2004年5月〜8月

2004.5.2 「出て行くこと」マタイ 28:18-20、マルコ 16:15-20
2004.5.9 「本当の豊かさ、その輝き」 ヨハネ1:5,エペソ5:8
2004.5.16 「すべてを栄光に変える方」 出エジプト3:1-:5
2004.5.23カナンの征服 No.1 「エリコの戦い」 ヨシュア記6章
2004.5.30「イエス様があなたを呼ぶ時」 出エジプト3:1-10
2004.6.6
カナンの征服NO.2 「祝福に連なろう。」 ヨシュア7章-8章
2004.6.13 「わたしは何者でしょう」 出エジプト3:6-12
2004.6.20 「その名はなんというのですか」 出エジプト3:13-15
2004.7.4 「愛からの行動」 ピレモンへの手紙
2004.7.11「閉ざされたと思える所から。」 ーハンナの信仰と祈りー サムエル記1章
2004.7.18「行動を伴う信仰」 ルカ10:25-37、ヤコブ2章
2004.7.25「試練が産み出すもの」ーハンナの報いー 1サムエル記2:1-10
2004.8.1 「イエス様との関係」 ルカ 19:1-10
2004.8.29 「 新しい戒め 」 1ヨハネ 3:16-:24



2004.5.2

「出て行くこと」

マタイ 28:18-20、マルコ 16:15-20

序) 最後の言葉というのはとても大切なことを普通いいますよね。
ここはイエス様が天に帰って行かれる直前に語られた箇所ですので、とても重要な箇所であることはみなさんもご理解いただけると思います。

1.出て行くことは主の願い

マタイによる福音書  あなたがたは行って:19
マルコによる福音書  全世界に出て行って:15
出かけて行くことをイエス様は命じておられる。
これは、何も言葉通り世界一周宣教旅行に行くことを言っているわけではない。勿論それができればそれも素晴らしいことではあるが。。。
私達に適用するなら、これは私達が遣わされているあらゆるところへ出かけていくことではないだろうか。
山にこもって俗世界から隔離されて過ごすことをイエス様は望んでおられず、その俗世界の中に出て行って福音を伝え、証しすることをイエス様は望んでおられるということだと信じます。
私達は社会生活や家庭生活をしています。そこで私達が仕える時、それはキリストの香りを放っているひとつの伝道であると思います。近所付き合いの中でもそうでしょう。家庭でもそうでしょう。
キリストの香りを放っているならきっとそれに気付く人や反応する人が起こってくると信じます。

ですから、私達が行くところ行くところがイエス様が言われた「出て行くべき全世界」だと信じます。
イエス様は何も難しいことを言われたのではありません。あなたも既にしていることなのです。
私はこの意味はどちらかというと、クリスチャン界(キリスト教界)に留まっているのではなく、まだイエス様を知らない人や信じていない人のところへ出て行くことをイエス様が望んでおられるということだと感じています。
出て行くことはイエス様の願いであり、御旨にかなったことであると信じます。
既に遣わされているところがあり、出て行っていることを感謝します。

では出て行くといっても、なかなか勇気がいる場合もありますし、覚悟が必要な時もありますね。 それでもイエス様は、「とにかく出て行きなさい」と私達をほっぽり出されるのでしょうか。


2.イエス様は共におられる
マタイによる福音書  見よ、わたしは世の終りまで、いつもあなたがたと共にいるのである」。 :20
マルコによる福音書  主も彼らと共に働き、:20
私達が出ていくとき、イエス様は共におられ、共に働かれるのです。
マルコによる福音書で、 「信じる者には、このようなしるしが伴う。・・・」と書かれてありますが、これは私達が持っているものでしょうか。 これはイエス様が持っておられる権威ですね。
マタイによる福音書では、イエス様は「わたしは、天においても地においても、いっさいの権威を授けられた。それゆえに・・・」といわれています。
イエス様が一切の権威をお持ちであり、そのイエス様が共におられるので、弟子達が出かけて行って福音を語り行動していったところでしるしも伴ったということです。
私達は出て行って伝える、証しする、キリストの香りを放つというのは困難に思える時もあるかもしれません。
でも、イエス様が共におられるのです。しるしが伴うかどうかは主に委ねて、わたしたちができることをすることが大切です。

出て行くからイエス様が共におられるのではない。 イエス様が共におられるから出て行くのです。

ですから、イエス様はルカによる福音書では、 「見よ、わたしの父が約束されたものを、あなたがたに贈る。だから、上から力を授けられるまでは、あなたがたは都にとどまっていなさい」。 といわれています。イエス様を迎えて共におられることを確信するまでは留まっていてもいいのです。
イエス様が共におられます。その確信とイエス様が命となり力となり慰めとなり励ましとなったなら、イエス様と共に出て行きましょう。
そこにイエス様も共に働いて下さり、キリストの香りが放たれ、人々にイエス様を伝える働きをすることでしょう。

結) 先日、映画「パッション」を見に行きました。かなり泣きました(笑)
確かにすごい凄惨なシーンもありました。
私が映画を見て感じたことをひとつだけ分かち合いたいと思います。
イエス様が十字架で救いを完成されるために、こんなにも痛く苦しいところを通られたということを映画を通してみたような気がします。
私達が苦しむこと痛むことも人生のなかであるでしょう。
でも、イエス様の苦しみを思ったら、なんてことない、たいしたことないと思えます。
映画を見てそれを感じました。
イエス様の愛はものすごいです。
1ヨハネ 3:1 わたしたちが神の子と呼ばれるためには、どんなに大きな愛を父から賜わったことか、よく考えてみなさい。
映画を見て、この大きな愛を少しは感じられたように思いました。
そんなお方、イエス様が共にいて下さるのです。
共に出て行くものになりたいです。
祈りましょう。




2004.5.9

フィリピン宣教旅行より。
「本当の豊かさ、その輝き」
光はやみの中に輝いている。そして、やみはこれに勝たなかった。ヨハネ1:5                あなたがたは、以前はやみであったが、今は主にあって光となっている。光の子らしく歩きなさい。エペソ5:8

本当の豊かさとは、何でしょうか。
フィリピン宣教旅行を通して、 暗く貧しいこの国でイエス様を愛する子供達を通して教えられました。
それは、2つの光の存在です。宣教の報告と証をかねて分かち合います。

1、I live with Jesus.
「イエス様と共に生きている」という光の子たち。

「3周年記念礼拝」/野外体育館を借りて。
アレックス牧師が、セブ島から3年前、教会のない所に教会をダバオへやってきました。彼は16才で、牧師になりましたが、聖書学校を出た事がありません。彼も昔、悲惨な生活を送り、悪い人生を歩んでいました。そんな彼が、ビンヤードダバオ教会、ホープセンターを始めました。今回、その3周年記念礼拝でした。時間が経つにつれ、子供達がどんどん集まってきました。500人を越えるほどの子供達でした。子供達は、喜んでイエス様を賛美していました。今回、この宣教旅行の日本人参加者は8人でした。この礼拝で紹介を受け、私は彼らの前で、日本語で3曲、フィリピンのワーシップチームと一緒に打ち合わせし、賛美をリードし、礼拝を導く恵みが与えられました。大いに主をあがめる素晴らしい時となりました。

「海の上の家」/海岸沿いの貧困地区、子供達の集まり。
何万人という人が、海の上に住まいを設けて、住んでいます。そこでも集会を持ち、賛美し祈って、子供達は喜んでいました。とにかく、フィリピンは貧富の差が激しい国です。日本のように大きなモールがあって、町に活気があっても、少し行けば、ゴミの山ではなく、ゴミの川。ヘドロの匂い。そこに家が作ってあり、彼らは生活しています。もちろん、仕事などありません。だから、親が子供を捨てると言った場合、養えない、どうする事もできない理由が大半です。そこにも、イエス様が大好きな子供達がたくさんいました。イエス様を力一杯賛美する子供達、暗唱した聖書の言葉を大きな声で告白していました。私達はそこで、日本語の賛美、「御名を掲げて」を歌って、子供達と楽しい時を過ごしました。集会後、食事が配られます。お茶碗に一杯のお粥のようなもの。色は、茶色で、匂いはチョコレートのようなものでした。彼らにとってはそれが一日の食事分です。中には、ビニールに入れて持って帰り、夜に食べる為に残しておく子供達もいました。

「ストリート・チルドレン」/家も親もない、路上で生活する子供達の集まり。 
夜の市場での集会です。非常に危険な地域なので、一緒に行ったメンバー達は、回りに目をやって警戒していました。ここは、ストリートチルドレン。すなわち、家も身寄りもない子たちが、路上で生活して、路上で寝ている子たちです。そこでも多くのイエス様を愛する子たちがいました。賛美は命に溢れていて、イエス様を愛してる活気に満ちていました。ここでも、日本語で一曲、この子供たちの前で歌いました。「主は素晴らしい」God is so goodです。集会後です。たくさんの男の子たちが私の所へやって来て、主は素晴らしい〜!主は素晴らしい〜!と覚えたばかりの日本語の賛美を一斉に歌い出すのです。手をたたいて、踊りながらです!賛美集会がまた私の周りで始まり出しました。実は、この夜の市場でのストリートチルドレンの中に、二人の兄弟がいたのです。しかし、そのひとりのお兄ちゃんのほうが、2日前に、交通事故で、死んでしまって、埋葬したばかりだったそうです。残された弟は、ひとりでの路上生活です。しかし、この夜の集まりに喜んできて、主を賛美し、イエス様を愛していたのです。僕は、ひとりの子に質問しました。「どうして、イエス様が好きなの?」彼が言いました。「僕の愛は神様だから。」また僕はそれでも「そうしてイエス様を信じたの?、なぜ?」彼は続けて言いました。「神様が僕を愛しているからだよ!」その目は神様の希望で輝いていました。彼らのその姿に触れた私は、涙が止まりませんでした。子供達は、バンの車で去っていく僕らを、主は素晴らしい〜!賛美しながら追い掛けてきるほどでした。私達は、車でホテルに帰りますが、彼らはこの路上で寝るのです。でも主が彼らの希望であり、共にいて下さっている事は大きな慰めでした。  
私達が到着する前の日に、中学生以上のユースの為のリトリートの集会があり、140人のうち43人が受洗したという事を聞いて、主をあがめました。しかし少し前のある週の礼拝の日でした。礼拝後、二人の子供が教会から出て来ると、バイクに乗った2人の青年が、この出てきた2人の子供の背中をナイフで刺したのです。ひとりはまだ背中の傷が十分に癒えてないようですが、もう一人は十字に深く傷あとが残っている様子。そんな中でも礼拝に出てきていたそうです。イエス様と共に生きている彼らの姿がありました。「イエス様と共に生きている」と言う時、信仰を試みられる時を通ります。神様を礼拝した後で、それも教会の前で、どうしてですか!と叫びたくなる状況です。不条理と思えるような、イエス様を疑いたくなるような状態の中で、あえて主は、私達の信仰を金よりも優れたものにして私達の信仰を祝福しようとして下さることを教えられます。イエス様と共に生きる人を主は守られます。そして、その困難な境遇でこそ、光を輝かせることができる偉大な光なのです。
 I live with Jesus.「with」とは、良くw/ と書いたりします。寄り添う、依存する表現です。子供達は、私達から離れようとしません。腕や足をつかんで離しません。帰ろうとしても離れようとしません。同じように彼らはイエス様に寄り添っていました。私達もイエス様と生きているという時、親しく寄り添うようなイエス様との麗しい依存の関係を大切にしたいです。賛美を通して、御言を通して、祈りを通して、互いの交わりを通して、イエス様に寄り添って生きていきたいです。そのイエス様に依存する光は、太陽の光に照らされる月のように、困難や問題の中で輝きます。


