2003年後半(抜粋)

2003.8.10「本当に見えている人」-事実(客観)と主観を見極める-ヨハネ 9:24-41
2003.8.24「 愛すること、確かめること 」 -霊を識別する必要-1ヨハネ3章、4章
2003.9.14「 あなたは特別な人 」創世記2:16〜17
2003.9.21「神様と共に歩む」創世記6:5〜9
2003.10.5「 神様との約束 」創世記6:14〜18
2003.10.26「閉じられた扉」創世記7:6〜16
2003.11.9「 箱舟からの出発 」創世記8:14〜20
2003.11.30「神の御言葉が成る」ルカ1:26-38
2003.12.14「 内側から来る神への信頼 」ルカ 2:1-7
2003.12.21クリスマスメッセージ「 キリストを迎えること 」ルカ2:8-33




2003.8.10

「本当に見えている人」
-事実(客観)と主観を見極める-

ヨハネ 9:24-41
序) この箇所で、2種類の人を見ることができます。
今日は本当に見えている人について、見ていきましょう。

1.見えると言う人。
パリサイ人たちは、見えると言っていた。
「・・・あの人が罪人であることは、わたしたちにはわかっている」 このパリサイ人は、言い切っている。
でもこれは、事実(客観)ではなくて、主観である。
「あの人が罪人だと思っているのだが・・・」なら、自分の主観であることを認めた発言であったから、まだよかったかも知れない。
私たちも、自分の主観を事実(客観)と勘違いしていないだろうか。
自分が感じること、思うことは、自分にとっての事実(客観)であるだろうが、それは、自分の主観であって、事実(客観)ではない。
事実(客観)とは、誰もがそう判断するようなこと。
主観とは、その人が判断すること、感じること。
例)ジェットコースターの話しですが(笑) 「長○ス○ーランドの、ス○ールドラゴンはすごい。こわい。面白い。」>>>これは、主観です。人によって違うもの。
でも、「ス○ールドラゴンは、最後部の高さが97mで、最大落差が93.5mその角度は68度で、最高時速は153km/h、その全長は2479m、その時間は210秒」>>>これは事実です。
これを、高所恐怖症の人に、「このス○ールドラゴンは、すごいよ。面白いよ。一緒に乗ろう」といったら、それは、主観で人に勧めているわけですよね。 好きな人は、面白いだろうが、いやな人にはいい迷惑なわけです。
主観は人には押しつけてはいけないものだということもわかりますね。
「イエス様以外に救いはない。」というのは、事実です。 しかし、「教会はいいところ、楽しいところだから、来て!」と無理矢理連れてくるのはどうでしょう。 いいところか、楽しいところかは、その人の主観です。
「イエス様が救い主」というのは(私達にとって)事実です。
集会には、イエス様の恵みがあります。これは事実です。
でも、その集会で恵まれるかどうかは、その人の主観ですから、わかりません。

もう一人の人・・・
2.見えないと言う人。
目が開かれた盲人は、 「あの方が罪人であるかどうか、わたしは知りません。・・・」
私たちには、理解しがたいことがいろいろある。 でも、それらは分からなくても、見えなくてもいいのです。
主よ、見えませんと祈ればいいのです。 主はきっと導いてくださるでしょう。
事実(客観)と主観が分けられている。 「あのかたが罪人であるかどうか分かりません。」と言っている。
「あのかたは罪人ではない」とは言っていない。
「ただ一つのことだけ知っています。わたしは盲人であったが、今は見えるということです」
自分に起こった事実(客観)を話している。
私たちは注意しないと、 事実(客観)と主観とを混同してしまいがちであるから、気をつけたい。
この盲人の発言を使って表現するなら、
「あのかたが罪人であるかどうか、わたしは知りません。ただ一つのことだけ知っています。わたしは盲人であったが、今は見えるということです。そして、あの方の弟子となることは、正しいことであると思います」
一般的な表現をすれば、こうなるかな?
「私は見えません。でも、私にも見えることはあります。それは私の身の上に起こったことです。それゆえに私はみえてはいませんが、これでよかったと思っています。」
これが、事実(客観)と主観の違いです。 そして、こういう人が本当に見えている人なのではないでしょうか。

結論) イエス様は、見える人を見えないように、見えない人を見えるようにしてくださる。
これは、見える”と言う人”を見えないように。見えない”という人”を見えるようにしてくださるという意味だと思うのです。
なぜなら、見えると言い張るところに罪がある、と言われましたから。 私たちは、見えないものまで、見えると言ってしまわない様に気をつけましょう。 そのときに、見えないものになってしまうからです。そこに罪が残るからです。(新共同訳)
「主よ、見えません」という者に、主は見えるようにしてくださる方だからです。 私たちは、私たちのために死んでくださったイエス様だけを見上げて歩みましょう。その時、見えないこともイエス様が見えるようにしてくださるでしょうし、見えないままでも、イエス様は導いてくださると信じます。
このイエス様を見上げて、歩む人の人生は幸いです。



2003.8.24

「 愛すること、確かめること 」
-霊を識別する必要-

1ヨハネ3章、4章 1ヨハネ 4:1-6
新共同訳では>>> :1 愛する者たち、どの霊も信じるのではなく、神から出た霊かどうかを確かめなさい。
1ヨハネは、「愛」について多く書かれている。特に、3〜5章のこの箇所以外はほとんど「愛」についてかかれている。 なのに、この4章の前半1/3くらいだけが、「霊」について書かれています。 これは何を意味し、神様は何をメッセージされているのでしょうか。

1.霊は、受け入れる前に確かめる
愛する、ということは何でも受け入れたりしてしまいやすく、排除しなくなりがちであると思います。
ですから、受け入れてはならないものをちゃんと識別し、確かめることが必要であるとメッセージされていると思います。
愛するとは、何もかも全てを受け入れることではないのです。
ハリーポッターは魔術の本らしいです。だからその霊(悪霊)を受け入れることはしてはいけませんが、ハリーポッターを読んだ人、見に行った人は受け入れます。 その人を愛します。主もその人を愛しておられます。しかし、その霊は受け入れません。
しかしもし、同じクリスチャンだったら、どうでしょう。
クリスチャンだからといって、その霊を全て受け入れてもいいでしょうか。
クリスチャンだからといって、その人がやっていることを全て肯定していいでしょうか。
クリスチャンとは、罪赦された罪人です。ノンクリスチャンは、まだ罪の赦しを受け入れていない罪人です。 どちらも罪人にかわりないのです。 クリスチャンが言っていることだから間違いない、などと思ってはいけません。
私がクリスチャンだからといって、ここで語っている言葉は全てそのまま受け入れていいとは限りませんよ(笑)
だから、聖書の言葉そのものはそのまま受け入れてもいいが、人の話しはたとえ聖書からであっても、鵜呑みにするには、十分注意が必要であるのです。 吟味することが必要です。 しかし、吟味できなかったとしても、わたしたちはそれを受け入れなくても、聖書があります。イエス様がおられます。 聖書からイエス様に直接教えていただき、導いていただけばいいのです。 外から、何かを受け入れる時に注意が必要なんです。
では、ここではどうやって見分けるよう書かれているのでしょうか。

