2005年1月〜4月


2005.1.2「過越からはじまる」 出エジプト12章
2005.1.9「前進するために」 出エジプト 13:21-14:31
2005.1.16「教会を通して」 エペソ3:8-12
2005.1.23「 愛すること、確かめること 」 -霊を識別する必要- 1ヨハネ 4:1-6
2005.2.6「イエス様を知る」 ルカ10:38-42
2005.2.13「今日、主を信頼する」 出エジプト16:9-31、マタイ6:33-34
2005.2.20「あなたのオアシス」 創世記4:1-15
2005.2.27真の礼拝を目指してNo1 「二つの捧げもの」 創世記4:1-:22
2005.3.6「主が戦われる」 出エジプト 17:8-16
2005.3.13「アブラハムの礼拝」 創22:1-14
2005.3.20「復活の前に、葬り」マルコ15:42-47 、1コリント15:3-5
2005.3.27
2005.4.3
2005.4.10「互いに・・・」 ヨハネ13:1-17
2005.4.17「神様からの救い」 エペソ2:1-10
2005.4.24「神様に用いられる」マタイ 20:1-16
2005.1.2

「過越からはじまる」

出エジプト12章


序)あけましておめでとうございます。 本年もよろしくお願いいたします。
さて、今日は正月2日です。聖書で正月を見る時に年の最初の月なわけですが、その起源はこの箇所のようです。
ここは、過越の記事です。
イスラエルがエジプトで奴隷であった時に、モーセをリーダーに主が導き出された記事がこの前後に書かれてあります。
イスラエルの正月、つまり年のスタートというのは、この過越がスタートです。
この過越の祭りなどと日本の伝統的なこととの間にとても不思議な共通点が多くあります。
ま、それはさておき、聖書の正月、年の初めの月は過越からはじまるわけですから、 私たちも正月を迎えて、年の最初の月をこのことから少し教えられていきましょう。


1.新しい始まり

イスラエルにとって、過越は世界が全く変わるような時でした。
それまでは、モーセが幾度となくパロにイスラエルの民をこの国から去らせるように言ったのですが、パロは耳を貸しませんでした。 しかし、この過越の出来事で、エジプト人の初子がパロの息子も含めてみな死んでしまい、さすがのパロもモーセの言うことを聞き入れました。
その時には、金や銀の飾りや着物もエジプト人からもらって出ていったのです。
過越の前は、奴隷であったイスラエル人は、過越を境に、自由となり、更に多くの祝福を得、主の導かれる場所へ向かって旅立ったのです。
なんという劇的な変化でしょうか。

よく、新年に書初めをして一年の初めに目標を立てたりします。
「今年こそ、○○するぞ!」ってやつもです。
12月31日と1月1日・・・何が違うんでしょうか?
別に、1月1日に決めて一からスタートしなくても、思い立ったのが12月30日なら、その日からスタートしてもいいのに(笑)
でも、新年を迎えると一からスタートできたり、したりしますよね。

まさに、イスラエルにとって、過越は全てをリセットしたような全く新しいスタートだったのです。
ちなみに、過越の祭りでは、正月の14日に羊をほふってそこから7日間が種入れぬパンを食べるということになっています。
ですが、今日みたいのは、過越を境に新しくはじまったということです。
私たちも主の過越にあずかる時に、新しいスタートをきることができるのです。

過越の時にしたことから、こんなことが教えられます。
・羊をほふる・・・私たちの身代わりのイエス様
・その血を柱とカモイに塗る・・・イエス様の流された血潮によって清められ裁きから守られる。
・その羊を食べ尽くす・・・イエス様の身代わりの死を自分のこととして全てを受け入れる。部分的な救いはない。
・肉を火で焼いて種入れぬパンと苦菜と一緒に食べる・・・聖霊(火)によって食べられるようにして下さるので、罪のない生活(種入れぬパン)、受け入れがたいと思われること(苦菜)も一緒に受け入れる。

そうですね。 私たちは、イエス様によって、新しいスタートができるのです。
2コリ5:17 だれでもキリストのうちにあるなら、その人は新しく造られた者です。古いものは過ぎ去って、見よ、すべてが新しくなりました。
イエス様の十字架の身代わりの死と葬りと復活、そして、今も聖霊として共におられるイエス様。
このイエス様によって、新しいスタートができるのです。

結) 正月だから、新しいスタートができる。 それもいいでしょう。また素晴らしいこと。
さらに、イエス様によって新しいスタートをきることはなんと素晴らしいことでしょう。
年の初め、これは主にあっても新しくいろんなことをスタートするにふさわしい季節だと信じます。
あなたにとって今年新しくスタートすることはなんでしょう。
主の前に祈りはじめるなら、それは素晴らしいスタートです。
イエス様に期待しましょう。 祈りましょう。




2005.1.9

「前進するために」

出エジプト 13:21-14:31

序) 先週、イエス様によって新しい出発をしましたが、
主はそんな私たちにどうして下さるのでしょうか。
そのままほおっておかれるのでしょうか?勝手に行けばって・・・(笑)
いいえ、主はちゃんとスタートしたことを完成させて下さる方です。
初めであり終わりであるお方ですから(^^)

イスラエルがエジプトを出立して、荒野を行く中で、主が彼らにして下さったことを通して、
主が私たちにとってどういうお方か、どう完成へと導かれるのか、共に見ていきましょう。

主は、昼は雲の柱の中に、夜は火の柱の中におられたことが書かれてあります。
実際、昼間は暑さで大変なところのようです。
ですから、雲の柱というのは、暑さから逃れることができて、快適に過ごすことができ、進むことができたでしょう。
また、夜は一転、冷え込むようですので、火の柱で、照らし、暖め、快適であったと思います。
主はそのように具体的な形で、イスラエルにあらわせて下さいました。

1.主は導かれる。

主は、雲の柱、火の柱の中にあって、イスラエルを導かれたように、 私たちを導いて下さいます。
その柱はいつも民の前にあったわけですが、それは、民を導くこともしていました。
柱が向かう方に民も進んでいったのです。
私たちも、新年に新しいスタートをきる。 また、イエス様によって、新しいスタートをきる時に、それからどう行けばいいのか、どこへ向かっていけばいいのか、わからない時もあるでしょう。
イエス様は、そんな私たちが迷わないように、導いて下さるのです。
実は迷っているように見える時もあると思います。
でも、実は主はいつも導いて下さっているのです。
ある時は立ち止まり留まるように導いておられることもあるでしょう。
また、ある時はこっちでいいのか?と思う方に導かれていることもあるかもしれません。
でも、主は私たちをスタートさせた以上、導いて下さるお方です。

それは・・・
・御言葉によって導かれる。
・祈りの中で導かれる。
・人を通して導かれる。

いろんな導かれ方があると思いますが、その導きに敏感でありたいですね。
それには、いつも主の声に耳を傾ける心の姿勢が必要なのではないでしょうか。
主が導かれていると思ったら、進んでみる・・・でも、時々違う場合もあるかもしれません。
いいんです(ってええんかいっ^^;)気がつけば。。。
違う方に進んでいたりしたら、気がつくと雲の柱が前にない・・・なんてことがあるかも知れません。
でも、気付いた時に、雲の柱の方に戻ればいいです。
わからずに立ち止まっていると、気付くと火の柱があっちの方にある・・・でも、その時に追っかければいいんです。
人は神様じゃないですから、不完全ですから、失敗もあります。
でも、気付いた時に修正することが大切です。
その導きに敏感であるために、いつも主の声に耳を傾ける謙虚な心を持っているなら、すぐに修正でき、導きに従うことができると信じます。


2.主は守られる。

主は、イスラエルが荒野で迷ったと思われるような状況にされて、パロの心をかたくなにされ、イスラエルを追うようにされた。
そして逃げ場がないと思われる状況の中で、モーセを用いて、海を二つに分けてそのかわいた地を渡っていくように導かれたのですが、
その時にエジプト人は追いついたのです。
しかし、主は、雲と火の柱をもって、戦われて、イスラエルを守られました。
そうです。主は私たちを守って下さる方です。
私たちが戦わなくても、主が戦って下さって、わたしたちを守って下さるのです。

私はここを読むとこの御言葉を思い出します。
1コリント10:13 あなたがたの会った試練はみな人の知らないものではありません。神は真実な方ですから、あなたがたを、耐えられないほどの試練に会わせることはなさいません。むしろ、耐えられるように、試練とともに脱出の道も備えてくださいます。

