本日の聖書箇所解説 2017年

日曜日ごとのメッセージの概略です

2017.3.26 彼から、そして彼を通して、
       そして彼の中にすべてが
ローマ11:6-36

今日の箇所では、神の民であるはずのイスラエルがその違反、失敗、罪のゆえにその豊かな特権を失った理由、目的が書かれている(7-10)。しかし、人間から見れば、はなはだ残念なことを通して、神は豊かな富を生み出すことがおできになる(11-15)

愛・義・聖そのものの神が支配しているので、何が起ころうと、私たちが神を求め、信頼するなら、「神の聖」が実現する(16)
「神の聖」、それは神があわれみと恵みに満ちて、私たちをあるがままに受け入れてくださり、罪と汚れを捨てることができるように新しく変えてくださる保障である。参考:民数記20:1-13

高ぶりを警戒するように。神のいつくしみと厳しさを覚えるように。神に信頼しているかどうかを吟味するように。私たちが神を正しく知るならば、神は何があっても信頼したくなる方(17-24)

イスラエル (「神と人」とに向き合い続け切る者) の救いが確約されている(25-27)。変わらぬ神の愛(召命)をただいただこう(28,29)

不従順の者をあわれむ方(30-32)。恵みが恵みであるために。行いによらず、神への信頼によって助かる(6)。何と底知れず深い神の知恵と知識との富(33)。人間の目に見える限界を越える方。

人知を越えた方。神を神として畏れ敬い、人が人であることをわきまえる必要がある(3435)
「 彼から、そして彼を通して、そして彼の中へ、すべてのすべてが 」この神に栄光が永遠にあるように(36) コロサイ3:11

イエスの別名:「 不思議な助言者 」、「 力ある神 」、「 永遠の父 」、「 平和の君 」、人間にとって不思議な助言をくださる方 ( イザヤ9:6 )。万軍の主 ( ヤハウェ ) のねたむごとくの熱き心が、すべてのことを成し遂げてくださる (イザヤ9:7)。このお方と日々深く交わり、一つ霊になり、一体となろう。コリントⅠ 6:17


2017.3.19 肉の呼吸と御霊の呼吸の違い ローマ8:6

ローマ86節 「 肉の思いは死であり、御霊による思いはいのちと平安です。 」 「 思い 」は、心の中に持つ意向、志向、常に心にかけている、常に考え続けている事柄。
通常、文脈によっては「 心 」と訳されることが多く、語源的には「 横隔膜 」を指す単語が使われている。「 横隔膜 」は呼吸に極めて関係のある器官。それゆえ、ローマ8:6を、「 肉の呼吸は死であり、御霊による呼吸はいのちと平安です。 」と置き換えて見るなら、たくさんの重要な示唆をいただける。

「 肉の呼吸 」、いわゆる呼吸。二酸化炭素をはいて、酸素を吸う。これが正常にできなければ、病むことになり、この呼吸が止まると死に至る。しかし、聖書が「 肉 」というとき、それは肉体を意味するだけではなく、「 人のいのちである神を中心にしないあり方、生き方をさす 」ことが多い。87「肉の思いは神に対して反抗する…。」 主イエスのことば、「 いのちを与えるのは ( ) 霊です。肉は何の益ももたらしません。わたしがあなたがたに話したことばは、霊であり、またいのちです。 」ヨハネ6:63 。肉の呼吸はやがて必ず終わりがくる。その行きつく先は死である。

「 御霊の呼吸 」は、心の中の的外れに気づき、それを外にはいて注ぎ出し、空っぽになった空しい心に神の霊()を求め続けて、吸うこと。私たちのいのちそのものの神を中心にして生かされること。絶えず、「イエスよ、イエスよ、教えてください。導いてください。」と祈り求め続けて、助けていただくこと。その行きつく先は、たとえ死んでも生かされるいのち。それゆえの平安・平和。自分の無力に気づき、そこでこそいただける聖霊をひたすら求め続けよう。肉の思いの空しさに気づいた者が主に信頼する時、「 いのちと平安を与えられる神の霊 」が無条件で吹き込まれる。神の「 息 」の「 子 」。神の「 息子 」にならせていただける。


