでしょう。また、女はそれをすることができたのでしょう。

友達が病気で入院した。私達はその時、できることをすればいい。 病気を治せたら最高でしょうが、無理です。お見舞いにいけたらすばらしいでしょう。無理でも家で祈ってあげることができたら、素晴らしい。できる限りのことをすればいいのです。
イエス様はそれを喜ばれるのです。

人がしていることを評価する必要はありません。
自分がイエス様に何ができるのか、それを祈るべきであり、それを考えればいいのです。

結)イエス様はできる限りの最高の事をして下さった。
イエス様は私達のために十字架で命を捨てて下さった。
私達は誰かのために十字架に・・・は無理かもしれない。でもかまわない、イエス様が私達のために最高のできる限りをして下さったのだから、私達は小さくても、自分のできる限りをしたい。
私達のできることは小さいことかも知れないが、そのできる限りのよい事をしていく人になりたいですね。
その一歩を踏み出す人は幸いです。 祈りましょう。



2006.4.9

「救いへの道」

ルカ 23:39-43

序)二種類の人。
同じ状況におかれていながら、違う選択、違う反応をする人がいます。その結果は当然変わってきます。

靴を売る営業マン二人がアフリカに行った話しを聞いたことがあります。
現地に到着した二人は、現地の人が靴を履いていないのを見てそれぞれ本社に報告しました。
一人は、「社長駄目です。ここでは靴は売れません。だって、誰一人靴を履いてないんです。靴が必要ない人ばかりですから、売れるわけがありません。。」と。
もう一人はこう報告しました。 「社長、今すぐあるだけの靴を送って下さい。これほど大きな市場はないです。他社が入って来る前に確保しましょう。なんせ、靴を履いている人が一人もいないのです。これほど必要のあるところはなかなかありませんよ!」と。
同じ状況を見た二人ですが、その反応は全く違いました。

人は同じ状況に置かれていても、違う反応、違う選択をします。

今日お読みした箇所でも同じようなことが書いてあります。
イエス様の十字架の両側に一緒に十字架につけられた二人の犯罪人はどうだったでしょう。
見ていきましょう。

イエス様をののしった男

1.救うために待っておられる主。

一人の男は、イエス様をののしりました。
「あなたはキリストではないか。自分と私たちを救え。」と。

私達も人にイエス様の話しをしたりすると、
じゃあなんで神様は人間が罪を犯さないように作らなかったんだ。
そんなに愛なる方なんだったら、罪を犯している人間も救ってくれたらどうなんだ。
結局は信じて入信しないと救われないんだろ?なんて心の狭い排他的な神なんだ。
などといわれることもあります。

イエス様は全ての人が罪を犯さないように作ることもできたでしょう。でもされませんでした。
それは、私達を愛しておられるからです。
あなたは愛している人を自分の思う通りにしたいがために監禁したりするでしょうか?
愛する人から、その人の意志で愛して欲しいでしょうね。それが本当の愛です。
無理に愛して欲しいとは思わないでしょう。

神様も私達が不自由な拘束の中にいるよりも自由の中で生き、わたしたち自身の意志で人生を送ることを赦されるという大きな愛で接して下さっている。
だから、ロボットのようには作られなかったのです。
神様は私達を愛して受け入れて下さっています。でも、罪を受け入れることはできません。
ですから、罪を持ったままだと受け入れられないのです。 排他的なのではないのです。
人は受け入れても罪は受け入れられないからなのです。

よく読んでみると、イエス様はここでののしられたりしましたが一言も呪われたりされませんでした。
そうです。この ののしった男にも救いが必要であることをご存知なのです。
そして、この男が心を開いてイエス様を信じるのを待っておられるから、何も言われなかったのではないでしょうか。
誰かにイエス様の福音を話した時、その人が受け入れたなら救われるでしょう。
しかし、受け入れなかったなら救われないのでしょうか。いいえ、まだ救われていないだけなのです。
イエス様はいつまでも待っておられるのです。
ですから、ののしった男でさえ、地獄行きを宣言されたりしなかったのだと信じます。
イエス様は一人の人が信じて救われることを願い、忍耐し、待っておられるのです。
救うために待っておられる主です。