一見、荒野で海辺の場所で囲まれてしまって逃げ場がないように思える状態だったイスラエル。
絶体絶命です。でも、海を渡らせるという脱出の道を備えて下さいました。まさに、この御言葉だなぁと思うのです。
それは試練と思えることかもしれません。でも、主はちゃんと耐えられるようにその道をも用意して下さって、わたしたちを守って下さるのです。
何が守られるのでしょうか。
それは私たち自身ですが、特に、わたしたちの「霊」です。
たとえ肉体が滅びようとも、わたしたちの霊の救いを取り上げることはできません。
それは、主が守って下さるからです。聖霊によって守って下さいます。
2テモテ 1:14 そして、あなたにゆだねられた良いものを、私たちのうちに宿る聖霊によって、守りなさい。

では、主が導かれるから、主が守られるから、何もしなくてもいいのでしょうか。
私たちのなすべきことは何でしょう。

結) 主に信頼すること。
箴言3 : 5心を尽くして主に拠り頼め。自分の悟りにたよるな。 : 6あなたの行く所どこにおいても、主を認めよ。そうすれば、主はあなたの道をまっすぐにされる。

イスラエルの人々も、主に信頼せざるを得ない状況になったからかもしれませんが、主に委ねて、その海が分かたれた道を渡りました。
もしかしたら、渡っている途中で海が元に戻って自分達は滅びてしまうんじゃないか・・・と思うこともあったかもしれません。
でも、進んだのです。そこにとどまったのではありません。
私たちもまた、主に信頼し、主が導かれる道を進みましょう。
試練があるかも知れません。でも、主を信頼しましょう。
主は守って下さり、ちゃんと導いて下さいます。
イスラエルもその結果、全ての人が海を渡り、逆にエジプトの追ってきた軍勢は海の中に滅びてしまいました。
その主のあらわされた栄光を見て、イスラエルは主を恐れて信じるようになったのです。
私たちは既にこのことを聖書を通してみることができています。
主の栄光を見てから信じるものではなく、主を信じて、その栄光を見るものになりたいですね。

主は信頼してもいい方ですか。 勿論その答えはYESです。
なぜなら、私たちの罪を清算するためにイエス様が十字架に架かって下さったし、葬られ三日目によみがえって、死にも勝利することをも示して下さり、天に昇り今も聖霊として共にいて下さるということを私たちは知っているからです。
こんな素晴らしいことを完成して下さっているお方を信頼できないことはないと思うのです。

主を信頼し、導きに従って歩む人は幸いです。
祈りましょう。



2005.1.16

「教会を通して」

エペソ3:8-12

序) 神様はキリストの体を通して働かれる。
キリストの体とは?
それは主にある教会であり、主にある家庭であり、クリスチャン一人一人です。
私たちは聖霊の宮ですから、神様が住まわれる幕屋です。
家庭は教会の最小単位です。そして、教会はキリストの体であって、一人一人はその肢体であるとあります。
ですから、今日のメッセージでは、「教会」に注目して分かち合いますが、 「教会」という言葉が出てきた時、それは、文字どおり、教会をさしますが、 同時に、家庭をさし、クリスチャン一人一人をさしていると受け止めていただきたいと思います。

花婿なるイエス様は終りの日に花嫁なる教会を迎えられる。
教会を通して、神の豊かな知恵が示される。
神様は「教会」に注目されています。
では、教会は、どのようなところなのでしょうか。


1.神の愛と恵みと祝福に満ちたところ

詩篇133篇
教会には神様の恵みと祝福が満ちています。
そして、教会のかしらはキリストです。牧師じゃありません。
エペソ1:22-23
このキリストをかしらとして、教会には神の愛が注がれ、恵みが注がれ、祝福が満ちています。
お互いに愛し合い、仕え合い、許し合うところです。
なぜなら、
まずキリストが私たちを愛して下さったから。
まずキリストが私たちに仕えて下さったから。
まずキリストが私たちを許して下さったから。

先日のカンファレンスで、N師が教会の中の一人一人が一致する時に大きな力があらわされるということを話しておられたのですが、その為には互いに愛し合うことが大切だと話されてました。
そして、イエス様が弟子達の足を洗われたように、愛しあう、仕えあうことが大切、プライドなんて要りません・・・というように言われていて、実際にひざまずいて、その足をさすりながら、執り成しの祈りをされました。 ぼくもしてもらいました。そして、その後、お互いにする時間を持ちました。
愛し合い、仕えあうということを話すだけでなく、実際にした時、実際にされた時、本当に心があったかくなる経験をしました。
また、N師がこんなことを言っておられました。
「私はいつも教会で言うんです。 『兄弟姉妹、教会の人数がどんなに多くなったとしても、もしイス並べをしている時に、私が何もせずにぼーっとしていたら、 「先生、イス並べ一緒にやりましょう」って注意して下さいね』って」
キリストがかしらであるということを本当に理解し、牧師だから、というようなプライドはないなと思いました。
実際、キリストの前にはそんなプライドなんて、崩した方がいいですしね。
私も以前からお話していますが、牧師は教会の中での役割であって、キリストを頭とした教会の中では、一人の奉仕者であると思っています。
また、教会も人数が増えるに従って、受け入れにくい人も出てくるかもしれません。 実際に気が合う人、合わない人、苦手な人とかも多くなれば、おられるようになるかも知れませんよね。 また、不完全な者同士ですから、傷つけてしまうことや傷つくこともあるかもしれない。
でも、愛し合う、許し合うことを神様は願っておられます。
そう、キリストが私を許して下さり、あの人を許しておられるのですから、私もあの人を許します、、、と。
また、キリストが私を愛して下さり、あの人を愛しておられるのですから、私もあの人を愛します、、、と。
ですから、私も含めて、互いに愛し合い、仕え合い、許し合う教会になりたいですね。
いや、それこそキリストを頭とした神の教会です。 神の愛と恵みと祝福に満ちた教会です。

さて、この教会は何のために存在するのでしょう。


2.キリストを世にあらわすため

教会は建あげられていくものです。
キリストは教会を建て上げられます。
イエス様はペテロに、その岩の上に私の教会を建てると言われました。
また、使徒の働き9:31では、教会が築きあげられることが神によることがわかります。
牧師が建て上げるのではありません。
神様が建て上げて下さるのです。
ですから、私はみなさんに、この教会にとどまり続けて、教会を建て上げて下さいとは言いません。
でも、神様がみなさんに、この教会を建て上げるのに用いられるなら、そのように導かれるなら、私は喜んで一緒にこの教会を建て上げていきたいと思っています。

では、その教会を建て上げて、神様は何をなさるのでしょうか。
エペソ 3:8-11
教会を通して、キリストを世にあらわすためです。

イエス様は、世の光だと言われました。 その光を隠しておかないで、みんなが見えるように置くとたとえられたように、 教会は世の光となって、キリストを世に示すのです。
力を抜いて、神様の導きに従って、キリストを世に示す働きをしていきたいと願っています。

結) キリストがかしらであるこの教会で、愛し合い、仕え合い、許し合い、神の愛と恵みと祝福をもっともっと体験しましょう。
その光は、明るくなればなるほど、世に示すことができます。
いや、示そうとしなくても、見えてしまうでしょう。
山の上の町が隠れることができないといわれたように。。。

神様は教会を通して、あらゆることをなさるのです。

「教会を通して」

私たちがなすべきことは何でしょうか。 祈りましょう。



2005.1.23

「 愛すること、確かめること 」
-霊を識別する必要-

1ヨハネ 4:1-6

1ヨハネは、「愛」について多く書かれている。
特に、3〜5章のこの箇所以外はほとんど「愛」についてかかれている。
なのに、この4章の前半1/3くらいだけが、「霊」について書かれています。

これは何を意味し、神様は何をメッセージされているのでしょうか。


1.霊は、受け入れる前に確かめる

愛する、ということは何でも受け入れたりしてしまいやすく、排除しなくなりがちであると思います。
ですから、受け入れてはならないものをちゃんと識別し、確かめることが必要であるとメッセージされていると思います。