2017.3.12 聖霊(神ご自身そのもの)を求め続ける ルカ10:25-11:13

① 今日の箇所は、大きく3つに分かれる。
 (1) 10:25-37  (2) 10:38-42  (3) 11:1-13

 (1) 10:25-37:良きサマリヤ人の話:「 何をしたら永遠のいのちを自分のものとして受けることができるか(25) 」という究極の問い。答えは「 自分の全身全霊で神を愛する 」ことと、「 隣人を自分自身のように愛する 」ことを実行すること(27-28)。そして、良きサマリヤ人の話が語られ、「 あなたも行って同じようにしなさい 」とイエスは答えられた(37)。社会正義の実践、隣人愛の実践のための大事な教えとされる。特に社会派、リベラル派の方々がこれを大事にしている。

 (2) 10:38-42:マルタとマリヤの話:イエスのことばに聴き入るマリヤと、イエスのもてなしで心騒がせ、妹の態度に苛立ち、「何ともお思いにならないのですか(40)」とイエスに詰め寄るマルタ。「あなたはいろいろなことを心配して、気を使っています。しかし、どうしても必要なことはわずかです。いや一つだけです。マリヤはその良いほうを選んだのです。彼女からそれを取り上げてはいけません。(4142)」ただ一つの必要なこと。イエスのことばに聴き入ること。特に聖書信仰、福音派の方々がこれを大事にしている。

 (3) 11:1-13:主の祈りと祈りの基本姿勢。「 求め続けてやめない。 」必ず、与えられる。では、求めて何が与えられるのか。同じように書かれているマタイ7:11では「よいもの」。そして、ルカ11:13では「聖霊」。「神の混じりけのない聖い霊、神ご自身そのもの」が与えられるという驚くべき宣言がここにある。特に聖霊派、ペンテコステ派の方々がこれを大事にしている。

②各派が特に大事にしているものがある。しかし、(1)-(3)はつながった一つのもの。それゆえ「神ご自身そのもの」を求め続けよう。


2017.3.5 二つの極端からのがれる(出ていく)道 伝道者の書7:1-22

    7:16-18 の直訳的私訳「 16あなたは過ぎて正しくあってはならない、また、あなたは自分に ( 有利に ) 都合よく賢くあってはならない、なぜ、あなたはあなた自身を滅ぼすのか。17あなたは過ぎて悪くあってはならない、また、あなたは愚かであってはならない、あなたの時が来ていないのになぜあなたは死ぬのか。18 あなたは ( まず片手で ) 一つをつかみ、しかし、もう一つもあなたの( もう一方の )片手からあなたは放さない、それが良い ( のだ )、神を恐れる者は、それらのすべて ( の極端 ) を避け ( て、脱出 < 逃亡 > して、自由であ ) るから。 」  ●注:原語のヘブライ語では「愚かさ」の場合だけは「過ぎる」と言う表現がされていない。

    せっかく正しいのに、「 過ぎる 」、「 過ち 」。美味しい料理の味付けのように、必要でも、正しくても、「 過ぎたら 」、過ちである。味付けが行き過ぎたら美味しい料理は台無しになるのに似ている。また、せっかく賢いのに、自分に有利な好都合を真っ先に考えているなら、愚かである。それは自分自身を滅ぼすことになる。「 正し過ぎる 」ことと、「自分に有利な好都合をまず優先する」こと避けて、脱出 ( 逃亡 ) して、自由になろう。神に喜ばれる道を選ぶと、人はすべての恐れと不安から解放され、自由になれる。人間が本当に喜び合うことができる自由をいただける。

    神ではない人間なので、間違うことがあり、誤ることがある。過つことがあり、悪くなることがある。でも、「 過ぎて悪くあってはならない。 」、そして単純に「 愚かであってはならない。 」 そうでないと神様が用意してくださっている( 永遠の命の入口となる )最善の死、感謝の死が来る前に死ぬことになる。

    まず神を恐れて、好ましい一つを片手でつかみ、その正反対に見える、つらく感じるかもしれないもう一つをも、もう一方の片手につかみ、すべての両極端から解放され、祝されよう。


2017.2.26 神の国はことばにはなく、力にある Ⅰコリント4:14-21

     6-13節までに、神の家族ならではの率直な思いが直接的に語られた。それは一歩間違えば誤解を生じる可能性があるほどに真剣な愛のことばであった。パウロは6-13節を書いた真意が誤解されないように、14節で心を込めて書いた。「恥をかかせるため、はずかしめるため」ではなく、「愛する自分の子としてさとすため」であった(14)。愛の警告、愛の訓戒、愛の勧告。