さて、もう一人の男はどうだったでしょう。


ののしった男をたしなめ、イエス様に心を開いた男

2.ただちに救いを宣言される主。

イエス様はすぐに答えられました。
「まことに、あなたに告げます。あなたはきょう、わたしとともにパラダイスにいます。」と。
心を開き、受け入れ、信じるのをいつも待っておって下さって、告白する時にただちに救いを宣言して下さるのです。 まさに、救うために待っておられる姿が見えます。
神様は、わたしたちが告白することを待っておられます。
そして、告白したならすぐに救って下さるのです。 なんと素晴らしいことでしょうか。

「イエス様信じます」と告白した時に、 イエス様が「よし、じゃあまず、1週間断食の祈りを捧げて、その後1年間、毎朝6時から私の前に祈りの時間を持ちなさい。それから、日曜は休まず教会へ礼拝に出席し、献金をたくさんしなさい。えーっと、あなたの年収は○○円だから、○○円以上捧げなさい。その後、100人以上の人に伝道し、10人以上を教会に導きなさい。勿論、その中から私を信じる人を起こしなさい。あなたもそうやって、○○さんがリストにあげて誘ってここまできた人なんだからね。それから、まだあるよ。教会での奉仕は、まずはこれをやって、慣れてくる3ヶ月経った頃からこれもやりなさい。・・・」なんていわれたらどうでしょう。 いつになったら救われるのでしょうか(笑)

イエス様はそんなことを一言も言われませんでした。
イエス様が十字架に架かっておられるその横で一緒に十字架に架かっている男です。
何もできません。今まで悪いことをしてきて、十字架にかけられたのです。
イエス様を信じることはできても、伝道もできなければ礼拝出席もゼロです。献金もできませんし、奉仕もできません。
でも、イエス様は救いを宣言されました。 まさに、イエス様の救いには、条件・行いは不要です。 信じて告白するだけです。
こんなに素晴らしい救いを用意して下さっている主に心から感謝し、あがめましょう。

結) 私達は、イエス様を待たしていたかも知れない。今も待たしているかもしれない。
でも、イエス様はいつまでも待っていて下さる。
気付いた時に、イエス様に心を開いて告白しましょう。
そうです。イエス様だけが救い主なのです。

ののしっていた男のこの後のことは書かれていませんが、もしたしなめられて気付いて悔改めイエス様を信じ告白したのなら、その後、救いを宣言されたでしょう。
イエス様の救いは永遠です。一度拒んでも二度拒んでも何度拒んでも、最後に信じ受け入れるなら救って下さるのです。
分かれ道で選択を誤っても、変更可能なのがイエス様の救いです。
その時も何の条件もありません。信じ告白するだけです。 そしてイエス様は何も咎められません。優しく受け入れて下さるのです。
さあ、どうですか。イエス様の救いは排他的でホントの愛といえないでしょうか?
こんなに素晴らしい救いを用意し、寛容に待って下さっているお方で、完全な救いを与えて下さる方がイエス様なのです。 素晴らしいですね。
イエス様は今も待っておられます。
このことに気付き、心を開く人は幸いです。



2006.4.16

「復活のイエス様は共に」

マルコ16:1-8

序)イエス様の復活。
本当にすごいことですね。
十字架で死なれたのは、罪の支払いの完済だとすれば、復活は完全な勝利をおさめたといえるのではないでしょうか。
プロ野球が開幕しましたね。今年はどこが日本一になるのでしょう。
でも、いくら強いチームでも全試合全勝というわけにはいきませんよね。
ましてやその全勝が完全試合で、、、不可能です(笑)
でも、イエス様の復活という勝利はそれをも超える完全なものなのです。
そんなすごい復活のイエス様に私達は出会いたいですね。

