2004年9月〜12月


2004.9.5「キリストのうちにある人」 2コリント5:14-21
2004.9.12「キリストを伝える」 ピリピ1:12-18
2004.9.19「あなたがたは、世界の光です」  マタイ5:14-16
2004.9.26「恵みを受け取るために」 ルカ8:43-48
2004.10.3「神の祝福」 ルカ9:11-17
2004.10.10「仕える、ということ」 ルカ10:38-42
2004.10.17「行動する時」 ルカ11:5-13
2004.10.24 「明るく輝く」 ルカ11:33-36
2004.10.31「私は揺るぐことがない」 詩篇16:8-11
2004.11.7「あなたは特別な人」 創世記2:16-17
2004.11.21「幸いな人よ」 詩篇1:1-6
2004.11.28「主を羊飼いとする幸い」 詩篇23
2004.12.5「神様の安息に生きよう」へブル4:1-11
2004.12.12「神の御言葉が成る」 ルカ1:26-38
2004.12.19クリスマスメッセージ 「 キリストを迎えること 」 ルカ2:8-33
2004.12.26「一年を振返って」 1テサロニケ5:16-18、詩篇103:1-2
2004.9.5

「キリストのうちにある人」

2コリント5:14-21

序.キリストのうちにある人 :17

キリストのうちにある・・・キリストに接ぎ木される。
キリストに接ぎ木された人は、その性質に変えられていきます。
そこには全く新しい創造が始まります。
私たちは、キリストにあって、全く新しい創造が始まっているのです。
古いものは過ぎ去って全てが新しくなるという素晴らしいことが約束されています。

接ぎ木されるというのは、渋柿の木が甘柿の木に接ぎ木されることを考えてみましょう。
渋柿の木は、渋柿の実しか結びません。しかし、甘柿の木に接ぎ木されると、やがてその渋柿の木は、甘柿の木の性質に変えられていき、甘柿の実を結ぶようになります。
私たちがキリストにある、キリストにつながっているなら、キリストの性質に変えられていき、やがて、キリストにある実(御霊の実等)を結ぶようになるのです。 接ぎ木されているなら、自然とその性質に変えられて、その実を結んでいくのですから、私たちもキリストの内にあるものであり続けたいです。
私たちはキリストにある実を結びたいと願います。それは難しいことではありません。何か特別に力を入れる必要もありません。
キリストにつながっているなら、自然とその実は結ばれるようになるからです。
キリストのうちにある人、キリストに接ぎ木された人として、キリストにつながり続けましょう。

では、キリストの内にある人はどのようなものになっていくのでしょうか。


1.キリストに生きる :15

自分のためにではなく、キリスト(自分の為に死んでよみがえって下さった方)のために生きる。

甘柿に接ぎ木された渋柿の木は、一生懸命渋柿の為に生きる必要はないのです。そう、古いものは過ぎ去ったのです。 甘柿に委ねてそこから送られてくる栄養素を吸収し、生きていけばいいように、わたしたちもキリストにつながり、キリストからくるあらゆる栄養素を吸収し、生きていけばいいのです。 何も難しいことではありません。つながっているキリストに委ねていれば、自然とその方のために生きるようになっていくでしょう。
キリストにつながっているひとつの証しとして、実を見ることができますが、その実のひとつがキリストに生きるということといえるでしょう。


2.キリストを通して知る :16

人間的な標準で知ろうとしない。

人間的には、キリストはマリヤの子として生まれ、大工の子として育ち、大工を職業とし、30才くらいで弟子達をつくり、預言者として自らをあらわし、最後は妬みから十字架刑によって死なれた方、というような知り方もできます。
でも、そうではなく、神の子として生まれ、人と同じように生活し苦しみや悲しみも経験され、罪の誘惑にもあい、しかし罪を犯すことはなく、30才くらいで公の生涯を歩まれて、自ら人類の罪を負い、十字架にかかられ、その命を捨てて愛を示し、救いを完成し、3日目によみがえって、天に昇っていかれ今も生きておられる唯一の救い主なる神である、という知り方もできます。
キリストの内にある人は、後者の知り方をするでしょう。

同様に私たちも互いに人間的な標準で人を知ることはせずにキリストを通して知ることができるようになる。
キリストは勿論、クリスチャン同士お互いを、またクリスチャンでない人もキリストを通して知ることができるようになる。
これもキリストの内にあるなら自然と結ばれてくる実のひとつといえるでしょう。


3.キリストの使節になる :20

神と人との間を和解はキリストによるのですが、その和解の言葉を私たちに委ねられました。

私たちはそのための使節(使い、大使、使者)になるのです。 キリストから遣わされたものとして、その和解の言葉、福音を委ねられているのです。そしてその言葉を伝えることができるものとされているのです。
これもまた、使者としてふさわしいものとして、もっと伝道しないと・・・と力を入れる必要はありません。
キリストにつながるなら自然とそのような者になっていくでしょう。それがキリストの内にある人が結ぶ実ですから。
ただ、キリストにつながっていれば自然と福音を伝えることができる機会も与えられてくるのはとても素晴らしいことなのですが、そのチャンスの時に準備できてないと急に話せないということです。 だからといって、みなさんに自分の証しを普段から準備して暗記したり、福音を簡単に話せるようにしておくことを強要するわけではありません。勿論そうしておきたい人はそれもいいでしょうし、すばらしいことの一つです。
でも、わたしたちができることのひとつとしてこのような準備はどうでしょう。

キリストにつながる方法の大切な一つして、普段からイエス様と交わることがあります。
それは聖書を読むこと、祈ること、感謝を数えること、賛美すること、教会に集うこと、礼拝すること。。。
その時に、イエス様に対しての知識は増え、イエス様に対する思いを確認できたり、イエス様の素晴らしさをもっと知ることになるでしょう。普段からそうしていくなら、いざ、イエス様のことを話す機会が訪れた時、
「ぼくにとって、イエス様はこんな素晴らしい方なんよ。聖書にこんなことが書いてあるんだけど、ぼくはそこでこんな風に感じて・・・」とイエス様のことを話すことができるでしょう。
勿論、福音を語ることができたなら素晴らしいことです。でもたとえできなくても、あなたがイエス様を素晴らしいと思っていることは相手に伝わるはずです。
もし、相手がそのあなたにでもいいし、イエス様に興味を持つならば、さらに聞いてくる。あるいは教会に来てみたいと思うようになるかも知れません。
そのようなひとつひとつがキリストの使節としての働きであるのではないでしょうか。
そしてこれもまたキリストのうちにあるなら、自然と結ばれてくる実の一つといえるでしょう。


結)キリストのうちにある人になる。
これを心に留めて、そのことを継続していくならば、このような素晴らしい実を結ぶこととなるでしょう。
その一歩を今日も歩み始める人は幸いです。




2004.9.12

「キリストを伝える」

ピリピ1:12-18

序)マイナスと思えることの中でも前進する。
パウロが投獄されて、福音宣教が停滞し、宣教が後退するのではないかと思うところですが、かえって前進していったのです。
投獄されたことによって、多くの人がそのニュースを聞きます。
「パウロが捕まったらしいぞ。」
「何でも、イエスキリストが救い主だって公言したかららしいぞ。」
「え?イエスキリストって、あの十字架刑になったナザレ人のことか?」
「そうそう、なんでもあの後、墓が空になってたらしくて、イエスの弟子達が『復活した』とか言いまわってて、パウロも最初は反対者だったけど、途中からイエスがキリストだって言うようになったそうだ。」・・・
というような感じだったのかもしれませんね。
パウロが投獄されたが故に、イエスキリストの話しが広まっていったのです。
また、多くのクリスチャンがパウロの投獄によって、主から来る確信が与えられ、ますます大胆に神のことばを語るようになったともあります。

神様がなされることは本当にすばらしいですね。

今日は、このキリストが伝えられた出来事から、さらに教えられたいと思います。


1.不純な動機でキリストを伝えた。

多くの人がキリストを伝えたのですが、その中には大きくわけて2種類の人がいたようです。
その一つが、妬みや争いをもってキリストを伝えた人です。つまり純真な動機からではなく、不純な動機から、です。

私は以前、何度もこのような動機で伝道していたように思います。
他の人が教会に人を導いているのを見て、「おれも・・・」と思ったり・・・。
伝道集会などでたくさん約束を取り付けている人を見て、「おれも・・・」と思って誘いかけたり・・・。
いわゆる、争い(競争意識)からであったり、ねたみからであったりしたわけです。
ここでは、そのようなねたみや党派心(競争意識)、またパウロを更に苦しめようという思いからキリストを伝える人がいたようですね。
もう一度、自分の心に問い掛けてみて、自分がそのような動機で伝道していなかったか、しようとしていないかを探っていただきましょう。そして、もうひとつの種類の人のような動機でキリストを伝えるものにしていただきたいと思います。

そのもうひとつの人は・・・

2.愛をもってキリストを伝えた。
愛をもってキリストを伝えた人がいました。
ここでは純粋に、キリストが十字架によって死んで下さったのは私の罪のため、そんな大きな愛によって愛され、赦され、癒された人々がその愛によってキリストを伝えていきました。
パウロもまたキリストの愛によってキリストを伝えていた為に投獄されました。そしてそれらの人々はそのことを知っていましたし、このことが神の摂理の中にあることだと信じていましたから、パウロと同じように愛をもってキリストを伝え続けたのでしょう。