2、I live for Jesus.
「イエス様の為に生きている」という光の子たち。 

「支援活動」/イスラム地区での支援活動。
そこでは風船を100個ほど用意し、子供達にあげたり、鶴やかぶとの折り紙も作ったものをあげました。またゲームを共にして楽しく過ごしました。またサンダルや靴などの修理、歯の治療、洗髪や散髪なども同時に行われていました。またデルウォーカー師と共に、聖書の話、ダニエルの物語を子供達の前でスキットしました。その後、ひとりのイスラムの青年が私に声を掛けてきたので、話しをする機会が与えられました。そこから福音を分ち合うことができました。場所がイスラム地区だけに大丈夫かと思いましたが、主がそんな機会を与えて下さったのです。

「ヒーリング・ハウス」/癒しの家。
20才以下、男女18人ほど。アレックス牧師が、子供達の中で、一番、ひどい状態にある子から、救済をしているというのです。別々の所に、男女の家があります。昨年までなく、神様の前に祈って、奇跡的に与えられたのです。ですから子供達は、昨年までは、身寄りも、家もなく、いつも教会で、廊下などで寝ていたのです。
12歳のゴン。彼は、5歳の時、親に袋に入れられて、川に捨てられました。たまたまある人がそれを発見し、助かったのです。イエス様を愛しています。
そして、カイロ。彼も12才。黒人とフィリピン人のハーフ。彼は5才の時から、刑務所に入って、救われるまでに、50回以上は、刑務所を出たり入ったり。彼の生活の源はというと、車椅子に乗った物乞いと一緒にお金を稼ぐことでした。
基本的にこのような貧しい子たちは、まともな教育を受けていなわけです。読み、書きもできません。そんな彼は、今12才で、小学校に入ることができるようになりました。ひとりだけ大きな生徒です。この子たちに対するある呼び名がありました。「ラグビーボーイ」という呼び名です。それは、とにかく、この子供達のほとんどは、お金を盗む事が上手だったそうです。ですから、盗んでは、すぐに走り逃げ去るという、まさにラグビーボーイだった分けです。
女の子についても触れると、親に見捨てられた子、幼くして売春で生活していた子、親から3度もレイプされて傷付き顔が歪んでしまっている子、売春、ドラッグでまだ精神的に安定していない子がいました。でもみんなイエス様を愛しています。救われ、変えられ、このヒーリングハウスで、若い教会のスタッフ達と共に、聖書を学び、祈り合い、助け合ってイエス様の愛の中で育てられ生活しています。以前に、2人ほど逃げ出してしまうまだ不安的な子もいると聞きます。でも彼らはいつ帰ってきても彼らは愛し、受け入れあうのです。現在、この彼らが、ほとんどの働きのリーダーをして、自分達と同じ境遇の孤児たちに、関っているのです。その夜は、共に食事をし、ゲームをしました。最後は、ヒーリングハウスの子供達と、夜空の下で、賛美し礼拝の時を持ちました。男性は、ヒーリングハウスで彼らと一夜を共に過ごしました。

「ヒーリング・クルセード」/癒しと伝道の集会。
デルウォーカー師がメッセージで、彼らの賛美チームが奉仕しました。多くのノンクリスチャンが集って来る集会です。癒しと救いの招きがなされました。膝下が義足の車いすに乗った青年の為に祈りました。招きに出てきた多くの人がイエス様の癒しに触れました。集会の終わりは、賛美で盛り上がり、僕も今迄にないほど、子供達と賛美し踊り続けました。やがて、野外ですから埃がたちこめて、大変でした。でもその埃は、栄光の雲が宮に満ちた主の臨在を現すかのようでした。子供達と一緒に手をつないであげて、触れてあげて、子供たちは大喜びでした。静かな賛美が始まると、僕の顔は、涙でぐしゃぐしゃです。何度、そんな状態が今回のフィリピン宣教であったわかりません。子供達が、そんな僕の顔をおもしろがってしました。下から、何、泣いてるの?とった顔で見つめて笑っていました。みんな、寄り添ってきます。手を離しません。離れません。英語をできる子はわずかです。ほとんどが現地の言語です。実は、賛美している横の方では、更に喜んで解放されている子供達がいました。それがヒーリングハウスのメンバー達でした。ヒーリングハウスで、イエス様の愛に育まれ、希望を与えられ、救われ助けられた子たち。彼らはイエス様の弟子となって成長しているのです。私はここにもう一つの素晴らしい光に出会ったのです。イエス様と共に生きる光だけでなく、イエス様の為に生きている人の光は、更に輝いていました。
エペソ5:8にあります。「あなたがたは、以前はやみであったが、今は主にあって光となっている。光の子らしく歩きなさい。」です。
 I live for Jesus.「for」には、目的、理由、願望、期間などが含まれています。私達がイエス様の為にと言う根拠は、「愛されている価値ある存在」だからです。十字架で命を捨てて下さるほど、愛される価値のある存在とされているのです。神様の愛の対象として存在しているのです。神様が人生に計画を持って下さって存在だからです。全ての人は、神様の目に価値ある存在なのです。誰一人としてもれる事がないのです。必要とされていない人は、一人もいないのです。ヒーリングハウスの子達は、親に捨てられ、人生の希望も失い、傷つき、悲惨な中で、神様のグッドニュースを聞いたのです。愛されている価値ある存在であること、神様にあって自分の生きる価値を知ったのです。そして彼らは、最もふさわしい場所で、力強く輝く事ができるのです。この光をイエス様が光として私達の所にも来て下さっている事を感謝します。フィリピンだけでなく、日本に世界中に来て下さった事を感謝します。 「光はやみの中に輝いている。そして、やみはこれに勝たなかった。」彼らの人生があまりにも暗いのですが、そのイエス様の光は、力強く、まぶしく輝いていました。ハレルヤ。  

Thank You Jesus! これが今回の宣教旅行の私のメインワードでした。イエス様、ありがとう。彼らと共にいてくれてです。帰国後、神様がこのフィリピン宣教旅行の証しとしての賛美を与えて下さいました。  

Thank You Jesus
Words &Music By H.E

1、主よ感謝します 本当にありがとう   
この世の光として 世界中に来てくれて  

*Thank You Jesus
  あなたがそばにいてくれるから Oh
  Thank You Jesus
  あなたが世界の希望の光

2、主よ感謝します 本当にありがとう
  本当の幸せとは 主の愛のその豊かさ      
     *

3、主よ感謝します 本当にありがとう
  素晴らしい神の家族 手を取り愛し祈る
     *

4、主よ感謝します 本当にありがとう
  父なる神様を この世界の人々に      
     *





2004.5.16

「すべてを栄光に変える方」

出エジプト3:1-:5

序.無駄と思えることでも。
無駄と思っていたことに意味がある、と気づいたことはありませんか?

ある牧師の話しです。 ハイウエイで誰かが捨てたゴミがありました。 なんてひどいことをするんだ、と思ったそうですが、そのまま行こうとすると、イエス様が心に語りました。あなたが片付けなさい。 なんで私が、と思いましたが、車を降りてゴミを拾いはじめました。
それから次の日曜に教会へ行くと新しい方が来られていました。その方が言いました。 あなたこの前ハイウエイでゴミをひろっていたでしょう!
ああ、恥ずかしい、と思いましたが、続けてこういわれました。そんなあなたが牧師をしている教会だから私は来たのです。

誰も見てないし、無駄と思えることでもイエス様は栄光に変えてくださるお方です。

1.すべてはイエス様の恵みに満ちています。

さて、エジプトでヘブル人を救おうと立ちあがったモーセは、エジプト人を殺してしまいました。そしてモーセはどうしたのでしょう? エジプトから逃げ出したのです。このことが王に知れてしまえば、きっと自分は殺されるに違いない!
そしてモーセはミデヤンという地方にたどり着きます。
ミデヤンとは?・・・(アブラハムの妻ケトラの子ミデヤン T歴代1:32)
つまりアブラハムの家系のところに導かれたのです。
それだけではありません。モーセが出会ったリウエルはミデヤンの祭司だったのです。 つまり神様に仕える人と出会うとことができたのです。

ミデヤンという地はあまり良い人達がすんでいたとは思えません。
あのヨセフをエジプトに売ったのはミデヤンの人達です。また後になるとイスラエルに攻め込もうとしています。 だから、きっとモーセにはどうにでもなれ!という思いがあったのかも知れません。 でも結局たどり着いたのは、自分の先祖のミデヤンの祭司なのです。

この時モーセは思ったのではないでしょうか。主は私を見捨てられない、主は生きておられる、と。
そしてその場所にとどまり、羊を飼ったのです。その与えられた場所で忠実に仕えることができたのは、主は私を見捨てることはない、ということを知っていたからです。
モーセがどこへ行こうとも、神様の恵みはモーセを包んでいるのです。
みなさん、私達はイエス様の恵みから出ることはできません。
民数記14: 21 しかし、わたしは生きている。また主の栄光が、全世界に満ちている。
詩篇33: 5 主は正義と公平とを愛される。地は主のいつくしみで満ちている。
そうです。満ちているのです。
今この部屋には空気が満ちています。この空気から逃げるためにはしり始めるとしましょう。でもあなたがどんなに遠くまで走っても、どんなにはやく走っても、追いかけてくるのです。いえ、おいかけてくるのではないですね。満ちているのです。

注意深く見ることが出きるなら、いつでもどんな時でもイエス様の恵みが満ちている!と知ることができるでしょう!
私達は、恵みに目をとめましょう。どんな時も必ずイエス様の恵みは満ちているのです。あなたは恵みに覆われているのです。


2.イエス様はすべてを栄光に変えてくださる方です。

さて、ミデヤンの地で祭司の娘とであったモーセは、結婚しました。そしてやがて子供も生まれます。 では、どれだけの間ミデヤンにいたのでしょうか?それは40年です。
使徒 7:30 四十年たった時、シナイ山の荒野において、御使が柴の燃える炎の中でモーセに現れた。
ちなみに・・・モーセはいくつの時にミデヤンに行ったと思いますか?
使徒7:23 四十歳になった時、モーセは自分の兄弟であるイスラエル人たちのために尽すことを、思い立った。
モーセの40年の間・・それは決して失敗を償う時間ではありません。 無駄な時間でもありません。恵みが満ちているからです。
モーセは今までエジプトの王の子として育てられました。だから、きっと命令する立場だったのです。欲しい物は手に入るでしょう。 何不自由なく育ったでしょう。
でもそんな人がイスラエルの人々のリーダーになることはできません。イスラエルの人々を導くために権力は、無力だからです。
必要なのは、人々が信頼する人格です。そして神に仕える姿です。
モーセは忠実に羊を飼うことを通して真のリーダーとしての仕える心を学んでいたのです。忍耐や弱さを思いやる心を育てていたのです。
また、義理の父であるミデヤンの祭司のもとで、イエス様がいかに偉大で恵み深い方であるのか、ということを学んでいたのです。そして神に仕える、ということを身をもって経験しました。

すべてのことは神様と出会う日までの準備だったのです。
きっとモーセは知らなかったでしょう。羊を飼っていても気づいていなかったでしょう。
私はイスラエルの人達を救うのだ!と決めていたのに失敗してしまった、と思っていたのに違いありません。
でもその40年はモーセにとって大切な大切な40年だったのです。

