本日の宣教聖書箇所 解説  2016年

日曜日ごとのメッセージの概略です

2016.12.25 神の側(かたわら)で、恵みを発見する
 クリスマス礼拝・年末感謝礼拝
ルカ1:26-38

受胎告知と言われるクリスマスの箇所。ラテン語では 「 アベ マリア 」として有名である。28節の「 おめでとう 」は、「 喜びなさい 」と訳せることば。資格のない者に与えられるすばらしいプレゼントをマリヤはいただいた。「 喜びなさい。主がともにいてくださるから 」という恵み。突然のことに戸惑い、考え込んだマリヤ(29)30節は、そのマリヤへの御使いのことば。「こわがることはない。マリヤ。あなたは神から恵みを受けたのです。 」

「 あなたは神から恵みを受けた 」は「 神の側 <かたわら> で、恵みをあなたは発見した 」と訳すこともできる。このあとすぐにマリヤは受胎告知をされて(31-33)、とまどい、驚き、信じられない思いにあふれる(34)。にもかかわらず、「 恵みをこれから発見する 」のではなく、「 神の側<かたわら>で、恵みをすでに発見した 」との宣言。神がマリヤを選び、マリヤから救い主イエスを誕生させることを決めていた( イザヤ7:14 )。それはマリヤには「どうしてそのようなことになりえましょう(34)。」という、信じられない不思議なことだった。

真実な疑問を覚えるマリヤの問いに、御使いが答える。「 聖霊 ( 混じりけの無い神ご自身の霊 ) があなたに臨む。(35,36) 聖霊がカギ

「 神にとって不可能なことは一つもないから(37)。 」は、「 すべて ( 単数形 ) のこと ( 言葉 < 単数形 > ) は、神の側 <かたわら> から発し、不可能ではないから 」(34)。 マリヤはへりくだって、「 主のはしため ( 女奴隷 ) 」と自ら名乗り、「神のことば」を信じ受け入れた(38)

神の側 <かたわら> に恵みがあり、人の知恵ではありえないことを、神の恵みとしてなしてくださる。私たちも信じるなら、神の側でいつも恵みを見出し、発見し、神の計画と宣言の「神のことば」に不可能がないことを知ることができる。不可能を可能にする「神のことば」をへりくだって聴き入るクリスマスであり続けますように。


2016.12.24 恵み、それは主があなたとともにおられること
 クリスマスイブ礼拝
ルカ1:28

  今日の28節は「アベ マリア」というラテン語で有名な箇所。「おめでとう、マリア」という意味。28節に「おめでとう」と訳されているギリシャ語は、文脈によっては、「よろこべ」、「ご機嫌よう」という意味になる。

  「恵まれた方」は「無償で与えられた方」、「寛大に赦された方」と言い換えることもできることば。何が恵みなのか。恵み、それは「主があなたとともにおられること」。聖霊によって処女のマリアがその胎に宿した子、イエスの別名は「インマヌエル」(神は私たちと共におられる) であった。

  私たちとともにおられる神はどんなお方か。私たちは自分のイメージの神を考えがちであるが、神ご自身が、聖書で語られている神を知る必要がある。

  聖書で語られている神は、「私たちが喜んですべてのものをお捧げしたくなるお方」、「人知をはるかに越えた愛、人が思いつかない愛で愛してくださるお方」、「シミや汚れの何ひとつない聖なるお方」、「悪を野放しにされることのないお方」。

  この方の前では、人はそのまとはずれな思いゆえに神の正当な怒りを受けても文句をいえない。「すべきことができず」、「してはならないことをしてしまう」本来は罰を受けなければならない存在。

  この神の正当な怒りと罰から解放するために、イエスキリストが生まれてくださった。「十字架」によって、神の正当な怒りと神からの罰を処理し、復活によって、神からの赦しと愛のみをいただけるように手はずがととのえられた。これが「十字架の贖い」

  私たちは、ただこの「十字架の贖い」を自分のこととして受け取れば良い。神からの罰、怒りは取り除かれ、あなたに起こるすべてのことは、災いではなく、すべて束ねて益となるようにされている。あなたは「まとはずれ」の生き方から解放され、「まとをえた」生き方へと導かれる。神があなたの相談相手となり、味方となってくださり、神があなたと一つとなってくださる。そのことの明確な目に見えるスタートがクリスマス。イエスと相談しながら生きよう。


2016.12.18 失敗した人を捜して救うために来た方
 第四アドベント
ルカ9:1-10


クリスマス。イエス・キリストの誕生記念日。主イエスは何のために生まれてくださったのか。10節に答えがある。
 「 人の子は、失われた人を捜して救うために来たのです。」

「失われた人」は、新共同訳では、「失われたもの」と訳されている。「人」より「もの」と訳すことができることば。「人」なのに「もの」のように扱われる時がある。そんな「もの」扱いされるような「人」をこそ、主イエスは、愛をこめて捜し出して救ってくださる。
 「 医者を必要とするのは丈夫な者ではなく、病人です。わたしは正しい人を招くためではなく、罪人を招いて、悔い改めさせるために来たのです。 」ルカ531,32

「失われた人」、「救うことに失敗された人」、「救い難い」と人が決めつけたくなる者。イエスは、その人をこそ救うために来てくださった。それがクリスマス。

5節のザアカイへの主イエスのことばを、自分へのことばとして受け入れよう。高いところに登って、高ぶり、落ちそうになっている私たちに今、主イエスは、呼びかけてくださっている。
 「 急いで降りて来なさい。きょうは、あなたの家に泊まることにしてあるから 」。「きょうは」、それは「永遠」を意味する。

「あなたの家に泊まることにしてあるから」のギリシャ語の直訳は「あなたの家の中にわたしは居続けなければならないから」となる。

 主イエスは、罪深い、厄介な私たちの中に、「わたしは、あなたがたの中に居続けなければならないから。」と熱い愛で呼びかけてくださる方。クリスマスはこのお方の誕生記念日。感謝し大いに祝おう。


2016.12.11 私の不信仰を助けに来てください
 第三アドベント
マルコ9:14-29

クリスマスの主役であるイエス・キリストはどんな方か。

悪い霊を追い出すことのできる方。ここでは「口をきけなくする霊」、「耳を聞こえなくする霊」がイエスの権威によって追放される。

イエスの弟子たちは、本来、悪い霊を追い出すことができる権威をイエスから与えられていたが、今回はそれができなかった(18)

19節のイエスの嘆きに心をとめよう。学者の傲慢、群衆の刺激を求める好奇心、弟子たちのうぬぼれなどなど。深刻な病に苦しむ人を前にして、神に信頼して祈るよりも議論を好み、自分の正当化にこだわる者。神を求めるのではなく、不思議な奇跡の刺激を求める者。神をまことに信じて求めるならば、神は本当に助けてくださるのに、神を信じようとしない。苦しくて病んでいる人を目の前にしても、自己主張だけをする人々、イエスはそれらの人々にがっかりされた。それでもイエスは背を向けず、その病の子に目を向け、その子を「わたしのところにつれてきなさい」と言われた。

「神様、あわれんでください。神様、助けてください。」(22)と、切実な、真実な心を神に向けよう。

「失敗や過ちや弱さをもった自分」をそのままで主イエスの前に差し出そうとしない私たちの反抗心と頑固さを認め、それをこそ赦して、助けてくださる「十字架の贖い」に信頼しよう。

苦しみに寄り添ってくださるイエス(21)。滅びる危機感をもって、様々な苦しみを通して、イエスだけが頼りとなった父親(22)

⑧ 信じようとしているのに、根底に疑いを持っていた父親(22)。その不信仰を自覚して、根こそぎ信頼するように導かれたイエス(23)

⑨ 「息子を助けて(17)」から、「私たちを助けて(22)」を経て、「私を助けて(24)」と、本当の必要に気づかされ、切なる真実な信仰に導かれ、イエスに求め、助けられた(25-27)。弟子たちに、自分を見つめず神を見つめる祈りに集中するように導かれた(29)


2016.12.4 安心の中に行きなさい
 第二アドベント
マルコ5:21-36

① クリスマスが近づく12月、3週にわたり、キリスト・イエスがどのような方かを初心にかえって知らされたい。

② 今日のすぐ前の箇所では、悪霊につかれて、人々の手に負えない深刻な人がイエスによって救い出され、その奇跡が言い広められた(1-20)。それらのうわさを聞いた大勢の人々がイエスのところに押し寄せた(21)