     産みの父親として、愛しているからこそ、厳しいことを言っているのだと15節で宣言した。

     「 だから、( キリストにならっている )私にならいなさい。 」と大胆に16節で語った。「おやじの背中」をパウロが真剣に生かされてつくり、その背中を見るようにと導いている。私たちも同じように導かれている。そして、次の方々に自分の背中をみていただく。その背中は「あわれみの見本」としての背中。自己主張の威張る背中ではない。13節の「ちり」、「かす」としての自覚をもつ背中。神はその自覚を軽んじず、あえてその者を選ぶ。キリストの「十字架の贖い」による無条件の罪の赦しときよめによって生かされている背中をパウロは見せ続けた。

     「キリスト・イエスにあり、( キリスト・イエスに結ばれた ) 私の生き方 ( <複数形> ) 」を思い起こすように。キリストと一体とされる道を歩むように(17)。そのためにテモテが遣わされた。

     思い上がらないように、のぼせ上らないように、高ぶらないように。 力のないことばで生きてしまわないように(19)

     いのちあることばには力がある。神の国(支配)、愛の支配は「単なることば」ではなく、「神の力」のあらわれである(20)

    「十字架のことば」、「キリスト」が神の力である。(118,24)

    真剣な本物の愛は、必要に応じて愛の鞭と慰めの杖を使う(21)。教育の鞭と杖が愛の目的のためだけに使われますように。


2017.2.19 ののしられるときに慰めのことばを Ⅰコリント4:6-13

     私たちは神の絶対主権を認め、「 自分の分 」を慎み深くわきまえることが必要である。神は、へりくだる者に必ず恵みを与え、キリストのからだの一部として、神の手足として尊く用い、輝かせてくださる。しかし、コリントの人々の中には、自分の分をわきまえず、その知識や経験の豊富さから、ふくれあがり、のぼせあがり、高ぶる者がいた。「 私はパウロにつく」、「 私はアポロにつく 」、「 私はケパに」と人に注目して、お気に入りのグループをつくり、主にある一致を妨げていた。与えられた恵みと自由を自己主張のために用いるのでなく、神の栄光のため、すなわち教会の兄弟姉妹と愛の連携をするために用いるようにとの勧め。「 一人を持ち上げて、ほかの一人をないがしろにすることのないように 」との愛の警告が6節にある。

     自分が持っている素晴らいし賜物は、神が与えてくださったものであることをわきまえ、神のため、隣人のために使うとき、その賜物が生かされ、その本領が発揮される(7)

     自己満足やぬか喜びが8節で戒められている。驚くべき神の恵みをわがままの道具にせず、神と隣人のために用いよう。

     使徒の立場の厳粛な描写(9)。神の恵みによって厳しい現実をも、喜びと感謝をもって生きられるように召されている。神の恵みはそれほどすばらしい。栄光は人にではなく神に帰す。

     自己満足やぬか喜びとの違い(10)、大変厳しい現実(11)、その現実の中でも活き活きと生かしてくださる神の力で、苦労して自分の手で働き、祝福と忍耐と慰めがあふれる。仕返しをすることから解放され(12)、神から圧倒的に赦されている喜びによって、赦しにくい隣人を赦し、慰めることを実践できる(13)

     「 くず 」のような、「 かす 」のような自覚のある者にこそ与えられる神の恵みに生かされ、神の愛で互いに愛し合おう。


2017.2.12 神から各人に称賛が届く Ⅰコリント4:1-5

    321節で、「だれも人間を誇らないように。すべては、あなたがたのもの。」と言われ、続く22節で、繰り返し 「すべてはあなたがたのもの。」と宣言された。そして、23節で、「あなたがたはキリストのものであり、キリストは神のもの。」と明言された。この本来の私たちの立場を感謝して認識すべきである。

    1節、「 こういうわけで 」、福音を伝える者は「 キリストのしもべ ( 船の一番下で櫓 < > をこぐもの。転じて、従属者、仕える者、助手 ) 」であり、「 神の奥義 ( ミステリー ) の管理者 ( 全権を委ねられた執事 ) 」と見なされるようにとの勧め(1)。キリスト者は人の目にではなく、キリストの目、神の目にかなう歩みが求められる。

    教会の本来あるべき姿はキリストの主権、支配、意志が中心とされキリストに仕える群れである。そのために、福音を伝える者には信頼に耐える忠実なものであることが求められる(2)

    人の目や人の判断ではなく、神の目に信頼に耐える忠実さが大事。「 自分で自分をさばくことさえしない。」「忠実」かどうかの判断の主体が人間には全くないことをパウロは徹底的に主張した(3)愛・義・聖なる方である主が最終判断をされる(4)