そして神様は言われました。

「あなたの靴を脱ぎなさい」

靴を脱ぐ・・・それは委ねるということ意味しています。
今までの自分の考え、経験をいったんおいて、イエス様の語られることに委ねる、ということです。 40年もたっているのです。そして約80才です。恐れや不安もあったでしょう。 だからこそ、いま、まず委ねなさい・・・と神様は言われたのです。

そしてもう一つ、汚れた靴を脱ぐのです。この場所は聖なるだから・・・・ もう一度新たな思いで主の前に立つということです。
いままでどんなことがあったのかは関係ない。どんな失敗があったのかも関係ない。
それらをすべてを清めてくださる方だからです。
そして新しいスタートをすることができるようにして下さったのです。
そうです。イエス様はすべてを栄光に変えることの出来る方だからです。

ミデヤンの地に来たことも、羊を飼っていたことも。すべてを輝く栄光に変えてくださるのです。
あなたはイエス様を信じて何年になりますか? 無駄な時間をすごしたと思っていませんか? 今まで大切な時間を過ごしてきているのです。あなたは気づいていないかも知れませんが。
たとえ今なにをしていても。それをイエス様は栄光に変えてくださるお方です。

やがてイエス様はあなたの名前を呼ばれるのです。そしてこう言われるでしょう。 「あなたの靴を脱ぎなさい。あなたの立っている場所は聖なる地だからである」と。
その時、はい、主よ私はここにおります。 用いてください。ということが出来ればどんなに素晴らしいでしょう!
イエス様の恵みは満ちています。そしてあなたの生涯すべてを栄光に変えてくださる方だからです。

信じる人は幸いです。祈りましょう。




2004.5.23

カナンの征服 No.1
「エリコの戦い」

ヨシュア記6章
(序論)
 いよいよ、約束の地を征服する為の戦いが始まりました。
前章において、割礼と過ぎ越しを行い、戦いに向かって清くされる備えをしたイスラエルの人々。そして軍勢の将なる主が共にいて下さる事を知り、勇気を持って出て行くのです。そして中央から攻め込んでいくという、エリコの戦いから始まっていくのです。彼らの戦いは、主の彼らに対する計画からくるものです。しかしそこには、彼らに立ちはだかる存在がありました。それは、高くそびえ立つ、頑丈なエリコの城壁でした。
神様は私たちに、様々な障害を乗り越えるための信仰を教えて下さっています。

1、障害は、主の栄光を見る踏み台となっていく。                                 

     イエスは彼らを見つめて言われた、                                       「人にはできないが、神にはできる。神はなんでもできるからである」。マルコ10:27

当時のエリコの城壁とは?  
城壁は、3ヘクタールほどの面積の土地を囲むものでした。城壁は、二重に町を囲み、それらは5mほどの間隔。厚さは、外壁2m、内壁4m、高さは10m。また長さ30-60cmのれんがを積み上げたものでした。2つの城壁は、その上に木を渡して、建てられた家屋によって連結され、ラハブの家がちょうどそのような構えになっていたのです。
 エリコの町は、ヨルダン川から西に9kmに位置し、ヨシュアの総司令部ギルガルは、両者の中間に位置していました。 私達の人生にも、「エリコのような城壁」があります。
 立ちはだかる人生の問題や課題という城壁に対して、絶望しそうになったり、前にも後にも引けない時がある。人生とは、障害物競争のようなものです。イスラエルの人々は、ヨルダン川を渡り、今度は城壁を乗り越えていかなくてはなりませんでした。 立ちはだかる人生の城壁をどのように捕えますか?
     それは不可能だ!と思わせる象徴の城壁なのでしょうか?
そうではなくて、私たちにとってそのメッセージは惑わし、偽りです。神様は、障害となる城壁を崩される方だからです。その信仰の目で見るならその城壁は、神様にはできる!という象徴として見えてくるのです。
*ウェイン師の言葉の中に、 「効果的な生き方をしている人は、障害物を踏み台にして生き、そうでない人は、障害物を言い訳にしている。」とあります。
 私達は、信仰を働かせるチャンスと捕らえる事を良しとするでしょうか。そのような前向き積極的な心の態度を培っていくことを神様は喜ばれます。あなたの人生の城壁をどのように見ますか?その城壁が崩れる姿を見ますか?
*ある二人の囚人が夜、牢屋で過ごしていました。                              
するとひとりの囚人が、もうひとりの囚人に、「夜空を見てみろ。きれいだぞ。星が夜空一杯に輝いてる!」するともう一人は、ベットで、こう言ったのです。「おれなんかには、星は見えない、見えるのは冷たい鉄格子だけだ。」一人は窓から見える星を見ました。もう一人には、冷たい鉄格子しか見えませんでした。
    私達は、問題の向こうに見える主のメッセージを捕えることができるように。

2、障害は、神様の方法に従う事で祝福に変わる。

神の愚かさは人よりも賢く、神の弱さは人よりも強いからである。1コリ1:25
 愚かと思えることを通して、主は勝利を現されるのです。神様の命じた方法は、人間の目に愚かと思えるものでした。
 6日間、1日1回、町を回り、宿営に戻る。7日目は、7回町の周りを回る。それを、7人の祭司は角笛のラッパを吹き鳴らし進み、その後を契約の箱をかつぐ祭司が行き、四万人の民がエリコの城壁の周囲を一言も言葉を発せず、黙って一周する。7日目の最後には、民は大声で時の声を上げ、叫び呼ばわる。武器を何一つ使わないのです。
彼らの戦いの道具と言えば、1、ラッパの角笛。2、契約の箱。3、黙すること。4、町を回ること。
それは、神様の方法に従うと言う事です。
 聖書を見る時、いくつも神様は私達を祝福する方法を下さっています。恵みの法則ともいえます。
◎清めの法則:罪の告白。御子イエスの血が全ての罪から清める。(罪と死との法則から)
◎力の法則:聖霊を求めて、力と満たしを得る。全ての事柄の力となる。(命の御霊の法則です)
◎収穫の法則:多く蒔く者は、多く刈り取る。与えるなら、与え返される。
◎安息の法則:安息日を聖別する時、安息を得る。
◎繁栄の法則:神の前に収穫の十分の一の初穂をささげる。また感謝の捧げもの。
 そして、勝利の法則をここに学ぶことができるのです。全ては神様の方法です。私達は、それを信頼して、従うのです。人間の目に愚かに見えても、神の愚かさは人よりも賢いのです!神の方法に従わない事が愚かなことなのです!
 エペソ5:16-17 今の時を生かして用いなさい。今は悪い時代なのである。:17だから、愚かな者にならないで、主の御旨がなんであるかを悟りなさい。

(結論)
まず彼らの心の城壁が崩されました。そして目の前に立ちはだかる城壁が見事に音を立てて崩れ落ちたのです。そして、この障害を通して、神様は用意された祝福を下さったのです。それは、2つです。救いと清めでした。遊女ラハブとその家族が約束によって救出された事。そして、エリコの町と民を清めた事です。このように主は戦いを通して、救いと清さを私たちに届けて下さるのです。




2004.5.30

「イエス様があなたを呼ぶ時」

出エジプト3:1-10
:1 モーセは妻の父、ミデヤンの祭司エテロの羊の群れを飼っていたが、その群れを荒野の奥に導いて、神の山ホレブにきた。
:2 ときに主の使は、しばの中の炎のうちに彼に現れた。彼が見ると、しばは火に燃えているのに、そのしばはなくならなかった。
:3 モーセは言った、「行ってこの大きな見ものを見、なぜしばが燃えてしまわないかを知ろう」。
:4 主は彼がきて見定めようとするのを見、神はしばの中から彼を呼んで、「モーセよ、モーセよ」と言われた。彼は「ここにいます」と言った。
:5 神は言われた、「ここに近づいてはいけない。足からくつを脱ぎなさい。あなたが立っているその場所は聖なる地だからである」。
:6 また言われた、「わたしは、あなたの先祖の神、アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神である」。モーセは神を見ることを恐れたので顔を隠した。
:7 主はまた言われた、「わたしは、エジプトにいるわたしの民の悩みを、つぶさに見、また追い使う者のゆえに彼らの叫ぶのを聞いた。わたしは彼らの苦しみを知っている。
:8 わたしは下って、彼らをエジプトびとの手から救い出し、これをかの地から導き上って、良い広い地、乳と蜜の流れる地、すなわちカナンびと、ヘテびと、アモリびと、ペリジびと、ヒビびと、エブスびとのおる所に至らせようとしている。
:9 いまイスラエルの人々の叫びがわたしに届いた。わたしはまたエジプトびとが彼らをしえたげる、そのしえたげを見た。
:10 さあ、わたしは、あなたをパロにつかわして、わたしの民、イスラエルの人々をエジプトから導き出させよう」。

序)不完全な私達を完全に用いられる方
イエス様の御心を知り、それに従うことが出来れば素晴らしいのですが、なかなかそうはいきません。思いは良いのですが、方法が間違っていたり、神様の時でなかったり・・失敗の連続かもしれません。 そうです。私達は完全ではないのです。完全な方はイエス様のみです。 だから、安心してください。時々間違って良いのです。
でも、イエス様を愛し、イエス様に従いたい・・という思い、心を持っているならば、イエス様は、不完全な私達を完全に用いてくださるお方です。
モーセが持っていた思い『神の民であるイスラエルの人々を救いたい!』という思いは決して間違ってはいませんでした。でも方法や時が間違っていたようです。そして、エジプトから逃げ出し、ミデヤンの地にやってきました。でもそこでアブラハムの子孫である祭司とであうことが出来たのです!
モーセは不完全だったかも知れません。でも神様はそんなモーセの心を見ておられたのです。そして、モーセを呼ばれるのです。イスラエルの民をエジプトから救い出すために!
今日は、イエス様があなたを呼ぶ時・・・というテーマでお話します。そうです。モーセだけではありません。イエス様はあなたを呼ばれるのです。
素晴らしいイエス様の栄光をあらわすために!