そのために私達のなすべきことを見ていきましょう。

1、とにかく、イエス様のところへいく。:3

「墓の入口からあの石をころがしてくれる人が、だれかいるでしょうか。」とみなで話し合っていた。

女達はとにかくイエス様の墓に向かいました。
なんと無謀、なんと無計画でしょうか。
女性のすごさかも知れません(笑)
男ならこういう行動はしないかも知れませんね。
大きな石があるから、まずは取り除けるために力のある人を何人連れて行けばいいかを検討したり、、、
見張り役がいるから、その人達をどうやってその場から離れさせてすきを作るか、、、
などといろいろと計画し、検討して、結果、「無理」って結論が出たら、やらないでしょうね。
その点、女性は無謀にも向かって行ったのです。
男性は見習うべき点も多いと思います。
女性は感情が優先されやすい面があるからなのでしょうが、
とにかく「イエス様に何かしたい、何かできることはないか・・・」という思いから、取り除けられないかも知れない石があるのを知っていながら、香料などを持って向かいました。
その結果、最初にイエス様の復活を知るという特権に預かったのではないでしょうか。

とにかくイエス様のところへ行ってみた。。
その時・・・

@石は転がしてあった :4
:4 ところが、目を上げて見ると、あれほど大きな石だったのに、その石がすでにころがしてあった。

石・・・妨げ、問題、課題を意味しているかも知れません。
私にはこんな妨げがあるから、問題があるから、イエス様のところには行けない。。。と思うかもしれません。
その問題は大きいかも知れない。ここでの石も非常に大きかったと書いてありますが、行ってみると転がしてあったのです。
イエス様のところに行くのに、自分の中に何か妨げはありますか? 問題はありますか? これさえなかったら行けるのに・・・と思っていますか?
大丈夫です。とにかくイエス様のところへ行ってみることです。 その時に、石は転がされるでしょう。また転がされているでしょう。 これは取り除けられることではないかも知れません。 ここでも転がしてあったのであって、取り除けられていたのではないからです。
でも、妨げと思っていたものがいざイエス様のところへ向かってみると妨げにはならないということを意味しているのかも知れませんね。

もうひとつ・・・

A復活の主に会う道が示される :6-7
:6 青年は言った。「驚いてはいけません。あなたがたは、十字架につけられたナザレ人イエスを捜しているのでしょう。あの方はよみがえられました。ここにはおられません。ご覧なさい。ここがあの方の納められた所です。 :7 ですから行って、お弟子たちとペテロに、『イエスは、あなたがたより先にガリラヤへ行かれます。前に言われたとおり、そこでお会いできます。』とそう言いなさい。」

どうすれば、どこに行けば、復活のイエス様に会えるのかが示されます。
女達には想像もできなかった展開です。
復活されたことを知り、そして復活された主に会う道が示されたのです。
行ってみたが、結局はこの時はイエス様に会えなかったのです。
でも、死人のイエス様に会えなくてよかったかも知れません。
そのかわりに生きたイエス様に会う方法が知らされたのですから。

私達が会うお方は、今も生きておられるイエス様です。
死人の中にイエス様を探すのではなく、生きておられるイエス様を求め、探すものになりたいです。

結)問題の中にイエス様を探すのではなく、イエス様を求めていくところに問題は転がされ、完全な勝利者なるイエス様によって問題も解決へと導かれると信じます。
復活のイエス様はいまどこにおられるでしょうか。
復活し天に昇り、今聖霊として私達と共に歩んで下さる。
そうです。
復活のイエス様は共に歩まれる、共におられるのです。
エマオへの途上、共に歩まれたように。:12
食卓に共につかれ共におられたように。:14
イエス様のところへ行きましょう。
イエス様を求めましょう。
その時に、共におられ共に歩まれる復活のイエス様を体験するでしょう。
その一歩を踏み出す人は幸いです。
祈りましょう。