③ その群衆をかき分けて会堂管理者のヤイロが死にかけている娘のいやしを求めてイエスのところにやって来てひれ伏し熱く願った(2223)。驚くべき奇跡を一目見ようとして多くの群衆がイエスに押し迫った(24)

④ そこに12年間長血をわずらっている女性が群衆の中に紛れ込みうしろからイエスに近づき、イエスの上着にさわった(2527)

⑤ この女性は、その長期の深刻な病のゆえに、肉体的痛み、精神的孤立、経済的貧困に苦しみ、苦しめられ、悲惨な状態であった(26)

⑥ そんな希望も何もないような中で、イエスのうわさを聴いた。神()の国(支配)を解き明かし、信頼して近づく者をことごとくいやすイエスに希望を託した。イエスは私を救える、と考えていた。(28)。「考えていた。」をより正確に表現すると「言い続けていた。」「イエスは絶対に私を救える。」と信頼し続けたのである。

⑦ イエスへの信頼の結果がすぐにあらわれた(29)。この女性のすべてを後回しにする無我夢中の熱い信頼をイエスもすぐに感じ取られ、「誰がわたしの上着にさわったのか。」と問われた(30)。その質問は弟子たちには馬鹿げた質問に感じられた(31)。それでも、イエスは尚も群衆の中で「イエスにさわった人」を知ろうとされた(32)

⑧ 他の人々の目、イエスの思いが気にかかりながらも、女性は勇気をふりしぼって名乗り出てイエスにひれ伏し真実をすべて告白した(33)。イエスへの女性の信頼が評価され、「安心して帰りなさい」と語りかけられた(34)。それは「平安の中に行き(生き)なさい。」との愛の命令であった


2016.11.27 日の出がわれらを訪ねる
 第一アドベント
ルカ1:76-79

① 今年も待望のクリスマスが一ヵ月後に近いた。第1アドベント礼拝に与かれることを感謝。毎年思わされていることだが、イエス・キリストの本当の誕生日は、今年のどこかですでに来ている。本当のクリスマスはこれから来るのではなく、もうすでに来ているのである。私たちが心から大切にするクリスマスは一ヵ月後に来るが、もっと大切な本当のクリスマスはもうすでに来ていることを感謝。私たちが気づいていないだけで、私たちが待ち望み損ない、お祝い損なっていても本当のクリスマスはもうすでに来ているのである。

② 今日の箇所は、主イエスの誕生に先立ちバプテスマのヨハネが誕生した時に、その父ザカリヤが聖霊に満たされて預言したことば。

③ 敵からの救いのため (71,74)、救い主キリスト (68-70) が生まれることの預言。敵とは、『私たちを愛そのものである神に向かわせない者たち、事柄、知識、知恵、考え方……等々』。キリスト、しかも【十字架による贖い】を成し遂げたキリストを通して、私たちはだれでも愛そのものの神の支配する国、すなわち天国の民、礼拝の民として永遠に活き活きと生かされる約束 (74,75) がここにある。

④ そのためにヨハネは、悔い改めることを説いた (3:376,77)。【 悔い改め  】とは「考え方を変えること 」。「 何が起ころうと愛なる神はいなくならず、私たちを見捨てない。私たちを罪の奴隷 ( 手足 ) から解放し、神の奴隷 ( 手足 )として高価で尊いものとしてくださっている恵みの事実を知り、その恵みを下さる神に無条件に信頼すること。」私たちの願いや努力をはるかに超えて、【 神の胃腸が痛くなるほどのあわれみ (同情)(78) 】により、「日の出がいと高きところからわれらを訪れる ( 細心の心配りで見舞う、世話する )」。(78)

⑤ 「暗黒と死の陰にすわる者たちを照らし、われらの足を平安の道にまっすぐに導く(79)」。絶対来てくださるイエスを信頼して待ち望もう


2016.11.20 必要をすべて満たしてくださる方 ピリピ4:14-20(4回目)

① 「なすべき礼拝」とは、何はさておき「 神を求め続けてやめない生きている自分自身を神にささげること」( ローマ12:1 )。礼拝とは「 自分が自分のものではなく『 神 ( ) のもの 』であることを認め、神 ( ) によって生かされること 」を18節までで学んだ。

② 「神へのいけにえは、砕かれた霊。砕かれた、悔いた心」(詩篇51:17)激しい試練と極度の貧しさの中で私たちの大事な霊と心が砕かれるとき、私たちは「神へのいけにえ」として、「神のもの」とされる。

③ 19節にパウロの確信が宣言されている。「 私 ( パウロ ) の神は、キリスト・イエスの中にある栄光の中にある神の富にふさわしく、あなたがたのすべての必要を満たしてくださいます。」これは神の約束である。あなたの神とパウロの神は同じ神であるだろうか。

④ 神の富は「キリスト・イエスの中にある栄光」の中にある。「キリスト・イエスの中にある栄光」、すなわち、問題のある者、人からは見捨てられるような者をわざわざ捜して救い出してくださる驚くべき神の愛。私たちの深刻な問題解決のために一番大切なものを無条件で私たちに恵んでくださった方が、すべての必要を満たしてくださる。「私たちすべてのために、ご自分の御子をさえ惜しまずに死に渡された方が、どうして、御子といっしょにすべてのものを、私たちに恵んでくださらないことがありましょう。」(ローマ8:32)

⑤ 「神は、あなたがたを、常にすべてのことに満ち足りて、すべての良いわざにあふれる者とするために、あらゆる恵みをあふれるばかりに与えることのできる方です。」(コリントⅡ98)

⑥ 何ももっていないように見える自分、何もできないように見える自分を、神の目に高価で尊い供え物 ( いけにえ、犠牲 ) として、神にまずささげよう。その時、足りないと思っていたあれやこれは、実は足りており、必要十分が与えられており、それを感謝し、御名をほめたたえるとき、さらに必要なものがすべて必ず与えられる。


2016.11.13 神が喜んで受けてくださる供え物 ピリピ4:14-20(3回目)

① 神様のためのパウロの大切な働きを実行する上で、ピリピの群れはパウロと困難をよく ( 美しく ) 分け合い、共に歩んだ(14)。それは、パウロにとって欠かせない特別な助けであった(15,16)

② パウロが是非にと求めていたのは贈り物ではなく、「 ピリピの群れが神の恵みを求め、その恵みをいただくことによって、日々の生活を喜び、感謝すること 」であった。「 あなたがたの収支を償わせて余りある果実 」をパウロは強く欲した。苦しみや、貧しさの厳しい現実の中で、神の恵みをただいただく。たくさんのマイナスが現実にあるので、神の恵みを求めてただいただく。すでに神がくださっている恵み ( キリストの十字架による圧倒的な赦しと救い )に気づく。収支のプラスマイナスがゼロどころか、激しい試練と極度の貧しさにもかかわらず、現実の収支がプラスであることをピリピの群れが喜び、感謝して、パウロを支えたことをパウロは大いに喜んだ(17)

③ ピリピの群れの収支を償わせて余りある喜びと感謝が、「キリストの仕事のために、いのちの危険を冒して死ぬばかりになったエパフロデト(225-30) 」を通してパウロに届けられた。パウロはピリピの群れが恵みを喜び、感謝する事実によって満ち足りた(18)

④ 「香ばしいかおり」「神が喜んで受けてくださる供え物」(18)。「供え物」、言い換えれば「いけにえ、犠牲」。旧約聖書によれば、神へのいけにえは、それをささげる人自身を現した。「なすべき礼拝、筋の通った礼拝」とは、何はさておき「 神を求め続けてやめない生きている自分自身をささげること」( ローマ12:1 )。礼拝とは「 自分が自分のものではなく『 神のもの 』であることを認め、神によって生かされること 」。なすべき礼拝をささげているあなたはすでに神のものとなっている『神のもの、神に向き、神の味方』となっているあなたを天の父である神ご自身が守り大事に大事に用いてくださることに信頼しよう

「神へのいけにえは、砕かれた霊。砕かれた、悔いた心」(詩篇51:17)激しい試練と極度の貧しさの中で私たちの大事な霊と心が砕かれるときピリピの群れと同じ恵みをいただける。この恵みをいただき生かされよう。