私たちは同じ伝道するなら、愛をもってキリストを伝えたいですね。

以前から、お話していますが、私はオアシスチャーチで多くの人が救われたり、また癒されたり、回復したり、元気になったりされることを願っていますし、そうなれば素晴らしいことだと思っています。 しかし、それによってオアシスチャーチが大きくなることを目的にはしていません。
それらの多くの人がキリストにある自由と救いを得たなら、その後のクリスチャン生活をその人にふさわしい教会で送っていかれることが最善だと思っています。その人にとってそれがオアシスチャーチなら、それはそれで感謝ですし、嬉しいことです。
ですから、オアシスチャーチはキリストの用意された救いと祝福を多くの人が受ける為の役に立つ教会になりたいと願っています。これがビジョンでもあります。

それが愛をもってキリストを伝える、につながるのではないでしょうか。
これも何度も言うように、わたしたちが神を愛し、自分を愛するように隣り人を愛するから、できることなのです。


結)さて、パウロはそのどちらの人の方法についても否定していません。
なぜなら、動機がどうであれ、伝えられているのはキリスト、つまり救い主であり、福音であるから、といっています。
ですから、私が以前、競争意識から伝道していたこともパウロ先生から言ってみれば、OKだということになるんでしょうか(笑)
ちょっと、「ホッ」としますね。みなさんもそう思いませんでしたか?

私たちは、愛によって伝える教会でありたいと願います。
だからといって、競争意識から熱心に伝道している教会を裁く権限は私たちには一切ありません。むしろ喜べばいいのかも知れませんね。
ただひとつ言えることは、他のことをどうこう言うのではなく、
わたしたちはどうするのか、 私はどうするのか、、、
をしっかりと心に留めておきましょう。

私たちは、”愛をもってキリストを伝え続けたい”と思います。

イエス様は、これ以上ない大きな愛で私たちを愛して下さって、救いを用意し、与えて下さった。この愛を受け取っている、そして今も受け続けている私たちは、愛をもってキリストを伝えることは自然なことだと思います。
イエス様の愛を今日もいっぱいいただいて、イエス様の愛をもってこのことに一歩踏み出す人は本当に幸いですね。
祈りましょう。




2004.9.19

「あなたがたは、世界の光です」 

マタイ5:14-16

(序論) イエス様は、目の前にいる弟子達をはじめ、全くの一般の人々で、ただイエスさまのところにやって来ている人達に向かって、「あなたがたは世の光」である言われたのです。世の光とは、どういうことになるのでしょうか。

1、イエスは世の光である。
   ヨハネ12:46
     わたしは光として世に来ました。わたしを信じる者が、だれもやみの中にとどまることのないためです。

2、その光の中を歩む。
   ヨハネ8:12
     イエスはまた彼らに語って言われた。「わたしは、世の光です。わたしに従う者は、決してやみの中を歩むことがなく、いのちの光を持つのです。」 

(1)御言葉の光は、あなたの歩みを照らす。   
詩篇119:105 あなたのみことばは、私の足のともしび、私の道の光です。

(2)創造の光は、あなたの信仰を照らす。   
創世記1:3 そのとき、神が「光よ。あれ。」と仰せられた。すると光ができた。

(3)勝利の光は、あなたの闇を光に変える。   
ヨハネ1:4-5 :4この方にいのちがあった。このいのちは人の光であった。:5光はやみの中に輝いている。やみはこれに打ち勝たなかった。

(結論) イザヤ60:1 起きよ。光を放て。あなたの光が来て、主の栄光があなたの上に輝いているからだ。
月は自分自身では光ることができないのと同じです。月は太陽の光を反射して光っています。
世の光として輝こう。




2004.9.26

「恵みを受け取るために」

ルカ8:43-48

序) 私たちは、イエス様の恵みを受け損なったりしていませんでしょうか。
この女性はイエス様の恵みを受け取ることができた一人ですので、この女性の出来事からイエス様の恵みを受け取るために聖書に目をむけていきましょう。

1.イエス様の恵みはいつも用意されている

この女性は、面と向かってイエス様に触れてもらったわけでもありませんでしたし、話しかけられたわけでもありませんでした。 しかし、イエス様の着物のふさにさわったところ、たちどころに出血が止まったのです。 ましてや、後ろからと書いてあります。

イエス様の癒しを体験したわけですが、これはどこからきたのでしょうか。

イエス様はこの後、「私にさわったのは、だれですか」といわれています。 この箇所の前後を見ると、ヤイロという人の12才くらいの一人娘が病気ということで、ヤイロがイエス様に家に来ていただきたいと願い、イエス様はヤイロの家に向かうために出かけられました。そこにたくさんの群衆が押し寄せてきたのです。 ペテロはこの時、大勢の人がひしめき合って押しているといっていますので、実際には満員電車状態だったのでしょう。ですから、だれが触ったといってもわかるわけがない、といったような状態だったようです。
でも、イエス様は確かに自分に触ったものがいて、その人に力が流れていったことを話されました。
この女性が体験した癒しは、イエス様から流れていったのです。
イエス様はいつも恵みに満ちています。その恵みによって女性は癒されたのです。
しかし、その恵みを受け取る方法を知らなければ目の前にある恵みに気付かずに受けられずにいることもあるようです。
恵みはあるのにそれを受け取る方法を知らなかったり、ある場所がわからなかったりすると、せっかく用意されている恵みを受け損なってしまう可能性があるんですね。
ここで、心に留めていただきたいのは、「イエス様の恵みは、既に用意されている」ということです。
恵みとは、受け取る価値のないものに無償で与えられる神からの贈り物と言えば、理解しやすいでしょうか。
ですから、ここで既に用意されている恵みとは、わたしたち全てのものに受け取ることができるものなのです。

では、この時にこの女性だけがなぜその恵みを受け取れたのでしょうか。

2.信仰によって受け取った

この時に女性に起こった出来事などを全てイエス様に話した女性に、イエス様は言われました。 「娘よ、あなたの信仰があなたを直したのです」と。
この女性だけがこの時恵みを受けることができたのは、「信仰」ということばがキーワードのようですね。

この女性は、イエス様に対する信仰によって、この恵みを受け取ることができたのです。

ヘブル11: 1信仰は望んでいる事がらを保証し、目に見えないものを確信させるものです。

”神様に対する信頼と信任”と詳訳聖書にはあります。
言い換えれば、この女性は、イエス様の衣のふさにでも触れれば、きっと直るに違いない。まだ実際にそのことは体験していないけれども、きっとイエス様は直して下さるに違いない。この方に委ねよう(任せよう)、というような気持ちだったのだと思います。
これが、彼女の神様に対する信仰でした。この信仰によって彼女は癒されました。
ですから、神様に対して信仰を持つというのは、何も難しいことではありません。神様を信頼し、神様にお任せして共に歩むことです。自分で歩むなら力を入れないといけませんが、神様に任せて歩むのは、逆に力を抜くことです。 楽ですね。

先日、あるTV番組で子供が小児癌で短い人生を終えた話しをされてました。 そのお母さんのインタビューの中で、「神様なんかいないと思った」と話されてました。
確かに、神様がいるんだったらなんでこんな小さな命が奪われることを許されるんですか?あまりにも不公平な世界じゃないですか。と言いたくなります。私達には理解できないことは多々あります。それが人生かも知れません。
でも、ひとつ言えることは、神様を信じて、この神様を信頼して歩む人生には、その神様が用意して下さっている恵みを受け取る人生になるのです。
理解できないこと、不公平に思えることもあるかもしれません。でも、全てを理解することは私たちにはできないでしょう。
それよりも、この与えられている自分の人生をどのように歩むかを自分で決めて歩むことはできないでしょうか。
その選択の一つに「イエス様を信じて、イエス様を信頼し、イエス様と共に歩む」という人生があります。
私はこの人生を選択しました。最初イエス様を信じた時は、まだ聖書もろくに読んでませんでしたし、礼拝にも2,3回程いっただけでした。でも、このお方を信じて歩んでみようと決心したのです。正直、もし偽者の宗教なら辞めればいいやという気持ちでした。で、今のところ続いています(笑)
この人生は山あり谷ありではありますが、とても充実していますし、何よりもイエス様が共にいて下さるという安心感の中で歩むことができます。 また、永遠の命の希望を持って生きることができます。 さらに歩み続けたいと願っています。

結) 今日、あなたはイエス様が既に用意して下さっている恵みを受け取っておられますか。
その信仰を持ってますか。

「娘よ。あなたの信仰があなたを直したのです。」の「直したのです」は、直訳すると、 「救ったのです。」です。
あなたのイエス様に対する信仰があなたを救うのです。
今日、イエス様が既に用意して下さっている恵みを救いを受け取るために、イエス様を信じ、信頼する人は本当に幸いです。 祈りましょう。