2006.4.23

「患難をも喜ぶ」

ローマ 5:1-11

序)信仰によって義とされる。
さて、ローマ書の4章では、アブラハムが行いや律法ではなく、信仰によって、義とされたということについて書かれてあります。
そして、私たちもまた、信仰によって義と認められていることから、5章が始まります。
私たちは、信仰によって義と認められるのですね。
律法によってであったり、行いによるのではないのです。
私たちの実際の生活ではいろんなことがあります。
心が穏やかでないようになることもあるでしょう。理不尽なこともあるでしょう。心が沈む時もあるでしょう。 そんな中で、人を心の中で裁いてしまったり、悪口を言ってしまったり、、、と神様の前に喜ばれるとは思えないようなことをしてしまうこともあるかもしれません。
実際、私も経験しています。 その大小はありますのが、ひどい時は、本当に神様に心を向けることに困難を感じることもあるのです。
でも、そんな時でも、神様はその私の悪い心や行動で、義としてくださらないのではなく、 イエス様に目をむけ、心を向け、イエス様の十字架によって救われることを信じていく時に、義として下さって、そんなひどい状態であっても、ありのままで私を受け入れて下さる方であることを知る時に、イエス様に心を向け続けることの大切さを実感するのです。
みなさんもいろんな人生を歩まれているでしょう。 いろんな辛い思いも経験しておられることでしょう。神様の前に罪を犯してしまうこともあるかもしれません。
でも、信仰によって義と認められるのです。
その為にも、いつもイエス様に心を向けて、変わらない救いを受け取りましょう。
その時に、あなたの心が少しずつでも変えられていくのです。

そのように、信仰によって義とされたなら、私たちは、大いに神様を喜びましょう。

1.喜びの先取り

そして、聖書にあるように、患難さえも喜ぶものになりたいですね。
私たちがもし、行いによらなければ、義と認められないとすれば、何と苦難の道が待っているでしょうか。
苦しい道のりを耐え忍び、その中でいろんなことを学び、悟りのような境地を開いて、ようやく義と認められたら、その時にはようやく喜ぶことができるでしょう。

聖書は、患難さえも喜ぼうではないかといっています。
これは言い換えれば、先程の苦しい道のりの中でようやく義と認められて、その時に喜べることがわかっているから、もう今から喜びましょうということとも言えますね。
つまり、同じ道を歩んだとしても、その先にあるものによって喜ぶことができるなら、その時になって喜ぶのではなく、今の困難なことでさえ、もう喜ぼうということなのですね。
喜びの先取りとでもいいましょうか。。

その道のりの中で、
・患難は忍耐を生み出します。
苦しいことを経験していくと、忍耐力が養われていきますね。
マラソンでもそうでしょう。人生はよくマラソンにたとえられたりしますが、まさにそうですね。苦しい練習を積み重ねる時に、持久力が養われるように、忍耐が生み出されるのですね。
・忍耐は練られた品性を生み出します。
そして、忍耐は練られた品性を生み出すといいます。私たちの人格もそのような中で形成されて、成長していくのでしょう。
マラソンでいえば、そのような持久力がついていくと、レースのどこでどれだけの力を入れたり抜いたりして、レースに勝つという強さというか、技術的なものが身につくようなものでしょうか。
・練られた品性は、希望を生み出すのです。
そして、さらに希望を生み出すのです。そのように人格が形成され、成長していくと、多少のことでは動揺したりせず、その中であっても、希望を持つことができるようになります。
マラソンでいえば、誰かがレース中盤でスパートをかけて前を走ったとしても、慌てることなく自分のレースをして、最後には抜いて優勝するという希望を見ることができるはずです。

そして、何よりこの希望があるということは、本当に喜ばしいことですよね。
だから、喜べるんだから、そのスタートとも言える患難さえも喜ぼうというのです。
でも、希望が失望に終わるなら、そこには喜びはないですよね。
苦しい道を通って、耐え忍び、その中でいろんな経験を重ね、人格も形成されるかもしれません。
そして、最後に開放されて、喜ぶことが出きるかもしれませんが、そこに希望を見出すことができるのでしょうか?
それで、救われるのか?死んだあとどこにいくのか?
ようやく信じてここまで歩んできたのに、希望がなかったら、失望に終わったら、なんと虚しい歩みとなるでしょう。

でも、聖書はいいます。
「この希望は失望に終わることがありません。なぜなら、私たちに与えられた聖霊によって、神の愛が私たちの心に注がれているからです。 」
失望に終わらない希望があるのです。 なんとすばらしいことでしょう。

もし、私たちの歩みの中で、最後にすばらしい希望が待っていて、その希望は必ずかなう。
失望に終わらないということがわかっているのなら、私たちは今の苦難をただ苦しいだけと思うでしょうか?
違いますよね。それは喜びです。 なぜなら、この道の先に確実に希望があることを知っているからです。