愛するとは、「何もかも全てを受け入れる」ことではないのです。

クリスチャンでない人を愛します。受け入れます。 しかし、その霊を受け入れることは十分に吟味しなくてはなりません。 偶像礼拝をする人から、その霊を受け入れることはさけるべきですが、その人を避けるのではありません。 その人は愛しうけ入れてもその霊は避けるべきです。

ハ○ーポッターは魔術のことがたくさん書かれた本らしいです。 だからその霊(悪霊)を受け入れることはしてはいけませんが、ハ○ーポッターを読んだ人、見に行った人は受け入れます。 その人を愛します。主もその人を愛しておられます。しかし、その霊は受け入れません。主もまたその霊は拒まれます。

しかしもし、相手がクリスチャンだったら、どうでしょう。
クリスチャンだからといって、その霊を全て受け入れてもいいでしょうか。
クリスチャンだからといって、その人がやっていることを全て肯定していいでしょうか。
クリスチャンとは、罪赦された罪人です。
クリスチャンじゃない人は、まだ罪の赦しを受け入れていない罪人です。
どちらも罪人にかわりないのです。
クリスチャンが言っていることだから間違いない、などと思ってはいけません。

ハーベストタイムなんかで、クリスチャンが証しされています。
牧師や宣教師をはじめ、普通の主婦から実業家や会社の社長、芸能関係や音楽関係、スポーツ選手など様々な人がクリスチャンとして証ししています。 これは素晴らしいことですし、その証しは人を励ましますが、だからといってその人が言っていることは全て正しく受け入れてもいいとは限りません。同じ罪人なのです。

だから、私がクリスチャンだからといって、ここで語っている言葉は全てそのまま受け入れていいとは限りませんよ(笑)

だから、よくお話するように、御言葉そのものはそのまま受け入れてもいいが、人の話しはたとえ聖書からであっても、鵜呑みにするには、十分注意が必要であるのです。 吟味することが必要です。

でも、吟味するのは、難しい時代ですよね。

出エジプト5章以降に書かれてありますが、 主の命令によってモーセとアロンがエジプトに奴隷として寄留しているイスラエル人を導く為に、エジプトの王、パロのところへ行って交渉します。 しかし、パロはさらせません。
7章以降では、そのためにモーセはパロの前で次々としるしを行います。 まずは、杖をパロの前に投げ出すと、ヘビになります。 しかし、パロが呪術師を呼び寄せ、秘術によって同じことをしたのです。 呪術師の杖もヘビになったのです。しかし、モーセの杖のヘビにそのヘビたちは飲み込まれてしまいましたが。
その後、ナイル川の水を血に変えました。 その時も呪術師は同じことをしたと書いてあります。
またその後、かえるを地にのぼらせましたが、その時も呪術師は同じことをしました。
その次は、地のちりをぶよにかえましたが、その時は呪術師はできませんでした。
その後、あぶの群れ、疫病、うみの出る腫れ物、火の雹、いなごの大群、そして、初子をうった過越です。
ここでは、多くのことがメッセージで語られてきましたし、語られるでしょう。
今日はひとつのことだけ注目します。
モーセが神のしるしとして行ったしるし・奇跡を呪術師も行ったのです。 勿論、全てではありませんが。。。

しかし、目に見えるしるしとしては、同じことが神の業としてなされることもあり、 悪魔の業としてなされることもあるということがわかります。
だから吟味の必要があるのです。

2コリント11:13-14
:13こういう者たちは、にせ使徒であり、人を欺く働き人であって、キリストの使徒に変装しているのです。 :14しかし、驚くには及びません。サタンさえ光の御使いに変装するのです。

この2コリント11章を読むとわかりますが、
別のイエスを・・・
異なった霊を・・・
異なった福音を・・・ とあります。
同じクリスチャンであると思っていても、ニセモノがいることがこの時代からあったのです。

実は、色んな人(使徒とか預言者とか言われる人)や働きも、その霊は怪しいという人たちもいます。
金歯になったとか、手の平に金粉が出てきたとか、同じことが魔術の中の錬金術でできるらしいです。だからといって、 それを吟味し、「悪霊だ!」とはなかなかいえませんが、神からの霊であるかという確信は得られません。
ですから、私は、否定もしないが肯定もしないという立場にいます。 私は、否定も肯定もしませんが、確信がないから受け入れないのです。

今は吟味するのは難しい時代なのです。
しかし、吟味できなかったとしても、わたしたちはそれを受け入れなくても、聖書があります。イエス様がおられます。
聖書からイエス様に直接教えていただき、導いていただけばいいのです。 外から、何かを受け入れる時に注意が必要なんです。

では、ここではどうやって見分けるよう書かれているのでしょうか。


2.イエスを告白する霊

: 2人となって来たイエス・キリストを告白する霊はみな、神からのものです。それによって神からの霊を知りなさい。 : 3イエスを告白しない霊はどれ一つとして神から出たものではありません。それは反キリストの霊です。

少なくとも、イエス様を告白するかどうかでまず判断できます。
しかし、先ほども言いましたように、クリスチャンだからといって全てを受け入れていいかというとそれも怪しい。
「別のイエス」がのべつたえられたりすることもあるのですから、 イエスの名を使っているからといって信じきってもいいとは言いきれないようです。
今は、難しい時代なのかも知れませんね。

よく、「聖霊様・・・」と言葉を聞きますが、父、御子、御霊の中で「御霊(聖霊)」だけが注目されているように感じます。 それが悪いのではありません。 しかし、ここではイエスを告白する霊と書かれてあるのですから、イエスを告白しているかどうかという点でも「聖霊さま」を強調しているのは、吟味するにこしたことはないと思うのです。

聖霊、聖霊・・・と「霊」にばかり目をむけてしまうと、 そこで油注ぎの為に・・・と祈られている「霊」が悪霊であっても、 気付かずに受け入れてしまうかも知れません。
吟味する必要があるということは心に留めていただければ幸いです。

私達は、まず「イエスを告白する霊」であるかを持って判断しますが、それ以上は、十分に注意しましょうとしか言いようがありません。
結論になってないですね。すいません。
でも、吟味しないよりは十分自分の霊を守ることはできると信じます。
そう、イエス様が守って下さるから。

結論) とにかくわたしたちは、神を愛し、自分を愛し、隣り人を愛するという神の戒めを守り、愛を実践しますが、 その霊については、十分に注意が必要であると思います。 吟味は難しくても、注意することはできると思います。
でも、恐れることはありません。愛には恐れはない、完全な愛は恐れを取り除くとあります。
私達は、聖書そのものを受け入れ、イエス様から直接教えられ導かれて行く時に、完全な愛であるイエス様によって、恐れることなく、愛を実践できると信じます。
前向きに愛する面と、注意すべき確かめる面とがありますが、聖書とイエス様を頼りに更に歩むものになりたいですね。
祈りましょう。




2005.2.6

「イエス様を知る」

ルカ10:38-42
:
序)イエス様が私たちに何をしてほしいと願っておられるか、とか、
聖書では、何をすべきなのか、、、は、今までも聞いてきましたし、
わかってるけど・・・という部分も少なからずあるかも知れません。
祈る、奉仕する、証しする、伝道する、仕える、集会にいく、賛美する、聖書を読む、喜ぶ、感謝する、、、
聖書にはたくさんの行動について、書かれています。
でも、私たちは、これを命じておられる方が、どんな方かを十分に知り、味わい、受け止め、受け入れることが必要であり、 そのことの方がはるかに重要であると思います。
マリヤとマルタの話しから、その優先順位がわかります。
マルタは、イエス様をお迎えし、いろいろともてなしをしようとしていました。
それも素晴らしいことです。大切なことでしょう。
でも、イエス様はそんなマルタよりも、何もせずにイエス様のみもとに座って、御言葉を聞き入っていたマリヤの行動の方が良いほうを選んだと言われました。
これから何を教えられるでしょうか。
イエス様のために何かをすることも大切ですが、 それ以上にイエス様のこと知ろうとすることの大切さ、その優先順位のほうが上であることを教えられているのではないでしょうか。
勿論、何もしなくていいというわけではありません。 優先順位のことです。
働かなかったら、食べていけないし、、、ね^^;