2004.10.3

「神の祝福」

ルカ9:11-17

序)神の祝福は全てを満たす
男だけで5000人。女子供を入れたらいったい何人の人がいたのでしょう。10000人以上だったかも知れません。 その全ての人が満腹になったのです。
5つのパンだけで考えてみると面白いですよ。
5枚切の食パン一斤で10000人が満腹したようなものですね。 一人が食パン1枚分食べたとしたら、一斤150円、一枚30円だとしたら、10000人で30万円分ですね。 150円のパンが30万円分の食費になったというようなものですね。2000倍です。すごい祝福です。

神様の祝福というのは何と素晴らしいのでしょう。
この祝福をもたらしたのは何によってでしょうか。
イエス様が祝福したパンと魚を弟子達に配らせた時にこの祝福は起こりました。

今日はこの出来事を通して、神様から教えられたいと思います。


1.5つのパンと2匹の魚

この5つのパンと2匹の魚は、だれのものだったのでしょう。
ここでははっきりとは書かれていませんが、ここだけみると 「私たちには5つのパンと2匹の魚のほか何もありません」と弟子達が言っていますので、おそらく弟子達が自分達で持っていたものだったのかも知れません。
だとすると、12人の弟子とイエス様とで食べるつもりだったものをここでささげたことになりますね。
こんなに多くの人を食べさせるのに、これだけのものでは何の役に立つのかと思うでしょう。
でも、この5つのパンと2匹の魚がなければ、群衆は満腹にはならなかったのです。
持っているものをイエス様に委ねる、ささげるというのは何と素晴らしいことにつながるのでしょうか。
私たちが持っているのは、小さいかも知れません。こんなのささげても何の役に立つだろうか、と思うかもしれない。
でも、ここで5つのパンと2匹の魚が男だけで5000人もの群衆の前で何の役に立つでしょうか?だれもそれで全ての人が満腹になるとは思いません。 しかし、神の祝福によってそれは起こりました。
私たちが持っているものを私たちの基準で判断する必要はありません。それはイエス様にささげられるとイエス様の祝福によって私たちの想像をはるかに超えたものになるのです。
勿論、ささげるものというのは、何も「物」だけではありません。
こういうメッセージを聞くと、あんまりお金ないけど、ささげなきゃいけないかな?とか、持ってるもの少ないけど、それでも献品でもしないとだめかな?とか思う人が時々おられるようですが、そういう意味ではありません。 勿論ささげたら神様は祝福して用いて下さいますが。。。
あなたのもっているものは、実際に所有しているものである場合も確かにあるかもしれませんが、あなた自身である場合もあるでしょう。

次のポイントはそのようなことです。


2.イエス様に従った弟子達

弟子達はイエス様が言われる通りに従いました。
50人ずつくらいの組に分けて座らせたり、イエス様が祝福された食物を群衆に配ったりしました。 弟子達は自分達が持っていた食物をささげたばかりか、自分自身をイエス様の言われる通りに従って行動した。
つまり、自分自身をささげたといえると思います。
実際、男だけで5000人を50組づつに分かて座らせるだけでも大変な作業だったと思います。 5000人を50人づつというと少なくとも100組です。女子供を入れるとその倍だったかも知れません。
そう思うと、大変な働きだったのではないでしょうか。 そして、その後、イエス様が祝福された食物を分けていったのですが、これもまた大変だったでしょうね。
でも、弟子達はイエス様に従い、その通りに動きました。 その時に、そこにいた全ての人が満腹するという奇跡が起こったのです。

私たちは、イエス様に委ねてイエス様に従って行動するなら、その素晴らしい奇跡のただなかにいて目の当たりにすることができるのではないでしょうか。
群衆のほとんどは、パンが5つしかないとかは知らなかったのではないかと思います。こんなにたくさんの人がいる中で弟子達とイエス様との会話が全ての人に聞こえたとは思えませんしね。
ですから、パンが分けられて配れられてきた時には驚いたかも知れませんが、何が起こったのかを知る人は少なかったでしょう。
でも弟子達はそれを目の当たりにしたのです。主を崇めたに違いないと思います。
私たちもまた、弟子達のように、イエス様のそばでイエス様に従うものとなりたいです。 そして、主の祝福の証し人となりたいと願います。


結)余ったパンを集めると12かごあった。
自分達が持っていた食物も全てささげ、自分達自身もイエス様にささげ奉仕し、大変な思いをした弟子達に残ったのは、その奇跡を目の当たりにするというあまりお腹は満たされない祝福だけだったのでしょうか?
そうではありませんでした。 12かごのパンが残ったのです。弟子達もまた満たされたのです。この12かごまでに既に弟子達も食べて満腹していたのかも知れませんが、そうであったなら、なおのことさらに12かごが残ったのですから、素晴らしい祝福です。
イエス様の祝福は、わたしたちの想像をはるかに超え、全ての人を満たすだけでなく、そこで仕えた人々も全て満たされるという全く祝福に満ちたものでした。

実際、イエス様の十字架の救いは全ての人を救います。その愛は全ての人を満たします。 先着何名様!とかいって何人かで終わってしまうようなものではありません。
全ての人に開かれているこの恵みを祝福をあなたは受け止めたいと願われますか。

このイエス様の祝福を恵みを受け止める人は幸いです。 また、イエス様と共にその祝福の全てを目の当たりにする人は幸いです。
イエス様を見上げつつ、イエス様を信頼する歩みをさらに進みたいですね。
祈りましょう。




2004.10.10

「仕える、ということ」

ルカ10:38-42

序)先週、5つのパンと2匹の魚で5000人のお腹が満たされたお話の中で、その為に仕えた弟子達はその神様の祝福の一部始終を見、更に弟子達も祝福に預かったということを教えられましたが、 今日は、「仕える」ということについて、マルタとマリヤの話しから教えられたいと思います。
ここで、マルタとマリヤは二人とも、イエス様の前に仕えたわけですが、そこに微妙な違いがありました。 そして、イエス様はマリヤの方がよいものを選んだといわれました。
さて、その違いを見て、わたしたちはイエス様が言われるよいものを選びたいと思います。


1.マルタ・・・イエス様の為に。

マルタは、イエス様を喜んで家にお迎えしました。そして、そこでくつろいでもらって、食事を用意したり、いろいろとおもてなしをしようと思って、忙しく動き回っていました。
これはマルタが「イエス様に喜んでもらいたい、イエス様の為に何かしたい」と思っていたのでしょうが、一方マリヤはイエス様の足下に座って、マルタの手伝いを何もしません。
さすがにマルタもイライラしてきて、とうとうイエス様に言ってしまいます。
「主よ。妹が私だけにおもてなしをさせているのを、何ともお思いにならないのでしょうか。私の手伝いをするように、妹におっしゃってください。」
さて、マルタは誰の為に誰を喜ばせたいと思って、おもてなしの準備をしていたのでしょうか。
イエス様の為です。でも、ここで、イエス様にこんなことをいってしまいました。普通お客さんにそんなこと言わないですが。。。
イエス様の為に・・・と思ってやっていると、時にこんなつまずきを体験することがあるのです。
イエス様の為にやっているのに、何もしない人を見ると裁いてしまったり、「主よ、なぜあの人はイエス様の為になにもせずにいるのにあんなに祝福されて、私はこんな大変な思いをしているのに、これだけの祝福なのですか?」と言ってしまったりすることと同じようですね。

「イエス様の為に仕える」ことは素晴らしいことです。
でも、その時にはどうしても人と比較したり、その成果を気にしてしまって、時には不平不満の原因にもなってしまうのです。
イエス様の為に仕えたなら、仕えられたことを喜ぶことができるなら素晴らしいですが、なかなか弱い私たちは難しく感じてしまうことも度々です。

さて、一方のマリヤはどうだったのでしょうか。


2.マリヤ・・・イエス様に。

マリヤは、イエス様の足下に座って、イエス様の語られるみ言葉に聞き入っていました。
これは、イエス様に仕える姿なのではないかと思うのです。
実際、マルタが不平を言った時に「マリヤはよい方を選んだ。そしてそれを彼女から取り上げてはいけない」とおっしゃった。
マリヤの方がよい方を選択したわけです。
これはどういうことなのでしょうか。
例えば、この礼拝ひとつとっても、早く来て会場を準備する人がいます。賛美の司会や奏楽、印刷物を配る人、賛美シートを貼る、メッセージ、祈る人、献金係、会場の片付け・・・と様々な仕える人によって成り立っています。 それらを否定して、ただ、イエス様の話しを聞く・・・聖書を読んでいればそれでいい?
そうではないですよね。
では礼拝で仕えてくれている多くの人は、イエス様の為に仕えているのでしょうか?
もしそうだとしたら、つまずきの原因になるかも知れませんから気をつけましょう。
皆さんは、礼拝等で仕えてくださっていますが、これは、「イエス様に仕えている」のです。

私たちは、イエス様の為に仕える、よりも、イエス様に仕える、ことを選択する方がいいとイエス様はおっしゃっているのだと思います。

この違いなんです、最初に言いたかったのは。。。

牧師にとって、信徒を訓練することは、「イエス様の為に」していることかも知れませんが、
主は、イエス様に仕えるものになることを願っておられるのだと信じます。
であるなら、牧師はまた、イエス様に仕えるように信徒に仕えるものであるべきなのかも知れませんね。
そして、そのように仕えられた信徒はまた、イエス様に仕えるように互いに仕えるものに成長していくのだと信じます。