1.イエス様が呼ばれた時・・モーセは羊を飼っていました。

モーセはエジプトから逃げ出し、ミデヤンの地で暮らすことになります。そして羊を飼っていました。 神様がエジプトからイスラエルの人々を導くためモーセの名を呼んだ時、彼は羊飼いだったのです。
実は、これはとても大切なことです。それは、仕事で仕える、ということの大切さをあらわしているからです。
聖書には仕事をしている時に呼ばれた人が他にもいます。ペテロ・マタイ・ダビデ・・
ペテロは漁師でした。そしてひたむきに仕事をしていたのです。一晩中漁をしていたのですから・・・
マタイは収税人として働いていた時にイエス様が「私に従って来なさい」と呼ばれました。
またダビデは、(モーセと同じように)羊を忠実に飼っている時に選ばれたのです。
格好良くゴリアテを倒した後・・ではないのです。

Tサムエル16:11 サムエルはエッサイに言った、「あなたのむすこたちは皆ここにいますか」。彼は言った、「まだ末の子が残っていますが羊を飼っています」。

サムエルがイスラエルの次の王となるべき人がこの家にいる!といってやってくればひょっとして私かもしれない・・と思ってまっているのが普通でしょう。でもダビデはそんな時も羊を飼っていたのです。与えられた仕事を忠実に仕えていました。
モーセも同じですね。 祭司の娘と結婚したのですから、祭司になっていれば良かったのに・・と考えたことはありませんか?その方がなんだか良さそうですね。でもそうはしていなかった。。。普通の仕事を、忠実に仕えている時に呼ばれたのです。
教会では霊的・・という人が注目を浴びますが、私はそうは思いません。 もちろん、祈り、イエス様の臨在を感じることはとても大切です。出来るだけ敏感になりたいものです。私の好きな御言があります。

Tコリント1:22〜25 ユダヤ人はしるしを請い、ギリシヤ人は知恵を求める。しかしわたしたちは、十字架につけられたキリストを宣べ伝える。このキリストは、ユダヤ人にはつまずかせるもの、異邦人には愚かなものであるが、召された者自身にとっては、ユダヤ人にもギリシヤ人にも、神の力、神の知恵たるキリストなのである。神の愚かさは人よりも賢く、神の弱さは人よりも強いからである。

しるしや奇跡、知恵を求めるのは異邦人です。そうではなく単純に十字架にかかられたイエス様を愛する心・・・それが大切です。
私達は、社会や学校でこそ人間関係や色々な問題、試練を経験するのではないでしょうか。そこで忠実につかえることができなければ、どうしてイエス様に忠実に仕えることができるでしょう。

マタイ25:40 すると、王は答えて言うであろう、『あなたがたによく言っておく。わたしの兄弟であるこれらの最も小さい者のひとりにしたのは、すなわち、わたしにしたのである』。
エペソ6:6-7 人にへつらおうとして目先だけの勤めをするのでなく、キリストの僕として心から神の御旨を行い、:7 人にではなく主に仕えるように、快く仕えなさい。

たとえあなたがどんな仕事をしてたとしても、あなたが忠実に仕えているならそれはイエス様に忠実に仕えているのと同じことなのです。
イエス様はあなたが何をしたのか、ではなく、いつもあなたの心を見ておられるからです。
そしてそんな時こそ、イエス様があなたを呼ばれるのです。さあ、あなたをわたしの栄光のために用いよう!と。あなたのまわりの民を救い出すためにあなたを用いよう!と。
信じましょう!そしてイエス様の御声に耳を傾けましょう!


2.イエス様が呼ばれた時・・柴は燃えていました。

さて、モーセは燃える柴を見つけます。なんだろう?これまた不思議なものがあるものだなあ・・・と思って近づいていきます。炎が輝いているのです。
3:2 ときに主の使は、しばの中の炎のうちに彼に現れた。彼が見ると、しばは火に燃えているのに、そのしばはなくならなかった。3:3 モーセは言った、「行ってこの大きな見ものを見、なぜしばが燃えてしまわないかを知ろう」。

イエス様の臨在がある時、柴は燃えているのです。私達もイエス様の臨在に触れるなら燃えるのです。私達の心が燃えるのです。

ルカ 24:32 彼らは互に言った、「道々お話しになったとき、また聖書を説き明してくださったとき、お互の心が内に燃えたではないか」。

弟子達は、イエス様と話しをしているうちに心が燃えてきたのです。御言は私達の心を燃やします。なぜなら、それは単なる言葉ではないからです。 イエス様の命、生ける御言です。弟子達は御言を通してイエス様の臨在に触れたのです。
燃えること、そして輝くこと・・・それはとても重要なことです。
燃やされるなら、それは力。輝くなら、それは力。
燃える柴を見てモーセが近づいてきたように、燃えている輝いているあなたを見て人が近づいてくるかも知れません。
私達は、イエス様の御言を通して心を燃やしましょう!
どんな時もワクワクするような希望があなたを包むのです!
どんな時も、輝く炎のように輝いているのです!

でも燃やされるのはいいことだけど、その時だけなのかどうか吟味する必要もありますね。
本当に主にあってもやされているなら、燃え尽きないのです。炎の中の柴が燃え尽きなかったように。。。
一時的な感情だけで燃やされているなら、燃え尽きてしまうでしょう。それはまさにそのものが燃えているからです。炭になっちゃうかも。。
私達は、イエス様によって、生ける御言葉によって燃やされましょう。その炎は燃え尽きない炎です。


結)イエス様は「あなた」の名前を呼ばれる。
神様はモーセの名前を呼ばれました。・・・ それは、神様はすべてを知っているということです。そして個人的にあなたと出会いたいと願っておられるのです。そして友達どうしのような親密な関係を持ちたいのです。
それはあなたを満たし、心を燃やし、輝かすためです!




2004.6.6


カナンの征服NO.2
「祝福に連なろう。」

ヨシュア7章-8章
(序論)
エリコの城壁の勝利の後です。祝福から祝福へ入っていく為に、神様はアイの敗北を通して、彼らを取り扱われました。


1、祝福の後の油断。

(1)あなたを、滅ぼすものを滅ぼそう。  
*奉納物を盗んだアカン。
*アイを探った斥候の安易な報告。
:1しかし、イスラエルの人々は奉納物について罪を犯した。すなわちユダの部族のうちの、ゼラの子ザブデの子であるカルミの子アカンが奉納物を取ったのである。それで主はイスラエルの人々にむかって怒りを発せられた。:2ヨシュアはエリコから人々をつかわし、ベテルの東、ベテアベンの近くにあるアイに行かせようとして、その人々に言った、「上って行って、かの地を探ってきなさい」。人々は上って行って、アイを探ったが、:3ヨシュアのもとに帰ってきて言った、「民をことごとく行かせるには及びません。ただ二、三千人を上らせて、アイを撃たせなさい。彼らは少ないのですから、民をことごとくあそこへやってほねおりをさせるには及びません」。 :6そのためヨシュアは衣服を裂き、イスラエルの長老たちと共に、主の箱の前で、夕方まで地にひれ伏し、ちりをかぶった。
:13立って、民を清めて言いなさい、『あなたがたは身を清めて、あすのために備えなさい。イスラエルの神、主はこう仰せられる、「イスラエルよ、あなたがたのうちに、滅ぼされるべきものがある。その滅ぼされるべきものを、あなたがたのうちから除き去るまでは、敵に当ることはできないであろう」。

これらは、何でしょうか。油断です。
勝利した後、祝福の後にこのような状況に陥り易いことを教えられるのです。そこには、ヨシュアの切なる祈りがありました。
箴言4:23に、「油断することなく、あなたの心を守れ、命の泉は、これから流れ出るからである。」とあります。    
油断とは、「油を断つ」と書きますが、聖霊の油、祈りを通して届けられるものです。祈りは、あなたを油断やスキから守り、問題の本質の解決の鍵となるのです。神様は、あなたを滅ぼすものを知って、それを滅ぼして下さるのです。  
いつの時も主を求めることをやめてはいけないのです。祈りは、私達を謙遜にさせてくれます。そこに、神様の解決が与えられていくのです。見えるようになるのです。くじによっての解決方法でしたが、それで、アイの罪が明らかにされたこと、イスラエルの民たちが互いの存在を認識する機会となったのです。そして、彼らがもう一度、アイを占領するきっかけとなったのです。このように、ヨシュアは、祈りの中で、明確に神様の御心を知ることのでき信仰の人でした。ヨシュアが真のリーダーである故はここにも感じます。自分の方法や感情に任せるのではなく、祈りを通して、神様に問題の本質を求めるのです。神様に最善をして頂くのです。それがヨシュアだけでなく、イスラエルの人々全員の祝福と解決となるのです。祈りの中で、あなたを滅ぼそうとするものを、滅ぼすことです。それが私達を油断やスキから守ってくれると信じます。


2、お互いは、神様の共同体。

(1)お互いが共有する事を学ぼう。   
*くじに当たる部族たち。
*アカンの罪の告白。
*アコルの谷の刑罰。
:16こうしてヨシュアは朝早く起き、イスラエルを部族ごとに進み出させたところ、ユダの部族がくじに当り、:17ユダのもろもろの氏族を進み出させたところ、ゼラびとの氏族が、くじに当った。ゼラびとの氏族を家族ごとに進み出させたところ、ザブデの家族が、くじに当った。:18ザブデの家族を男ひとりびとり進み出させたところ、アカンがくじに当った。アカンはユダの部族のうちの、ゼラの子、ザブデの子なるカルミの子である。:19その時ヨシュアはアカンに言った、「わが子よ、イスラエルの神、主に栄光を帰し、また主をさんびし、あなたのしたことを今わたしに告げなさい。わたしに隠してはならない」。:20アカンはヨシュアに答えた、「ほんとうにわたしはイスラエルの神、主に対して罪を犯しました。わたしがしたのはこうです。
:25そしてヨシュアは言った、「なぜあなたはわれわれを悩ましたのか。主は、きょう、あなたを悩まされるであろう」。やがてすべてのイスラエルびとは石で彼を撃ち殺し、また彼の家族をも石で撃ち殺し、火をもって焼いた。:26そしてアカンの上に石塚を大きく積み上げたが、それは今日まで残っている。そして主は激しい怒りをやめられたが、このことによって、その所の名は今日までアコルの谷と呼ばれている。  

最初にくじに当ったのが、ユダ部族、そしてゼラびとの氏族。そしてザブデの家族。そしてその家族のアカンがくじに当ったのです。神様はここで何をされていたのでしょうか。彼らに罪を恐れさせようとされただけでしょうか。それだけではなく、自己責任というよりも、連体責任、すなわち、 お互いが全てを共有する愛の共同体である事を認識させておられるのです。
アカンが犯した罪である事を知っていて「主は、イスラエルの人々に向かって怒りを発せられた」と言われたのです。個ではなく、集団です。くじに当たるにつれて、お互いに対する意識が強くなっていったことでしょう。
そして、アカンが罪を認めて、告白するのです。人は罪を知る時、神の恵みと出会うのです。  
 1ヨハネ1:9-2:2には、「:9もし、わたしたちが自分の罪を告白するならば、神は真実で正しいかたであるから、その罪をゆるし、すべての不義からわたしたちをきよめて下さる。:10もし、罪を犯したことがないと言うなら、それは神を偽り者とするのであって、神の言はわたしたちのうちにない。2:1わたしの子たちよ。これらのことを書きおくるのは、あなたがたが罪を犯さないようになるためである。もし、罪を犯す者があれば、父のみもとには、わたしたちのために助け主、すなわち、義なるイエス・キリストがおられる。:2彼は、わたしたちの罪のための、あがないの供え物である。ただ、わたしたちの罪のためばかりではなく、全世界の罪のためである。」とあります。
 アカンが処罰された所、それはアコルの谷と呼ばれているのです。徹底した裁きの場所です。それは今日、私達にとって、どこをさすのでしょうか。
 アコルの谷とは、キリストの十字架です。 ここに良き知らせ。Good Newsがあるのです。私達は十字架のもとへ持っていく恵みがあります。
 キリストのあがないの恵みに守られているのです。石で打ち殺されて下さったのはイエスキリストです。徹底した裁きを受けてくれたのがイエスキリストです。自分だけでなく、家族の為にもです。全ての人の為にです。神の怒りから免れ、キリストにより神の恵みに入れられているのです。
ですから私達は「救われた罪人の集まり」なのです。
 ヨルダン川を渡った奇跡もイスラエルみんなの奇跡でした。エリコの勝利はイスラエルみんなの勝利でした。同じように、アイの敗北は、イスラエルみんなの敗北なのです。彼らは、この勝利も敗北も経験することを神様はよしとされたのです。
伝道の書7:14に「順境の日には楽しめ、逆境の日には考えよ。神は人に将来どういう事があるかを、知らせないために、彼とこれとを等しく造られたのである。」とあります。将来がどうなるか分からなくて、祝福と思えない事があっても、神様は私達を祝福から祝福へと連れていって下さるのです。それを信じて、今日も学びを受け取っていきたのです。
 勝利も敗北も、それによって、互いが一つであり、共同体、コミュニティーである事を学ぶ為です。教会を何と表現しますか。家族ファミリー、チーム、コミュニティー、キリストの体、エクレシアでしょうか。このヨシュア率いるイスラエルの民全体を何と表現しますか。大家族?ヨシュアの家?約束の地御一行様?
 互に重荷を分ち合う集まりでありますように。互に祈り合う集まりでありますように。互に喜びを共有し、悲しみを共有する存在でありますように。それらの上に、神様の御手がある事を信じます。