    「先走ったさばきをしないように。」主は、「隠れたこと 」、「心の中のはかりごと」を明るみに出し、明らかにされるから(5)。「そのとき、神から各人に対する称賛が届く(5)。」神は見ていてくださる。人から評価されないこと、見た目に結果がでないことであっても、神は心の奥を見られる。表面だけではなく、心の奥底に何があるか。そこが問われる時が来る。表面的に難しいことが多くても、心の奥底を天の御父が見ていてくださる。それゆえ、まず心の奥底のまとはずれ ( ) を認め、キリストの十字架による赦しにすがろう。神の厳正な裁きが行われる日に各人に称賛おほめのことばを必ずいただけるから。


2017.2.5 イエスに似ることを共にめざして
 福田 崇 師(ウイクリフ宣教師)
Ⅰテモテ6:3-16 と 3:1-16

◎聖書と聖霊に導かれる2017年であるように私は祈っています。そして私たちは、個人としても教会としても、団体としても識別し、善いことと悪いことを判断することを越えて、善いことのなかで、よりよいこと、神の御旨に一致することを選び取っていくのです。

◎「満ち足りる心を伴う敬虔」(6:6
 「正しさ、敬虔、信仰、愛、忍耐、柔和を熱心に求めなさい。」  (6:11)と積極的に、肯定的に勧める。「むしろ、敬虔のために自分を鍛錬しなさい。」(4:7
 パウロは、テモテにあるべき姿、歩むべき姿を教えている。神の国に生きる私たちですが、まだ完全にそこに到達していない。この世におかれている。
 「信仰の戦いを勇敢に戦い、永遠のいのちを獲得しなさい。」6:12
 「まことのいのちを得るために、未来に備えて良い基礎を自分自身のために築き上げるように。」6:19
 すでに永遠のいのちを与えられているテモテへの勧告である。

◎「敬虔」が鍵の言葉:祈りを勧めたパウロ。それは「私たちが敬虔に」(2:2)生きるため。敬虔ということばは、マスコミでクリスチャンに対する修飾語として用いられる。その場合には、「礼拝に出ている」「悪いことをしない」などのイメージ。元々の意味は、神を神として生きる、神の前に生きるという意味。

◎共同体の中で育まれる:
 1テモテ3:1-16に監督と執事のことが述べられています。家庭を治めなさい。

◎これは人間関係の原則であると思います。夫婦であっても、親子であっても、牧師と信徒であっても。管理するのではありません。何が何でも言うことをきかせるのではありません。家庭でも教会でも団体でも、お金、性、権力の誤った用い方がおきますが、一番見えにくく、しかし存在しているのはパワハラではないでしょうか。

 本当にイエスは、私の家庭、小グループ、団体、教会の主となっているでしょうか。


2017.1.29 仕える心
 横浜キリスト福音教会 中上 勝雄 師
エペソ6:5-9

クリスチャンは頭の中で「 人は皆が平等の価値であり対等だ 」と知りながらも、この世で生きるためには社会で上下関係の中に置かれる。雇用者・被雇用者、上司・部下、先輩・後輩、客・販売者等といった関係の中で生活しているならば、神が自分を置かれた立場を理解し、その場で仕える心を持つことが必要である。

人類の歴史において最も露骨な上下関係の一つが、「 主人と奴隷 」である。1世紀当時のローマ世界では、非常に多くの奴隷が、それぞれ様々な労働環境で働いていた。奴隷にとっては、より良い待遇で自分を扱ってくれる主人、そして人格者の主人 ( さらには模範的なクリスチャン ) であるならば、喜んで仕えることができるだろう。しかし必ずしもそうではなく、むしろその逆の場合が多い。だが生きるためにはそこで仕えなければならない。そのため、どうしても「 人のごきげんとりのような、うわべだけの仕え方 」になってしまう。

自分にとって好ましい待遇や上司 ( 顧客 ) の下でなければ、心から仕えることができないのが人の性 ( さが ) である。しかしキリストのしもべであるクリスチャンは、「 人にではなく、主に仕えるように、善意をもって仕える心 」を持つことが命じられている。日本語で仕事とは「 仕える事 」と書くが、生活のための労働もたとえどのような内容の仕事であってもクリスチャンにとっては主に仕える事という奉仕になるのだ。神に誠実な者は、自ずと人に対しても誠実になる。たとえ金銭的な報いや評価が主人から与えられなくても、神が心をご覧になりその誠実さに必ず報いられる