結)私たちは、同じ仕えるなら、
「イエス様の為に仕える」のではなく、「イエス様に仕える」ものになりたいですね。
イエス様がよい方を選んだ、と言われたマリヤの選択。。。
「イエス様に」仕える選択をこれからもしていきたいと願います。
そして、その選択をするなら幸いです。 祈りましょう。




2004.10.17

「行動する時」

ルカ11:5-13

序)行動する時に得ることができる。

1.継続的な行動

ただ、行動すればすぐに得ることができるのかというとそうばかりではありません。
この聖書のイエス様のたとえでも、友人だからというので与えてくれることはしないにしても、頼み続けるなら与えてもらえるでしょう、と言われています。 継続することが大切です。
聖書じゃないですが、「継続は力なり」という言葉もありますしね。

:10だれであっても、求める者は受け、捜す者は見つけ出し、たたく者には開かれます。 とあります。
継続は大切ですが、千里の道も一歩からという昔の諺もありますが、継続の最初はその行動を開始することです。
イエス様は、「だれでも・・・」といわれています。
これは全ての人が与えられる、見つけられる、開かれる、という意味ではなく、 求めるもの、探すもの、叩くものなら、誰でも、という意味です。
ですから、行動することが大切なのです。行動しないなら、しないなりのことしか起こらないでしょうから。
私たちは、行動する人に、そして継続する人になりたいですね。


2.誰に向かって行動するのか

私たちは行動することの素晴らしさを知りました。また継続することの力強さを知りました。
それはあらゆる面でそうかもしれません。
でも、悪いことを行動してはいけませんし、継続してはいけません。
私たちの行動がどこに向かっているのかをみる時に、それを確認することができるのではないでしょうか。

イエス様に向かって行動しているなら、その行動は健全と言えるでしょう。
イエス様は、
:13してみると、あなたがたも、悪い者ではあっても、自分の子どもには良い物を与えることを知っているのです。とすれば、なおのこと、天の父が、求める人たちに、どうして聖霊を下さらないことがありましょう。」 と言われました。
求めるものに聖霊を下さる、と言うのです。
私たちの求める最高で全てと言えるのは、イエス様御自身です。
この方を求めて得る、この方を探し見出す、この方にあけてもらう。
イエス様に向いている行動なら、間違いないでしょう。
そうだとは言えないなら、注意しましょう。別にそれ以外は全てがNGというわけでもありませんので(^^;

私たちが得る最高は、神様御自身(聖霊)だということでしょうね。
どんなにお金を得るより、物を得るより、名誉や地位を得るより、神様を得ることには比べられません。

結) イエス様に向かって行動する。そして継続していく。
その第一歩は、イエス様の十字架の救いです。勿論、そこに向かう行動もあります。そしてそのイエス様の救いを受けることができる為にイエス様は自ら十字架に架かってその救いを用意して下さいました。 その救いを求めて、受け、さらにイエス様を求める人生を歩むなら幸いです。
その一歩を踏み出す人は幸いです。そして継続する人は更に幸いです。




2004.10.24

「明るく輝く」

ルカ11:33-36

序)あかり、光は大切なもの

先日は台風23号が日本列島を通過していきましたね。滋賀県も直撃したようですが、みなさんのところは大丈夫でしたか?
台風が滋賀に近づき通過するのが、午後から夜にかけてということでしたので、お昼前から雨戸をしめて飛びそうなものを中に入れて・・・とかしていました。そしてその日はそのまま寝たのですが、次の朝、目覚ましで目を覚ますとまだ真っ暗。。。
まだ朝じゃないのかと思いましたが、そんなはずはありません。時間はすでに7時前です。
そう、雨戸を閉めてあったので、光が入って来ないんです。 家の中に明かりが入ってくるのは、窓からです。窓が光を遮るようなものに覆われていたらその部屋は暗くなります。

光は本当に大切ですよね。
周りを照らしてどこに何があるかわかるようにしてくれる。それによって障害物に注意しながら歩くことができるし、ものを探すこともできる。また、明かりがついていると、それを目印にしてそこに向かって進んでいける。岬の灯台とかはそのものですね。 また、高い建造物の上などには、明かりが点滅していたりします。これは空を飛ぶ飛行機などがぶつからないように注意を促すために点いています。
いろんな意味で光り、明かりは本当に大切ですし、重要な役割を果しています。
イエス様もこのたとえで、あかり、光について語られています。
私たちとイエス様との関係の中で、このあかり、光についてみていきましょう。


1.からだのあかりは「目」です

からだを家とたとえれば、目は窓と言えるのではないでしょうか。
目が健全なら、全身も明るいと言われてます。
もし、家の窓が曇っていたり、子供が黒のマジックで落書きだらけになってもそのままに放置しておいて、更にそれがひどくなっていったらどうでしょう。その家の中に入る光はどんどん暗くなっていくでしょう。 カーテンを閉めれば暗くなります。それが遮光カーテンなら真っ暗になるかもしれません。 真っ暗になった家の中を動き回ると壁にぶつかったり、机の角で打つかもしれません。怪我をしてしまいます。
そろそろいなくなりましたが、夏は蚊がいますよね。 寝る前に蚊取りのリキッドをつけておくのですが、少し涼しくなってきたころに「今日はいないだろう」と思って、つけておかなかったときです。
夜中に耳元で「プーーーーン」と聞こえて飛び起きました。すぐに電気をつけて、蚊を探しました。 そして見つけて退治してからまた寝ました。
もし、家の中がまっくらだったらどうでしょう。蚊をみつけられずに蚊の餌食になってしまうかもしれません。
蚊ならまだいいですが、もっとこわいのが潜んでいたら・・・、危険です。

同じように私たちの内側に光が届かず暗闇になるなら、悪いものが襲ってきても気付かずに傷つけられたり、自分で闇雲に動いてしまって怪我をすることもあるかもしれません。
そうならない為にも私たちは窓をきれいにしておく必要があります。またカーテンで光を遮らないようにすべきです。
私たちの体のあかりは目ですから、目を守って暗くならないようにする必要があります。
目とは何でしょう。詳訳聖書では、「良心」と書かれてあります。
目は見張る役割もしますよね。まさに良心の役割です。
この良心を守るためには、どうすればいいのでしょうか。
@御言葉によって、汚れを教えてもらう。照らし出してもらう。
御言葉は私たちの心を照らし出します。聖書を通して多くの人が内側に何かしらの変化を体験しているのです。これはまさに心を照らされているということではないでしょうか。 鏡のようなものともよく言われます。自分ではなかなか見えないものを写し出してくれるのです。
でも、その汚れが見えたからそれだけでいいのでしょうか。
Aイエス様によって、汚れを清めていただく、取り除いてもらう。
汚れたままでいいので、イエス様の前に出るのです。イエス様は私たちのその汚れを清めて下さる方だからです。
その時に私たちの体は明るくなるでしょう。
聖書を通して、示されたり、教えられたりした時に、「う〜ん、いい話しだ。いい教えだ」と感心しているだけではなく、 イエス様の前に出ることも重要なのです。
礼拝でメッセージの後に少し祈る時間を持っていますが、これも聖書からのメッセージを聞いて心に残ったことなどを持ってイエス様の前に出ることが大切だからです。
勿論、家に帰ってから更に祈れたらもっと素晴らしいです。

私たちは、イエス様によって目を守り、私たちのうちの光が暗闇にならないように気をつけましょう。


2.全身があかるいなら

そのように私たちの目を守り、うちのあかりが暗闇にならないようにしていくなら、全身があかるくなるでしょう。
その時、その人は輝いて、周囲をも照らす、明るくする存在になるのです。
よく、「あの人は輝いている」とか「あの人の顔は輝いている」とかいいますよね。 これは実際に光ってるわけではなくて、そのような表現をしているに過ぎません。
人は内側が明るく光りを持っているなら、外側に向かってそれが現れるんですね。

まあでも、窓をきれいにして外から光を入れることも大切かも知れないけど、電気を点けたらそれでいいんじゃない?という人もいるかも知れません。同じようにイエス様という光をうちにいただいたら、内側は絶えず光をもっているんだから、もう目はどうでもいいんじゃない・・・と。 そうでしょうか?
もし、雨戸を閉め切った家の中で電気を点ければ家の中はあかるいでしょうが、そのあかりを外にはなつことはできません。 私たちも、内側にイエス様の光を持っていたとしても、目が悪ければその輝きを外に放つことはできません。
それにイエス様は、「あなたのうちの光が、暗やみにならないように、・・・」といわれてます。 既にうちに光があることが前提のことばです。光があっても、暗闇になる可能性があるから、こういう言い方をされたのではないでしょうか。