さて、「イエス様はどんな方?」
みなさんはどれだけ言えますか?
今朝は楽しくイエス様を味わいましょう。


1.「愛なる方」

アガペーの愛(無条件の愛)で私たちを愛してくださる方です。

新改訳第3版の新約の中に「愛」という言葉は293件あるみたいです。
ちなみに、第2版では、292件、口語訳では291件、新共同訳では、283件でした。

イエス様の特徴はたくさんありますが、全てに共通するものが根底にあるのではないでしょうか。
イエス様は 慰め、励まし、許し、癒し、戒め、教える、共におられる、戦ってくださる、備え、羊飼い、覆い、守ってくださる、
ですから、イエス様の特徴はたくさんありますが、これらは、
「イエス様が私たちを愛してくださってる」から、してくださることと言えるのではないでしょうか。。

イエス様の愛は・・・
ヨハネ15:13 人がその友のためにいのちを捨てるという、これよりも大きな愛はだれも持っていません。
1ヨハネ4:8 愛のない者に、神はわかりません。なぜなら神は愛だからです。
1ヨハネ4:10 私たちが神を愛したのではなく、神が私たちを愛し、私たちの罪のために、なだめの供え物としての御子を遣わされました。ここに愛があるのです。
1ヨハネ4:16 私たちは、私たちに対する神の愛を知り、また信じています。神は愛です。愛のうちにいる者は神のうちにおり、神もその人のうちにおられます。

十字架で命を捨てるほどの愛、全く自分の為ではなく、わたしたちの為に命を捨てるほどの愛。
これを十分に味わい、受け止め受け入れましょう。

そして、 このような最高の愛で愛してくださっているから、わたしたちを救って下さる。


2.「救い主なる方」

使徒 4:12 この方以外には、だれによっても救いはありません。天の下でこの御名のほかに、私たちが救われるべき名は人に与えられていないからです。

イエス様による以外、救いはない。
イエス様がどんな方・・・という時に、救い主であることを抜きには語れない。
イエス様は慰めて下さるが、人の慰めもあるかも知れない、
イエス様は励まして下さるが、人の励ましもあるかも知れない。
イエス様は癒して下さるが、人の癒し(治す)もあるかも知れない。
イエス様は戒め教えて下さるが、人が戒め教えてくれるかも知れない。
イエス様は共にいて下さるが、人が共にいてくれるかも知れない。
イエス様は戦って下さるが、人が戦ってくれるかも知れない。
イエス様は備えて下さるが、人が備えてくれるかも知れない。
イエス様は覆いになって下さるが、人も覆いになってくれるかも知れない。
イエス様は守って下さるが、人が守ってくれるかも知れない。

でも、どんな人も私たちを罪から救ってはくれない。
わたしたちを罪から救って下さり、永遠の命を与えてくださる方は、イエス様だけ!
だから、イエス様が救い主であることを抜きにはできないのです。

これだけは、いつも心に留めておこう。 決して忘れてはいけないこと。
「たとえいろんなことがよくわからなくても、 イエス様は私を救ってくださる方」 これだけは言えるのです。


結)無条件で愛しているが故に、私たちにいつも良き方であり、
何よりも私たちを救い、永遠の命を得させてくださるのがイエス様です。
更に、イエス様がどんな方なのか、もっともっと知りたいですね。
聖書を読めば、メッセージを聞けば、賛美すれば、祈れば、・・・ 神を愛し、自分を愛するように隣り人を愛すれば、もっともっとイエス様を知ることができるでしょう。
そして、イエス様の素晴らしさを体験し、イエス様を見上げる歩みを続けるなら、幸いです。
祈りましょう。




2005.2.13

「今日、主を信頼する」

出エジプト16:9-31 、マタイ6:33-34

序) イスラエルの人々は、エジプトから解放され、主の導きによって守られ、進んでいったのですが、シンの荒野に入った時に、主に対してつぶやきました。
こんな荒野で飢え死にするくらいなら、エジプトにいて、肉なべを食い、パンをたくさん食べているときに死んだ方がよかった・・・と。
海が分かれて、そこを通って、エジプト軍からも守られて、主のすばらしい御業を見て、主の偉大さ、素晴らしさ、主が導いておられること、主に信頼することを学んだはずの人々が早くもこんなことを言っているのです。
エジプトを出て、2ヶ月目の15日ですから、正月に出て、ちょうど今頃ですね(^^)
私たちも弱さを持っていますから、
年の初めに、「今年は○○をするぞ!」とか、「今年はこんな年にするぞ!」とかいろいろと希望を持ったり、目標を立てたりしても、2月半ばくらいになると、忘れていたり、既にあきらめたり、することもあるかも知れません。
主は人間がそのような弱さを持っていることもご存知で、何度でも主に信頼すること、主に目を向けることを教えておられるのかもしれませんね。

この聖書の箇所から、イスラエルの人々が学んだと思われること、わたしたちが学ぶことができることを教えていただき、神様からの生けるパンとして受け止めいただきたいと思います。


1.神様の満たしは完全

神様は、人々のつぶやきを聞いて、マナを与えました。
この「マナ」は、毎朝、収穫できるように与えられ、6日目だけは二日分が与えられました。
それぞれが家族の人数分づつ取って、その日の内に食べたのですが、次の日の為に残しておくと、虫がわき悪臭を放ったとあります。 しかし、6日目に二日分取って、次の日に残した時は大丈夫でした。 また、7日目の朝にはマナは降りませんでした。

神様はその日その日の必要を完全に満たされるお方です。
それは余ることもなく、不足することもなかったのです。(:18)
神様は毎朝、マナを与えられる、日ごとにその日その日に必要な糧を与えられるのです。
そして、それは日が熱くなると溶けてなくなるのです。

ここを読むと私は非常にチャレンジを受けます。
神様は、私にも毎朝、御言葉のマナを与えて用意して下さっているのに、ちゃんと取りにいけていないなぁと思うのです。
日が熱くなると溶けてなくなってしまう。
毎朝、主の前に御言葉をいただくことをしなくては・・・と思います。

神様の満たしは完全なのです。
これは、150%ということではなく、必要を100%満たされるということなのです。


2.神様を信頼する

主はこのようにして、主に信頼することを再度、教えられました。
しかし、イスラエルの人の中には、今日はあっても、明日の朝はないかもしれないと思ったからでしょうか。 次の日まで残しておこうとした人がいたのです。 でも、虫がわき悪臭がしたのです。

これは、主を信頼していないが故の行動ではないでしょうか。
主が毎日与える、毎日一日分を集めよ、といわれているのに、次の日まで残そうとしたり、 6日目には2日分とって残せばいいから、7日目は取りに出るなといわれているのに、取りに行ったり、 主を信頼しないから、こんな行動になるのでしょう。
私たちはどうするのでしょう。
主を信頼しましょう。
自分の知識や経験だけに頼ってしまってはいけません。

箴言 3:5-6 心を尽くして主に拠り頼め。自分の悟りにたよるな。 あなたの行く所どこにおいても、主を認めよ。そうすれば、主はあなたの道をまっすぐにされる。
心を尽くして主に信頼し、より頼むのです。 自分の常識だけで判断するなら、それは主の介入する余地はなくなるのではないでしょうか。
どんな時も主を認めて、主により頼むならば、主があなたの道をまっすぐにされ、導かれていくのです。

心から主に信頼するものになりたいですね。
でも、それもなかなか難しく感じることも感じる時もあるでしょう。
では、主を信頼するものとして私たちはどうすればいいのでしょうか。


結)今、できること、すべきこと

今できること、今すべきことを今すればいいのです。
マタイ6:33-34 :33 だから、神の国とその義とをまず第一に求めなさい。そうすれば、それに加えて、これらのものはすべて与えられます。 :34 だから、あすのための心配は無用です。あすのことはあすが心配します。労苦はその日その日に、十分あります。

イスラエルの人々は、毎朝、マナを1日分だけ集めること、6日目だけ2日分集めることをすれば良かったのです。
そのことをすることによって、イスラエルは、荒野にいた40年間、主の満たしを受け、養われていったのです。
私たちも、今日すべきことをできることを今日やりましょう。
労苦はその日その日に十分ある、とイエス様も語られました。
それなら、できるのではないでしょうか。
明日、明後日、来週、来月のことばかり心配していても、今日の労苦は解決しません。
今日やるべきことをやりましょう。
これは、別に先のことを考えるな、先のことをみるなという意味ではありません。
今日やるべきことがあるのに、先のことを心配して、今日やるべきことをやらないということのないように、という意味や、
今日やるべきことがあるのに、主を信頼していないが故に先のことを心配するのではなく、
主を信頼して、先のことは見ながら考えながらも、主に委ねて、今日やるべきことをしましょう、という意味です。