2016.11.6 ゆるされ、ゆるす
 招待礼拝
マタイ6:14、15

① 広辞苑によれば、「ゆるす」は、漢字で、「許す」、「赦す」、「聴す」と表記される。その意味は、語源的に緩(ユル)しと同じで、固く締められているものをゆるくするということ。そこから点じて1)引き締めた力をゆるめる。ゆるやかにする。2)気持ちの張り、警戒心をゆるめる。3)差し支えないと認める。禁を解く。相手の自由にさせる。4)公に認める。5)願いをきき入れ、してよいとする。承諾する。許可する。6)罪・咎を免じる。赦免する。7)負担や義務を免除する。8)しっかりと捕らえたものをのがす。そらす。などがある。漢和辞典では、音訓索引で「ゆるす」と読ませる漢字は、「允(イン)」「免(メン)」「宥(ユウ)」「恕(ジョ)」「許(キョ)」「赦(シャ)」「縦(ジュウ)」「聴(チョウ)」などがある。参考:「宥恕(ユウジョ)」は、おおらかな心持ちでゆるす意。

② 1415節で使われている「赦す」というギリシャ語は「分離して行かせる」という語源があり、文脈によっては、「見逃す」、「そのままにしておく」、「構わないでおく」という意味がある。

③ ここで使われている「罪」は「傍(かたわ)らへ落ちる」という語源で、「踏み外して落ちること」、「違反を意味」する。

④ 今日の箇所は、「主(イエス)の祈り」の後に、語られたものであり、「主の祈り」の内容と大いに関係がある。神からの助けに注目

⑤ 「罪」の根源は、神との関係が本来あるべきものからずれてしまっていること。「神が愛そのもの」であることを忘れ、 ( 神の聖・神の義・神の愛 ) を後回しにして自分の正しさを貫こうとするときに重大な「罪」まとはずれの悪循環が始まる。●参考:「もしあなたが人をゆるさないなら、あなたはその人に支配されることになる。」渡辺和子師

⑥ 「キリスト・イエスの十字架の贖(あがな)い」はこの悪循環を断ち切り、良い循環を一方的に与えてくださる恵みの約束である。

⑦ 人を赦さないことは、本来赦されない罪。しかし、その罪から離れられない致命的な自分が、神の恵みの約束によって赦されていることを力の源として、すべての隣人を赦せる自由をいただこう。


2016.10.30 喜びを満ちあふれさせてくださる方 ピリピ4:14-20(2回目)

① 14節「あなたがたは、私の困難において、それを分かち合うことを美しく、なしてくれた。」キリストのからだの各部とされていることで、ピリピの教会はパウロと一体となり、パウロのために最善の努力をし、精一杯の具体的な贈り物で支援した(15,16)。パウロはそれで助けられ、満ちあふれ、満ち足りて(18)、非常に喜んだ(10)

② けれど、ここで、パウロが求めているのはピリピの教会からの贈り物ではなかった(17)。贈り物によって、具体的に助けられ、パウロは非常に有難く感謝をしているが、パウロが求めているのは「 あなたがたの収支を償わせて余りある霊的な祝福(17) 」であった。

③ コリントⅡ81,2節によれば、ピリピの教会には、「 苦しみゆえの激しい試練 」と「 極度の貧しさ 」があった。主イエスに信頼し、礼拝しているのに非常に厳しい現実があった。ところが、「その厳しい現実に負けない恵み 」を神からいただき、ピリピの教会には喜びが満ちあふれ、それゆえに、自分たちが苦しく貧しいにもかかわらず他者の必要に熱心に応答した。本来、施しを受ける側でも構わない状況で、惜しみなく施す道を選べるように導かれた

④ それは、「 苦しみに負けない恵み 」、「 貧しさに負けない恵み 」を神からいただいていたからであった。神には人が思いつかない助けをくださる力がある。時には、厳しい現実が変わらないまま、それに対処できる心をくださる。苦しみと貧しさの尊い意味に気づかされ、「 今、ここで満ち足りる 」心をいただける

⑤ キリストが私たちにしてくださったことに思いを巡らし、その価値に気づこう。キリストが尊いご自身を私たちに与えてくださったので、私たちもキリストの計画の中で、神の目に、今、尊いと見なされる自分自身を主にささげよう。その時、自分の必要が満たされるだけでなく、自分からあふれて隣人の必要が満たされるほどに、神は私たちにとって最も大事なものすでに与えてくださっている


2016.10.23 あなたが新しく生きるために
 新改訳聖書 翻訳事業 事務主事 山中 直義 師
マタイ26:57-75

イエス・キリストが捕らえられ、憎悪に満ちた裁きにかけられた時、ペテロは「成り行きを見よう」と、かろうじてその場にいました ( 57, 58 ) 。 しかし、沈黙と無抵抗を貫く主イエスを見ながらも、ペテロは主イエスの側に立つことができず、最後にはこのお方を完全に否んでしまいます ( 59-74 ) 。 そして、鶏が鳴くのを聞いた時、彼は主のみことばを思い出し、出て行って激しく泣いたのでした ( 74, 75 )

「 たとい、ごいっしょに死ななければならないとしても、私は、あなたを知らないなどとは決して申しません 」( 2634 ) と宣言していたペテロは、夜明け前の深い闇の中で、自らの弱さ、醜さ、どうしようもない罪深さを思い知らされることになりました。

しかし、自らの内にある闇を思い知らされることは、ペテロが信仰者として新しく生かされるために、どうしても必要な体験であったと言えます。「 人の子が、力ある方の右の座に着き、天の雲に乗って来る 」( 64 ) のを見る前に、彼は砕かれ、新しく造り変えられる必要があったのです。

丁度、最も暗く深い闇を経てから夜明けが訪れるように、私たちも自らの罪深さを知らされることで、主イエスの十字架による赦しと新しいいのちを真に受け取る者に変えられるのだと言えます。主イエスは、ペテロをはじめとする私たちすべての罪人を赦して新しく生かすために、十字架にかかって死に、死からよみがえり、私たちを招いていてくださいます。私たちは、真に砕かれて新しく造り変えられるために、時に深い挫折を味わうかもしれません。しかし、私たちの救い主であるイエス・キリストのゆえに、その闇の先には光があることを聖書は教えています。

私たちを赦して新しい歩みへと招いていてくださるお方を信頼しつつ、感謝をもってこのお方に従って歩ませて頂きましょう。


2016.10.16 生きているみ言葉に生かされて
 大八木タビタ 姉(菅生キリスト教会会員)
テモテⅡ3:14-17

序論:自分の人生を導いてくれたみ言葉
救いの確信「私のもとへ来なさい。」主に従う:詩篇104:33
献身の道:イザヤ6:8
日本へ帰る目標:創世記28:15
宣教師派遣:イザヤ66:19
結婚への導き:イザヤ43:19

    学んで確信したところに留まる ( 1415a )
テモテは、パウロや祖母ロイス、母ユニケからみ言葉を学んだ。
それを確信して、パウロの協力者となった。伝道をしている中、迫害や偽教師に悩まされたため、学んで確信したところに留まるように励まされた。あなたはどの人たちから学びましたか。

    聖書は救いを受けさせる ( 15b16)
聖書はすべて、神の霊感によるものですから、生きていて、力があって、人の心も人生も変える力がある。聖書を柔らかい心で読めば、聖書は知恵を与え、救いを受けさせることができる。そして、信じる私たちを訓練する力がある。あなたは聖書をどのように日常生活に取り入れていますか。

    整えられた者となるために ( 17)
主イエス様を信じて、救われた人は、この世の人でありながらも、神の人となる。神の人は、神のみ言葉によって整えられて、
すべての良い働きのためにふさわしくなっていく。主があなたをどのような良い働きに押し出しておられるでしょう。


2016.10.9 困難を分け合う恵み ピリピ4:14-20(1回目)

① ピリピの教会がパウロのために熱く祈る心が再び開花したことをパウロは非常に喜んだ(10)。パウロはたくさんの厳しい苦しみを通してどんな境遇でも満ち足りることを学んだ(11)。その時その時、与えられているもので十分やっていける秘訣、あらゆる境遇に対処する秘訣を神からいただいた。神に信頼する者は皆、同様な道を歩ませていただける(12)。弱い時、病の時にこそ強く働いてくださるキリストがともにいてくださるので、本当に必要なことであるならば、キリストと共にどんなことでもさせていただける(13)

② パウロがピリピの人々にはっきりと伝えたいこととして、14節は「それにしても」と言うことばで切り出された。「あなたがたは、私の困難において、それを分かち合うことをうるわしくしてくれた。」キリストが罪深い者を赦して、きよめて、そのような人の心にこそ、共にいてくださることを知らされた。その良い知らせに信頼したもの同士として、キリストの一つのからだの各部分とされ、離れられない大切なお互いとされている。それゆえに、困難、苦しみをも共有してくれたピリピの人々をパウロは大いに喜んだ。