ですから、どちらにせよ、目が健全であることは大切なことです。
それは、うちの光が暗闇にならないためにも、その光を外に放つ為にも。。。


結)さて、わたしたちの目はどうでしょうか。全身は明るいでしょうか。
もし、明るくないのなら、聖書を通し、イエス様の前にでて、その原因を教えていただき清め、きれいにしていただきましょう。
もし、明るくてうちに光があるのなら、暗闇にならないように気をつけましょう。
その時に、別に光を放とうと力まなくても、光は放たれていくのです。
そう、うちの光が暗闇にならないように守っていくなら、光は自然と外に向かって明るく輝くのです。
祈りましょう。



2004.10.31

「私は揺るぐことがない」

詩篇16:8-11

(序論)台風に地震、、。天地が揺るがされています。しかし、私たち人間の心も信仰も 揺り動かされていきます。揺るぐことのない為に、どうすれば良いのでしょうか。

1、私はいつも、私の前に主を置いた。

(1)「前に置かれている望み」の故に。(ヘブル6:18-19)
   私たちの魂に安全で確かな錨となる。船出と停泊。あなたという船の望みの錨。
   偽ることのない主の力強い励まし。

(2)「前に置かれている競走」の故に。(ヘブル12:1-2)
   忍耐を持って走り抜くことができる。競争と競走は違う。
   イエス様の喜びの故の十字架への道。

2、私は揺るぐことがない。
  信仰の創始者であり、完成者であるイエスから目を離さないでいよう。
  私たちは、揺り動かされない御国を受けているのですから、感謝しようではありませんか。(ヘブル12:26-28)




2004.11.7

「あなたは特別な人」

創世記2:16-17

序.特別な人
特別な人、それはどのような人でしょうか?
あなたにとって特別な人とはどのような人でしょうか?
大切な人には、特別になるものです。 私達は神様にとって特別な存在です。
目の中にいれても痛くないほど、私達のことを愛しておられます。
そして特別なことを私達に与えておられます。
私達は神様の愛の中で、私達に与えられた特権知りましょう。そして主に感謝しましょう。


1.特別な人・・それは選ぶ権利を与えてくれたからです。

私達はイエス様にとって特別な存在です。
それは、選ぶ権利を与えてくださった、からです。 選ぶ権利、自由に選ぶことができる、それはあたり前のことのようです。でもそれは神様が私達に与えられた特権なのです。
私達は自由に選ぶことができるのです。すべてのものの中から自由に選ぶことができます。

ここでよく質問されることがあります。 「神様は万能な方、なんでもできる。それなら、なぜ人が罪を犯さないように創られなかったのですか?人に選ぶ権利を与えたから、罪を犯したんじゃないんですか?」
みなさんは、どう答えるでしょう? 答えはわかりません。神様だけが知っています。でも、恐らくその答えは簡単です。
それは、私達が特別な存在だからです。
イエス様は私達を特別に愛しているからです。
イエス様はあなたを囚人のようにしたくはないのです。 自由に選ぶことができないもの、それは囚人です。牢屋の中では、自由がありません。 牢屋の中では忠実に従うでしょう。罪を犯すこともできないでしょう。 鎖でつながれていますから。 丈夫な扉で仕切られていますから、そとに出ることもできません。いつも監視の目が光っています。
そんな場所に私達をつなぎとめれば、きっと罪を犯すことはないでしょう。
でも、あなたなら、あなたの大切な人をそんな場所につれていきたいと思いますか?

また、神様はロボットのような人を作りたくはなかったのです。 ロボットは命令した通りに動きます。自分の意思ではなく、命令した通りに動くでしょう。罪を犯さないように作ればそのとおりに動くでしょう。
主を賛美しなさい、と命令すればその通りに動くでしょう。そんな人形を見て、あなたは喜ぶでしょうか?
神様は喜ばれないでしょう。 神様が喜ばれるのは、自分の意思で、自分の心から主を賛美する姿です。
神様の思いを私達伝える御言です。
詩篇51:16-17
:16たとい私がささげても、まことに、あなたはいけにえを喜ばれません。全焼のいけにえを、望まれません。 :17神へのいけにえは、砕かれた霊。砕かれた、悔いた心。神よ。あなたは、それをさげすまれません。

神様は、ささげものが欲しいのではありません。金や銀、お金が欲しいのではありません。
神様が欲しいのは、私達の心なんです。
自由の中から、“神様が喜ばれること”を選択することを喜ばれます。

神様は自分の意思で主を賛美するのを喜ばれるのです。
神様は自分の意思でささげることを喜ばれる方です。
イエス様がいつも注目されるのは、私達の心です。
すべては私達の選択にまかされます。じっと見守りながら、イエス様を愛することを待っておられます。
教会へ行くことも、一生主に従うかどうかも・・・そして罪を選ぶこともできます。

イエス様は私達に選ぶ権利を与えられました。そしてその中から、誰かから強制されてではなく、私達の心からの思いとして主の前に応答するのを待っておられます。
その心を、イエス様はなによりも喜ばれます。
それは、あなたが特別な人だからです。


2.特別な人・・それは神様がルールを与えてくれたからです。
:
べてを与えてくださった方は、しかし、たった一つだけルールをつくられました。
この木からとってたべてはならない、と。
神様のいましめ・・・それは、神様と私達の間のルールです。 いましめ、とは委任するという意味があります。 聖書で律法といわれるものですね。 でもこれは私達を縛り付けるものではないことはおわかりですよね。
私達に、自由に選択する権利を与えておられるからです。 ただ、神様の思いに従うために、いましめがあるのではありません。
神様が私達に与えるいましめ・・・それは、私達を守り、祝福を与えるためのものです。
でも実感するのは、難しいことですね。

信号がじゃまだな、と思ったことはありますか?
さて、道路に信号がなかったらどうでしょう。 もし、自由に道路を走ることができれば、早く目的地につくでしょうか?
そういう時もあるでしょう。でも天国にも早く着くでしょう。
信号を待ってると長いようですが、そのルールによって私達は守られています。

私達はイエス様にとって特別です。だから守りたいのです。祝福を与えたいのです。
イエス様は私達の人生にガードレールを与えてくださいました。
ヨハネ15:10 もし、あなたがたがわたしの戒めを守るなら、あなたがたはわたしの愛にとどまるのです。それは、わたしがわたしの父の戒めを守って、わたしの父の愛の中にとどまっているのと同じです。 私達が神様のいましめを守るとは、神様の愛の中を歩むことができる、ということなのです。それは自分の足で歩む自由を与えられた私達にとって最高の愛だったのです。
そして、そのいましめとは、神様を愛する、ということです。
そして、あなたの隣人を愛しなさい、ということです。
マタイ 22:37〜40
:37そこで、イエスは彼に言われた。「『心を尽くし、思いを尽くし、知力を尽くして、あなたの神である主を愛せよ。』 :38これがたいせつな第一の戒めです。 :39『あなたの隣人をあなた自身のように愛せよ』という第二の戒めも、それと同じようにたいせつです。 :40律法全体と預言者とが、この二つの戒めにかかっているのです。」
この御言をいつも心の中に書きこんでおきましょう。
そして、いつもこの御言に帰りましょう。この御言は私達が神様の愛の中を歩み続けるための道しるべです。
しかし、そのルールでさえ、私達にとって選択なのです。私達にゆだねられています。
神様の愛の中にとどまり続けるために、私達はチャンスを与えておられます。
あなたは、何を選択されますか?


3.特別な人として
私達は特別な人です。それは神様が自由に選択する権利を与えてくださったからです。
その自由の中で、自分の意思で私達の心を主にささげるものを喜ばれます。
そして、私達を守るために、祝福をあたえるために、いましめを与えてくださいました。
自分の意思で、神様の与えてくださった守りの中を歩むものは幸いです。
あなたは、何を選択するでしょうか。



2004.11.21

「幸いな人よ」

詩篇1:1-6

序論)幸いな人
みなさん、幸いな人というとどんな人を連想しますか?
先日、プロ野球のドラフト会議がありました。今年はいろいろと注目された年でもありました。 楽天が参入して初めてのドラフト。甲子園を沸かせた選手の指名あり、史上最年少15才の高校生が指名されたり、難聴という障害を乗り越えて野球を続けてきて夢のプロ野球への道が開かれたり、滋賀県からも夏の甲子園に出場した北大津高の捕手がダイエーに指名されたり・・・。 多くの選手が指名されていましたが、その指名された選手にもいろいろな表情がありました。 指名された球団が希望球団じゃなかったので、神妙な面持ちの人、どこであろうとプロ野球に入ることが夢であったので、指名されたこと自体本当に喜んでいる人、幸いだと感じている人やそうでない人、いろいろいます。 幸いというのは、その人によって捉え方と感じ方も違うからなのでしょう。
さて、あなたは、幸いな人ですか。
聖書は幸いな人というのはどういう人のこというのか、そしてどんな特徴があるのか、共に詩篇1篇から見ていきましょう。


1.その人はどんな人?