(結論)
「主への再従順」
何度失敗しても、あなたが主の前に謙遜になり従い続けるなら、主は勝利を与え、祝福の基として導いて下さるのです。
8:25その日アイの人々はことごとく倒れた。その数は男女あわせて一万二千人であった。:26ヨシュアはアイの住民をことごとく滅ぼしつくすまでは、なげやりをさし伸べた手を引っこめなかった。:27ただし、その町の家畜および、ぶんどり品はイスラエルびとが自分たちの戦利品として取った。主がヨシュアに命じられた言葉にしたがったのである。
「主の主権を認める」 あなたの置かれている所、状況において、主を認めましょう。主はそこにいて下さることを認めましょう。
:30そしてヨシュアはエバル山にイスラエルの神、主のために一つの祭壇を築いた。:31これは主のしもべモーセがイスラエルの人々に命じたことにもとづき、モーセの律法の書にしるされているように、鉄の道具を当てない自然のままの石の祭壇であって、人々はその上で、主に燔祭をささげ、酬恩祭を供えた。




2004.6.13

「わたしは何者でしょう」

出エジプト3:6-12

序.
イエス様との出会いは喜びです!
イエス様と出会うことは私達にとって力です。命です。いやしです。 そして大きな喜びです。

さあ、イエス様はどのような方でしょうか?
聖書から見つけだしていきたいと思います。


1.イエス様は私達の声を聞いておられます。

イスラエルの人々は、苦しい労働を続けていました。そして神様に必死に祈りました。また叫びました。
神様はイスラエルの人の苦しみを見て何もされなかったのでしょうか? いえ、そうではありません。
イエス様は私達の祈りの声を聞いておられます。 私達の祈り、声はすべてイエス様のもとにとどいているのです。そしてそれをイエス様は喜んでくださる方です。 そうですよね。  

黙示録 8:4 香の煙は、御使の手から、聖徒たちの祈と共に神のみまえに立ちのぼった。

私達の祈りは、香りのようなものなのです。それはイエス様のところに上っていくのです。イエス様はその香を喜んでくださる方です。
ではなぜ、イスラエルの祈りをそのままにされたのでしょうか?
それは待っておられたのです。
そうです。モーセが成長するのを待っておられたのです。
羊を飼うことを通して、普段の生活の中での様々な出来事を通して、神様を信頼し、また人を愛する者へと成長するのを待っておられました。
そしていよいよイエス様の定められた時が来たのです。


2.あなたは何者ですか。

3:11 モーセは神に言った、「わたしは、いったい何者でしょう。わたしがパロのところへ行って、イスラエルの人々をエジプトから導き出すのでしょうか」。 そして言われました。 3:10 さあ、わたしは、あなたをパロにつかわして、わたしの民、イスラエルの人々をエジプトから導き出させよう」

モーセはどうしたでしょうか?待ってました!主よ、その時が来るのをわたしは今までずっと待っていたのです!とは言わなかったのです。
ちょっと待ってください!あのね、わたしは何者ですか?ずっと前にエジプト人を怒りにまかせて殺してしまったのです。殺人者ですよ。逃亡者です。 そんなわたしに何ができるのでしょうか? はっきり言って私は、ただの羊飼いです。そんな大それたことはわたしには出来ません!

神様の声を聞いて従おうとする、その時、大切なことは “わたしは何者か?” ということです。
モーセは自分が何者だと思っていたのでしょうか?
エジプト人を殺した犯罪者。 イスラエルの人達を救い出そうとして失敗した失敗者。 王を恐れて逃げだした逃亡者。 と思っていたのでしょう。
だから、モーセは神様の声に従うことが出来なかったのです。なぜこんな私にそんなことが!
でも本当はそうではありません。確かにそういうこともあったでしょう。でも神様はそうは見ておられないのです。 同じ経験をしたとしても、私は何者であるのか?どのように自分を見るのか?ということは、あなたにまかされているのです。

あなたは何者ですか?
・罪許された人です。
コロサイ1:14わたしたちは、この御子によってあがない、すなわち、罪のゆるしを受けているのである。 モーセは過去に犯した罪が裁かれることを恐れていました。でもイエス様は裁きの神ではなく、許しの神であること知らなくてはなりません。過去にたいして、許しを宣言しなくてはなりません。
・世界にたった一人しかいない、超レア、高価で尊い人です。
イザヤ 43:4 わたしの目には、あなたは高価で尊い。わたしはあなたを愛している。だからわたしは人をあなたの代わりにし、国民をあなたのいのちの代わりにするのだ。
・イエス様に愛されている人です。
出3:7 主はまた言われた、「わたしは、エジプトにいるわたしの民の悩みをつぶさに見、また追い使う者のゆえに彼らの叫ぶのを聞いた。 私の民です。これは私のもの、という意味があります。イエス様があなたは私のものだ! といわれるのです。それほどあなたは愛されているのです。

そして、モーセに「さあ、あなたをつかわしてエジプトから民を救い出します!」 とイエス様がいわれるのなら、それはモーセにしかできないのです。
イエス様はあなたの心に語りかけるかもしれません。あなたを用いよう!と。 そんな時、わたしにできるわけがない!ではないのです。
イエス様が語られるなら、それは、あなたにしかできないことだからです。
すべてはあなたに委ねられています。
あなたはどちらを選びますか?モーセの言葉のように自分を見ますか? それともイエス様の言葉によって自分を見ますか?
イエス様の言葉を信じる人は幸いです。


3.主が共におられます。
なぜなら主が共に働かれるからです。
3:12 神は言われた、「わたしは必ずあなたと共にいる。これが、わたしのあなたをつかわしたしるしである。あなたが民をエジプトから導き出したとき、あなたがたはこの山で神に仕えるであろう」。

イエス様が選ばれたそのしるし、それは主が共におられる、ということです。 これ以上のしるしがあるでしょうか?それは大きなはげましです。

マルコ16:20 弟子たちは出て行って、至る所で福音を宣べ伝えた。主も彼らと共に働き、御言に伴うしるしをもって、その確かなことをお示しになった。

あなたを通してもイエス様が働かれます
イエス様に呼ばれた時があなたが立ちあがる時です。




2004.6.20

「その名はなんというのですか」

出エジプト3:13-15

序)名前の力
名前には力があります。
モーセは誰の名によってつかわされたのか?ということに関心がありました。 誰につかわされたのか?ということはとても大切なことです。
モーセには自信がなかったのです。自分がエジプト王のところにいってイスラエルを救い出すなんて。
みんなはなんて言うだろう?逃げてきたわけですから・・・
でもつかわされた方の名前を聞くならば、それで、モーセは確信を持つことが出来ます。
そしてイスラエルの人達がおまえは何者だ!といっても神の名によってつかわされているのです、というならば、きっとイスラエルの人々も納得すると思ったからです。
だからモーセは名を聞きたかったのです。
でも神様はモーセになんと答えられたでしょうか?

1.“私は有って有る者”それは神様の性質を表しています。

3:13 モーセは神に言った、「わたしがイスラエルの人々のところへ行って、彼らに『あなたがたの先祖の神が、わたしをあなたがたのところへつかわされました』と言うとき、彼らが『その名はなんというのですか』とわたしに聞くならば、なんと答えましょうか」。3:14 神はモーセに言われた、「わたしは、有って有る者」。また言われた、「イスラエルの人々にこう言いなさい、『「わたしは有る」というかたが、わたしをあなたがたのところへつかわされました』と」。

神様はモーセに答えられました。わたしは“有って有る者”
モーセはきっと「は?」と思ったでしょう。いえ私は名前を聞きたかったのですが・・
有って有る者?・・・この言葉は神様の名前ではありません。
それは性質をあらわす言葉です。神様というお方がどのようなお方なのか?ということをあらわしています。
この時、モーセにとって大切なことは、みんなが納得する神の名ではありません。
その名を持つ方がどれほど偉大な方か?ということを知る、ということです。

“私は有って有る者”
@神様は、それ自体で存在しています。
あなたはどうしてここにいるのですか?お母さんから生まれたからです。そのお母さんは?お母さんのお母さんが・・またお母さんが・・・
私達のまわりにあるすべてのものは、何かから生まれてきているのです。
でも、神様はそうではありません。何かから生まれてきたのではありません。
神様は神様として存在しているのです。
・ヨハネ1:1 はじめに神は天と地とを創造された。
はじめに神は・・・聖書のその前に何も書かれていません。 はじめに神は・・からスタートしています。つまりこの世界に何も存在していなかった時、神様がおられた、ということをあらわしているのです。 すべてのはじまりは神様です。
有って有る者、それは神様の偉大さを表しています。

A無から有を生み出す力があります。
ということは、すべてのものを神様が造られたのだ、ということです。
すべてのものは神様から造られ生まれてきたのです。何もなかったところから、神様はこの大地や星や、太陽、生き物を造られたのです。
つまり、なにもないところから、新しいものを生み出す力をもっておられる方だ、ということです。
・イザヤ43:19 見よ、わたしは新しい事をなす。やがてそれは起る、あなたがたはそれを知らないのか。わたしは荒野に道を設け、さばくに川を流れさせる。
そうかんがえると、荒野に道を、砂漠に川を流れさせることくらい、どうってことないですよね。
そう、この有って有る者はあなたの生涯にも働かれるのです。
そして、何もないところからでも、素晴らしい創造をされる方です。絶望のふちからでも、最高の希望を与えてくださる方です。

B完全です。
愛において・力において・霊において・・・
マタイ5:48 それだから、あなたがたの天の父が完全であられるように、あなたがたも完全な者となりなさい。
有って有る者、すべてのはじまりである方は完全な方です。
愛において・・・このすべてがはじまる前から存在しておられた方、そして全てを作り出した方、イエス様はあなたのために十字架にかかって死なれたのです。ただ、みがわりとなる、ということだけのために。
すべての力、能力、権威を捨てて、あなたのために、私達のために十字架にかかり、死んでくださったのです。イエス様の愛は完全な愛です。すべてを満たすことのできる愛です。そして力において、あなたを覆い、助け、満たすことの出来る方です。


2.その名は“イエス”です。

神様は有って有る者、その方がいかに素晴らしい方であるのか?ということをモーセに伝えたかったのです。
その名前が何であっても、その名前を持つ方がいかに素晴らしい方か、ということを知らなければどうしてエジプトにいくことができるでしょう。 仮に行くことが出来たとしても、すぐに挫折して帰ってきてしまうでしょう。
有って有る者、それは偉大なお方です。
では、なぜモーセに神の名が告げられなかったのでしょうか?
それは後にこられる方によって明らかにされました。。
・使徒4:12 この人による以外に救はない。わたしたちを救いうる名は、これを別にしては、天下のだれにも与えられていないからである」。