③ パウロが福音を伝えた初期のころから、ピリピの教会はパウロを熱心に支えた(15,16)

④ ピリピの教会で初期のころに教会のメンバーになったルデヤや牢獄の看守とその家族は、パウロを通して、いのちの福音を聴いて救われた ( 使徒16:12-40 ) 。その喜びと感謝が動機となってあふれ、パウロの宣教を支援し、「 困難を分け合う恵み 」にあずかった。

⑤ パウロもピリピの教会も苦しみゆえの激しい試練の中で、喜びの豊かさと極度の貧しさがあふれ出て惜しみなく施す豊かさになった( コリントⅡ8:2 ) 。喜びと苦しみの体験が、同じ困難を味わっている人々への「キリストのからだの各部分とされている者同士としての愛」となってあふれる恵みがここにある。この恵みに与かろう。


2016.10.2 あなたの居場所を用意してくださる方
 招待礼拝
ヨハネ14:1-6

1節が言われたのは、主イエスが十字架にかかられる前の日のこと。すぐ前の1321節で、主イエス自ら「 心を騒がせる 」体験をされていたので、「 心を騒がせる 」ことがどんなに苦しく、「 心を騒がせない 」ことがどんなに難しいかをご存知の上で弟子たちに愛情たっぷりに命令された。「 心を騒がせない 」秘訣は「 神を信頼しまた主イエスを信頼する 」こと。

② 人が犯すもっともみじめな罪、まとはずれ、勘違いは、神を信頼しないこと。全知全能の神がいないと思うこと。「 神が愛である 」ことを疑うこと。神が味方であることを忘れていること等々。

③ 残念ながら、弟子たちはこの後、大いに心を騒がせてしまう。けれども、それすらご存知の主イエスは、2節でさらに驚くべき宣言をされた。主イエスは翌日、十字架にかけられて殺される。しかし、それは想定外ではなく、神の愛の計画の予定通りで2節の目的のためとの宣言。翌日、最悪なことが起こる。しかし、それは弟子たちの居場所を備えるという最善の目的が達成されるため。そして主イエスが3日目によみがえるという最高の恵みが実現した。

3節でイエスは復活して弟子たちを迎えに来ることも宣言された。

とんでもない失敗をした者に創世記39節で神は優しく「あなたはどこにいるのか」と問いかけてくださった。自分のしたいことをしているつもりでいるのに、何をしているのかわからなくなる。自由だと思っているのに様々な欲望の奴隷になりみじめになっている。みじめであることさえ自覚がない。自分が何者で、どこから来て、どこにいくのか。何のために生きているのかをわかっていない。そんな者に今日の3節で、主イエスがその答えをくださっている。

⑤ 神の国 ( 天国 ) にあなたの居場所があり、神の所にあなたの居場所があり、いついかなる時にも主イエスがあなたと共にいて主イエスのところにあなたの最も安らげる居場所が用意されている


2016.9.25 キリストの福音にふさわしく生活しなさい
 講壇交流 児玉 智継 師 (布佐キリスト教会)
ピリピ1:27-30

l 「キリストの福音にふさわしく生活しなさい」→別訳「御国の民の生活をしてください」(新改訳聖書の欄外脚注を参照)。この言葉をいわゆる「律法主義」的に理解することがないように注意したい。私たちは「キリストの福音」によって、「御国の民」としていただいたのだ。もし「御国の民」としてふさわしくないことをしてしまったときには、Ⅰヨハネ1:9の約束の御言葉を思い出そう。

l 「生活しなさい ( ポリテューオマイ ) 」とは、元来ポリス市民として生活すること、市民の義務を遂行することを意味している。単に個々人が罪から離れ、徳を高めるということよりも、共同体の中で義務を果たし、主体的に責任を担っていくということが求められている ( 27節後半では「一つに」「ともに」が強調されている )。私たちは「自分ひとりが礼拝に行かなくても大丈夫だろう」「きっと他の誰かがやってくれるに違いない」ではなく、一人ひとりが主体的に考え、教会生活に対する義務を果たし、またその責任を担っていかなければならない。

l 29節「キリストのために、キリストを信じる信仰だけでなく、キリストのための苦しみをも賜わったのです」。キリストの福音にふさわしく生活しようとするときに、地上における困難は避けることができない ( Ⅱテモテ3:12参照 )

l 「賜ったのです ( エカリスセー ) 」は「恵み ( カリス )」というギリシャ語から派生している言葉。新共同訳聖書では、「キリストのために苦しむことも、恵みとして与えられているのです」と訳されている。

l 「苦しみが恵みである」。そう言い切れるところに信仰の醍醐味があると言える。「苦しみに会ったことは、私にとってしあわせでした。私はそれであなたのおきてを学びました」( 詩篇119:71 )。苦難の経験を通して、神様により近づけられ、より深く結び合わされていくことがあるのです。


2016.9.18 見えないものにこそ目を留める
 敬老礼拝
コリントⅡ4:16-18

① あなたは何を見ているか。今まで何を見てきて、これから何を見ようとしているか。 見えないものにこそ目を留めよう。

18節でのパウロの告白。「私たちは、見えるものにではなく、見えないものにこそ目を留めます。見えるものは一時的であり、見えないものはいつまでも続くからです。」

③ 人生は死んで終わりではないことが、14節で宣言されている。「…主イエスをよみがえらせた方が、私たちをもイエスとともによみがえらせ、あなたがたといっしょに御前に立たせてくださることを知っている…」 死んでも生きるいのちがあるとの宣言。

15節にも驚くことが語られている。「すべてのことはあなたがたのためであり、それは、恵みがますます多くの人々に及んで感謝が満ちあふれ、神の栄光が現われるようになるためです。」生々しい困難、苦難、患難、すべてが相働いて益に変えられる道がある

⑤ すべてのことが私たちのためで、ますます恵みを受け、感謝があふれ、神のすばらしさを体験できるので、私たちは勇気を失わず、落胆せず、疲れてやる気を失わないで生かされることが16節に書かれている。「ですから、私たちは勇気を失いません。たとい私たちの外なる人は衰えても、内なる人は日々新たにされています。」「外なる人 ( 土の器 ) 」が痛み、腐り、だめになり、壊れ、役に立たなくなっても、主イエスに堅く信頼し主イエスと一つに交わっている内なる人 ( ) 」は日々再び新しくされ、更新される。

⑥ イザヤ46:3,4の約束を心に刻もう。「わたし ( 主イエス ) に聞け、…胎内にいる時からになわれており、生まれる前から運ばれた者よ。あなたがたが年をとっても、わたしは同じようにする。あがたがたがしらがになってもわたしは背負う。わたしはそうしてきたのだ。なお、わたしは運ぼう。わたしは背負って、救い出そう。」


2016.9.11 私を強くしてくださる方によって ピリピ4:10-13(4回目)

① 何もできないように見えるときにも「 御霊によって祈る 」。神の息を吹き込んでいただく。神口 ( しんこう:信仰 ) 呼吸をいただく。与えられている「 祈り心 」( 聖霊の導き ) を開花させよう(10)

② 足りなく見えることに尊い意味があり、実は満ち足りる豊かな恵みがすでに与えられていることに気づかせていただこう(11)

③ 私たちの最悪の問題のために、ご自身のいのちを身代わりにくださり、私たちを救ってくださったお方は、私たちが調子の良いときだけでなく、むしろ調子の悪いとき、あらゆる不足を痛感するときにこそ、必ず必要なものを与えてくださる ( ローマ832 ) 。 あらゆる境遇に対処する秘訣をいただける(12)

④ 私を強くしてくださる方がおられる(13)。時には私が弱い ( あるいは病気の ) 時にこそ、弱い ( あるいは病気の ) ままで強くしてくださる方がおられる。コリントⅡ12:9,10

⑤ 私を強くしてくださる方の中で、どんなことでもできる。弱いままで強くされ、力のないままで力強くされ、病気のままで健康にされる。なぜならば、神との深い交わりをいただき、「もはや私が生きているのではなく、キリストが私の中に生きておられる。」( ガラテヤ2:20 ) ことを実感させていただけるからである。