悪者のはかりごとに歩まず、罪人の道に立たず、あざける者の座に着かなかった、その人。

これは言葉通りのことをいえば、
悪者の計画に乗せられて共謀するようなことをしない、とか、 罪を犯す人生を歩まない、とか、 人の悪口を言ってばかにしたり笑ったりするようなことをしない、といったことです。
現実的には、銀行強盗を企む人に「一緒にやらないか」と誘われてその計画に乗るような人はいないでしょう。 また、自ら罪をわかっていて、その道を歩もうとする人もいないでしょう。
でも、罪人というのは、何も悪いことをするという意味だけではなく、真の神様から背を向けて歩むことが「罪」ですから、神を信じない道に立つことをも意味しているといえるでしょう。ですから、神様に心を向けて歩む人は幸いだと言っているのです。 また、人をばかにして笑ったり、悪口を言ったりするような場があると思いますが、そのようなところにも参加しないというのが幸いな人だと言っています。 ついつい腹が立つことがあったりすると、悪口を言ってしまったり、言っている人と一緒になって同調したりという弱さはありますが、そうしない人を幸いな人だと言っているのです。
私たちは、目に見える出来事や人にも注意する必要はありますが、その背後に働く悪の力に対しても目を見張って、 悪者のはかりごとに歩まず、罪人の道に立たず、あざける者の座に着かない人になりたいですね。
さて、そうは言っても、自分の力でこれを実行することは困難を覚えることも多々あるでしょう。


2.その人はどうする?

主のおしえを喜びとし、昼も夜もそのおしえを口ずさむ。

その人は、どうすると幸いな人として歩むことができるんでしょうか。 その答えが、2節です。
聖書の言葉は素晴らしいと思っていても、これを実践するのはいやだなぁと思うことはありますか。
その人は、主の教えを喜びとします。聖書の言葉を喜びとするんです。 それが自分にとって、受け入れがたいことであっても、喜びとする人は幸いな人です。 そして、昼も夜もその教えを口ずさむ、とあります。 聖書の言葉を喜びとして受け入れ、いつも思い巡らし、口ずさんでいるなら、それに反する思いが自分に来た時に、気付きが与えられて、祈ることができるでしょう。
先週、境界立会いで、協力してくれない頑固な人がおられて、言われていることも無茶苦茶だし、説明の為に電話しても怒鳴られて一方的に切られるし、で腹が立って仕方ありませんでした。
でも、昨日このメッセージの準備の為に祈っていると、 「あなたの敵を愛し、迫害するものの為に祈れ」という御言葉が思い出されてきて、その頑固な人の為にも祈りました。 その後、心がすぅーと落ち着いてきて、主がメッセージを語って下さり準備をすることができたのです。
主の教えを喜びとし、いつもそれを思い口ずさむことをしていればもっと早く祈れただろうと思いますが、そのことが本当に大切なことであることを実体験した出来事でした。
さて、わたしたちは完全には程遠いものですが、 主の教えを喜びとし、昼も夜もその教えを口ずさむものになりたいですね。
その為に神様は聖霊として共にいて助けて下さるのですから、ますますイエス様を求めていきたいと思います。

では、そのような幸いな人はどうなるのでしょう。


3.その人はどうなる?

水路のそばに植わった木のようだ。時が来ると実がなり、その葉は枯れない。その人は、何をしても栄える。

素晴らしい祝福です。
水路のそばに植わった木は、その水路から十分な水分をとり、栄養をとり、成長します。そして、季節がくると実が自然となり、その葉は枯れることもありません。そんな人生を歩むことができるという約束です。
私たちが主の教えを喜びとし、いつもその教えを思い、実践していく、つまり、悪者のはかりごとに歩まず、罪人の道に立たず、あざけるものの座に着かないなら、絶えず必要に満たされ、何か特別なことを何もしなくても、時が来ると自然と実を結びます。 そして、何もしても栄えるのです。
アブラハムは、神様の祝福がいつもありました。だから、何をしても栄えました。
そんな人生が私たちにも用意されています。
イエス様に目をむけ、イエス様を目指して、イエス様と共に歩む人は本当に幸いですね。
今日、幸いな人としての一歩を踏み出す人は幸いです。 祈りましょう。




2004.11.28

「主を羊飼いとする幸い」

詩篇23

序論)幸いな人
前回、詩篇1篇から幸いな人がどんな人なのかをみました。
今回は、詩篇23篇にも書いてある幸いな人をみていきましょう。
6節に「まことに、私のいのちの日の限り、いつくしみと恵みとが、私を追って来るでしょう。」とあります。
生きている限り、いつくしみと恵みが追ってくるというのです。自分が追い求めるのではなく、追っかけてくるというのです。
幸いな人といえますよね。こんな人生を歩みたいですね。
ですから、23篇にも幸いな人についての内容が書かれてあるとわかります。

さて、こんな幸いな人、幸いな人生を歩むためのポイントを二つ見ていきましょう。


1.主を私の羊飼いとする。

1節に「主は私の羊飼い」とあります。
<主が>わたしの羊飼いというのとはちょっと違います。
<主は>わたしの羊飼い・・・です。
例えば、先生とか師と呼ばれるような人がいますが、これらは、周りの人が一般的にそう呼んでいる場合や、自分から言っている場合、ある特定の人が呼んでいる場合等があります。
小中学校の先生(教師)などは、新学期になると、 「今日から、みなさんの担任の先生になりました、○○です」というように、自分から生徒に対して先生であることを言います。 別にこれが悪いとかいう意味ではないので、誤解のないように(^^)
ところが、大学等になると、「あの先生・教授の授業が受けたいから」といって、授業を受けに行ったり、、、
あのお医者さんに診てもらいたいからということで、その医者を指名して診察を受けに行ったり、、、
板前、シェフなど料理の世界でも弟子入りして自らその人を「師匠」と呼んだり、、、
落語や芸術の世界などでは、弟子入りして、自らその人を「師(師匠)」と呼んだりします。
先生とか師と呼ぶ場合、自発的に「先生」と呼ぶ場合と、そうでない場合があることがわかりますが、わたしたちはイエス様に対してどうでしょうか。
ここでの「主が私の羊飼い」という表現は、 イエス様の方から「わたしがあなたの羊飼いですよ」と言われているのではなく、 自分から「イエス様が私の羊飼いです」と告白し、弟子入りするような感覚です。

さて、みなさんはイエス様に飼われている羊だと思ってませんか?
イエス様はそんなことはなさいません。 私たちが「イエス様こそ、私の羊飼いです」と告白する時に、イエス様は私たちの羊飼いとなって下さるのです。

では、イエス様を私たちの羊飼いとした人は、どうなるのでしょう。

@乏しいことがない。 :1私は、乏しいことがありません。
リビングバイブルでは、「必要なものはみな与えて下さいます」とあります。 イエス様は私たちの必要を全てご存知です。その上で私たちに必要なものは全て与えて下さいます。
A安息と養いが与えられる。 :2主は私を緑の牧場に伏させ、いこいの水のほとりに伴われます。
家畜のようにエサを食べさせ、肥え太らせるために養われるのではなく、「緑の牧場に伏させ」とあるように牧草の豊かな牧場でゆっくりと寝転がって、そこで憩い、安息を得させて下さり、また流れの緩やかな水のほとりに連れていって、そこで水を飲んだり、あるいは水浴びをしてきれいにして下さるのかも知れません。本当にゆっくりと休んでリラックスさせて下さることがわかります。
B回復させ、導かれる。 :3主は私のたましいを生き返らせ、御名のために、私を義の道に導かれます。
このようにゆっくりと休ませ下さり、さらにはその魂を生き返らせて下さる。つまり、死んでいた魂をももう一度行きかえらせてくださるのです。そして、御名のために・・・イエス様のための働きができるように導き助けて下さるのです。
Cわざわいを恐れず、慰めが与えられる。 :4たとい、死の陰の谷を歩くことがあっても、私はわざわいを恐れません。あなたが私とともにおられますから。あなたのむちとあなたの杖、それが私の慰めです。
たとえ、死の暗い谷間を歩くことがあっても、恐れない。それは、イエスさまが共にいて守って下さるからです。なんと素晴らしい守りでしょう。危険な道を歩む時に、イエス様のむちと杖で導いて下さるから、そのむちと杖に私にとっては危険から守ってくれる慰めとなるんです。
D完全な勝利の中で祝福に満たされる。 :5私の敵の前で、あなたは私のために食事をととのえ、私の頭に油をそそいでくださいます。私の杯は、あふれています。
敵の前で食事と整えるというのは、なんという余裕。完全な勝利です。 そして、頭に油を、つまり祝福を注いで下さるのです。そしてその杯はあふれている。素晴らしい満ち溢れた祝福が私たちに注がれるのです。なんという圧倒的な勝利であり、祝福でしょうか。
E生涯いつくしみと恵みに追われる人生となります。 :6まことに、私のいのちの日の限り、いつくしみと恵みとが、私を追って来るでしょう。
そして、私たちの生涯、死ぬまで、いつくしみと恵みが追ってくる人生。追い続ける人生ではなく、恵みが追ってくるのです。 なんという幸いでしょう。

主を自分の羊飼いとする人に こんなに素晴らしい人生が用意されているのです。
主を私の羊飼いとしたいと願われますか。それは本当に幸いな人です。


2.いつまでも主の家に住まう。
最後に「私は、いつまでも、主の家に住まいましょう。」とあります。
イエス様を私の羊飼いとする時に、イエス様のそばでイエス様と共に歩む人生を送るときにこんなに素晴らしい人生となるなら、わたしたちはどうしたいと思うでしょう。 素直に、「いつまでもそうしていたい」と思うのは自然なことでしょう。
主を羊飼いとし、その家に生涯住み続ける。そんな人生を歩みたいですね。