2.希望は失望に終わらない。

では、なぜ失望に終わらないのか。
それは、私たちに与えられた聖霊によって、神の愛が私たちの心に注がれているからなのです。
神様はわたしたちに誰も真似できない愛を示して下さいました。
それは、今日読んだ箇所からだけでも十分わかりますが、他の箇所も読めば、読むほどにわかりますよね。
もう一度読んでみましょう。 ローマ5:6-11

だから、私たちは、患難であっても、そうでなくても、イエス様を大いに喜びましょう。
そして、その先にある希望を持ってイエス様を喜び、与えられた人生を歩みましょう。
患難さえも喜ぶ人生を歩みたいですか。
イエス様を信頼し、イエス様に心を向けましょう。
そこから、神の愛が注がれて、私たちの中に失望に終わらない希望が与えられます。
神様の愛に応答し、この喜びの人生の一歩を踏み出す人は幸いです。
祈りましょう。



2006.4.30

「必要な忍耐」

ヘブル10:32-39

序)主に心を向け続ける。
先週もお話ししましたが、主に心を向け続けることがとても重要であると感じているということをお話ししました。
また、患難をも喜ぶことを教えられました。
それは、患難が忍耐を、忍耐が練られた品性を、練られた品性が希望を、そして希望が失望に終わらないというすばらしい約束を通して、今ある患難をも喜ぶという信仰でした。
でも、実際は患難なわけですから、辛く苦しいことを通るわけですよね。
今までも通ってこられたかもしれませんし、これから通るかも知れませんが、今日の御言葉がその時に励ましとなり、そんな時でも御言葉によって立つことができ、絶えずイエス様に心を向け続けられるなら、本当に幸いです。

今日は、そんな中で忍耐することについてみていきましょう。

1.確信を放棄しない。

私たちが神様に抱いている確信を投げ捨ててはならないですね。
私たちが救われたのは、イエス様の十字架によるのです。
また、私たちの行いによらず、ただ恵みと信仰によるのです。
私たちはこの確信を持っているから信仰生活を送れるのではないでしょうか。
あるいはこの確信を得るために歩んでいるのだと思うのです。

確信をもっていると、強いですね。
また、動揺するような時にもしっかりと立つことができます。

なぜ、この確信を放棄せず持ち続けていくことを神様はおっしゃるのでしょうか?
それは、その確信には大きな報いがもたらされるからです。


2.必要なのは、忍耐

そして、そのように確信を放棄せず、歩み続ける時に、私たちに必要なものがあるのです。

:36 あなたがたが神のみこころを行なって、約束のものを手に入れるために必要なのは忍耐です。

患難が待ち受けている人生で、私たちは確信を放棄せず、歩んでいきたいですね。
神のみこころを行って約束のものを手に入れるための歩みに必要なのは、 「忍耐」です。

ヘブル12:1-2 こういうわけで、このように多くの証人たちが、雲のように私たちを取り巻いているのですから、私たちも、いっさいの重荷とまつわりつく罪とを捨てて、私たちの前に置かれている競走を忍耐をもって走り続けようではありませんか。 信仰の創始者であり、完成者であるイエスから目を離さないでいなさい。イエスは、ご自分の前に置かれた喜びのゆえに、はずかしめをものともせずに十字架を忍び、神の御座の右に着座されました。

人生を歩むことは忍耐が必要であることがここでもわかります。
そして、その歩みは信仰の創始者であり、完成者であるイエス様から目を離さないことがとても大切なんですね。
今は忍耐の時だなぁ、と感じることはありますか?
今、まさにそうだ、という人もいるでしょう。
過去にもそんな時があったなぁという人もいるでしょう。
そうですね。これからもあるでしょう。
でも、ここでわかるように、私たちの信仰をはじめて下さったイエス様が、 私たちの信仰を完成して下さることを信じて、確信を持って歩み続けるものになりたいです。
イエス様が信仰の創始者であり、完成者であるから、このイエス様に目をむけ続けて、忍耐を持って走り続けるのです。

結)確信を放棄せず、忍耐を持って、イエス様を見上げ続ける人生を歩みたい。





このページのトップへ
前ページにもどる