⑥ ピリピの教会が創立したときのことが使徒16:6-40に記録されている。自分の希望が通らず、進路変更を余儀なくされ、困難、迫害、誤解、行き詰まり、痛みの暗闇の中で、「 神と深く交わる祈り を通して、愛そのものの神に信頼し、感謝し、賛美をささげたとき、大地震によってすべてが好転し、ピリピの教会が誕生した。

⑦ 弱くて、病気で、自分の力に頼れないゆえに、天然に神に頼る。私の主人である神に頼る。私の「とうさん」である神に頼る。

⑧ 私にはどうころんでもできないことを神が強めてさせてくださる。


2016.9.4 主(ヤハウェ)は、私の味方
 招待礼拝
詩篇118:5-9

① 「 私は苦しみの中に( ヤハウェ ) を呼び求め、助けを求めてわが神に叫んだ。主はその宮で私の声を聞かれ、御前(おんまえ)に助けを求めた私の叫びは、御耳(おんみみ)に届いた。」 詩篇186

② 「 私は苦難の日にあなたを呼び求めます。あなたが答えてくださるからです。」 詩篇86:7

③ 「 苦しみのうちに、私が( ヤハウェ ) に呼ばわると、主は私に答えられた。 」 詩篇1201

④ 苦しみのうちから、どうにもならない、行き詰まりのような中で、( ヤハウェ ) に信頼して、( ヤハウェ ) を呼び求めると、( ヤハウェ ) に信頼する者には絶対に答えてくださる。私を先細りする狭くなっていく行き詰まりから解放し、広いところに置いてくださる(5)。「 解き放ってくださる。」私の行き詰まりに道が開かれる。

⑤ なぜなら、「 ( ヤハウェ ) は私の味方 」、「 ( ヤハウェ ) に信頼する者の味方 」であるから、恐れることから解放される(6)

( ヤハウェ ) は必ず助けてくださる私の味方。この私こそは、「 私を憎む者たちをながめ、ものともしない。」(7)

⑦ 人に信頼するよりも、( ヤハウェ ) に身を避ける方が良い(8)

⑧ 君主に信頼するよりも、( ヤハウェ ) に身を避ける方が良い(9)

⑨ 「 私の味方 」と訳されているへブル語「 リー 」は、文脈によっては、「 私のもの 」、「 私に向いている 」という意味になる。( ヤハウェ ) は「 私のもの 」、「 私に向いている 」。何と恐れ多い「 良い知らせ 」だろうか。この「 良い知らせ 」に信頼して、いつでも「 イエスさま、イエスさま、私を本来の道に導いてください。」と( ヤハウェ ) に信頼して、呼び求め続けよう。

●参考:
①ヤハウェ:「 愛そのものの方がいつもいて、いさせてくださる。」

②イエス:「 ヤハウェが救い・勝利・ぜいたくなほどの富・繁栄 」という意味。


2016.8.28 あらゆる境遇に対処する秘訣 ピリピ4:10-13(3回目)

① パウロは様々な苦難 ( 例えばコリントⅡ1123-29 ) を通して、「 今、満ち足りることを学んだ。」(11

② 温かい思いやりを持って、与えて惜しまないキリストの愛で生きようとするときに、時に損するように思えることがある。しかし、それは損ではなく、神の愛が人々の中に広まっていく源にされること。計り知れない満足をいただける。損をする愛に生かされる。

③ 「最も富んでいる人間はだれですか。最もわずかなもので満足する人です。」これを自分の努力や決意でするのか、神の御霊によってするのか。神の御霊によるならば、すべての人がこの恵みに与かることができる。「秘訣を心得る」のギリシャ語の直訳は「秘儀を授けられる。」である。神の恵みによって、「最高の富:最もわずかなもので満ち足りることができる。」がすべての信じる人に与えられる。たくさんの必要を覚える具体的な貧しさの中で、この恵みを体験できる。「イエスさま、イエスさま。今、与えられている『最高の富』に気づかせてください。ふさわしい感謝と賛美をさせてください。」と祈ろう。コリントⅡ8章を読もう。キリストが私たちのために貧しくなり、私たちを富ませてくださった。それを体験し感謝した者たちは、キリストのため、隣人のために貧しくなることを喜ぶことができ、あらゆる境遇に満足できるようになる。

④ 私たちの最悪のために、ご自身のいのちを身代わりにくださり、私たちを救ってくださったお方は、私たちが調子の良いときだけでなく、むしろ調子の悪いとき、あらゆる不足を痛感するときに必ず必要なものを与えてくださる。与えられていないように思う時ですら、聖霊の助けによって心の目を開いていただくとき、『最高の富』が与えられていることに気づき、感謝と賛美があふれてくる。主の名を呼んで、この豊かな人生を、賛美を歌いながら歩もう。


2016.8.21 あなたがたが信じるために
 山中 直義 師
ヨハネ20:24-31

① 主イエスを信じることが出来ない。トマスは、そのことで深い苦しみを体験していました。そして彼は、よみがえりの主イエスを「見る」ことに強くこだわり、心を閉ざしてしまいます。(24,25

② そのトマスの元に、主イエスは来てくださいました。
 「信じない者にならないで、信じる者になりなさい」。
 そう願われる主イエスは、トマスの思いをすべて受け止めた上で、十字架の上で負われたご自身の傷を示しつつ、彼に親しく語りかけてくださいました。(26,27

③ その主イエスのことばに導かれて、トマスは、「 私の主。私の神。」との幸いな信仰告白に至ります。すると、そのトマスに対して主イエスは、「 あなたはわたしを見たから信じたのですか 」と問いかけ、「 見ずに信じる者は幸いです 」と宣言することで、信仰とはどのようにして与えられるのかという問いを改めて投げかけられました。(28,29

④ その問いに答える形で、福音書記者ヨハネは、本書をはじめとする聖書が書かれた目的を宣言します。すなわち、「 イエスが神の子キリストであることを、あなたがたが信じるため、また、あなたがたが信じて、イエスの御名によっていのちを得るため 」に「 これらのことが書かれた 」のだと言うのです。(30,31

⑤ 私たちもまた、主イエスを信じることが出来ない苦しみを体験し、何かにこだわることで心を閉ざしてしまうことがあるかもしれません。しかし、主イエスはそんな私たちに対しても、深い愛をもって今も語りかけていてくださいます。主イエスを信じる信仰。それは、主の語りかけである聖書のことばに耳を傾けることによって与えられます。聖書に記されているみことばを、私に対する主からの語りかけとして聞くことで、信じる者として歩ませていただきましょう。


2016.8.14 今持っているもので満足できる ピリピ4:10-13(2回目)

① ピリピの教会からのパウロへの援助がしばらく途絶えていた中で、ピリピの兄弟姉妹はパウロのことを心配していることがパウロに伝わり、パウロはそれを非常に喜んだ(10)

② ピリピの教会のパウロを心配する心がよみがえった。ギリシャ語の直訳的な意味は、「ピリピの教会がパウロのために心 ( 横隔膜 ) を使うことを再び開花させた」。すなわち、ピリピの教会が、熱いとりなしの祈りをささげ、自分たちの課題を告白し、神の赦しをいただいて、神の喜ぶことを考え実行することを再び開始した。

③ パウロはこのことを喜ぶのは、自分の乏しさを訴えて、援助が欲しいからではないことを、11節で念を押した。
「 乏しいからこう言うのではありません。私は、どんな境遇にあっても満ち足りることを学びました。 」(11)

④ パウロは人生の中で、尋常でない過酷な経験をした。コリントⅡの11:24-30。それにもかかわらず、「どんな境遇にあっても満ち足りる」と告白している。「主 ( ヤハウェ ) は私の羊飼い。私は、乏しいことがありません。」詩篇23:1のダビデの告白と共鳴する。

⑤ 全能なる神に信頼するとき、乏しく見え、感じることがたくさんあっても事実は「 乏しいことがない 、満ち足りる」との実感をパウロもダビデも告白している。苦しみを通してそれを学んだ

⑥ 「金銭を愛する生活をしてはいけません。いま持っているもので満足しなさい。主ご自身がこう言われるのです。『わたしは決してあなたを離れず、また、あなたを捨てない。』」へブル13:5

⑦ 私たちのすべての必要を必ず満たしてくださる方を信頼して、「足りないように見えても、実は十分満たされている」驚くべき恵みに気づけるように聖霊なる神の導きを求めよう。「イエスさま、足りなく見えることに尊い意味があり、実は満ち足りる豊かな恵みがすでに与えられていることを教えてください。」