今日、主を私の羊飼いと告白する人は幸いです。 そして、いつまでも主の家に住まう人は幸いです。
祈りましょう。




2004.12.5

「神様の安息に生きよう」

へブル4:1-11

1、神の安息とは。:4
創2:2-3 
神様が疲れる?ストレスになる?休みが必要?「神様の安息は、私達のためにある」という事なのです。
疲れたから、ストレスを覚えるから休むということなのではなく、「安息に生きる」ことが目的なのです。

2、「御言を信仰によって、結ぶ」ことによって。:2-3
宗教という言葉の語源は、「結ぶ」という意味。
*モーセ率いるイスラエルの民の不信仰。へブル 3:19 
*クリスマスの夜、マリヤの信仰と安息。ルカ1:45 
主によって語られたことは必ず実現すると信じきった人は、何と幸いなことでしょう。信仰は信仰を産む。その実で判断のしるしです。

3、「自分の業を終えて、休む」ことによって。:10
出20:8-11 コロサイ2:16-17 
霊心体の安息です。新約に生きる私達にとって、影ではなく、本体なるキリストにあずかることです。人の子は、安息日の主。安息とは、霊的呼吸。
イザヤ 28:11-12、3ヨハネ1:2 
霊が生かされる時。安息日があなたを安息させるのではなく、神の安息があなたを安息させるのです。



2004.12.12

「神の御言葉が成る」

ルカ1:26-38

序) 暦では、先週からアドベント(待降節)です。
イエス様のご降誕を待ち望む期間です。
イエス様のご降誕の物語からクリスマスまでの礼拝を通して教えられ、イエス様を待ち望んでいきましょう。
さて、ここは有名な箇所ですね。マリアの受胎告知の箇所です。
:26の「六ヶ月目」というのは、ヨハネを身ごもっているエリサベツが6ヶ月目にあたる時のことです。 その時期に御使いガブリエルがマリヤのもとに訪れて、受胎を告げ知らせたところです。マリヤは驚いたでしょうね。
子供の年は、生まれてから0才で数えますが、これは母体から出てからの時間ですね。
でも中には、胎内に宿った時からがその子の人生が始まっているというふうに考えられている場合もあるようですが、そう思うと、この箇所はまさにイエス様の地上での人生のスタートだったかも知れませんね。

この箇所から「神の御言葉が成る、成就する」ということを見ていきながら、クリスマスへの心の準備をしていきましょう。

1.ヨセフはダビデの家系だった。:27

「神は選ばれた人に御言葉(約束)を届けられる」

マリヤが地上でのイエス様の母となるわけですが、マリヤはヨセフの婚約者でした。
ヨセフはダビデの家系であると書かれてあります。 つまり、イエス様はダビデの家系にお生まれになるわけです。
これは、預言の成就でした。正に選ばれた人であったわけです。
それによって神様は約束を実行される方であることがわかります。
「神の召しと賜物は変わることはない」と聖書にあります。神様はいわれた事をなさる方です。

ヨセフとマリヤがなぜ選ばれたのか?
確かに神の前に敬謙な信仰者であったかもしれません。選ばれて当然のような人であったのかも知れません。
しかし、それ以上に神様はダビデの家系からキリストが生まれることを預言者を通して語っておられた。
つまり、決めておられたからです。
だからダビデの家系に属するヨセフとマリヤを選ばれたのです。勿論ダビデの家系の人は他にもいたでしょう。
その中でこの二人が選ばれたのはその信仰を見られたのかも知れませんが。。。
神の召しは変わらないのです。 ヤコブは、次男でした。長子の権利はありませんでした。でも神はヤコブを選ばれたので、その子孫をイスラエルとされたように、神様が決められた事は状況に左右されず、神様は必ず成就されるのです。
そう、神様は自ら決めた選びの約束を必ず成される方なのです。


2.御使がマリヤのところに来て言った。:28

「神は御言葉(約束)を必ず実行される」

マリヤに御使いを通して、御言葉が届けられました。でも、マリヤはどういう意味かわからなかったようです。
処女なのに身ごもる。その子がダビデの王座につく。そしてイスラエルを支配し、その支配は永遠に続く・・・。
「え???ホントに?」と驚いたでしょう。

少し余談ですが、イエス様はイスラエルの王になられたでしょうか?
地上ではなっておられないですよね。これを見ると霊的な意味で、イスラエルつまり選民、クリスチャンの王となり、その支配は永遠に続くと解釈すると納得できますよね。 ですから、選民という言葉が黙示録にもありますが、これは肉のイスラエルをさしているのか、霊的にクリスチャンをさしているのかは興味深いところですね。

さて本題ですが、このように理解しがたい言葉が届けられる事もあります。また、本当に現実化するんだろうかと疑いたくなることもあります。
実際、ヨハネが身ごもるということを聞いたエリサベツの夫ザカリヤはその言葉を信じなかったために生まれてくるまで口がきけなくなりました。:18-19

私達も御言葉が与えられたり、神様からのインスピレーションなんかが示されたりしても、信じられないような時もあるかも知れません。また、その言葉が神様から来ているのか、自分の思いなのか、分からない時もあるでしょう。
でも、神様から来ているなら、ただ信じて自分が今できることをしているなら、それは神様が成就して下さいます。
ここが重要です。
「神様が成就してくださる」のです。

思いが来たからといって、自分で成就させてしまっては神様の出番はありませんし、もしかしたら自分から出てきた思いを自分で成し遂げたにすぎなかったということにもなり兼ねません。
やってきた思いは大切に心に留め、自分が今できることをして行く時、神様が成就されるでしょう。
なぜなら、神様に不可能はないからです(:37)
詳訳聖書を見ると、「神から出ることばで、実現の力のないものは一つもありません」とあります。
神様の言葉は実現する力あるものなのです。
ピリピ 2:13 あなたがたのうちに働きかけて、その願いを起させ、かつ実現に至らせるのは神であって、 それは神のよしとされるところだからである。(口語訳)
神は、みこころのままに、あなたがたのうちに働いて志を立てさせ、事を行なわせてくださるのです。(新改訳)
とあります。
自分を信じるんなら、信用できないかもしれませんが、神様を信じるんです。 これ以上信頼できる方はおられませんよね。
神様からの言葉を思いを信じましょう。

みなさんも今年神様から来た思いが実現したことはありますか。まだ暖めているものもあるかもしれません。
楽しみにして信仰生活ができたら、楽しいですね。

自ら届けた御言葉を自ら実現して下さる神様を信じる人は幸いですね。


結)お言葉どおりこの身になりますように:38
マリヤは、言葉を受け入れ、この身になるようにと告白しました。本当は不安もいっぱいあったと思います。
結婚していないのに、妊娠したなんて、このことをヨセフに話して信じてもらえるだろうか?
また、周りの人はなんていうだろう? 姦淫の罪を犯したといって、石打にならないだろうか?
たとえ無事出産したとしても、イスラエルの王になるという子供をちゃんと育てられるだろうか? ・・・
でも、マリヤは神様からの言葉通りにこの身になるように、と言いました。
これは神様を信頼し、神様に委ねた姿だと思います。 神に選ばれ、神から言葉を受けたマリヤは神を信じ一切を委ねました。 神に選ばれた私達も、神様からの御言葉が与えられています。
神様に信頼し、神様を信じましょう。その言葉を信じましょう。そして委ねましょう。
十字架で命をも与えて下さった主が私達の神様なのですから。。。

今日の御言葉を通して更にクリスマスの心の準備をしていきましょう。




2004.12.19

クリスマスメッセージ
「 キリストを迎えること 」

ルカ2:8-33

序論) メリークリスマス!
今日はクリスマス礼拝です。
クリスマスは、キリストのご降誕をお祝いする日です。実際のキリストの誕生日が12月25日であったかどうかはわかりませんが、クリスマスにキリストの誕生を祝い喜ぶためにこの日はあります。
そして今日、イエスさまが生まれられた時の聖書の箇所から、クリスマスのメッセージを受け取りましょう。

1.キリストを迎えることは最高に喜ばしいこと。:10-11

羊飼いが野宿をしているところへ、御使いが現れて告げたのです。
「恐れることはありません。今、私はこの民全体のためのすばらしい喜びを知らせに来たのです。 きょうダビデの町で、あなたがたのために、救い主がお生まれになりました。この方こそ主キリストです。」
この民全体(全ての民)に与えられる素晴らしい喜びなのです。
キリストを迎えることができるのは誰でしょう。