2.イエスを告白する霊 :2…イエス・キリストが肉体をとってこられたことを告白する霊は、すべて神から出ているものであり、 :3 イエスを告白しない霊は、すべて神から出ているものではない。これは、反キリストの霊である。
少なくとも、イエス様を告白するかどうかでまず判断できます。
私達は、まず「イエスを告白する霊」であるかを持って判断しますが、それ以上は、十分に注意しましょうとしか言いようがありません。

結論) とにかくわたしたちは、神を愛し、自分を愛し、隣り人を愛するという神の戒めを守り、愛を実践しますが、 その霊については、十分に注意が必要であると思います。 吟味は難しくても、注意することはできると思います。 でも、恐れることはありません。愛には恐れはない、完全な愛は恐れを取り除くとあります。
私達は、聖書そのものを受け入れ、イエス様から直接教えられ導かれて行く時に、完全な愛であるイエス様によって、恐れることなく、愛を実践できると信じます。 前向きに愛する面と、注意すべき確かめる面とがありますが、聖書とイエス様を頼りに歩むものになりたいですね。



2003.9.14

「 あなたは特別な人 」

創世記2:16〜17
序.特別な人 私達は神様にとって特別な存在です。 目の中にいれても痛くないほど、私達のことを愛しておられます。 そして特別なことを私達に与えておられます。
今日、私達は神様の愛の中で、私達に与えられた特権知りましょう。そして主に感謝しましょう。

1.特別な人・・それは選ぶ権利を与えてくれたからです。
私達はイエス様にとって特別な存在です。 それは、選ぶ権利を与えてくださった、からです。
選ぶ権利、自由に選ぶことができる、それはあたり前のことのようです。でもそれは神様が私達に与えられた特権なのです。
:16 主なる神はその人に命じて言われた、「あなたは園のどの木からでも心のままに取って食べてよろしい。
私達は自由に選ぶことができるのです。すべてのものの中から自由に選ぶことができます。
ここでよく質問されることがあります。 「神様は万能な方、なんでもできる。それなら、なぜ人が罪を犯さないように創られなかったのですか?人に選ぶ権利を与えたから、罪を犯したんじゃないんですか?」
みなさんは、どう答えるでしょう?
答えはわかりません。神様だけが知っています。でも、恐らくその答えは簡単です。 それは、私達が特別な存在だからです。
イエス様は私達を特別に愛しているからです。 イエス様はあなたを囚人のようにしたくはないのです。
自由に選ぶことができないもの、それは囚人です。牢屋の中では、自由がありません。 牢屋の中では忠実に従うでしょう。罪を犯すこともできないでしょう。 鎖でつながれていますから。 丈夫な扉で仕切られていますから、そとに出ることもできません。いつも監視の目が光っています。 そんな場所に私達をつなぎとめれば、きっと罪を犯すことはないでしょう。
でも、あなたなら、あなたの大切な人をそんな場所につれていきたいと思いますか?
また、神様はロボットのような人を作りたくはなかったのです。 ロボットは命令した通りに動きます。自分の意思ではなく、命令した通りに動くでしょう。罪を犯さないように作ればそのとおりに動くでしょう。 主を賛美しなさい、と命令すればその通りに動くでしょう。そんな人形を見て、あなたは喜ぶでしょうか? 神様は喜ばれないでしょう。
神様が喜ばれるのは、自分の意思で、自分の心から主を賛美する姿です。 私のとても好きな御言です。神様の思いを私達伝える御言です。
詩篇51:16〜17 :16 あなたはいけにえを好まれません。たといわたしが燔祭をささげても/あなたは喜ばれないでしょう。:17 神の受けられるいけにえは砕けた魂です。神よ、あなたは砕けた悔いた心を/かろしめられません。
神様は、ささげものが欲しいのではありません。金や銀、お金が欲しいのではありません。
神様が欲しいのは、私達の心なんです。
自由の中から、“神様が喜ばれること”を選択することを喜ばれます。
神様は自分の意思で主を賛美するのを喜ばれるのです。
神様は自分の意思でささげることを喜ばれる方です。
イエス様がいつも注目されるのは、私達の心です。
すべては私達の選択にまかされます。じっと見守りながら、イエス様を愛することを待っておられます。 教会へ行くことも、一生主に従うかどうかも・・・そして罪を選ぶこともできます。
イエス様は私達に選ぶ権利を与えられました。そしてその中から、誰かから強制されてではなく、私達の心からの思いとして主の前に応答するのを待っておられます。 その心を、イエス様はなによりも喜ばれます。
それは、あなたが特別な人だからです。

2.特別な人・・それは神様がルールを与えてくれたからです。
:16 主なる神はその人に命じて言われた、「あなたは園のどの木からでも心のままに取って食べてよろしい。:17 しかし善悪を知る木からは取って食べてはならない。それを取って食べると、きっと死ぬであろう」。
すべてを与えてくださった方は、しかし、たった一つだけルールをつくられました。
この木からとってたべてはならない、と。
神様のいましめ・・・それは、神様と私達の間のルールです。
いましめ、とは委任するという意味があります。 聖書で律法といわれるものですね。 でもこれは私達を縛り付けるものではないことはおわかりですよね。 私達に、自由に選択する権利を与えておられるからです。
ただ、神様の思いに従うために、いましめがあるのではありません。
神様が私達に与えるいましめ・・・それは、私達を守り、祝福を与えるためのものです。
でも実感するのは、難しいことですね。
信号がじゃまだな、と思ったことはありますか?
さて、道路に信号がなかったらどうでしょう。 もし、自由に道路を走ることができれば、早く目的地につくでしょうか? そういう時もあるでしょう。でも天国にも早く着くでしょう。
信号を待ってると長いようですが、そのルールによって私達は守られています。
私達はイエス様にとって特別です。だから守りたいのです。祝福を与えたいのです。 イエス様は私達の人生にガードレールを与えてくださいました。
ヨハネ 15: 10 もしわたしのいましめを守るならば、あなたがたはわたしの愛のうちにおるのである。それはわたしがわたしの父のいましめを守ったので、その愛のうちにおるのと同じである。
私達が神様のいましめを守るとは、神様の愛の中を歩むことができる、ということなのです。それは自分の足で歩む自由を与えられた私達にとって最高の愛だったのです。 そして、そのいましめとは、神様を愛する、ということです。 そして、あなたの隣人を愛しなさい、ということです。
マタイ 22:37〜40 イエスは言われた、「『心をつくし、精神をつくし、思いをつくして、主なるあなたの神を愛せよ』 :38 これがいちばん大切な、第一のいましめである。第二もこれと同様である、『自分を愛するようにあなたの隣り人を愛せよ』。これらの二つのいましめに、律法全体と預言者とが、かかっている」。
この御言をいつも心の中に書きこんでおきましょう。 そして、いつもこの御言に帰りましょう。この御言は私達が神様の愛の中を歩み続けるための道しるべです。 しかし、そのルールでさえ、私達にとって選択なのです。私達にゆだねられています。 神様の愛の中にとどまり続けるために、私達はチャンスを与えておられます。
あなたは、何を選択されますか?