神の名、それはイエスです。
神の名はエホバでもヤハウエでもありません。それは単なる呼び名です。イエス、それが神の名前です。

有って有る者、この名のもう一つの呼び名がありましたね。
3:15 神はまたモーセに言われた、「イスラエルの人々にこう言いなさい『あなたがたの先祖の神、アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神である主が、わたしをあなたがたのところへつかわされました』と。これは永遠にわたしの名、これは世々のわたしの呼び名である。

“あなたがたの先祖の神、アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神である主が”これはずっと続いていくのです。そしてあなたの神という意味があるのです。そして永遠に私の呼び名である、といわれています。
そうです。イエス様は、あなたの神です。そしてあなたを救う神です。その名は永遠に変わることがありません。永遠にあなたの救い主なのです。
そして、そのイエス様の名にこそ力があります。
だからイエスの名によって祈ります。宣言します。告白します。
私達を呼ばれ、救われ、用いられる神は、こんなにも素晴らしい方です。
そしてその力ある名を私達は知っています。
このイエス様を知る人は幸いです。
祈りましょう。




2004.7.4

「愛からの行動」

ピレモンへの手紙

序) これは獄中のパウロからピレモンへ宛てた手紙です。
順をおって少し見ていきましょう。
パウロはキリストの囚人と自分を表現しています。 ピレモンを同労者と言っています。
家にある教会・・・家庭集会から教会としての形になっていったのでしょうか。
ピレモンの信仰と愛についてパウロは喜び、神に感謝しています。
そのピレモンの愛によって多くの喜びや慰めを受けたといっています。
パウロはピレモンに命じることのできる立場にいたようですが、あえて命じることをせず愛によってお願いしています。 オネシモについてです。獄中でキリストを受け入れクリスチャンになったのでしょう。
オネシモとは有益な者という意味だそうです。ですから、名前にひっかけて以前は無益なものだったが、今は名前の通り有益なものになった、と表現したのかもしれません。
このオネシモは獄中でパウロによって改心して仕えていたのですが、もともとピレモンのしもべだったようですね。 だから、ピレモンのもとへ返すといっています。
ピレモンが再度パウロのもとへオネシモを送るかどうかはピレモン次第ですが、パウロはピレモンが自発的にこのことをしてくれるならそれを受け入れるつもりだったのでしょう。
パウロにとっては今やオネシモは自分の思いを思いとしてくれる霊的な子だったのでしょうね。彼は私の心だとまで表現していますから。
さて、このオネシモをパウロを迎えるように迎えてほしいというパウロのお願いでした。その上、もしオネシモがピレモンに対して何か負債や損害があれば、パウロが支払うとまで言っています。
実際は、ピレモンはパウロによって今の状態があるようですが、パウロはそのことは言わないといっています。これがパウロがピレモンに対して命じることができるといった根拠なのかもしれませんね。
また、パウロはピレモンに対して、「あなたは私の言うこと以上のことをしてくれると知っているから・・・」と書いています。 ピレモンとしてはせなしゃあないやん・・・状態かも知れません(笑)
しかし、パウロもわざわざそんなことを言わなくてもいいのに・・・と思ったのは私だけでしょうか(笑)
でも、ここに書いてあるから、今私達はパウロのピレモンのそのような関係を見ることができるし、その中でパウロの心を見ることもできるのですから、これも神様の御業なのでしょうね。
獄にいる他の同労者からの挨拶とキリストにある挨拶でしめられています。

今朝はここから「愛からの行動」について少し学んでイエス様に心を向けていきたいと思います。

愛からの行動とは・・・
1.自発的な心
:14 あなたがしてくれる親切は強制されてではなく、自発的でなければいけないからです。

愛が発信源である行動は、自発的な行動です。

自発的な心は愛がなければ起こらないでしょうか?
実は、他にもいっぱいあります。
私は自発的に仕事をします。それも仕事をいただける場所に自発的に行きます。 これは、愛が発信源なのでしょうか? いいえ。ほとんどはお金という見返りのためです。(勿論社会への貢献ということに対する報酬という意味では人間的な愛からとも言えますが)
仕事を貰うために、お金を稼ぐために、自発的な行動をするんです。 そこには愛があるからというわけでもないのに自発的な行動があります。

人は自分のためになること、つまり見返りを期待する時、自発的に行動するのです。
でも、イエス様はどうだったでしょうか。 見返りなど何もない、全くどうしようもない罪人のために十字架にかかって命を捨てて下さった。 この行動も自発的でした。

もし、ピレモンが自発的にオネシモをパウロのもとに遣わしたとしても、ピレモンの中に「これでパウロ先生によく思われて、大きな教会をまかしてもらえるかもしれない・・・」なんて思っていたらどうでしょう。 この場合の自発的な行動は、愛から来ているといえるでしょうか。

私達は見返りを期待しない「愛からの自発的な心」を大切にしたいですね。
実はそこに、見返りがあるのです。。。神様からの見返りです。
神様に見返りを期待する時、わたしたちは神様に仕えるように仕えることができるようになるのではないでしょうか。


2.負債を負う覚悟
:18-:19 もし彼があなたに対して損害をかけたか、負債を負っているのでしたら、その請求は私にしてください。 この手紙は私の自筆です。私がそれを支払います。

普通、人の負債まで負おうとする人はいませんよね。
パウロはオネシモの負債を負う、損害をかけたら払うと言いました。
よきサマリヤ人のたとえを思い出します。
強盗に襲われて倒れている人を介抱し宿に連れて行き、そこの主人に頼んで、しかもその支払いを全てするといい、余分にかかったらそれも支払うとまで言った、あのサマリヤ人と似ています。
また、親子であればあるかもしれませんね。子供の負債を親が支払おうとする。 これを悪用したのが「オレオレ詐欺」ですが。。。

そして何よりも大きな負債を負った方の話しを私達は知っています。
イエス様です。
イエス様は罪がないにもかかわらず、わたしたちの罪をかわりに負ってその支払いを全てして下さいました。 それが十字架です。

これらの話しの共通点は何ですか?
負債を負った人の「愛」が共通しています。 まさに愛がなければ負うことができないものです。
その覚悟ができるというのは、その人に対する「愛」があるといえるのではないでしょうか。
それはある時は命懸けかも知れません。
私達は、他人の負債まで負うことはできないかもしれません。
でも、パウロは肉においては他人のオネシモの負債を負うといった。パウロの中にあるキリストの愛がここに現れているのではないでしょうか。私達はそれを見ることはできます。

結) さて、パウロの持っていた愛はどこからくるのでしょう。
それは、パウロ自身からではなく、イエスキリストからです。
キリスト・イエスの囚人であるパウロ:1と表現されているように、キリストの囚人、キリストにとらわれた人にはキリストが宿り、キリストの愛が現れるのだということだと思います。
私もキリストの囚人になりたいです。

キリストにとらわれるためにはどうすればいいでしょうか。
今日は簡単に3つだけいいます。
・イエス様を知る。
・イエス様を受け入れる。
・イエス様と交わる。
その時に、イエス様にとらわれていき、イエス様御自身でそしてその愛で満たされることでしょう。

今イエス様が自分に語られていることに耳を向け、目をむける人は幸いです。 祈りましょう。




2004.7.11

閉ざされたと思える所から。
ーハンナの信仰と祈りー

サムエル記1章

(序論)  何をやってもうまくいかない、閉ざされていると思える人生を感じるときがあるでしょう。しかし、そこにこそ開かれた人生が待っていることを知っていますか。それは神様を知り、その方の祝福と出会うチャンスだということです。
今日、ハンナの信仰と祈りを通して、神様に学びましょう。


1、「私たちの思いをはるかに超えた、主の計画」がある。

:5エルカナはハンナを愛していたが、彼女には、ただ一つの分け前を与えるだけであった。主がその胎を閉ざされたからである。

(1)「閉ざされる」とは、神様にあっては、失望のメッセージではありません。
主は私たち以上に、私たちのことを心配しておられるし、知っておられるのです。良い神様です。God is good all the timeです。聖書の中に出て来る、胎を閉ざされた人々を知ってますか。サラ(イサク。アブラハムの一人子)、マノアの妻(士師の時代のサムソン)、ルツ(オベデ。彼はダビデの父であるエッサイの父)、エリサベツ(バプテスマのヨハネ)神様によって胎を閉ざされた女性です。イエス様を身ごもったマリヤ。彼女も危険にさらされその生まれを閉ざされかけました。でも、誰も神様の計画、神様に信頼している者たちを失望させて、その胎を、人生を閉ざすことはできないのです!
黙示録3:8  わたしは、あなたのわざを知っている。見よ、わたしは、あなたの前に、だれも閉じることのできない門を開いておいた。なぜなら、あなたには少ししか力がなかったにもかかわらず、わたしの言葉を守り、わたしの名を否まなかったからである。

:6また彼女を憎んでいる他の妻は、ひどく彼女を悩まして、主がその胎を閉ざされたことを恨ませようとした。
(2)神様を恨むようにしむける存在に気を付けよう。
時は、友が、自分自身が、近しい存在すら、あなたを妨げるような事を言ったり、働きがけてくるかもしれません。でも、彼らを責めたり、攻撃の矢を向けるのではなく、その背後に働いて、あなたを陥れる巧妙な、巧みな悪しき悪魔の存在に対して、その暗闇のメッセージにノー!を突きつけましょう。その悪しき存在は、関係の中に働いてくるのです。争い、憎しみを人間関係の中にもたらして、内輪から崩しはじめるのです。


2、取り替えられる祈り。
:18彼女は言った、「どうぞ、はしためにも、あなたの前に恵みを得させてください」。こうして、その女は去って食事し、その顔は、もはや悲しげではなくなった。
以前のハンナは、自分は不幸な女(:15)だと告白し、そう信じていました。しかし、祈りの中で心が取り替えられていきました。祈りの力と恵みがここにあります。彼女の後の告白では、祈った女と自分を表明しています。2つの祈りの段階が導かれました。

(1)心を注ぎ出す祈りです。:15 
声にならないほどの憂いと悩み、ありのままの自分の思いを差し出す祈りでした。主の前にありのままに出る姿は決して、恥ずかしいことではありません。そのような麗しい、近しい、親しい、慕わしい、関係に私たちは置かれているのです。

(2)恵みを受け取る祈りです。:18
その祈りが、今度は、祭司エリの言葉を通して、神様に求める段階から、神様の恵みを受け取る祈りへと祈りは変わっていきました。主を信頼し、信仰を置いた姿の祈りです。受け取る祈りがあなたをさらに強くします。祈りが彼女の祈りを変えていきました。主の恵みと祈りの霊が注がれたのです。

:9シロで彼らが飲み食いしたのち、ハンナは立ちあがった。その時、祭司エリは主の神殿の柱のかたわらの座にすわっていた。
(1)祭司の助けが備えられています。
祭司エリの存在がありました。彼女は、立ち上がった時、そこのシロの主の神殿の柱のかたわらに祭司エリが座って待っていたのです。これは、今日の大祭司イエスキリストです。罪からの赦し、救い、永遠の命、和解、助け、勝利、希望。キリストが十字架で敵意の隔ての中垣を取り除く祭司の働きを十字架の上で、2000年前成し遂げて下さったのです。そして今もその事実は信じる者に効力を発揮するのです。すなわち、私達にいつもイエス様の恵みが待っています。その為に、あなたの祈りの宮に登ることを止めないで、立ち上がっていくことです。ハンナは困難な状況にありましたが、それを選んだのです!