2016.8.7 神が近くにいるしあわせ 詩篇73:21-28

① 現実の中で、納得のいかないことがある。どうして悪者が罰せられずに栄え、正しい者が報われずに苦しめられるのか(3-12)

② しかし、納得のいかないそれぞれが「最後」にどうなるのか ( 17-20 ) 。「最後」とはこの世の最後だけではなく、むしろ、死んだあとの神の公正のさばきの座に立たされるときのこと。

(1) 人間には全員に共通して定まっていることがある。「 人間には一度死ぬことと、死後にさばきを受けることが定まっている。 」へブル927

(2) 人間にとって「 すべて 」と言える最も大事なことがある。「 結局のところ、もうすべてが聞かされていることだ。神を恐れよ神の命令を守れこれが人間にとってすべてである。神は、善であれ、悪であれ、すべての隠れたことについて、すべてのわざをさばかれるからだ。」伝道者の書12:13,14

(3) 公正なさばき、すなわち、えこひいきの無いさばきを人間は必ず受ける。「 神は、ひとりひとりに、その人の行いに従って報いをお与えになります。忍耐をもって善を行い、栄光と誉れと不滅のものとを求める者には、永遠のいのちを与え、党派心 ( 自己中心 ) を持ち、真理 ( キリスト ) に従わないで、不義 ( 神を神として敬わず、自分が神となっている自己満足 ) に従う者には怒りと憤りをくだされるのです。」ローマ26-8

③ 人の考えの及ばない神の壮大なスケールの愛の計画に対して人間の罪 ( まとはずれ ) は苦しみもだえ、時には「 愚かな獣 」のようになってしまう(21,22)。しかし、それゆえにこそ、神に信頼をする(23)。「 愚かな獣 」のような者の右の手を神がしっかりつかまえ、さとして導き、後に栄光の中に受け入れてくださる(2324)

④ 神 ( 愛そのもの ) から離れていることが滅びであり(27) ( 愛そのもの ) の近くにいることがしあわせである(28)ことに気づこう。


2016.7.31 心を再び開花させる ピリピ4:10-13(1回目)

① 9節で、パウロ ( 神の恵みによる「 あわれみの見本 」) から学び、受け、聞き、また見たことを習慣的に実行するようにと勧められた。人の考えにまさる平和・平安の神がともにいてくださるので、その平和・平安の神の力で土台に感謝を置いて、あなたにも「素晴らしいこと」を実行できる。 ( 「素晴らしいこと」とは、たとえば、自分の弱さ < やまい > を誇り、キリストの力がその弱さ < やまい > の中に強く働いてくださること、弱さ < やまい > の中でひたすら祈ること、などなど )

② ピリピの教会からのパウロへの援助がしばらく途絶えていたらしい。しかし、ピリピの兄弟姉妹はパウロのことを心配していることがパウロに伝わり、パウロはそれを非常に喜んだ(10)

③ 10節の「私のことを心配してくれるあなたがたの心が、このたびついによみがえって来た」、ここのギリシャ語を直訳すると「私のために心 ( 横隔膜 ) を使うことをあなたがたは再び開花させた」

(1) 「 心 ( 横隔膜 ) を使う 」、すなわち、罪を告白して吐き出し、神の聖霊 ( ) を吸い込む。パウロのために心からのとりなしの祈りをする。

(2)「思っているだけではダメ。実践する必要がある」という考え方がある。同時に、ピリピの兄弟姉妹がパウロのための心を再び開花させたことをパウロは非常に喜んだ。心 ( 横隔膜 ) にはかけていたが「 実践する機会がなかった 」のだね、とピリピの兄弟姉妹をパウロは温かく思いやり、ピリピの兄姉が心から愛の実践を再開できるようになるのを導いた。

(3)「祈っているだけではダメ。」という考え方がある。同時に、「まず祈ることが大切。」祈りの大切な基本として、自分の心の奥底(疑い、不安、悩み、等々)を隠さずに神の御前に注ぎだし、それをキリストの十字架の贖いでまるごと赦し、きよめてくださる聖霊を受けること。神の息 ( 聖霊 ) を吸い続けよう。


2016.7.24 平和の神がともにいてくださる ピリピ4:1-9(7回目)

① 苦しみをも「良い恵み ( 感謝 ) 」として受け取ることができる道が用意されている。その道を用意してくださっている神への信頼を表そう(6)。主イエスは言われた。「 私が道である。 」ヨハネ146。あなたが、主イエスと共に歩むとき、どんな苦しみをも「良い恵み ( 感謝 ) 」として受け取ることができる驚くべき体験をさせていただける。ただ、祈り、願うのではなく、天の父なる神に信頼して「感謝をこめて祈り願う時、私たちの考えつかない平和、思いつかない平安、ありえないと思いこむような安らぎが与えられる(7)

② 何が神に喜ばれるかを考えながら、この世をふさわしく知ろう。神が一般にくださっているすばらしいことを勘定にいれ、ふさわしく評価し、人々との接点を大事にするように(8)。謙遜 ( 横隔膜を低くし ) になり、慎み深く ( 健全な横隔膜 )、自分の心の奥の罪を告白し、十字架で、赦しきよめてくださる御霊 ( 神の息 ) を、ただ、いただこう。

③ パウロ ( 神の恵みによるあわれみの見本) から学び、受け、聞き、また見たことを習慣的に実行するように(9)。たとえば、
  (1)「いつも喜び、祈り、すべてを感謝する。」テサロニケⅠ5:16-18
  (2)「労苦して弱い者を助ける。『受けるよりも与えるほうが幸い』と言われたみことばをいつも思い出す。」使徒20:35
  (3)「この世と調子を合わせず、神に喜ばれることをわきまえ知るために、自分の考え方を変えていただき、自分でも、「さなぎからちょうに変わる」かのように変わる努力をする。」ローマ12:2
  (4)「キリストの力におおわれるために、むしろ大いに喜んで自分の弱さ ( ) を誇る」コリントⅡ12:9

人の考えにまさる人知を越えた平和の神がともにいてくださるので、その神の力であなたにもこれらを実行できる(9)。御霊 ( 神の息 ) で生かされ、活かされる「 生活 」を神の家族と共に生きよう。


2016.7.17 心を留めるべきこと ピリピ4:1-9(6回目)

① 神のかたちに似せて創 ( つく ) られた人としての尊厳を保とう。 (1) 。お互いに呼吸を合わせよう(2)。そうすることを互いに励まし合い、助け合いながら実行しよう(3)。その実行に当たり、主イエスがくださる喜びを土台として、「諸君、ごきげんよう。」と主イエスがいつも語りかけてくださっていることに耳を傾けよう(4)。自覚を持ち、すでに与えられているあなたの寛容をすべての人に伝えよう。主がいつもあなたのただ中にいてくださるから。 (5)。苦しみをも「良い恵み ( 感謝 ) 」として神への信頼を表そう(6)。あらゆることをまず神に向かって心を配り、祈り、願う時、私たちの考えつかない平和、思いつかない平安、ありえないと思いこむような安らぎが与えられる(7)

② 「最後に」と大事なことが8節で確認される。次の 8項目に心を留めるように。「心を留める」は、「計算する」、「勘定する」、「ふさわしい評価をする」の意。

1. すべての真実なこと。 2. すべての誉れあること。気高く、尊敬に値し、品位のあること。 3. すべての正しいこと。 4. すべての清いこと。 5. すべての愛すべきこと。親愛の情を持たせるもの。6. すべての評判の良いこと。良いと言われるもの。名誉なこと。 7. 徳。道徳的に卓越した力。 8. 称賛に価すること。

神の福音があまりに素晴らしいゆえに、熱心な信仰者は独りよがりになりやすい。見る目、聴く耳をもって、創造主が一般の人々に恵んでくださっていることにもしっかりと心を留めるように。神の特別の恵み ( 福音:十字架の贖いによる救い ) を知らせるためにも、この世と調子を合わせるのではなく、何が神に喜ばれるかを考えながら、この世をふさわしく知ろう。神が一般にくださっているすばらしいことを勘定にいれ、ふさわしく評価し、人々との接点を大事にするように。謙遜 ( 横隔膜を低くし ) になり、慎み深く ( 健全な横隔膜 )、自分の心の奥の罪を告白し、十字架で、赦しきよめてくださる御霊 ( 神の息 ) を吸おう。


2016.7.10 人のすべての考えにまさる神の平安 ピリピ4:1-9(5回目)