3.特別な人として 私達は特別な人です。
それは神様が自由に選択する権利を与えてくださったからです。
その自由の中で、自分の意思で私達の心を主にささげるものを喜ばれます。 そして、私達を守るために、祝福をあたえるために、いましめを与えてくださいました。 自分の意思で、神様の与えてくださった守りの中を歩むものは幸いです。
あなたは、何を選択するでしょうか?



2003.9.21

「神様と共に歩む」

創世記6:5〜9
:9 ノアの系図は次のとおりである。ノアはその時代の人々の中で正しく、かつ全き人であった。ノアは神とともに歩んだ。(口語訳)
:9 これはノアの物語である。その世代の中で、ノアは神に従う無垢な人であった。ノアは神と共に歩んだ。(新共同訳)
:9 これはノアの歴史である。ノアは、正しい人であって、その時代にあっても、全き人であった。ノアは神とともに歩んだ。(新改訳)
序.ノアの時代は・・・ 創世記6:5 主は人の悪が地にはびこり、すべてその心に思いはかることが、いつも悪い事ばかりであるのを見られた。
ノアの時代は、悪がはびこり、人がいつも悪い事ばかり思う時代であったようです。 それは神様から離れてしまった人の心の中をあらわしています。 それは今、私たちが置かれている状況とよくにています。
それくらいいいじゃないか!罪に対してとても甘い時代です。
そんなこともしないの? 私たちの身のまわりには、誘惑がたくさんあります。
その中で、正しい道を歩むというのは、本当に勇気のいることです。 しかしそれは希望の光です。
イエス様はそんなノアを用いて素晴らしい希望の光とされました。それは、ノアがいなければ人は滅びてしまったからです。ノアがいなければ今のあなたはいません。そして、ノアの子孫からイエス様が生まれたからです。 そして、あなたも希望の光だということを知らせるためです。

1.ノアは正しく歩んだ人です。
6:9 これはノアの物語である。その世代の中で、ノアは神に従う無垢な人であった。ノアは神と共に歩んだ。(新共同訳)
・ノアは正しく、かつ全き人でした。
さて、みなさん。どう思われますか?
それは私たちにとってあまりにかけ離れた人のようです。 時々思います。聖書に出てくる人は特別な人だ・・・と。
でもそんなことはないのです。 私たちと同じ人間です。 ダビデもモーセもエリヤも同じ人間です。
キングオブエジプトという映画がありましたが、あの映画の中でとても気になるシーンがありました。それはモーセがため息をつくシーンです。何度も何度もため息をついています。
なぜかな?と思いました。それは同じ人間だからです。 パロ王に奇跡を行っている時も、紅海を分ける素晴らしい奇跡をする時も、いつも戦っていたのです。悩み苦しんでいたのです。
それが人間というものです。
このノアの個所を読んだらきっと思うでしょう。私はノアのように完全な人ではないです。欠点があるし、罪の誘惑にも弱いのです。
それでいいのです。
神様はあなたが神様のようになることを願っておられるのではないからです。もっと素敵なことを願っておられます。そのことを知るために、ノアという人物に注目してみましょう。

・ノアはどのような人だったのでしょうか?
@創世記 6:22 ノアはすべて神の命じられたようにした。
イエス様はノアにいわれました。今から洪水がおこるから、箱舟をつくりなさい。
それは、あまりにも信じがたい言葉でした。そして実行するのが難しいことです。
A創世記 7:1 主はノアに言われた、「あなたと家族とはみな箱舟にはいりなさい。あなたがこの時代の人々の中で、わたしの前に正しい人であるとわたしは認めたからである。
そしてノアは神様が正しいと認めた人でした。 これは大切なことです。誰が正しい人と決めるのでしょう?
そうです。イエス様です。 イエス様という方を知った時、聖書の話を聞いた時、罪というものがはっきりとわかります。私は正しくない!私は罪人です! そういう思いは、私たちの心を傷つけているものです。 でもそんなことないのです。 それは、イエス様が私たちの罪のために、十字架で死んでくださったからです!
Tヨハネ1:7 しかし、神が光の中にいますように、わたしたちも光の中を歩くならば、わたしたちは互に交わりをもち、そして、御子イエスの血が、すべての罪からわたしたちをきよめるのである。
1:9 もし、わたしたちが自分の罪を告白するならば、神は真実で正しいかたであるから、その罪をゆるし、すべての不義からわたしたちをきよめて下さる。
B創世記 9:20〜21 さてノアは農夫となり、ぶどう畑をつくり始めたが、彼はぶどう酒を飲んで酔い、天幕の中で裸になっていた。
ノアはこういうこともある人だったんです。 ノアは裸になって寝ていたのです。
しまった!と思った時はもう遅い・・・・・でも神様は「わかってる、わかってる。でもあなたは正しい人ですよ。」といわれます。
どうして? ノアは、いつも神様の言葉に従う、と決心するからです。
・神様の前に正しいと認められること・・・それは、正しく歩もうと決心した心を持つ人です。 それはどんな人にも与えられるチャンスです。 あなたが神様の言葉に従おう、そう心に決心するなら、あなたは希望の光です。

2.ノアは神と共に歩みました。
6:9 これはノアの物語である。その世代の中で、ノアは神に従う無垢な人であった。ノアは神と共に歩んだ。(新共同訳)
・現代訳の英語では、“神と共に歩んだ”は“神様と親しく交わっていた”と訳されています。
神と共に歩むとは、神様と親しく交わることです。
・そして神と共に歩む時、大切なことがあります。それは神様のそばを歩むということです。一緒に歩く時・・・ 子供と歩く時は一緒に、手をつないで。 けんかをすればどんどん距離は離れてゆきます。
私たちが祈り、願う時・・・大切なことは、いま自分の立っている場所が神様の側にたっているのかどうか?ということです。 あなたが神様と親しく交わり、そしていつも自分のたっている場所を確認しているなら、あなたは希望の光となります。