イエスさまの誕生前後の話しに戻りますが、 ルカ 2:1-7 イエス様は、馬小屋でお生まれになりました。ここからいろんなメッセージをみることができますが、今日はその中のひとつをみていきます。
それは、「キリストはそのまま(ありのまま)の場所に来て下さる」ということです。
馬小屋で生まれられた。
馬小屋・・・決して清潔なところとは言えない。汚い場所と言えるところ。
そんなところに来て下さった。
馬小屋は汚い私の心をあらわしていると言える。そんな汚いと思えるとこであっても、主は来て下さる。
救われた時は、自分の心が汚いことに気付き、でもそのままで迎えて下さる主に感謝し、恵みとして受け止められた。
でも、何年か経つうちに少しずつ清められていく中で、自分の中の汚さ、弱さ…などが見えてくると、
「こんな私の内には、主は来て下さらない・・・清められないと来て下さらない・・・」と思ってしまう。
しかし、主はノンクリスチャンであっても、クリスチャンであっても、その信仰歴が何年であっても、 その時々のありのままの、そのままの心に来て下さる、わたしたちが迎えるなら・・・。
その恵みを感謝し、主をお迎えするなら、主は来て下さって、御自身の御業をあらわして下さる。
これは本当に喜ばしい素晴らしいことですね。
今の私達のままで主をお迎えできるのです。
清めてからお迎えするのではないのです。お迎えして清めていただけばいいのです。

では、キリストを迎えられるのは誰でしょう・・・そう、全ての人です。

キリストは馬小屋でお生まれになったように、汚いと思える人の心にも来て下さるのです。
こんな素晴らしい訪れはないですよね。
ですから、御使いは「この民全体のためにすばらしい喜びを・・・」といっているのです。
このような喜ばしいことを私達は知ることができ、体験することができるのがクリスマスです。


2.キリストを迎えるのはいつ?。:25-26

シメオンは、聖霊によってイエス様に出会うまでは死なないと示されていたようです。
実際、この時にイエス様に出会いました。これはすごい確率ですね。
イエス様が地上におられたのは、人類の歴史が始まって今日までの何千年ものあいだのわずか三十数年です。 その時に生きていることもすごいことですが、その中でイエスさまに実際に出会うのはすごい確率ですよね。 シメオンの喜びは本当におおきなものだったでしょう。私達では想像できないほどだったかも知れません。
キリストに出会う、キリストを迎える、ということは本当に大きな喜びです。
私達は、聖書を通してキリストを知ることができ、キリストを迎えることができることを思うとき、本当に感謝なことです。

大学の天文学科を卒業し、SF作家になった中原涼さんの「本物のサンタクロース」という短いお話がある(地人書館「笑う宇宙」所収) 話しは、「ねえ、パパなんでしょう?」と、サンタに尋ねる少年の言葉で始まる。彼は眠らずに待っていた。 サンタは、無言で首を振り、今はだれもサンタを信じやしない、これも教育のせいなのか、と嘆く。 少年には、みんなが眠っていてくれた方が仕事はしやすいし、こうやって話していたら、みんなに贈り物を届ける時間がなくってしまうんだ、と説く。 やがて、少年がつくった特大の靴下に、特別に大きなものをあげるよ、と言って、戦車のプラモデルを入れた。 少年がサンタをなお信じないので、わざわざ壁を通り抜けて外にでた。雪だった。 サンタはソリに乗って「しまった…」と思う。雪に隠れかけた表札には、孤児院とあった。 意外な結末の読み方は、人さまざまだろう。例えば、少年の立場では一番欲しいものはもらえず、 サンタの立場では、一番欲しいものがあげられなかった。ともに悔恨ではあるが、それは持ち続ける希望の言い換えでもあるだろう。 一番つまらない読み方とは、サンタなどいないという立場からだろう。読み進めていくうちに、見事に肩透かしをくらう。 サンタという空想力こそは、サンタから人への最高の贈り物なのかもしれない。(2001.12.24中日新聞朝刊「中日春秋」より)

サンタクロースは年に1回しか来ないかも知れないし、来れないかも知れない。
でも、イエスキリストは毎日、いつでも来て下さる
私達がお迎えするなら来て下さる。 地上で肉体を持ったキリストには私達は会えない、2000年前にタイムスリップでもしなければ・・・。
でも、2000年前にその肉体を持ったキリストが十字架に架かって私達の罪を背負って死んで下さり、葬られ三日目によみがえって、今、聖霊としていつでも来て下さるイエスキリスト。
この方はありのままの私達にであって下さる。

キリストを迎えるのはいつ?・・・そう、今です。そしていつでも迎えることができるのです。
クリスマスだから、イエスキリストを迎える。それは素晴らしいことです。 でも、年がら年中いつでもキリストをお迎えしたいと願います。そしてお迎えすることができるのです。
そのとき、キリストは私達の中に素晴らしいことをして下さるでしょう。
祈りましょう。


2004.12.26

「一年を振返って」

1テサロニケ5:16-18
詩篇103:1-2

序)今年最後の礼拝になりました。
みなさんはどんな年だったでしょうか?
一年を振返ることはとても大切なことです。それは感謝を数えることでもあります。
また、その中にある神様の恵みを数えることはもっとすばらしいことです。
今日は今年最後の礼拝ということで、一年を振返ってみると共に、感謝する時にしたいと思います。
感謝というのはどこかに向けられるべきですね。
辞書をひくと「ありがたいと思う気持ちを表すこと。」とありますから、あらわすことは大切です。

全てのことに・・・

1.互いに感謝する。

まずは、人に、、、互いに感謝します。
よくクリスチャンは挨拶を交わす時に「感謝します」といいますが、これはこの御言葉「全てのことに感謝しなさい」から来ていると考えられます。
お互いにその存在を感謝し、また具体的に何かを感謝することもあるでしょう。
そういうことを思い巡らし、
「あぁ、あの人のあの時のあの言葉で励まされたなぁ。」
「あの時のあの笑顔にいやされたなぁ」
「あの時、祈ってもらって感謝だった」
「手伝ってもらって感謝だった」・・・といろいろと思い出せたら、
それを感謝することもまた素晴らしいことですし、神が望んでおられることでもあります。
それよりも何よりもお互いの存在が感謝であることを忘れてはいけませんね。
今年を思い巡らしてお互いに感謝できたら素晴らしいですね。


2.自分に感謝する。

次に自分に感謝しましょう。
みなさんは、人に感謝したり、神様に感謝することは多いかも知れませんが、 自分に感謝されてますか?
「自分を愛するように・・・」とありますが、 まさしく自分を愛する行為の一つが「自分に感謝する」ことだと思うのです。
自分を誉めてあげたり、自分を受け入れることもそうですが、 自分に感謝する。
以前、ぎっくり腰になりました。 歩くのもままならない、車を運転するどころか、車に乗り込むことすら痛くて大変でした。
普段は特に気にもしてない「腰」。 健康に正常に動いて当たり前の時は、自分の体に対しての意識は無に等しいですが、 ひとたび、痛み出すと、その健康のありがかさがわかります。 自分の体に感謝しなきゃいけませんね。
勿論、その体を与え、支えて下さっているのは神様でしょう。 でも、その管理を任されているのは、一人一人なのです。 自分に感謝しましょう。
体だけではありません。 神様は私たちに自由意志を与えて下さいました。 自分が今年、よい選択をしたのであれば、その意志決定をした自分に感謝しましょう。
勿論そのように導いて下さったのは神様でしょう。 でも、それに反発することもできたわけですから、その点では自分に感謝し、神様に感謝すればいいのです。


3.神様に感謝する。

これは、本当に大切です。
詩篇103では、「主の良くしてくださったことを何一つ忘れるな」とあります。
神様に感謝を数え、表すことは命じられています。
まあ、万が一忘れていることがあったとしてもそれを責められるお方ではありませんが、 私たちは、精一杯神様がして下さったよいことを数え、忘れず、感謝したいですね。

先ほどの二つのポイント、 「互いに感謝する」ことも、「自分に感謝する」ことも、 それらは、神様の支配の中であったことであると思うときに、それら全ての感謝は、同時に神様へも表すべきですね。
「○○さんを感謝します。そして、その○○さんを作られた主に感謝します。」
「○○さんのあの笑顔を感謝します。そして、その○○さんを導いて下さった主に感謝します。」
「○○さんの祈りを感謝します。そして、その○○さんにそのような心を与えられた主に感謝します。」
「また自分を感謝します。そして私を作り、導いて下さっている主に感謝します」 と。。。

神様に感謝しましょう。それは、私たちを更に素晴らしい恵みの中に入れてくれます。
「ありがとう」という言葉を言う時に、気持ちがマイナスになる人はいないでしょう。
神様へのありがとうを言えば言うほど、神様の素晴らしさを深く味わい、神様が自分にとってどんなによい方であるかを更に知り、自分自身の神様への信仰と愛へとなっていくのです。


結)すべてのことに感謝しましょう。
お互いに感謝しましょう。神様が互いの関係を作って下さったから。
自分に感謝しましょう。神様が自分を作って下さりうけ入れて下さったから。
神様に感謝しましょう。全てのことは神様の御手の中でのことだから。
そして、その感謝が溢れれば溢れるほど、わたしたちの内側も神様から来るよいもので溢れてきます。
神様がイエスキリストという人の形をとり、地上にきて下さり、十字架にかかって私たちの罪の身代わりとなって命を捨てて下さった。そして三日目によみがえり、天に昇り、今も聖霊として私たちを助けて下さる。
この素晴らしい神様を感謝しつつ、来年を迎えていきたいですね。
感謝を数えつつ、祈りましょう。




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