(結論)  閉ざされた思える時、主は開いておられるという事実があります。主の祝福を経験するチャンスです。そして、神様が与えて下さったものの中にある、神様のさらなる計画に耳を傾けてみましょう。ハンナのように、主にささげる祝福がふくらんでくるのではないでしょうか。ハンナは、不妊の女でした。後に5人の子をもうけます。祝福の女です。サムエルが生まれ、ダビデが神の器として、召されるのです。そして後に、イエスキリストが生まれ、救いの子が今も産まれ続けています。想像できたでしょうか。主は偉大な方であり、良いお方です。あなたの人生に神様に期待してください!




2004.7.18

「行動を伴う信仰」

ルカ10:25-37、ヤコブ2章

序) ある人がエルサレムからエリコへ下っていく途中に強盗どもに襲われました。ここでいう強盗どもとはサタンと悪霊を意味しているように思います。サタンに襲われて傷ついている人はたくさんいますね。私達も少なくとも以前はそうでした。
その人に遭遇した二種類の人の行動から、その信仰が行動を伴うか伴わないかを見て、教えられていきたいと思います。


1.祭司、レビ人

これは今で言えば、牧師等教役者をあらわしているのかもしれません。
エルサレムからエリコへ下ってきたとありますから、おそらくエルサレムへ礼拝に行った帰りなのでしょう。
もしかしたら、礼拝で説教した帰りかも知れません。
でも、瀕死の人を見て、素通りしていったのです。
これは御言葉を聞いても(話しても?)行動が伴っていないケースです。
ここでは、「自分を愛するように隣り人を愛しなさい」という御言葉について書かれてありますが、同じ御言葉についてどう行動したかを記した箇所があります。 ヤコブ2:1−9です。 差別したわけですね。
教会にもいろんな人が来るでしょう。それがどんな人でもイエス様が受け入れておられるのですから、私達は差別することはありません。自分を愛するようにその人を愛することがイエス様が望まれていることであり、命じられていることです。 難しく感じることもあるかもしれませんが、イエス様に従うものになりたいですね。
行動を伴う人になりたいと願います。

さて、行動を伴う人は、もうひとつの種類の人です。


2.サマリヤ人

この人は旅の途中だったようです。その途中にこんなことで出くわして本当なら素通りしたいところでしょうね。
もし、旅行の途中にこんなことに遭遇したらみなさんならどうしますか?わざわざ予定を変更してこの人の面倒を見て、時間やお金を割くでしょうか?

でも旅の途中のサマリヤ人はどうしましたか。 順に見ていきましょう。

@見て気の毒に思い、
まずこの思いがなければ何も始まりません。前回に愛からの行動ということでお話しましたが、まさに目の前の困っている人への愛がスタートですね。イエス様によってこの心を育てていただき、守っていただきましょう。イエス様はそれができる方です。
なぜなら、イエス様こそこの心の持ち主だからです。
イエス様も飼うものない羊のようなありさまを見てついてきた人々を憐れまれました。 イエス様もいつも憐れみの心で接して下さいます。

A近寄って・・・
次の一歩が近寄ることですね。
こちらから近寄るということは勇気の要ることかもしれません。でもイエス様はそれをされました。
サマリヤの井戸で、サマリヤの女にイエス様から声をかけられた。木の上に登っていたザアカイにイエス様から声をかけられた。
イエス様は自ら私達に近づいて下さいました。神であられたのに、人となってこの地上に来て下さるというこれ以上ないほど近づいて下さいました。
このイエス様に学び、その力をいただきたいですね。

B連れていって
具体的な行動をはじめました。
どこに連れて行くかは本当に重要です。正しい処置をすることはとても大切ですから、適切な場所へ連れて行かなければなりません。
道端で大怪我をしている人がいたからといって教会に連れてきても困ります。癒されるから・・・とか言って(^^;
そういう人は病院に連れて行きましょう(笑)ま、冗談はさておき・・・

イエス様は私達を教会に導いて下さいました。
霊的に傷ついた私達を教会へ導き、そこで目に見えないイエス様を内に持っている多くのクリスチャンを通してイエス様に触れるきっかけをいただけたのです。私達もまたこれからその役割に担えるものになりたいですね。

C介抱し
この時代は近くに病院がなかったのかもしれませんね。宿屋に連れていって介抱したようです。
私達も教会へ導かれて、イエス様を内に持っているクリスチャンを通して介抱されました。そしてイエス様が癒し慰めて下さったのです。

D支払った
さらに回復するのに時間がかかる人でしたから、宿屋の主人にお願いしてその費用を全て支払ったのです。
この助けられた人は本当に感謝したでしょう。この人のためならなんでもしたいと思ったのではないかと思います。 命の恩人ですからね。

さて、イエス様は十字架で罪の支払いを全てして下さった。
私達は本当はどんな人生を送っていたかも知れない。また死によって全てを失い、永遠の裁きに入らなければならなかったところを、生きる希望をいただき、人生に意味を見出し、死は永遠への入口であって天国への希望が与えられている。
これはイエス様が全てを支払って下さったから。。。
このイエス様にどれだけ感謝してもし尽くせないと思います。 この方のためならなんでもしたいと思うのは自然なことでしょう。

こう見ていくと、このサマリヤ人の行動はイエス様の型であるようです。 そして、この襲われて半殺しになった人は私達の型であるようですね。


結)わたしたちの信仰は行動を伴っているでしょうか。もう一度見直してみましょう。
その行動は愛を動機にしています。そしてその愛、イエス様の愛に満たされていくなら、行動は自然と伴っていくでしょう。
そうです。この強盗どもに襲われた私達はイエス様によって回復させていただいたのです。
でも、人生は長いです。またいつ強盗どもに襲われるかもしれません。そんな時、またイエス様は私達を助け回復させて下さるのです。そのことを経験しているなら、わたしたちも同じように行動することができる動機と力をイエス様からいただいています。
ですから、行動することができるのです。

行動には、@からDまでありました。まず@からすることができればそれを感謝しましょう。一歩づつ前進していけばいいのです。イエス様が共におられるのですから、心配することはありません。

行動を伴う信仰をイエス様からいただきたいですね。その一歩を踏み出す人は幸いです。
祈りましょう。




2004.7.25

試練が産み出すもの                                                ーハンナの報いー

1サムエル記2:1-10

(序論) へブル10:35 ですから、あなたがたの確信を投げ捨ててはなりません。それは大きな報いをもたらすものなのです。
悩みと憂いと責めの中にあった、不妊の女ハンナ。このような試練の中で、何が産まれるでしょうか。想像できますか。本来なら、そこから失望、落胆、などしか産まれないと思うことでしょう。確かにそれらも試練からも産まれます。でも何を産み出すかは選択し、変えることが可能なのです。ハンナは遂に、子を得ました。サムエルです。今回の2章は、そのハンナが試練の中で産み出したものが、神様への祈りとして記されているのです。祈りの歌です。私たちの試練、その人生の中で産み出すことができるその祝福を教えられます。主の報いについて学びましょう。1節に焦点を当てて分かち合います。
2:1ハンナは祈って言った。 「私の心は主を誇り、私の角は主によって高く上がります。
私の口は敵に向かって大きく開きます。私はあなたの救いを喜ぶからです。
And Hannah prayed and said: "My heart rejoices in the Lord; My horn is exalted in the Lord. I smile at my enemies, Because I rejoice in Your salvation.


1、「私の心」は主を誇ります。ー「主への確信が変わる」
My heart rejoices in the Lord 心ー Heart、 主によって喜び(口語訳) 今迄、主を恨むように仕向けられてきたハンナ。主を恨むように、主を疑うように。でも、主を誇るという報いをえることができたのです。問題がないような時、自分の信仰の位置が分からないものです。しかし、困難、試練に置かれる時、自分の心の位置、主への信頼が試され、自分がどこに立っているのか知るのです。試練は、以前のあなたよりももっと主への確信を強くし、身近なものに変えるのです。確信は力強いものです。内なる力です。試練が確信を育てるのです。
エペソ2:8-9 :8あなたがたは、恵みのゆえに、信仰によって救われたのです。それは、自分自身から出たことではなく、神からの賜物です。:9行ないによるのではありません。だれも誇ることのないためです。
ガラ6:14 しかし私には、私たちの主イエス・キリストの十字架以外に誇りとするものが決してあってはなりません。この十字架によって、世界は私に対して十字架につけられ、私も世界に対して十字架につけられたのです。
ロマ10:18 あなたはその枝に対して誇ってはいけません。誇ったとしても、あなたが根をささえているのではなく、根があなたをささえているのです。


2、「私の角」は主によって高く上がります。 −「力強い成長が与えられる」
My horn is exalted in the Lord. 角ー Horn、「力」の象徴としての角。力に強さが増し加えられるのです。その力は、権威を振りかざすようなもののためにあるのではなく、愛の力、赦しの力、忍耐の力、などとなって発揮していくための角です。人を傷つけたり、陥れるものではないのです。そんな角ならへし折られるべきです。エクセサイズをすると、力が増し加えられるように。信仰に力が増し加えられる。霊的筋肉がつきます。心の筋肉を強くします。パソコンでいう、バージョンアップです。あなたがバージョンアップします。心のエクセサイズをしましょう。試練はもってこいのようですね。主は耐えられないような試練に会わせることがないばかりか、試練と同時に逃れる道をも備えておられます。
詩篇75:10 悪者どもの角を、ことごとく切り捨てよう。しかし、正しい者の角は、高く上げられる。
詩篇18:2 主はわが巌、わがとりで、わが救い主、身を避けるわが岩、わが神。わが盾、わが救いの角、わがやぐら。
詩篇92:10 しかし、あなたは私の角を野牛の角のように高く上げ、私に新しい油をそそがれました。


3、「私の口」は敵に向かって大きく開きます。 −「勇ましい信仰が宿る」               
     I smile at my enemies. 私の口は大きく開くー 口に敵への権威。敵をあざ笑う。(口語訳)Smile, laugh 笑顔、笑う。私達の口は、主への賛美のためにあるだけでなく、敵に向かって、権威を行使する特権が与えられているのです。敵に向かって主の偉大さ、その十字架の御業を宣言することです。敵に向かって主のすばらしさを賛美することです。敵の偽りに対して、主の真実を宣言するのです。悪魔、そして、試練や困難を通してあなたを訴えてくる者、あなたの弱さ、古い心の脚本、性質に向かっていかなくてはいけないのです。神に立ち向かいなさい、そして、悪魔に立ち向かいなさい。と御言葉にあるようにです。主はそこに力を発揮していかれます。信仰が有るか無いかではなく、あなたの信仰はあっても、どのような信仰であるかを主は問うておられるのではないでしょうか。信仰とは量というより、質で勝負です。 詩篇23:5 あなたはわたしの敵の前で、わたしの前に宴を設け、わたしのこうべに油をそそがれる。わたしの杯はあふれます。
詩篇81:10 わたしが、あなたの神、主である。わたしはあなたをエジプトの地から連れ上った。 あなたの口を大きくあけよ。わたしが、それを満たそう。

(結論) へブル11:6 信仰がなくては、神に喜ばれることはできません。神に近づく者は、神がおられることと、神を求める者には報いてくださる方であることとを、信じなければならないのです。 ハンナの祈りの歌は、確信の歌、力の歌、信仰の歌でした。そして1節以降の彼女の祈りは、まさに証の歌でした。こんなすばらしい祈りの歌を神様は試練を通して、送り届けて下さるのです。試練が産み出すものは、神様を信頼する者ににとっては、大きな違いをもたらすのです。主が産み出して下さるものを選択しましょう。待ち望みましょう。