① 神のかたちに似せて創 ( つく ) られた人としての尊厳を保とう。尊い存在として自立できる道がある(1) 。お互いに神のかたちに創られた尊い存在であるがゆえに、一見協力しにくい隣人とこそ息を合わせ、呼吸を合わせよう(2)。そうすることを互いに励まし合い、助け合いながら実行しよう(3)。その実行に当たり、主イエスがくださる喜びを土台として、必ず喜べる道が用意されている。「諸君、ごきげんよう。」と主イエスがいつも語りかけてくださっていることに耳を傾けよう(4)。自覚を持つ。あなたは寛容であり、寛大で、公正で、思いやりがあり、穏和で、優しい人であると宣言されている。そのすでに与えられている素晴らしいあなたの寛容をすべての人に伝えよう。主がいつも近くに、あなたのただ中にいてくださり、同時にやがて私たちを見えるかたちで迎えに来てくださるから(5)。心配りをする向きを間違わないように。神のことを思わずに人のことを思うことのないようにまず神のことに心をくばりその神の力 ( キリスト ) 人のことに心を配るように。納得のいかないときこそ、無条件に神に感謝と賛美を捧げよう。絶えざる感謝と賛美によって、神への信頼を表そう。あなたの悲しみや困難や不安を神が知っていてくださり、脱出の道、安らげる道を用意してくださっていることに気づこう(6)

② あらゆることをまず神に向かって心を配り、祈り、願う時、神の平和・平安があなたの心と思い・考えを確実に守ってくださる。神の平和・平安は、「人のすべての考えにまさる」もの、「人知を超える」もの(7)私たちの考えつかない平和思いつかない平安ありえないと思いこむような安らぎ。これは、神の知恵であるキリスト、そのキリストのすごさを指し示す聖霊の働きによる。そして、聖霊は信じて求め続けてやめないすべての人に絶対に与えられる神からの恵みの存在。神に信頼し、神を求め続けよう。揺るがぬ平安がそこにある。


2016.7.3 恐れるな。気力を失うな
 招待礼拝
ゼパニヤ3:14-17

① 1章と2章で人の罪に対する神の怒りが宣言されている。「断ち滅ぼす」、「罰する」という厳しい宣告が並んでいる。悲惨と悪循環。厳しいさばき。しかし、神を恐れ、神の愛の懲らしめを受け入れるとき、キリストの十字架の贖いによって、驚くべき救いをいただくことができる。シオンの娘:神の変わらない救いの約束に信頼しきる者。イスラエル:何があっても「神と人」とに向き合い続ける者。エルサレムの娘:平和・平安 ( キリスト ) の都に住む者。「喜び歌え」、「喜びさけべ」、「喜び勝ち誇れ」と命令され、約束・宣言されている。 (14)

② 本来受けなければならない厳しい宣告は取り除かれ、敵は味方となり、敵はいなくなる。絶対にいなくならない愛の神があなたのただ中にいてくださる。神の全き愛で、すべての恐れを心の外に投げ出すことができる。(15) あらゆる恐れから解放される道がある。

③ 「気力を失うな」、「力なく手を垂れるな」(16)。ボクシングの選手が打たれても、打たれても手を上げてファイティングポーズをとり続けるように、罪と戦い続けよう。神を信頼し切る者は、手を上げて祈る。手を上げられなくても祈る。立っていられなくなりひざまずいて祈る倒れ伏して祈る。罪につかまり、罪に裏切られ、罪によって打たれ続けて気落ちする者、意気消沈する者、苦しめられた者、低くされた者、卑しめられた者を神は慰め、絶対に恵みをくださる。これが福音。良い知らせ。恐れに襲われ、気力を失うとき、意気消沈するとき、がっかりするときに、十字架のキリストの名前を静かにささやき続けよう。「イエスさま、イエスさま、イエスさま…。」主イエスの名前を呼ぶ者はだれでも皆救われる。自業自得に見えるところから、身から出た錆のような悪循環から救われる。

④ あなたのただ中の主は救いの勇士として、あなたを喜び、楽しみ、恐怖の叫びの声を優しく黙らせてくださり、安らぎを与え、新しくし、主、自らが高らかに歌ってあなたのことを喜んでくださる。(17)


2016.6.26 赦される喜び ピレモン1:1-25

ピレモンは、パウロがエペソで伝道していた時に、信仰に導かれたコロサイに住むクリスチャンでした。オネシモは、そのピレモンの家の奴隷でしたが、ピレモンの家で盗みを働き、遠くローマに逃亡する奴隷となっていました。しかし、そのローマで、オネシモははからずも、パウロのもとに導かれ、神はオネシモを、「罪を悔い改め、キリストを信じる、救われる魂」としてくださいました。

そこでパウロは、オネシモを主人のピレモンに送り返すにあたり、このオネシモを、犯罪人としてではなく、キリストにある愛する兄

弟として受け入れ、赦すように、とりなしの手紙を書きました。

18節には、「もし彼があなたに対して損害をかけたか、負債を負っているのでしたら、その請求は私にしてください。」と申し出たのです。このことは、イエス・キリストが私たちの罪を赦すために、ご自身のいのちのすべてを十字架に差し出してくださったキリストの愛によるのです。人の罪を赦すことは難しいことですが、罪を赦す根拠は、イエス・キリストの十字架にあるのです。

ピレモンは、自分の神様に対する罪はキリストによって赦していただきながら、オネシモの罪は赦せないでいた罪を示され、悔い改めて、オネシモの帰りを待っていたことでしょう。一方オネシモは、どんな処罰も受ける覚悟でピレモンのもとに帰りましたが、もはや犯罪人としてではなく、愛する兄弟として、迎え入れられ、罪を赦される喜びを本当に体験する人になりました。

このように、人に罪を赦されることは喜びですが、キリストの十字架の故に、一生かかっても償いきれない神様に対する罪を赦される喜びは、さらにまさる喜びなのです。

エペソ人への手紙 432節。「お互いに親切にし、心の優しい人となり、神がキリスト・イエスにおいてあなたがたを赦してくださったように、互いに赦し合いなさい。」


2016.6.19 感謝を込めた祈りと願い ピリピ4:1-9(4回目)

① 1節「神のかたちに造られた、神から愛されている『存在の尊厳』を保つ。」

 2節「呼吸をあわせること」。「息を合わせること」。「共に自分の息を合わせて吐()き、 自分の弱さ、罪、勘違いを素直に認め合う 」、「 共に神の息 ( 聖霊 ) を吸い、 自分の力で相手を理解し、愛するのではなく、神の力で、受け入れにくい相手を理解し、愛し合う 」 

③ 3節 一見激しく対立しているが、実は相補的な素晴らしい二人を周囲の人は、協力して助けるように。

④ 4節「 呼吸を合わせ 」、「 息を合わせる 」と同時に、「 主を喜んで、主で喜びを保ち続けよ。」、すなわち、イエスさまが「 諸君、ごきげんよう!!  わたしがあなたがたの難しい誤解を解き、対立をなくし、理解し合えるようにしてあげるよ。 」と言ってくださる約束に信頼して、その喜びを土台にする。

⑤ 5節では、あなたがたは寛容 ( 「 至極もっともな 」 と言う語源:寛大、公正、思いやりがある、穏和、優しい ) であることが宣言された。そしてそれをすべての人に表すようにとの勧め。目には見えないが主があなたの近くに、ただ中にいてくださる。公正なさばきをなさる方が必ず見えるかたちで来てくださる宣言。

⑥ 6節 「 何も思い煩わない 」ように。心配りの仕方をまちがわなように。波風に目を向けず、主イエスに向くように。何よりもまずは天の父の義 ( 愛と赦しに基づく正義 ) と天の父の国 ( 支配 ) に心を配るように。「 主に向く 」ことに心を配るように感謝 ( 良い恵み ) をこめた祈り ( 神に向かっての願い ) と願い ( 神に向かっての祈り ) で、あなたがたの要求・求めを神に向かって知ってもらいなさい。

⑦ 感謝:現実の厳しさゆえに、どんなに感謝できないように感じられても、その生みの苦しみを通して、天の父なる神から、やがてとてつもない祝福をいただける約束を信頼する。そのことによって、苦しみをも、「良い恵み ( 感謝 ) 」として受け止める姿勢 ( ペテロⅠ 5:10-12参照 )神への絶大なる信頼の告白の姿勢神の愛を知り味わい神の愛に永遠に安らぐために今の弱さ侮辱苦痛迫害困難に甘んじる姿勢。この姿勢は賛美によって保たれ、力を受ける。使徒1612-34の獄中での真夜中の賛美がその典型。