3.ノアの子孫は ノアの子孫から誰が生まれたのでしょうか?
ノアは、罪の時代の中で神様に従うことを選択し続けました。
ある時は、そんなことをしてて何になる?といわれたこともあるでしょう。 ののしられたこともあるでしょう。
でも今、世界中の人はノアに感謝しなくてはなりません。 なぜなら、私たちはノアの子孫だからです。
ノアの個所で面白いのは、ノアだけ良い人だった、とあります。 では、ノアだけ洪水から助かったのでしょうか?
そうではないですね。ノアの家族も一緒に助けられています。
あなたがイエス様を信じ、イエス様の言葉に従おうと決心するなら、そして、神様と共に歩もうと決心するなら、あなたの家族も守られる、ということです。
「主、イエスキリストを信じなさい。そうすれば、あなたもあなたの家族も救われます」 あなたもその信仰を受けつがなくてはなりません。 リレーのバトンのように!あなたも希望の光として輝きましょう!



2003.10.5

「 神様との約束 」

創世記6:14〜18
序.ノアの箱舟・・・ みなさんは、ノアの箱舟というと、どういうかたちを想像しますか?
実はとても細長いんです。
嵐の中で浮かんでいられたのかな?と思いますが、長細いかたちに意味があるのです。 そして、この箱舟をよく調べると色々なところに神様の愛の計画を見ることができます。
一緒に、ノアの箱舟を通して神様との約束を教えられていきたいと思います。

1.神様の計画はいつも完全 神様はノアにいいました。
:14 あなたは、いとすぎの木で箱舟を造り、箱舟の中にへやを設け、アスファルトでそのうちそとを塗りなさい。:15 その造り方は次のとおりである。すなわち箱舟の長さは三百キュビト、幅は五十キュビト、高さは三十キュビトとし、:16 箱舟に屋根を造り、上へ一キュビトにそれを仕上げ、また箱舟の戸口をその横に設けて、一階と二階と三階のある箱舟を造りなさい。
さあ、これはとても興味深いところです。
みなさん、ノアの箱舟は特別な船です。どうしてですか? それは、神様が材料を選んだ船だからです。そして、神様が設計されたからです。 世界で神様が設計された船は、このノアの箱舟だけですね。
だからこそ、この船には神様の知恵と恵みがつまっているのです。

まず、神様が選んだ材料を見てみましょう。
●いとすぎの木
いとすぎの木とはとても頑丈な木です。腐りにくく、家具や船にも使われています。 また、いとすぎの木からは、油をとることもできます。つまり水に強いのです。でも化工がしやすいところもあります。ノアが造りやすい材料を神様は選ばれました。
●アスファルトを内と外に塗った
それだけではなく、アスファルトを内側と外側に塗りました。アスファルトは木を守り、水がしみ込んでくるのを防ぎます。
●そして構造、小さな部屋がたくさんつくられました。
それは、長細い箱舟を強くする支えになったでしょう。造りやすいように、四角の箱舟を神様は選ばれました。
そして、次が問題です。
なぜこの大きさでなくてはならないのでしょうか?
長さ・・・300キュビト=150m 
幅・・・・50キュビト=25m
高さ・・・30キュビト=15m
この船は大型の客船くらいの大きさがあります。
船の設計はとても難しいそうです。短いと安定が悪くなります。あの漁船みたいな感じですね。 ちょっと風が吹いたら、ひっくり返るようにゆれてしまいます。 逆に長すぎれば、大波に乗ったとき真ん中から折れる危険があります。 高さが高すぎても安定が悪くなります。低すぎても具合が悪いですですね。
さあ、神様はどうされたのでしょうか?
ある造船所で大型船の理想的な形を研究した研究チームがありました。 その結果わかったことは、タンカーくらい大きさの大型船にとって最も高い安定性と強度を持つ形は、長さ・幅・高さの比率が30・5・3だ!ということでした。それ以来、造船の世界では、この比率が「黄金比」と呼ばれて、タンカー級の大型船の主流となっているそうです。
さあ、みなさん気がつきましたか?
この比率は、ノアの箱舟の比率と全く同じですよね。
ノアは、このようにして理想的な舟をつくることができました。 造船技術もない時代にです。今の時代最高の船をつくりあげてしまいました。
この船の設計したのが神様だからです。神様の計画されたものはいつも最高です。 それは今も同じです。
神様が私たちに与えられた計画はいつも理想的で最高のものであると信じます。 それを経験する方法は、ただ単純に神様が語られた言葉に従う、ということです。
ノアが船を作るとき、なぜこんなに長細いものを!といって自分の方法で船をつくったらならば、きっと嵐の中で、箱舟は沈没していたでしょう。 神様の方法がいつも最高なのです。
今年、アメリカとイラクとの戦争がありましたが、その戦争にあたってのブッシュ大統領のコメントを聞きましたが・・・ 最期に、「神の守りがあるように・・・」といっていました。 また、イラク側も「神の力によって勝利する」といっています。
どちらが正しいのでしょうか?多分どちらも間違っているのでしょう。
大切なことは、神の側に立つ、ということです。
自分の願っていることを守ってくださいと祈るのではなく、神の側に立てるように祈りたいものです。 なぜなら、神様の計画はいつも最高だからです。