私たちは、主を信頼し、今日やるべきこと、できることをやっていくなら、幸いです。 毎日はその繰り返しです。
その時に、主は変わらない約束で私たちを養い、導き、その行く道をまっすぐにして、全ての満たして下さいます。
主に信頼し、祈りましょう。




2005.2.20

「あなたのオアシス」

創世記4:1-15

序)あなたのオアシス
砂漠のオアシス・・という言葉がありますが、砂漠を旅する旅人にとってオアシスは欠かせないものです。水を飲むことができるし、食べ物もあります。また休むことができます。旅し続けるためにはどうしても必要なのがオアシスです。

イエス様は私たちのオアシスです。
私たちの人生は、まさに砂漠を旅するようなもの。
人との関係で傷つきいたり、何かわからないけれども心が満足しない。
求めても求めても、満足しない・・・心が渇いています。
明日のことがわからない、旅する道がはっきりと見えずにたえず迷っています。

そんな時、私たちはオアシスであるイエス様のところへ行くことができます。
私たちの傷ついた場所に愛を注いでいやしてくれます。
また、渇いた心に命の水を与えてくれるでしょう。渇いた心が潤っていくのを感じます。
そして、行く道を見つけるために迷い、戦っている私たちの心を休める場所です。

イエス様は、あなたのオアシスです。
いつでもこのオアシスで休み、いつでも渇いた心を潤す水を、飲むことができます。
私たちのこの地上での生涯、旅が終わる日まで、歩き続けることができます。

本当のオアシスはイエス様です。
私たちには、オアシスが必要です。
なぜ?今日読んだ聖書にヒントがあります。

もし、本当のオアシスを知らなければどうなってしまうのでしょう?

1.オアシスのない旅は・・・「罪の実を結ぶ原因になる」

兄弟のカインとアベル。
お兄さんのカインと弟のアベルはそれぞれ神様の供え物を持ってやってきました。 カインは地の産物、野菜や果物です。
アベルは羊飼いなので、小羊をもってきました。
ところが、それを見た神様は、アベルとアベルの供え物には目をとめましたが、カインの供え物には特に目をとめられませんでした。
それを見たカインは怒りました。
みなさん、これは何かわかりますか?そう“ねたみ”です。
カインは弟のアベルに神様が目をとめられているのを見て、妬んだのです。
そして憎い!と思うようになりました。
カインの思い、それは人の心の中をよくあらわしています。
特に落ち込んでいる時に恵まれている人を見ると・・・・
ねたみとはとても身近なものです。そして私たちが陥りやすいわなです。
でも少し考えて見てください。なぜカインはねたんだのでしょう?
私たちは、なぜねたむのでしょうか?
それは私たちの心が満たされていないからです。
もし、あなたが1000万円の宝くじに当たっていて、となりで3万円の福引に当たっている人を見ても「君!良かったじゃないか!」といえるでしょう。
でも私たちは、いつも相手の人よりも良い立場であり続けることは不可能です。
自分には何もない、満たされていない時、ねたむ心が湧きあがってきます。
その思いは、そのままにしておいてはなりません。
「べつにねたむことなんて誰でもすることです。」 いいえ、だからといって、決してそのままにしてはならないのです。
それが聖書でいう罪というものだからです。
そして罪はあなた自身を滅ぼします。罪の支払う報酬は死である、と聖書にあるからです。

カインはこの後どうしましたか?
:8 しかし、カインは弟アベルに話しかけた。「野に行こうではないか。」そして、ふたりが野にいたとき、カインは弟アベルに襲いかかり、彼を殺した。

最初は小さな芽のようなもの、でも時間がたつと憎しみになり、罪の実を収穫しなくてはならなくなるのではないでしょうか?
殺してしまうことはないでしょう。
でもあなたは人と人の関係を殺してしまっているのではないでしょうか。
ねたむ思いがあれば、愛することは難しいでしょう。
傷つけることはあっても、励ましたり、支えあうのは難しくなります。

だからこそ、私たちにはオアシスが必要なのです。オアシスに行かなくてはなりません。
ねたむ思いがやって来た時、それはあなたがオアシスで満たされるチャンスです。


2.オアシスはどこに・・・「あなたのすぐそばに」

オアシス。それはあなたのすぐそばにあります。 いえ、今あなたはオアシスの中にいるのです。あなたがどんな時でも、どんな状態にあっても関係なく、あなたはオアシスの中にいるのです。わからないとすれば、それを知らないだけ。

私たちがどんなに離れても、私たちは神様の愛から離れることはできません。
ローマ 8:39 高さも、深さも、そのほかのどんな被造物も、私たちの主キリスト・イエスにある神の愛から、私たちを引き離すことはできません。

いつもあなたを愛しておられるお方です。
弟をねたんでしまったカイン。そして罪を犯し、殺してしまいました。 神様はカインに聞きました。アベルはどこにいったのか?
神様は何でも知っています。でもカインは知りません!といってしまいました。
でも、とうとうカインはいいました。
「私の咎は、大きすぎて、にないきれません。 ああ、あなたはきょう私をこの土地から追い出されたので、私はあなたの御顔から隠れ、地上をさまよい歩くさすらい人とならなければなりません。それで、私に出会う者はだれでも、私を殺すでしょう。」
罪の大きさに気付いたのです。とても大切なことです。
そして、今その罰はイエス様が、十字架で身代わりに受けてくださいました。
負いきれないほどの罪です。とても耐えることのできないような罰です。
でもイエス様が身代わりに背負ってくださいました。
私たちはイエス様の愛の大きさを見て、罪の深さを知ることができます。
イエス様は、あなたを愛しています。

イエス様というオアシスに行くなら、この愛をいっぱいに受けとることができます。
イエス様のこの十字架で示された愛は、私たちの心を完全に満たします。
1000万円もっている人よりも、もっともっと満たされているのです。

イエス様の愛を受け取っている人から喜びを奪うことはできません。
イエス様の愛を知っている人から希望を奪うことはできません。
そしてねたみという思いも愛によって消えてゆくのです。

:15 主は彼に仰せられた。「それだから、だれでもカインを殺す者は、七倍の復讐を受ける。」そこで主は、彼に出会う者が、だれも彼を殺すことのないように、カインに一つのしるしを下さった。

イエス様はあなたを守られる方です。罪を責める方ではなく許す方です。
あなたを裁くかたではなく、守る方です。

結)もし、あなたが自分の罪に気付き、心を開くなら、いつでもオアシスであなたの心を満たすことができるでしょう。
「イエス様、私の心をあなたの愛でいっぱいに満たしてください。傷つけるのではなく、愛することができるように。」
そう祈る人は幸いです。
祈りましょう。




2005.2.27

真の礼拝を目指してNo1

「二つの捧げもの」

創世記4:1-:22

序論)主が築き上げる教会の礼拝とはどのようなものでしょう。
人類の最初のアダムとエバのその最初の子、カインとアベルの二人の礼拝行為を通して礼拝者としての姿を学びます。


どのような「犠牲の上に」礼拝を築き上げるのか。
1.真の礼拝は、「イエス様の血の恵み」の上に築きあげられる。:1-

ヘブル11:4
神様がアベルの捧げものに目を留められたのは、彼の持ってきた捧げものの質です。 「地のささげもの」か「血のささげもの」の違い。
世の罪を取り除く為に血を流された「神の小羊」イエスキリストの完全な型。
私たちはただ、イエス様の模範に従うというのではなく、イエス様の血潮に基を置いて、イエス様の模範に従うのです。


どのような「態度の上に」礼拝を築き上げるのか。
2.真の礼拝は、「砕かれた、悔いた心」の上に築きあげられる。:6-

1ヨハネ3:11-12、詩篇51:16
間違った礼拝行為は、神様との関係だけでなく、人との関係にまで影響するということです。
弟アベルの血が叫んでいる、とはなんでしょう。この血は、イエス様の血の叫びです。イエス様の血が叫んでいるのです。
もう誰も責め合う必要がないのです。誰も自分の咎を負うことはできません。

結論)1ペテロ2:4-:5 主のもとに来なさい。主は、人には捨てられたが、神の目には、選ばれた、尊い、生ける石です。あなたがたも生ける石として、霊の家に築き上げられなさい。そして、聖なる祭司として、イエス・キリストを通して、神に喜ばれる霊のいけにえをささげなさい。