また、主人 ( 上に立つ者 ) の立場に対しても、神を恐れ、奴隷 ( 自分の下で仕える者 ) に誠実に接することが命じられている。神の前には社会的立場など無意味であるから、心の姿勢は奴隷と同じだ。むしろこの世で多くを任されている分、神から多くを要求される。神の似姿 ( にすがた ) に創造された存在を大切に扱う意識が必要である。


2017.1.22 天にたくわえられている望み コロサイ1:1-8(3回目 5節以降に注目)

      パウロは、1,2節でこころのこもった「恵みと平安」の挨拶を終え、3節で神への感謝をまずささげた。その感謝の理由が4節に書かれていた。コロサイの人々の「キリスト・イエスへの信頼」と「そこからあふれる隣人への愛」のことを聞いたからであった。

     開口一番、パウロに感謝をささげさせたコロサイの人々のこの姿は、何が源になっているのか。それが、5節。「キリストへの信頼」と「 隣人への愛 」が「 天にたくわえられてある希望 」に基づくものであった。この希望は福音という真理 ( キリスト ) のことば ( 神のことば、キリスト ) の中で聞くことのできるものである(5)

     6節の脚注の訳。 「 この福音は、あなたがたに届いているものです。福音は世界中で実を結び成長しているように、あなたがたの間でも見られる通りの勢いをもって、あなたがたが神の恵みを聞き、それをほんとうに理解したとき以来そうなのです。 」

     まず「 神の恵み 」を聴くそしてそれを「 本当に理解する 」。「 本当に 」は「 真理の中で 」と読みうることば。「 真理の中 」、「キリストの中」で「十分に知る」とき「実を結び広がり続ける」

     この福音は「忠実なキリストの仕え人」であるエパフラスがコロサイの人々に教えたものであった(7)

     「自分の力」による愛ではなく、「神の力」であるキリスト、「神の御霊」によるコロサイの人々の愛をエパフラスはパウロに伝え(8)、パウロはそれを神に感謝した(3)

     私たちはどこから来て、どこへ行くのかをわきまえたい。人はいつか必ず死ぬが、「キリストに信頼し、御霊の力で隣人への愛をあふれさせる者」を、神は天に迎えてくださる。神(愛・義・聖)の統治が完全に行われるところ。すべての困難、苦難を乗り越えさせてくれる希望。刻一刻と近づく、神(愛・義・聖)の完全な支配の国の一員とされる希望この希望に絶えず目をくぎ付けにしよう


2017.1.15 キリスト・イエスへの信頼と隣人への愛 コロサイ1:1-8(2回目 3,4節に注目)

現在のトルコの地域にあるコロサイ、かつては繁栄したが、その後は衰退して復興を目指してもがいていたと思われる地域。厳しい現実に向き合い、なんとかその困難を打破し、再び活気を取り戻そうとあれやこれやと努力と工夫を日々積み重ねていたことが推察される。ある意味で、人間として魅力的で、大変すばらしい生き方、活き活きと真剣に日々を歩んでいたようである。しかし、その一生懸命の素晴らしい生き方により、一つの大きな勘違いに囚 ( とら ) われ易 ( やす ) かったようである。それは、いつのまにかに、自分の努力や、意志や決断で事態を切り開けると思い込みがちであったことが「 コロサイ人の手紙 」の全体から推測される。

「 今を生きる 」とは、本来、この世界の始まりに何があったかを知ることから始まる。それが15-17節に宣言されている。また、「 今を生きる 」とは、本来、私たちが死んだ後はどうなるのか、どこへ行くのかを知ることから始まる。コロサイ31-4節。この世の始まる前とこの世の終わりに何があるかを知ることができた時、初めて「 今( 永遠 )を生きる 」ことができるというのが聖書の教えである。

コロサイの人々はこのことに関して大きな勘違いをしていたようである。克己心の限界。外側だけの限界。コロサイ220-23節。

けれども、今日の3節はそんなコロサイの教会のためにいつも祈っているパウロが、1,2節で心のこもった挨拶を終えた後、3節の冒頭で開口一番コロサイの人々のことに思いを寄せて、「私たちは(私たちの主イエス・キリストの父なる)神に感謝しています。」と明言した。