2.神様の救いは完全
:17 わたしは地の上に洪水を送って、命の息のある肉なるものを、みな天の下から滅ぼし去る。地にあるものは、みな死に絶えるであろう。:18 ただし、わたしはあなたと契約を結ぼう。あなたは子らと、妻と、子らの妻たちと共に箱舟にはいりなさい。
そして、箱舟はもう一つのことを教えています。それは、私たちの救いです。
私たちに与えられた救いの設計をされたのは誰でしょう?
イエス様です。救いの方法は誰が考えたものでもありません。
イエス様です。それは神様だけが救いを用意できるからです。そして救いは完全です。
ノアの命を救う箱舟には、外からの水や嵐からノアを守るために、アスファルトが塗られました。
アスファルトとはレビ記17:11で使われている「あがない」と同じ意味の言葉がつかわれています。
レビ17:11肉の命は血にあるからである。あなたがたの魂のために祭壇の上で、あがないをするため、わたしはこれをあなたがたに与えた。血は命であるゆえに、あがなうことができるからである。
もし、ノアが箱舟をつくって、アスファルトを塗らなければ、どうなるでしょう。
この船の構造は、未来の技術によって作られています! 30:5:3だ!絶対に沈まない船だ!さあ行こう!
きっと水がしみ込んできて死んでしまったでしょう。 でも、そこにはアスファルトがしっかりと塗られていました。 アスファルトは、私たちを守るために、救うためにイエス様が流された血潮です。
私たちの罪のためにイエス様が十字架で死んでくださった! このあがないを通って箱舟に入るのです。そしてその箱舟の中はアスファルトで守られているのです。それは、ただ完全な計画で作られた建物だけではありません。 完全な救いがあるからです。 あなたに与えられた救いははじめから完全なのです。
初めて船を作るノアが、最高の船をつくりあげたように、今、私たちに与えられている救いは完全です。罪の許しも完全です。信じましょう!
時々、わるいことがあると、あの罪が原因かな?でもそうではないのです。
みさなん、完全な計画を与える神様に”できないこと”を知っていますか?
ヘブル 8: 12 わたしは、彼らの不義をあわれみ、もはや、彼らの罪を思い出すことはしない」。 神様ができないことは許した罪を思い出すことです。
:18 ただし、わたしはあなたと契約を結ぼう。あなたは子らと、妻と、子らの妻たちと共に箱舟にはいりなさい。
この約束は、ノアの時代だけではありません。 いまもっと大きな箱舟が用意されています。定員はありません。すべて信じる人です。
ひとりでも多くの人達がこのイエス様の血潮で守られた、素晴らしい箱舟の中に入ることができるように祈ります。



2003.10.26

「閉じられた扉」

創世記7:6〜16
序.洪水は本当? 洪水は本当にあったのでしょうか? みなさんどう思いますか?
洪水の話しでとても面白いことがあります。 それは、世界中に洪水の伝説があるのです。
なぜでしょうか? それは、洪水は事実だということ、そしてひとりの子孫、ノアからその話が始まり、世界中に広まっていったからです。
今朝はその洪水の日の出来事から、教えられていきたいと思います。

1.洪水の日・・その日神様は箱舟を用意されました。
:6 さて洪水が地に起った時、ノアは六百歳であった。:7 ノアは子らと、妻と、子らの妻たちと共に洪水を避けて箱舟にはいった。
★終りの日のために神様は救いを用意された。★
:11 それはノアの六百歳の二月十七日であって、その日に大いなる淵の源は、ことごとく破れ、天の窓が開けて、:12 雨は四十日四十夜、地に降り注いだ。
ノアが箱舟を造りました。作っている時、みんなは馬鹿にしたでしょう。でも彼らが箱舟に入ってから7日たった時雨が降り始めました。 最初、みんなはいつもと同じ雨だとおもっていたでしょう。でもいつまでたっても雨は止みません。 それどころか、今までみたこともないほどの勢いで、雨が滝のように降って来るのです。 その雨は40日40夜降り注いだのです。 だんだんと、水かさが増えていきます。人々は家を棄てて、丘の上に上がりました。 でも、水は丘の上にもあがって来ます。
さらに、人々は山を登りはじめました。 でもどこまで登っても水はやってきます。とうとう逃げる場所がなくなってしまいました。 どうすることもできないのです。そして、人々は水の中にのまれてしまいました。 世界中のすべてのものが水の中に沈んでしまったのです。それがどれだけ高い建物であっても、高い山であっても、すべてのものが水で覆われてしまいました。あの箱舟がいまもあるといわれている山がアララテ山という山で、その頂上は、氷河で覆われています。それほど高い山でさえも、水の中に沈んでしまいました。誰も生き残ることのできないような洪水です。
それほど恐ろしい洪水がやってきた時、世界で唯一安全な場所がありました。 それは、神様が設計されたノアの箱舟です。 箱舟はどれだけ雨が降ったとしても水から、そして強い風の嵐から命を守ってくれるのでした。

●命を守る唯一の方法、それは神様が用意された箱舟(救い)に入ることです。
使徒4: 12 この人による以外に救はない。わたしたちを救いうる名は、これを別にしては、天下のだれにも与えられていないからである」。
山には色々な道があるけれど、すべて頂上につながる・・・本当に?
道のように見えて、実は谷底に落ちていく道もあるのではないですか?良い宗教と悪い宗教の違いは?どこからどこまでが・・・・ そうではないのです。救いはただひとり、イエス様です。
みなさんも経験があるかもしれませんが、救いはイエス様だけです!というとよく勘違いされます。「キリスト教は素晴らしい!」「他の宗教はだめ」 なんだか、そんな閉鎖的なものは好きではないですね。 それは、まるでこのノアの洪水の時のようです。 箱舟?なんでそんなものに入る必要があるんだ?雨が降ったら屋根に登るさ、あの高い丘だってある、もし大洪水があったとしても、あの高い山に登れば大丈夫! でも、どれだけ高い山に逃れたとしても、水はすべてを飲みこんでしまいました。 色々な宗教が救い?それは高い山のようです。どれだけ高いとしても、人を救うことはできないのです。
救いは好みで決めるものではありません。 神様からの唯一の方法です。世界でただ一つ。神様がつくりなさい、と言われた箱舟だけです。 人が考えた方法ではなく、神様が定めた方法でしか救われないのです。
それはイエス様の十字架ですね。箱舟に塗られたアスファルトはあがないと同じことばが使われています。 そして、嵐の風を、水を身代わりに受けてくださいました。
水・・・それは洗礼、バプテスマです。水の中を通って救われたからです。 私たちを救う世界でただ一つの方法、それはイエス様の十字架です。

●ノアの洪水のように、私たちを滅ぼす罪が世界を覆っています。 そして、私たちの人生最期の日がやってくるでしょう。洪水のようにすべてのものを終わりにしてしまう時がやってきます。
その時、私たちのすべてが終わるのでしょうか?
ピリピ3:20 しかし、わたしたちの国籍は天にある。そこから、救主、主イエス・キリストのこられるのを、わたしたちは待ち望んでいる。
私達には、この地上の生涯のあと、永遠の時間が約束されています。 その方法はイエス様だけです。 大切なことは、唯一の救いはイエス様だということです。神様は洪水を起こすのが目的ではなく、そこから救い出すことが目的なのです。
あなたは箱舟にのっていますか?