2005.3.6

「主が戦われる」

出エジプト 17:8-16

序)アマレクがイスラエルと戦った。
アマレクというのは、エサウの孫の一人。 イサクとリベカの長男エサウと二男ヤコブ。 そのエサウのたくさんいる孫の一人がアマレクです。創36:10-
イスラエルは、ヤコブの子孫ですから、もとは兄弟ですね。

創27:39-40を見ると、 :39 父イサクは答えて彼に言った。「見よ。おまえの住む所では、地は肥えることなく、上から天の露もない。 :40 おまえはおのれの剣によって生き、おまえの弟に仕えることになる。おまえが奮い立つならば、おまえは彼のくびきを自分の首から解き捨てるであろう。」 ヤコブが父ヤコブを騙して、長子としての祝福をエサウから奪ってしまったからでした。

エサウの子孫であるアマレクがヤコブの子孫であるイスラエルのところに来て戦ったのは、このイサクの言葉のとおりになっているのかもしれませんね。
おのれの剣によって生き・・・とか、おまえが奮い立つならば彼のくびきを自分の首から解き捨てるであろう・・・とかありますから、剣によってイスラエルと戦って、自らのくびきを解き捨てようとしているという意味なのかも知れませんね。
イスラエルがエジプトに寄留して、この脱出までが430年ですから、もともと兄弟なのに、4〜500年も経つと、戦争するような関係になるかもしれないんですね。
室町時代には実は兄弟だったのに、今ケンカしてるって人もいたりして(^^;

さて、アマレクとイスラエルはそういう関係だったのですが、私たちはこの戦いを通して、教えられることも多々あります。 一緒に見ていきましょう。


1.主に手を上げていると優勢になった。

これは「祈り」を象徴しているとも言えるかもしれません。
少なくとも、「主により頼んでいる」状態を現しているのではないでしょうか。

別に、ヨシュアがモーセの手を見て、下げているから、後退したとか、戦うのをやめたというわけではありません。 ヨシュア達は戦い続けていたのですが、モーセの手が上がっていると優勢になり、おろしていると劣勢になったのです。

モーセは手を上げ続けることは困難でした。 ですから、モーセを石に座らせ、アロンとフルが両側で、手が下がらないように支えたのです。
これは、主に拠り頼み続けることを意味すると思います。

私たちも人生のいろんなことの中で、主に拠り頼んで始めたけど、軌道に乗ってくると調子に乗って、自分でやろうとしてしまう時があるかもしれません。
ガラテヤ 3:3 あなたがたはどこまで道理がわからないのですか。御霊で始まったあなたがたが、いま肉によって完成されるというのですか。

主に拠り頼んでスタートしたことは、最後まで主に拠り頼んでいくことこそ、信仰と言えるのではないでしょうか。
このモーセの記事から、 主に拠り頼んでいる時にこそ、主の力が現されることがわかります。


2.アロンとフルはモーセを支え、ヨシュア達は戦った

先ほども話したように、手を上げ続けることはモーセだけでは達成できなかった。
アロンとフルという助け手があって、初めて上げ続けることができたのです。
また、実際に戦ったのは、ヨシュア達でした。
:9 モーセはヨシュアに言った。「私たちのために幾人かを選び、出て行ってアマレクと戦いなさい。あす私は神の杖を手に持って、丘の頂に立ちます。」
モーセは、ヨシュア達に戦いに行くように言いましたが、 これは別にヨシュア達に戦わせて、年寄りのわたしは高みの見物をしようと思って、そうしたのではありません。
モーセはモーセの役割を果し、アロンとフルはそれぞれの役割を果し、ヨシュア達は自分達の役割を果したのです。 その時に、イスラエルはアマレクに勝利しました。
モーセが手をあげたから勝ったのでしょうか?
アロンとフルが支えていたから・・・?
ヨシュア達が戦い、強かったから・・・?
いえ、それら全ての働きがあったから、勝利があったのです。

教会もいろんな人がいます。 いろんな働きがあります。 でも、その働きの一つでもかけるなら、完全な勝利は現されないのかも知れません。
いろんな働きがあって、優劣はなく、全ての働きが一致した時に、主の力が現されるのです。
自分のやるべきこと、できることはなんでしょうか。 そのことを一つずつするなら、幸いですね。


結)主が、アマレクと戦われる。

誰が戦ったのか?
確かにヨシュアは直接戦いに出ていった。しかし、モーセもアロンやフルも主に手を上げるということを通して一緒に戦った。
そして、この勝利を主は、
:14 主はモーセに仰せられた。「このことを記録として、書き物に書きしるし、ヨシュアに読んで聞かせよ。わたしはアマレクの記憶を天の下から完全に消し去ってしまう。」
そして、モーセ達は、
:15 モーセは祭壇を築き、それをアドナイ・ニシと呼び、 :16 「それは『主の御座の上の手』のことで、主は代々にわたってアマレクと戦われる。」と言った。

つまり、「主御自身がアマレクと戦われた。そして代々に渡って戦われる」ということです。

最初は、アマレクがイスラエルと戦った(:8)、のですが、 実はアマレクは主と戦っていた(:16)のです。
これは、イスラエルが主に拠り頼み続け、それぞれが自分のすべきことをしていった時に起こった出来事です。
主が戦われ、勝利されるときはこういう時なのです。

私たちもまた、主により頼み続け、自分にできること、すべきことをして行くなら、主の御業、主の勝利を体験することでしょう。 祈りましょう。




2005.3.13

「アブラハムの礼拝」

創22:1-14

(序論)  今回は、アブラハムの礼拝から学びましょう。
この所で、礼拝(ワーシップ)とい う言葉が始めて使われています。そして、神をたたえる礼拝であるというのに、音楽 的な事については、全くふれていないのです。神様が望んでおられる礼拝のあり方を 受け止めていきましょう。そして、そのような礼拝者に変えられていきましょう。


1、真の礼拝とは、試練の中で、「神様に近づくこと」です。
エペソ3:12 
私たちはこのキリストにあり、キリストを信じる信仰によって大胆に確 信をもって神に近づくことができるのです。
神様に近づくとは、準備です。アブラハ ムは、朝早く起きて出発したのです。朝早く起きるために、前の日からの準備が必要 でした。神様に近づくとは、どのような事でしょう。

(1)「与えられた恵み」を覚えて、近づいていくことです。
はじめて与えられた子供のイサク。    
主の恵みを心のとめる事は礼拝への力となります。

(2)「霊的なたきぎ」を割って、近づいていくことです。    
霊的なたきぎとは、何でしょう。信仰による賛美です。    
感情や状況に依存しないのです。アブラハムは自分で薪を割ったのです。

(3)「神様の火と刀」を持って、近づいていくことです。    
自分の力で礼拝の火を燃やすことはできません。聖霊の火です。    
御言の剣は、肉のものと霊のものを聖別します。アブラハムは、自ら火と刃を 手に取り進んでいきました。


2、真の礼拝とは、「全焼のいけにえ」を捧げることです。
マルコ12:33 
また『心を尽くし、知恵を尽くし、力を尽くして主を愛し、また隣人 をあなた自身のように愛する。』ことは、どんな全焼のいけにえや供え物よりも、 ずっとすぐれています。」

(結論)  モリヤの山、イエス様が十字架で死なれた場所です。最高のものが捧げられた場所 です。 あなたにとってのモリヤの山で、真の礼拝を捧げましょう。


2005.3.20

「復活の前に、葬り」

マルコ15:42-47 、1コリント15:3-5


序) この記事は、4福音書の全てに出てきます。
いかに大切なことであるかが伺えます。
この箇所は、イエス様が十字架に架かられ、そして死なれた直後の出来事が書かれてあります。
私達は、イエス様の十字架の死、そして復活についてはよく聞きますし、大切であることも聞いています。 しかし、1コリント13:3-5を読むと、「葬り」が「死」「復活」と同じように大切なことであることがわかります。
4つの福音書全てに出てくるという重要性がわかります。
来週はイースター礼拝、復活を祝うのですが、その前に今日、葬りについて共に聖書からメッセージを受け取っていきましょう。