コロサイの人々の特徴として、まず「キリスト・イエスに信頼」し、「すべての聖徒に対して愛を持った」ことが4節に挙げられている。

このすばらしい特徴が、実質のあるものとなるように、コロサイ人への手紙が書かれた。「主を信頼するとは」、神の壮大な愛の計画に安心すること。それはあふれて「隣人を愛する」姿勢で確かめられる。


2017.1.8 恵みと平安があなたがたの上に コロサイ1:1-8(1回目 1,2節に注目)

神のみこころ、意思と計画によって、神から全権大使として遣わされたパウロとその弟子、主にある兄弟であるテモテからの手紙(1)

コロサイは現在のトルコの地域にあり、エペソから東へ約160キロの地域。かつては繁栄したが、その後は衰退して復興を目指してもがいていたと思われる地域。このコロサイにある教会、神を信頼し、キリストに信頼することを決意している人たちへ宛てられた手紙。

パウロが書いたたくさんの手紙の冒頭に書かれた挨拶は、一つの決まり文句のごとく書かれているが、単なる中身のない決まり文句ではなく、パウロの信仰の告白として、実質の意味を込めて書かれている。似たような挨拶に見えても、少しずつ表現が違っており、そのことばの一つ一つに一度立ち止まって考え、味わい、力をいただける特権を失わないようにしたい(2)。「恵みと平安があなたがたの上にありますように。」は、「恵みがあなたがたに、平安も、私たちの父なる神から。」という風に書かれている。「恵みと平安」は切り離せない1セットのようなことば。日本人の名前として「恵」さんは、実に多い。たくさんのすばらしい「恵」さんがいる。けれども「平安」さんは、いないようである。「平安」さんと言う名前の人と私はまだ出会ってはいない。「恵」はあるけれど、「平安」はない。単なる偶然か、日本の文化のゆえかはわからないが、興味深いこと。

「恵みと平安」は本来切り離せない。自分には資格がないと思える者が求め続けて想い続けてうめき続けて神から必ず与えられるのが「恵み」。この「恵み」があまりにすばらしいので、その恵みには必ず「平安」が伴う。そして、私たちにとって「何よりの恵み」はキリスト・イエスの存在自体。「イエス・キリストが恵み」である。そして、エペソ2:14キリストこそ私たちの平安(平和)」。キリストそのものである「恵みと平安」をセットでいただこう。「資格のなさ」、と「不安」のど真ん中で「イエスさま助けて」と信頼して祈ろう。


2017.1.1 キリストに根を下ろす
 新年感謝礼拝
コロサイ2:1-7

パウロはコロサイの群れとまだ直接会ったことのない多くの人々のために激しい苦闘・努力をしていた(1)。それは、恵みの福音が伝えられることによって彼らの心が励まされるため。愛によって結び合わされるため。批判力のある理解により徹底的な確信の全き豊かさに導かれるため。神の秘められた計画であり奥義 ( ミステリー ) であるキリストを真に、厳密に正確に知ってもらうためであった(2)

このキリストの中に、知恵と知識との宝がすべて隠されている(3)。キリストを知ることにより、神によって隠されてある知恵と知識を発見できる。キリストを真に知るということは、どんな時でもともにいてくださる慈しみ深いキリストと深く交わること。神のことば、聖書に聴き入り、心の奥底の思いを神の前に注ぎ出す祈りをし、神の恵みにあふれた答えに耳を傾ける祈りを日々し続けること。

それは、すべての知恵と知識の宝がギッシリ詰まっているキリストを後回しにさせるまことしやかな巧みな議論にだまされないようにするためであった。私たち人間の罪 ( まとはずれ ) の深刻さから目をそらせるような考え。その深刻な罪を人間の意志や決断、努力で解決できるかのように私たちを鼓舞するような考え。キリストの「十字架の贖い」の驚くべき力に注目させず、神を見つめず、自分を見つめる優越感や劣等感に導く考え方を警戒するように。(4)

コロサイの群れにある神が定められた秩序と、キリストへの信頼への堅さ ( ステレオ:立体的にしっかりぐらつかない ) をパウロは見て、喜んだ(5)

キリストをあなたの側 ( かたわら ) に、心の中に迎えたのだから、キリストの中でキリストにしっかり結ばれて歩むように(6)。キリストの中に根を下ろし、キリストを土台として新しく創り上げられ、教えられたとおりに信仰の一歩、また一歩を進め、すでに与えられている感謝に気づき、あふれさせるように(7)。 「聖霊様私の心の奥底に住み続けてくださり私がそれを知ることができますように。」




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