2.洪水の日・・・その日神様は箱舟の扉を閉められました。
:16 そのはいったものは、すべて肉なるものの雄と雌とであって、神が彼に命じられたようにはいった。そこで主は彼のうしろの戸を閉ざされた。
★終りの日。その時、神様は扉を閉められる★
でももう一つのことを知らなくてはなりません。それは洪水の日の前に起こった出来事です。
ノアと家族とは箱舟に入りました。そして動物たちも箱舟に入りました。 8人のノアの家族とすべての動物たちが箱舟に乗った時、神様が戸を閉められたのです。
入り口はたった一つだけ。その入り口を神様が閉めたのです。
もちろん外からも、そして中からも開けることはできません。
それは何を意味するのでしょう? それは洪水が終わるまで開けれられることのない扉です。
そう、命と死とをわける扉です。その扉を閉められたのです。 神様が救われる人と、そうでない滅びる人を分けられた瞬間なのです。
神様は、喜んで洪水を起こしたのでしょうか?けしてそうではありません。 神様はできることなら、すべての人に命を与えて生かしたいと願われているでしょう。
でも、その扉を閉めなければならない時が来るのです。
でも、神様は洪水のあといわれました。もう私はこんなことはしない!神から離れた人が罪を犯すのはあたりまえ、だから・・もっと違う方法で解決することを。
それが十字架です。
新しい、そして完全な箱舟です。今度はノアだけではなく、誰でも入ることができる救いです。 ただ、イエス様を救い主として信じるだけで、その扉の中に入ることができます。 その扉はいつでも開いています。
でも・・・・いつ閉じるかわからない扉でもあります。
マタイ24:35〜39 天地は滅びるであろう。しかしわたしの言葉は滅びることがない。:36 その日、その時は、だれも知らない。天の御使たちも、また子も知らない、ただ父だけが知っておられる。:37 人の子の現れるのも、ちょうどノアの時のようであろう。:38 すなわち、洪水の出る前、ノアが箱舟にはいる日まで、人々は食い、飲み、めとり、とつぎなどしていた。:39 そして洪水が襲ってきて、いっさいのものをさらって行くまで、彼らは気がつかなかった。人の子の現れるのも、そのようであろう。
この扉は、いつ閉じられるのかわからないのです。そして、私たちの力で開くことはできないのです。
あなたを救う箱舟があります。それがイエス様の十字架です。 その扉が開かれているうちに・・・・お祈りしましょう。



2003.11.9

「 箱舟からの出発 」

創世記8:14〜20
序)新しい出発 さて、新しいスタートはいろいろあります。
入学、進学、就職、転職・・・新しいスタート、それは期待があります。そして、夢があります。
新しいスタートは、また不安の時でもあります。 何もかも新しいわけですから。親しい友達とわかれて、知らない人たちのクラスになるかも知れませんね。また、進学・就職すれば、まったく新しい人間関係が生まれます。 新しいスタートは不安の時です。
ノアたちも新しいスタートの時です。 すべてのものが水に覆い尽くされてしまいました。ただノアの箱舟だけが、プカプカと浮かんでいます。その水は150日間世界を覆っていました。 でもその水もだんだんとひいていきます。そして乾いた土地が見えて来ました。
さあ!これからです。何もかもが新しいのです。すべてがここからはじまります。 新しいスタートです! 恐らく不安と期待が入り交じった感じだったでしょうね。
でも知ってください。どんな時も主は共におられます! たとえすべてのものが水で流され、すべてを失ってしまったとしても、イエス様はあなたと共におられます。

1.嵐の中での信頼
:15この時、神はノアに言われた、:16 「あなたは妻と、子らと、子らの妻たちと共に箱舟を出なさい。 神様はノアに語られました。
この洪水が起こってから神様が語られたのはいつですか?
何も語られていないのです。 箱舟の中で、嵐の中で・・・・それも何ヶ月もの間です。主は何も語られませんでした。
なぜでしょう?それは、はじめてのスタートにかかせないことを教えるためだったんじゃないでしょうか。
「主に信頼する」ということです。
1ペテ 2 : 6 聖書にこう書いてある、「見よ、わたしはシオンに、選ばれた尊い石、隅のかしら石を置く。それにより頼む者は、決して、失望に終ることがない」。
主に信頼する人は決して失望に終わることがありません。 何日も船で揺られて、自分ではどうすることもできない状態。でもそんな時も主は共におられる。私を愛されるお方だ・・・と。
たとえ主の言葉がなかったとしても!です。
主が語られるまで何もしないのでしょうか?信頼しても何もしない、ということではありません。
ノアはどうしましたか?鳥を放しました。そうです。今できることをするのです。神様はあなたにゆだねておられます。恐れないで、主に信頼して歩みましょう。
なぜ、イエス様を信頼できるのですか?
イエス様は私達のために十字架で命を捨てて、愛を示し、救いを与えて下さいました。この事実を知る時、信頼できると断言できるのではないでしょうか。 「今できることをする。」 なんで?と思うこともあるでしょう。 全てを今知る事はできないかも知れません。でも、全てをイエス様に委ねて今できることをするのなら、可能でしょう。
全てのことはやがて明らかになるからです。
詩篇37:5〜6 あなたの道を主にゆだねよ。主に信頼せよ、主はそれをなしとげ、あなたの義を光のように明らかにし、あなたの正しいことを真昼のように明らかにされる。
やがて、明かにされるでしょう!
☆大切なことは、私は主の道を歩いている!という自信を持って、あなたの足で歩くことです。 そんなあなたを、イエス様はいつも見守っていて下さるのです。アスファルトで覆われた箱舟で守られているように! 「不安の中でも、主に信頼し、主に全ての委ねて、今できることを行動しましょう。」

2.箱舟から出た時に
さあ、いよいよ箱舟からそとへ出る時がきました。
ノアは箱舟から出て、まず最初に何をしたでしょう?
:20ノアは主に祭壇を築いて、すべての清い獣と、すべての清い鳥とのうちから取って、燔祭を祭壇の上にささげた。
そうなんです。祭壇を築いて主を礼拝したのです。まず最初に・・・ 新しいスタートです。すべてのはじまりとなる大切な時です。その時、ノアは祭壇を築きました。 主に感謝し、ささげ、そして祈ったのです。 この後、聖書に出てくる人達はみな祭壇を築きました。それは、主とであった時、主の御声を聞いた時ですね。ノアも主の御声を聞きました。そして、祭壇を築いたのです。
私たちは、どうでしょう。今、神様の言葉、聖書が与えられています。だから、いつでも主の言葉を聞くことができます。だから、祭壇を築きましょう!
☆すべてのスタートに祭壇を築きましょう!主に信頼するからです。
詩篇115:9 イスラエルよ、主に信頼せよ。主は彼らの助け、また彼らの盾である。 ノアは箱舟の中で、主に信頼することを学びました。そしていつでもどんな時でも共におられることを知っていました。だから、まず最初に祭壇を築いたのです。 イエス様に頼らなければ、私は何もできないのだ!ということを知っているからです。 だからスタートに「私は主に信頼します」と。 別に石をつんで祭壇を築く必要はありません。主に心を向けて、「イエス様、感謝します!私にはイエス様が必要です!今日もあなたに信頼します!」と祈りましょう。 1分でも30秒でも、1日のまず最初に、祭壇を築きましょう! まず、できるところから、主に祭壇を築こうではないですか? かたちではないのですから。いえ、むしろイエス様は形だけの祭壇を喜ばれないでしょう。 心のない、立派な大理石の神殿よりも、落ちている石で作られた、こころからの祭壇を喜ばれるでしょう。 1日のはじめに祭壇を・・・と言いましたが、毎日主に祭壇を築いたから何かが劇的変わることはないかもしれません。 でも、確かなことは、あなたが主に信頼して1日を歩むことができるということです。 私にはイエス様が必要だ!とイエス様を意識して歩むことができるということです。 そして、イエス様が私たちを助け、盾となられることを知るでしょう!
詩篇115:9 イスラエルよ、主に信頼せよ。主は彼らの助け、また彼らの盾である。
○1日に、仕事に、人間関係に、家族に・・・・・すべてに主の祝福がありますように!