1.葬りとは・・・完全に委ねること

4福音書全てに、アリマタヤのヨセフの名前が載っています。
ヨセフは十字架で死なれたイエス様を下げ渡して、葬った人です。
イエス様は十字架の死に自ら向かっていかれました。自ら死なれたのです。
また、誰かに起こしてもらって復活されたわけではありませんよね。
しかし、葬りについては、アリマタヤのヨセフに葬ってもらったのです。
イエス様は運ばれる時に「ちょっと歩こうか?」とか自分で少し動かれたわけではないですよね。
イエス様でさえ、完全に委ねられたのが、葬りです。

イエス様の十字架の死を私達の身代わりの死として受け入れ、わたしたちもその死にあずかることによって罪から救われます。
そして、わたしたちも葬られる必要があるのですが、それは完全に委ねることを意味するのです。
私達は誰に完全に委ねるのでしょうか。 それは、イエス様です。
イエス様がこのとき、アリマタヤのヨセフに完全に委ねられたように、私達はイエス様に完全委ねるのです。
そうすることによって、イエス様の葬りにもあずかることとなるのです。

完全に委ねることは難しく感じる時やこともあるでしょう。 しかし、死んだ人が葬式でジタバタしないように、わたしたちも葬ってくれる方に対して、全く委ねるものになりたいです。

葬りとは、完全にイエス様に委ねることです。


2.葬りとは・・・完全に死を認めること

葬られた人は、死んだふりをしているわけではありません。
葬りとは、死んだことを公表することでもあります。
葬式をすることによって、この人は死んだのです、と公表しますよね。
墓に葬ることによって、この人は何年何月何日に死にました、と公表するのです。
もし、その人が本当に死んだのではなく、死んだふりをしているだけだったら、 墓に葬ろうとしたら、拒否するでしょう。 「実はまだ死んでないんだ」と言うでしょう。

私達はイエス様が十字架で死なれた死がわたしの罪の身代わりとしての死であることを受け入れて、その死にあずかります。 そして葬られるのです。
もし、死んだふりをしているだけなら、葬られることを拒むでしょう。
私達はイエス様の死にあずかり、葬りにもあずかり、そして復活にもあずかるためには、 完全に死を認め、葬られなければならない。 イエス様の葬りにもあずかるために。。。

私達の内にある罪が死んで、葬られるためには、完全に死を認めることです。


結)死んで葬られることは一度でいいのでしょうか。
イエス様の死を自らの罪の身代わりとして受け入れ、その死にあずかり、その葬りにあずかって、バプテスマを受けた人もいるでしょう。 その人は、もうそれでいいのでしょうか。 勿論、そうですね。罪からの救いという点では、それでいいのです。
しかし、わたしたちはその後の人生の歩みの中で、死んだはずの過去の自分、罪を犯してしまうこともあるかもしれません。
そうです。 イエス様は完全な方ですから、一度死んで葬られたら完成でしょう。 しかし、わたしたちは不完全な者です。ですから、一度死んで葬られたからといって、完成するとは限りません。 この地上での肉体を持っている以上、完成はしないのです。肉体が死に、天に帰る時に、完成するのです。 それまでは、地上ではこの肉体に魂を宿していただいて、罪赦された罪人として歩んで行くのです。
ですから、何度でもイエス様の十字架の死にあずかり、葬りにあずかるのです。
その時に、復活にもあずかることができるのです。

イエス様の死と葬りと復活にあずかるものになりたいですね。



2005.3.27
2005.4.3
2005.4.10

「互いに・・・」

ヨハネ13:1-17

序)イエス様は、イエス様と弟子達の関係を示され、それを通して、今日の教会のあり方、神様と私達の関係を示唆されました。
では、ここでイエス様が弟子達にされた行動を通して、神様と人との関係、また人と人との関係、これは教会での人間関係とも考えられることだと思いますが、それらは、どうなのか、みていきましょう。


1.イエス様が足を洗われた。

足を洗うのは、しもべの役目でした。
そのしもべの役目を神であるイエス様が弟子達にされたのです。
イエス様は神様ですから、人々の上に立つことができた方ですし、そうすることもできたでしょう。
しかし、しもべのように仕えられたのです。
これは、イエス様がいかに弟子達を愛しておられ、最後まで愛しとおされたかということがわかります。
イエス様は裏切るユダをも愛されました。
また、十字架の死に至るまで、愛しとおされました。
イエス様がしもべのようになって仕えられたのに、人々の中で上に立つことができるような存在などないと言えるでしょう。
どうして、神が一人の人間をそんな神のような存在として立てられるでしょうか?
神であるイエス様でさえ、人に仕えられたというのに。。。

ですから、わたしたちは感謝し、尊敬することはあっても、絶対的な存在にすべき方は、神様以外ないのです。 絶対的な言葉は、神の言葉、聖書しかないのです。
絶えず神に栄光をお返ししなくてはなりません。
この地上において、上に立つべき人は存在しません。
神以外にそのような存在はないのです。

では、私達はどのような関係であるべきなのでしょうか。


2.互いに足を洗い合うべき。

イエス様は、御自身が模範として、足を洗われ、仕えられましたが、互いにそのことをするように言われました。
「互いに」です。
ある人は洗われる人、ある人は洗う人、ではないのです。
互いに洗い合うべきだとおっしゃったのです。
牧師も副牧師も伝道師も宣教師も教師も役員も長老もリーダーも信者もそれは、そういう役割であったり、呼び名であるだけで、神の前には互いに仕えあう、愛し合う、存在なのです。
聖なる方は、唯一神様だけです。
人はどんな人も罪人です。一人として例外はありません。
ですから、その中では互いは、神の前に同じ存在なのです。
私達はどうでしょう。 互いに足を洗い合う、仕えあい、愛し合う教会になりたいですね。


結) イエス様は教会を建て上げられるのです。
そうです。イエス様が建て上げられるのです。
牧師が建てるのではありません。
イエス様が教会を建て上げる時に、牧師をそこに据え、あるいは教師を据え、あるいは執り成し人を据え、あるいは励ます人を据え、と、御霊が自由に賜物を与えて、そこに建てていかれます。
そのようにして、イエス様は教会を建て上げていかれるのです。
そこでは、唯一、神様が礼拝され、その神がまた私達の足を洗い、癒し、励まし、建て上げて下さる。
そして、教会では、互いに足を洗いあい、仕えあい、愛し合い、互いに建て上げられていくのです。
これが健全な教会なのではないでしょうか。
私達の教会は、イエス様御自身に建て上げていただき、互いに愛し合い建て上げられていきたいですね。



2005.4.17

「神様からの救い」

エペソ2:1-10
:1 あなたがたは自分の罪過と罪との中に死んでいた者であって、 :2 そのころは、それらの罪の中にあってこの世の流れに従い、空中の権威を持つ支配者として今も不従順の子らの中に働いている霊に従って、歩んでいました。 :3 私たちもみな、かつては不従順の子らの中にあって、自分の肉の欲の中に生き、肉と心の望むままを行ない、ほかの人たちと同じように、生まれながら御怒りを受けるべき子らでした。 :4 しかし、あわれみ豊かな神は、私たちを愛してくださったその大きな愛のゆえに、 :5 罪過の中に死んでいたこの私たちをキリストとともに生かし、・・あなたがたが救われたのは、ただ恵みによるのです。・・ :6 キリスト・イエスにおいて、ともによみがえらせ、ともに天の所にすわらせてくださいました。 :7 それは、あとに来る世々において、このすぐれて豊かな御恵みを、キリスト・イエスにおいて私たちに賜わる慈愛によって明らかにお示しになるためでした。 :8 あなたがたは、恵みのゆえに、信仰によって救われたのです。それは、自分自身から出たことではなく、神からの賜物です。 :9 行ないによるのではありません。だれも誇ることのないためです。 :10 私たちは神の作品であって、良い行ないをするためにキリスト・イエスにあって造られたのです。神は、私たちが良い行ないに歩むように、その良い行ないをもあらかじめ備えてくださったのです。

序)恵みによって救われる、と言うが・・・。
私達は、イエス様が救って下さる、恵みによって救われるといいます。
使徒2:37-38これは救われる為の方法が書かれている。