2004.8.1

「イエス様との関係」

ルカ 19:1-10
序)イエス様がエリコに入って町を通っていかれた時の話しです。その町にザアカイという取税人のかしらがいました。このザアカイがイエス様を見ようとやってきたわけですが、見れません。
なぜ見れないのか。。。それは群衆にさえぎられていたからです。ということは、イエス様の通る道の両側にはたくさんの人がいたわけですね。 天皇陛下が通る道には人がたくさんいます。有名なマラソン選手が走る道にも。また芸能人など有名人が通るところにはたくさんの人が寄ってきます。
そこで、ザアカイはそこにあったいちじく桑の木に登ってイエス様を見ようとしました。
そのザアカイとイエス様との関係から、わたしたちとイエス様の関係を見ることができます。
共に見ていきましょう。

1.イエス様は個人的に関わって下さる

イエス様は木の登っていたザアカイに向かって「ザアカイよ、急いで下りてきなさい。今日、あなたの家に泊まることにしているから」と言われました。 ザアカイは急いで下りてきて喜んでイエス様を迎え入れました。
イエス様が個人的に関わられたことをみていきましょう。

@「ザアカイよ」・・・名前を知っておられた。
イエス様はザアカイとは初対面なのに、名前を知っておられたのです。
もし、天皇陛下が通られる時に、その群衆の中にいて、目の前を通っていかれる時にふと止まって、「○○さん。急いでこちらに来て下さい。今日あなたの家に・・・」と言われたらどうでしょう。
「なんでぼくの名前を?」と思うでしょう。
イエス様はザアカイと個人的に関わるために名前を呼ばれました。

みなさんは、イエス様にはじめて祈った時どう祈りましたか?
「イエス様、はじめまして。ぼくの名前は○○○○○です。以後お見知りおき下さい。さて、早速ですが私は罪人です・・・」なんて祈られましたか?そんな祈りしてませんよね。
「イエス様、私は罪人です。私はあなたを信じます・・・」と、自分の名前なんて名乗ってません。 これはどういうことでしょう。そうです。イエス様は私達がイエス様を知る前から私達の名前をご存知なのです。 だからザアカイの名前も知っておられた。きっとザアカイの近くにいた人も、またそこにいた群衆の全ての名をご存知であったと信じます。
『イエス様は私達の名をご存知なのです。』
教会では、牧師はあなたのことを、10人の教会なら10ぶんの1としてしか見れません。200人の教会なら200ぶんの1としてあなたを見ることしかできません。これは牧師は人間なのですから仕方のないことです。
しかし、イエス様はあなたを1ぶんの1としてみて下さり、関わって下さるのです。
最初からイエス様は私の名前を知っていて下さり、その名を呼んで下さる方なのです。それほど親しく個人的に関わって下さっているのです。

A「あなたの家に泊まることにしている」・・・時間をかけて関わって下さる。
泊まるということは、ゆっくりと交わることをさすますよね。 別に夜更かしするとは限りませんが(^^;
昨年の夏のキャンプでも兄弟達で夜遅くまで話してましたよね。泊まるということでゆっくりと時間をかけることができます。 それほど親しく交わることができ、お互いを知ることができるのです。
ザアカイもイエス様のことをよく知ることができ、親しくなったことでしょう。
イエス様はこのように個人的に親しく関わって下さるのです。

「個人的な関係」これがイエス様と私達の関係の一つですね。


2.イエス様は罪人と関わって下さる。

人々はつぶやきました。「彼は罪人の家にはいって客となった」と。 イエス様は罪人と関わって下さいます。
皆さんはこんな経験ありませんか。 「自分はなんて罪深い人間なんだ。汚れたものだ。神の前に立つにふさわしくないものだ。。。」と思い、神の前にいけないと思ったり、祈れないと思ったり、礼拝にいけないと思ったり。。。 「もう少し神の前に立てるようになってから。。。」と思ったことはありませんか?
イエス様は罪人と関わって下さる方なんです。
神の前に立てないと思えるような自分、汚れていると思える自分・・・その自分のままで個人的に関わって下さるのがイエス様なんです。 だから、そのままでイエス様のもとに行けばいいんです。
また、全ての人は罪人です。私もあなたも。。。罪許された罪人か、罪許されてない罪人か、の違いはあるかも知れませんが。
ですから、イエス様は全ての人(罪人)と関わって下さる方であることがわかります。
しかし、この箇所では周りの人々がザアカイを罪人呼ばわりしているのですから、同じ罪人同士、人間同士で見ても罪人と見られていたザアカイでさえ、イエス様は関わっていかれたのです。
ですから、私たちもどんな状態であったもイエス様は関わって下さることを知りましょう。


3.ザアカイは個人的に応答した。

さて、イエス様と個人的に関わってもらったザアカイはその後どうなったでしょうか。
「主よ、わたしは誓って自分の財産の半分を貧民に施します。また、もしだれかから不正な取立てをしていましたら、それを四倍にして返します」
まず、自分の財産の半分を貧民に施すと言いました。これは、大切な戒めである「自分を愛するように隣り人を愛する」に応答しているのかも知れません。 半分は自分を愛するように自分の為に、もう半分(同じだけ)は隣り人を愛するためにお金に不自由している貧しい人に施すという応答です。
これはザアカイの個人的な応答です。皆さんが同じことをする必要があるといっているのではありません。 神様の前に自分が個人的に応答できれば本当に幸いです。

もうひとつ、「だれかから不正な取立をしていたら、4倍にして返す」です。
出22:1に「もし人が牛または羊を盗んで、これを殺し、あるいはこれを売るならば、彼は一頭の牛のために五頭の牛をもって、一頭の羊のために四頭の羊をもって償わなければならない。」という戒めがあります。
ザアカイはこの羊を盗んだ時の償いである、4倍にして返すということに応答したのでしょう。
『御言葉に応答した』のでしょう。 私たちも神様の前に応答する時、御言葉に応答しましょう。これは御言葉を聞くだけでなく、御言葉を聞いて行うことの実践であるといえますね。

私たちも個人的にイエス様に応答したいですね。

結)さて、その時、イエス様はなんといわれましたか。
「きょう、救がこの家にきた。この人もアブラハムの子なのだから。人の子がきたのは、失われたものを尋ね出して救うためである」
救いを宣言されました。
そしてこの言葉に注目しましょう。 「人の子がきたのは、失われたものを尋ね出して救うためである」
失われていたザアカイを尋ね出して救われたのです。私達も失われていた者ですが、イエス様が探し出して救って下さった。
エゼキエル34:11 主なる神はこう言われる、見よ、わたしは、わたしみずからわが羊を尋ねて、これを捜し出す。
イエス様自ら尋ねて探し出して下さるのです。
イエス様に近づきましょう。イエス様のもとに行きましょう。ザアカイがイエス様の近くに行ったように。。。
そうしてもしていなくてもイエス様は私たちを尋ね、探し出し、個人的に関わって下さるのです。
このイエス様に応答する人は幸いです。
祈りましょう。




2004.8.29

「 新しい戒め 」

1ヨハネ 3:16-:24 、ヨハネ13:34-35

序) 旧約に多くの戒めを与えられたにも関わらず、新約の時代にイエス様が来られて、私達に新しい戒めを与えられた。 ですから、これは新約に生きる私達にはかなり重要な戒めに違いないと思うのです。
その戒めというのが、 「わたし(イエス様)があなたがたを愛したように、そのように、あなたがたも互いに愛し合いなさい。」 です。
今日はこの戒めについて再度見ていきましょう。

1.イエス様の愛を知る。

「私があなたがたを愛したように・・・」
「主は、わたしたちのためにいのちを捨てて下さった。それによって、わたしたちは愛ということを知った。」

新しい戒めを与える前には、その理由、動機付けが必要だと思うのです。
イエス様も私達に新しい戒めを与えるにあたって、その理由、動機付けを与えられました。
「私があなたがたを愛したように・・・」
「主は、わたしたちのためにいのちを捨てて下さった。それによって、わたしたちは愛ということを知った。」
ヨハネも、 1ヨハネ 3:1 わたしたちが神の子と呼ばれるためには、どんなに大きな愛を父から賜わったことか、よく考えてみなさい。 と言っています。

私達もまず、この神の愛を知りましょう。深く味わいましょう。ここがスタートであり、絶えずここからスタートすべきです。
まず神が愛して下さった、その愛を知った、その愛を受けた、その愛が今も注がれている。
これがスタートであり、帰って来るところです。
そして、その愛を知り、受け止めて、初めて「互いに愛し合う」ことができるのです。


2.互いに愛し合う。

「あなたがたも互に愛し合いなさい。」
「わたしたちは言葉や口先だけで愛するのではなく、行いと真実とをもって愛し合おうではないか。」
私達が愛し合うという時、行いと真実とを持って愛し合うということが必要なのではないでしょうか。
失敗することもあるかも知れません。愛せない時もあるかも知れません。 いいんです。その時はもう一度、神の愛を知りましょう。味わいましょう。溢れるばかりに受け止めましょう。 そうしたら、きっと、神はまた、愛し合う愛の力を注いで下さると信じます。聖霊を通して。。。

私達も、実践できることから、「愛し合う」実践をしましょう。

そして、その時に、私達は神様の中におり、神様も私達の中におられることを見るでしょう。


3.神と共にいる。

「それによって、あなたがたがわたしの弟子であることを、すべての者が認めるであろう」
「神の戒めを守る人は、神におり、神もまたその人にいます。」

「一番大切な戒め」というお話の中で、神を愛し、隣り人を愛することについてお話しました。 この戒めを守る時、聖書の全ての律法は全うされるとまでいいました。 確かに、そのとおりです。あなたが隣り人を愛する時、その律法は全うされます。
でも、その隣り人はあなたの愛をどう思うかはわかりません。またあなたを愛してくれないかも知れません。 でも律法は全うされているのです。「愛しなさい」ということを守り実践したわけですから。。。
しかし、今日お話した「互いに愛し合いなさい」という戒めは、あなた一人が相手を愛したからとて、全うされるものではないのです。
あなたも愛し、相手もあなたを愛する時に、全うされるのです。
だから、聖書は、「あなたがた」と言っています。
私達クリスチャン同士が愛し合う時に、この戒めは全うされるのです。
この戒めは、個人に言われたというよりも、むしろ、主の名によって集う人々へ言われた戒めと受け止める方が自然です。
そういう意味で、教会に属するということは大切であると言えるのかも知れませんね。
お客さんとして、礼拝だけ守りに教会に行く、、、これもありですが、そのような信仰生活だけでは、この戒めはなかなか実践できないと思うのです。 しかし、教会というイエス様によって集められた人々の中で、互いに愛し合い、仕え合い、祈りあい、、、という中で、この戒めを実践することができる。
その中で、愛し合うことに困難を感じることもあるでしょう。礼拝だけの人はその困難は体験しないかも知れません。
でも、困難を感じるからこそ、また、神様の愛を知ることも深く味わうことも、体験することもできるのだと思います。
そして、わたしたちが愛し合い、それを人が見る時に、人々は私達を主の弟子であると認めるのです。
その結果、全ての人に対して、証しとなり、宣教となる。
互いに愛し合いましょう。




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