結論) 私達が今できることは何でしょうか。できることから始めましょう。
祭壇を築く事も始められるでしょう。
主に信頼し、主の前に祭壇を築いて、新しいスタートを毎日始めることは本当に幸いです。
祈りましょう。



2003.11.30

「神の御言葉が成る」

ルカ1:26-38
序) 暦では、今日からアドベント(待降節)です。イエス様のご降誕を待ち望む期間ですね。イエス様のご降誕の物語を通して教えられ、イエス様を待ち望んでいきたいですね。
さて、ここは有名な箇所ですね。マリアの受胎告知の箇所です。
この箇所から「神の御言葉が成る、成就する」ということを見ていきながら、クリスマスへの心の準備をしていきましょう。

1)ヨセフはダビデの家系だった。:27
「神は選ばれた人に御言葉(約束)を届けられる」
マリヤが地上でのイエス様の母となるわけですが、マリヤはヨセフの婚約者でした。ヨセフはダビデの家系であると書かれてあります。つまり、イエス様はダビデの家系にお生まれになるわけです。
これは、預言の成就でした。正に選ばれた人であったわけです。それによって神が約束を実行される方であることがわかります。 「神の召しと賜物は変わることはない」と聖書にあります。神様はいわれた事をなさる方です。
ヨセフとマリヤがなぜ選ばれたのか?
確かに神の前に謙遜な信仰者であったかもしれません。選ばれて当然のような人であったのかも知れません。 しかし、それ以上に神様はダビデの家系からキリストが生まれることを預言者を通して語っておられた。つまり、決めておられたからです。だからダビデの家系に属するヨセフとマリヤを選ばれたのです。 神の召しは変わらないのです。

2)御使がマリヤのところに来て言った。:28
「神は御言葉(約束)を必ず実行される」
マリヤに御使いを通して、御言葉が届けられました。でも、マリヤはどういう意味かわからなかったようです。
理解しがたい言葉が届けられる事もあります。また、本当に現実化するんだろうかと疑いたくなることもあります。
私達も御言葉が与えられたり示されたりしても、信じられないような時もあるかも知れません。また、その言葉が神様から来ているのか、自分の思いなのか、分からない時もあるでしょう。 でも、神様から来ているなら、ただ信じて自分が今できることをしているなら、それは神様が成就して下さいます。
ここが重要です。「神様が成就してくださる」のです。
なぜなら、神様に不可能はないからです(:37)
詳訳聖書には「神から出ることばで、実現の力のないものは一つもありません」とあります。
神様の言葉は実現する力あるものなのです。
ピリピ 2:13 あなたがたのうちに働きかけて、その願いを起させ、かつ実現に至らせるのは神であって、それは神のよしとされるところだからである。
自ら届けた御言葉を自ら実現して下さる神様を信じる人は幸いですね。

決)お言葉どおりこの身になりますように:38
マリヤは、言葉を受け入れ、この身になるようにと告白しました。
本当は不安もいっぱいあったと思います。でも、マリヤは神様からの言葉通りにこの身になるように、と言いました。
これは神様を信頼し、神様に委ねた姿だと思います。 神に選ばれ、神から言葉を受けたマリヤは神を信じ一切を委ねました。
神に選ばれた私達も、神様からの御言葉が与えられています。神様に信頼し、神様を信じましょう。その言葉を信じましょう。そして委ねましょう。 十字架で命をも与えて下さった主が私達の神様なのですから。。。
さあ、御言葉でクリスマスの心の準備をしていきましょう。



2003.12.14

「 内側から来る神への信頼 」

ルカ 2:1-7
序論) 今日も御言葉を通して、クリスマスに備えていきましょう。
イエス様が生まれる直前の数ヶ月の出来事を見て行きましょう。

1.イエス様が生まれる前にベツレヘムへ移動した。:1-5
ナザレからベツレヘムまで、直線にして110kmはある。その直線上は山地なので少なくとも120〜150kmはあったと思われます。時速4kmで1日8時間歩いたとしても3,4日はかかる。かなり過酷な旅だったでしょうね。
ミカ 5:2 しかしベツレヘム・エフラタよ、あなたはユダの氏族のうちで小さい者だが、イスラエルを治める者があなたのうちからわたしのために出る。その出るのは昔から、いにしえの日からである。
この預言がありましたから、イエス様はベツレヘムでお生まれになるはずでした。そして、ヨセフとマリヤははからずも人口調査の為にベツレヘムに移動することになったのです。
このことから、前回もお話したように、神様の言葉は必ず成就することを教えられます。
しつこいようですが、
●神様の御言葉は必ず成るんです。
人の預言は外れても神の預言は外れません。絶対なります。 私達はこの神の言葉を信頼し、より頼み、しっかりと受け止め握り続けたいですね。

2.イエス様は馬小屋で生まれた。:6-7
これは、ヨセフとマリヤが馬小屋に滞在していたことを意味します。
ヨセフとマリヤは、御使いから告げられて自分達の間に生まれてくる子は聖霊によるものであり、イスラエルを治める方であることを聞いていますから、自分達はその両親であるんだということですから、その自分達を馬小屋にしか泊めないなんて、なんて無礼な!という事もできたでしょう。他の客を馬小屋に追いやってでも客間に入れろということもできたかも知れません。
でも、そんな事を言わずに空いている馬小屋でもいいから…とそこに滞在しました。
ここで、
●神の御名の権威をやたら振りかざさない。
ことを教えられます。
出エ20:7 あなたは、あなたの神、主の名をみだりに唱えてはならない。
とあります。
私達が主の名を唱えるのは、どんな時でしょう。
祈りの時、悪魔に命じる時ですよね。 ましてや、未信者や信者に主の名を唱え、振りかざすことは神様が禁じておられます。 これは、ひとつめの話しとも関連してきますよね。
「聖書にこう書いてある。これはこういう意味(解釈)だから、あなたはこうしなくてはならない。これは主の御心であるし、主の命令だ。」なんて牧師や預言者などに言われたらどうでしょう。
「主がそう言っておられるのなら・・・」と従うことになってしまうでしょう。でも、本当にそうでしょうか。
預言をどう受け止めるべきか… 「聖書が第一。預言は励ましや慰めといった意味で受け止めるべき」だということです。
どんな素晴らしい預言があっても、聖書を越えるものではないのです。
どんな素晴らしいメッセージを聞いても聖書を越えるものではないのです。
どうですか。聖書の素晴らしさを再確認しましたね。イエス様はまさに御言葉が受肉したお方です。素晴らしいですね。
私達は、主の名、その権威によって、悪魔に命じたり自分に告白したり、祈ったりはしても、決して人にその権威をかざすような言動はしないように心掛けたいですね。