今日は私達が救われるということについて見てみましょう。

1.私達が救われる理由とは。。。

@神が愛して下さっているから。(:4)
神様が私たちを救われるのは、神が私たちをまず愛して下さっているからです。

1ヨハネ 4:10 私たちが神を愛したのではなく、神が私たちを愛し、私たちの罪のために、なだめの供え物としての御子を遣わされました。ここに愛があるのです。
まず神が私たちを愛して下さったのです。 その愛は大きなものでした。

ヨハネ15:12-17
:12 わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合うこと、これがわたしの戒めです。 :13 人がその友のためにいのちを捨てるという、これよりも大きな愛はだれも持っていません。

イエス様は私たちを友と呼び、わたしたちの為に命を捨てて下さった。 その最大の愛で、私たちを愛して下さっているのです。 だから私たちを救って下さるのです。
私たちが救われるのは、神が私たちを最高の愛で愛して下さっているからです。

A世にこの恵み(救い)を明らかに示すため。(:7)
世において、この豊かな神の恵みすなわち救いをキリストにおいて私たちに与えられる愛によって明らかに示すために私たちは救われるのです。
つまり、人々にこの素晴らしい恵み・救いを示すためには、それをあらわす人が必要です。
救われた人がいなければ、この救いはあらわされません。
イエス様は、弟子達を愛され、救われました。 また、多くの人々を愛し、救われました。
その救われた人々がこの大きな恵みを世に示し、伝え、広げていきました。
だから、今日もその恵みはあらわされ、伝えられて、私たちも知るに至ったのです。
私たちが救われるのは、この恵み救いを世に示す為です。


2.救われた私たちが忘れてはならないこと。。。

さて、私たちは救われて何年も経ったりすると、つい忘れてしまったり、勘違いしてしまっている場合があります。
わたしたちは救われていて、クリスチャンじゃない人は救われていないから罪人? いいえ。私達も罪人です。同じです。
救われた罪人か救われていない罪人かの違いです。

では、救われた私たちが忘れてはならないことを二つ見ましょう。

@神からの賜物である。(:8-9)
私たちは救われた罪人ですが、この救いは神からの恵みであり、賜物です。
この救いは神様からのものです。私たち自身から出たことではないのです。
また、行いによるのでもないのです。誰も誇ることのない為です。

決してこれを忘れてはなりません。
救いは神から一方的に与えられた恵みであり、神からの賜物である・・・と。

A良い行いに歩む。(:10)
私たちは救われたら、それで終わりなのか? いいえ、そうではありません。地上での人生は続くのです。
私たちは神によって創られた傑作、作品です。よい行いをする為に造られたのです。
よい行いとは何でしょう。
ヨハネ15:12-17を見ると、 互いに愛し合うことが書いてあります。
また、最も大切な戒めである、神を愛し、自分を愛するように隣り人を愛することです。
もし、そのように愛しているのなら、神様の思いを受け止め、人々を愛し、この素晴らしい恵みである救いを人々にあらわし、伝えることも自然とできるでしょう。
勿論、他にも多くのよい行いがあります。
そして、その良い行いは、神様があらかじめ備えて下さっているのです。

神様に絶えず目をむけて、神と人を愛し、互いに愛し合う人生を歩むなら、わたしたちは神様が備えられたよい行いをしていることでしょう。

結) ここでちょっと振返ってみましょう。
1−@と2−@がセットに、2−@と2−Aがセットになっています。
神が私たちを愛して下さっているから、神様からの賜物として救いが与えられる。
世にこの恵み(救い)を示す為に、私たちがよい行いをするように神様が備えて下さる。
のです。

神の恵み、救いをいつも心に留めて、神様が備えられたよい行いに歩む人生を歩みたいですね。
祈りましょう。



2005.4.24

「神様に用いられる」

マタイ 20:1-16

序) 用いられる・・・誰かに頼りにされるということは、喜びだと思います。
今日はH市長選挙ですが、 みなさんは市長になりたいですか?
あんな大変なもんなりたくないですよね。でもなりたい人もいるんです。
そういう人は、多くの人に頼られることを喜びに感じるんでしょうね。

今日は、神様が私たちを用いられる、ということを見ていきましょう。


1.神様は私たちを雇おう(用いよう)とされている方。

夜明け、9時、12時、15時、17時と一日に5回も雇おうと出かけられている。
たとえ、わずかな時間でもいいから用いてあげたい。。。そんな気持ちなのでは?
それほど、用いたいと願っておられる。 神様は私たちも、用いたいと願っておられる。
働きは違うかも知れない、いろいろあるかも知れない、賜物も違うかも知れない、でも神様はそれぞれをいろんな形で用いたいと願っておられる。
まずこのことを知りましょう。


2.神様の報酬は不公平?!

これはいい意味で不公平だと言える。 神様は長い時間仕えた人にも、短い時間しか仕えなかった人にも同じ報酬を与えられた。そうしたいと願われてそうされた。
これは、イエス様が来られた2000年前の弟子達が夜明けに雇われた人たちで、今の私たちは5時に雇われた人にあたる、という人もいる。
あるいは、クリスチャンホームに生まれ育って、ずっと教会で仕えて生涯を送った人が夜明けに雇われた人で、年老いてから救われた人が5時に雇われた人にあたる、と言えるかも知れない。
でも、神様は同じように、永遠の命を与え、救いを与え、恵みと祝福を与えられて、天国へと導いて下さる。
不公平は神様です。
これは、早く信じた人には救いを与えず、年老いて信じた人に救いを与えたという不公平ではない。
早かれ遅かれ同じように救いを与えられるという不公平です。
これは、大きな恵みです。

この事から教えられることを二つ。。。

@イエス様との関係は1対1の個人的な関係であること。
ほかの人がどれだけ報酬をもらったから、不公平だとかほかの人のことをとやかく言うこと自体が神様の前には不要なこと。
ペテロが、ヨハネのことを、「あの人はどうなのですか?」とイエス様に聞いた時に、 「・・・あなたに何の関わりがあるのか」といわれたように、 イエス様との関係は、1対1の個人的な関係であることを知ろう。
ほかの人がどうかということは、神様の前には関係ない。いい意味でも悪い意味でも。
牧師だから、神様から特別な祝福がある、信徒だからそこそこしかない。
そんなことはあり得ない。
神様の前には、みんな同じ神の子。できのよい子もいれば悪い子もいるかも知れないが、神様の目から見れば、みんな 「みんな私の子だ。何ができるできないは関係ない。私の大切な子だ」といわれている。
自分の命をかわりに十字架でささげるほどに、全ての人を愛しておられる方。
だから、ほかの人がこうだから。。。ということを神様の前に言うことはやめて、神様と自分の関係を築こう。

A主に用いられることが喜びとなっているか。
:12言った。『この最後の連中は一時間しか働かなかったのに、あなたは私たちと同じにしました。私たちは一日中、労苦と焼けるような暑さを辛抱したのです。』

神様に用いてもらえることは、素晴らしいことであり、特権です。
これは喜びとなるべきもの。。。
しかし、夜明けから用いてもらった人は、「労苦と焼けるような暑さを辛抱した・・・」と言いました。
早く救われた人が、年老いて救われた人と同じ扱いを受けて、 「クリスチャンホームに生まれ育って、献身して牧師にもなって、こんなに長い間苦労して耐えてきたのに、死ぬ前に信じて救われた人と同じ扱いかよ?神様、そんなの不公平ですよ!」 っていっているのと同レベルじゃないかと思うのです。
早くから救われて用いられているからこそ、味わう祝福や恵み。
早くから救われて用いられているからこそ、知ることのできる神様の素晴らしさ。
早くから救われて用いられているからこそ、体験できる神様の奥深さ。

私たちが、神様に用いられることが労苦だと感じるなら、それは健全な心の状態とは言えないでしょう。
用いられるとは、奉仕するとかそういうことだけじゃないです。
神様の前に、できることをする。ということです。
もし、喜びと感じられないなら、何か原因があるはずです。
まずは、神様との個人的な関係を見直し、築き直しましょう。
正しい神様理解が正しい信仰になります。

結論) 神様は、わたしたちを用いたいと願って探しておられます。
今私たちにできることは何でしょう。
イエス様との個人的な関係を築くこと、そしてそれを深く強くすることです。
そして、神様に用いてもらっているなら、そのことが喜びとなっているかチェックすることです。
もし、なっていないなら何か原因があるはずです。
神様との個人的な関係を見直し、もう一度築き深め強くし、神様との関係を健全で正しい関係にしていただきましょう。





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