結論) 私はここを読んで全体的に感じたんですが、ヨセフとマリヤは決してその時の時代の流れに逆らっていないということです。
律法にも忠実で敬謙な神を信頼する人であったと思うのですが、その時の流れに逆らうようなことはしていないですよね。
身重にもかかわらず、人口調査の為に100km以上の距離をも移動し、身重にもかかわらず泊まるところがなくて馬小屋に滞在する事も拒否せずに。
ここに目に見えてはあまり見えなくても、内側にある神様への信頼の大きさ強さをみるような気がします。
その信仰が、神の言葉の成就にもつながり、主の御名をみだりに唱えたり振りかざしたりしない行動へとつなげていったのだと感じました。
私達も、目に見える事に振り回されずに、御言葉をしっかり握り、神様だけを信頼する信仰を強くしていただいて、マリヤとヨセフのようにしっかりした歩みをすることによって、神様の御業を見て行きたいと願います。
更にクリスマスに備えていきましょう。 祈りましょう。



2003.12.21

クリスマスメッセージ
「 キリストを迎えること 」

ルカ2:8-33
序論) メリークリスマス!
クリスマスは、キリストのご降誕をお祝いする日です。キリストの誕生を祝い喜ぶためにこの日はあります。

1.キリストを迎えることは最高に喜ばしいこと。:10-11
羊飼いが野宿をしているところへ、御使いが現れて告げたのです。 「すべての民に与えられる大きな喜びを、あなたがたに伝える。きょうダビデの町に、あなたがたのために救主がお生れになった。このかたこそ主なるキリストである。」
全ての民に与えられる大きな喜びなのです。
キリストを迎えることができるのは誰でしょう。
前回、馬小屋でお生まれになったことを話しましたが、そのことからもうひとつ教えられることがあります。
それは、「キリストはそのまま(ありのまま)の場所に来て下さる」ということです。
馬小屋で生まれられた。 馬小屋・・・決して清潔なところとは言えない。汚い場所と言えるところ。 そんなところに来て下さった。
馬小屋は汚い私の心をあらわしていると言えるでしょう。そんな汚いと思えるとこであっても、主は来て下さる。
その時々のありのままの、そのままの心に来て下さる、わたしたちが迎えるなら・・・。
その恵みを感謝し、主をお迎えするなら、主は来て下さって、御自身の御業をあらわして下さる。 これは本当に喜ばしい素晴らしいことですね。 今の私達のままで主をお迎えできるのです。清めてからお迎えするのではないのです。お迎えして清めていただけばいいのです。
では、キリストを迎えられるのは・・・そう、全ての人です。
キリストは馬小屋でお生まれになったように、汚いと思える人の心にも来て下さるのです。
こんな素晴らしい訪れはないですよね。
このような喜ばしいことを私達は知ることができ、体験することができるのがクリスマスです。

2.キリストを迎える時。:25-26
シメオンは、聖霊によってイエス様に出会うまでは死なないと示されていたようです。
実際、この時にイエス様に出会いました。これはすごい確率ですね。
イエス様が地上におられたのは、人類の歴史が始まって今日までの何千年ものあいだのわずか三十数年です。
その時に生きていることもすごいことですが、その中でイエスさまに実際に出会うのはすごい確率ですよね。
シメオンの喜びは本当におおきなものだったでしょう。私達では想像できないほどだったかも知れません。

キリストに出会う、キリストを迎える、ということは本当に大きな喜びです。
私達は、聖書を通してキリストを知ることができ、キリストを迎えることができることを思うとき、本当に感謝なことです。
大学の天文学科を卒業し、SF作家になった中原涼さんの「本物のサンタクロース」という短いお話がある(地人書館「笑う宇宙」所収)
話しは、「ねえ、パパなんでしょう?」と、サンタに尋ねる少年の言葉で始まる。彼は眠らずに待っていた。 サンタは、無言で首を振り、今はだれもサンタを信じやしない、これも教育のせいなのか、と嘆く。 少年には、みんなが眠っていてくれた方が仕事はしやすいし、こうやって話していたら、みんなに贈り物を届ける時間がなくってしまうんだ、と説く。 やがて、少年がつくった特大の靴下に、特別に大きなものをあげるよ、と言って、戦車のプラモデルを入れた。 少年がサンタをなお信じないので、わざわざ壁を通り抜けて外にでた。雪だった。 サンタはソリに乗って「しまった…」と思う。雪に隠れかけた表札には、孤児院とあった。 意外な結末の読み方は、人さまざまだろう。例えば、少年の立場では一番欲しいものはもらえず、 サンタの立場では、一番欲しいものがあげられなかった。ともに悔恨ではあるが、それは持ち続ける希望の言い換えでもあるだろう。 一番つまらない読み方とは、サンタなどいないという立場からだろう。読み進めていくうちに、見事に肩透かしをくらう。 サンタという空想力こそは、サンタから人への最高の贈り物なのかもしれない。(2001.12.24中日新聞朝刊「中日春秋」より)

サンタクロースは年に1回しか来ないかも知れないし、来れないかも知れない。
でも、イエスキリストは毎日、いつでも来て下さる私達がお迎えするなら来て下さる。
地上で肉体を持ったキリストには私達は会えない、2000年前にタイムスリップでもしなければ・・・。
でも、2000年前にその肉体を持ったキリストが十字架に架かって私達の罪を背負って死んで下さり、葬られ三日目によみがえって、今、聖霊としていつでも来て下さるイエスキリスト。この方はありのままの私達にであって下さる。
クリスマスだから、イエスキリストを迎える。素晴らしいこと。
でも、年がら年中いつでもキリストをお迎えしたいと願う。そのとき、キリストは私達の中に素晴らしいことをして下さるでしょう。 祈りましょう。

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