2016.6.12 主はすぐ近くにおられる保証人 ピリピ4:1-9(3回目)

 1節に「 主にあってしっかりと立ってください。」とあった。言い換えれば、「 神のかたちに造られた神から愛されている存在の尊厳を保ちなさい。」ということ。ここに人生の土台・目的がある。あなたは「 神のかたちに造られた素晴らしい存在なのだ。」

「 子よ。しっかりしなさい。あなたの罪は赦されている。 」

② 2節では一見激しく対立しているが実は素晴らしい二人の素晴らしさが合わさって、半減するのではなく、倍増するように、「 主にあって一致してください 」とパウロは懇願した(2)。「一致」、すなわち「 呼吸をあわせること 」。「息を合わせること」。「 共に自分の息を合わせて吐()( 自分の弱さ勘違いを素直に認め合うこと ) 」、「 共に神の息 ( 聖霊 ) を吸い ( ただ、いただく、ただ、受ける ) なさい。 ( 自分の力で相手を理解し愛するのではなく神の力 < キリスト・聖霊 > 受け入れにくい相手を理解し愛しなさい ) 」 

   教会はこの呼吸を合わせる場所

③ 3節では、周囲の人もこのような一見激しく対立しているが、実は相補的な素晴らしい二人を助けるようにとパウロは懇願した。

④ 「呼吸を合わせ」、「息を合わせる」と同時に、4節では、「主を喜んで、主で喜びを保ち続けよ。」、すなわち「 どんなに喜べないように感じるときにも主が喜びを絶対にくださる。 」との約束。 このことばは、「 では諸君、ごきげんよう。主のおかげで。」という挨拶も含んでいた。誤解や対立や無理解で機嫌 ( 人や物や出来事に対して不愉快に思う ) が悪くなっている者に、イエスさまが「 諸君、ごきげんよう ( わたしがあなたがたの難しい誤解を解き、対立をなくし、理解し合えるようにしてあげるよ。 ) 」と言ってくださる約束。これは、常に再確認されるべき大事な未来、永遠の約束であった。

⑤ 5節では、あなたがたは寛容 ( 「至極もっともな」と言う語源:寛大、公正、思いやりがある、穏和、優しい ) であることが宣言された。そしてそれを外に表すようにとの勧め。目には見えないが主があなたの近くにただ中にいてくださる。公正なさばきをなさる方が必ず見えるかたちで来てくださる。主、いつも共にいてくださる愛なる方が近くに ( ギリシャ語:エンギュス )、保証人 ( ギ:エンギュオス ) としていてくださる。その方が絶対に来てくださる宣言がここにある。


2016.6.5 真理はあなたがたを自由にします
 招待礼拝
ヨハネ8:31-36

① あなたは自由ですか。自由とは何ものにも支配されないこと。たとえば、憎しみ、悲しみ、不安、恐れ、冷酷、悪意、面倒くささ、怒り、欲望、等々の罪に支配されず、自由に愛、喜び、平安、寛容、親切、善意、誠実、柔和、自制をすることができているだろうか。

② 自分は自由であると言いながら、それが自分だけの快楽で、隣人には不快なものになっていれば、愛、喜び、平安、寛容、親切、善意、誠実、柔和、自制という多くの人々が等しく感謝できる良い循環から外れてしまう。そして深刻な悪循環に陥り、自由と言いながら、大勢が感謝できない憎しみ、悲しみ、不安、恐れ、冷酷、悪意、面倒くささ、怒り、欲望、すなわち罪の奴隷になってしまう。

③ 人間の力だけではこの欲望の奴隷・罪の奴隷の深刻な悪循環から脱出することができないと聖書は断言している。

④ 逆に聖書は、人間の力だけでは絶対にできないことを、神の力( キリスト ) によって絶対・必ずできるようになると宣言している。「 真理 ( キリスト ) はあなたがたを自由にします。」(32)

⑤ 今日のこのことばは、すべての人に宣言されたのではなく、「信じたユダヤ人たち」に宣言された(31)。本当の自由をいただくためには、「信じる」ことが必要。次に「ユダヤ ( < ヤハウェ > に感謝し、賛美する ) 人 」であることが必要。あなたが、 ( ヤハウェ:いつも共にいてくださる方、愛の好意をもってあなたを存在させている方 ) に信頼して無条件で感謝し無条件で賛美し続けるとき、あなたは「信じたユダヤ人」として、 ( 愛・聖 ) の奴隷となることが許され本当の自由を与えられ良い循環の人生に導かれる

⑥ どんなに自分ではできない、無理と思っても、キリストがあなたに絶対にさせてくださる。「 子 ( キリスト ) があなたがたを自由にするなら、あなたがたはほんとうに自由なのです。 」(36) この恵みの福音 ( 良い知らせ ) の宣言に堅く信頼して、ひたすらキリスト・イエスに求めよう。あなたは今、良い循環に置かれている。イエスさま私はあなたを信頼し感謝しほめたたえます。」


2016.5.29 主を喜び、主にあって喜ぶ ピリピ4:1-9(2回目)

① 1節で「 主にあってしっかりと立ってください。」とある。言い換えれば、「 神のかたちに造られた神から愛されている存在の尊厳を保ちなさい。」ということ。ここに人生の土台・目的がある。あなたは「 神のかたちに造られた素晴らしい存在なのだ。」、 「 『 キリストの十字架の贖いによる救い 』によって、愛のないあなたの的外れな生き方は許されて、愛のある存在としてあなたは高価で尊いのだ。」という神の宣言。それを信頼して、その宣言を真に受けて日々を生きることができるとの約束がここにある。
 「 子よ。しっかりしなさい。あなたの罪は赦されている。 」

② 二人の素晴らしい婦人がいた(2,3)。この二人は、正反対に見える異なった素晴らしさが際立っていたようだ。お互いの素晴らしい正しさのゆえに、お互いを理解するのが大変難しかったようだ。二人とも本当にそれぞれ素晴らしいのに、「 馬が合わず 」、「 反()りがあわない 」。その二人がお互いを尊重し、お互いの素晴らしさが、対立ではなく、相補的になるように、二人の素晴らしさが合わさって、半減するのではなく、倍増するように、「 主にあって一致してください 」とパウロは懇願した(2)。「 一致 」、すなわち「 呼吸をあわせること 」。 「 息を合わせること 」、「 共に自分の息を合わせて吐() ( 自分の弱さ勘違いを素直に認め合うこと ) 」、「 共に神の息 ( 聖霊 ) を吸い ( ただ、いただく、ただ、受ける ) なさい。 ( 自分の力で相手を理解し愛するのではなく神の力 < キリスト・聖霊 > 受け入れにくい相手を理解し愛しなさい ) 」 この二人の婦人だけでなく、夫婦も親子も兄弟も友人もこれが原則。 教会はこの呼吸を合わせる場所

③ 呼吸を合わせる以外にも、もう一つのすばらしい道がある。「 いつも主にあって喜びなさい(4)。 」「主を喜んで、主で喜びを持ち続けよ。」、すなわち「 どんなに喜べないように感じるときにも主が喜びを絶対にくださる。 」との約束。 このことばは、「 では諸君、ごきげんよう。主のおかげで。」という挨拶も含んでいる。誤解や対立や無理解で機嫌 ( 人や物や出来事に対して不愉快に思う ) が悪くなっている者に、イエスさまが「 諸君、ごきげんよう ( わたしがあなたがたの難しい誤解を解き、対立をなくし、理解し合えるようにしてあげるよ。 ) 」と言ってくださる約束。これは大事な大事な未来、永遠の約束である。


2016.5.22 人生、やり直せる
 ウェルカム礼拝 渡邉 賢治 師
ヨハネ3:1-16

  人生もう一度やり直すことできるか? その道があります。

1.     新生が必要(1-3): 「新しく生まれる」 (37)
   
  (ア)      新しい人生:「神の国を見る」(3) 「神の国に入る」(5)
       神の愛の中に生きる幸いな人生です。
  (イ)      新生が必要 「人は新しく生まれなければならない」(3,7) 
     
   ― 人はみな新生することがどうしても必要です。

2.     新生の方法(4-13)「水と御霊によって」(5)、「御霊によって」(6)
     
  (ア)      肉によって(4,6) 「もう一度母の胎内に入って生まれる」こと?
     
いいえ、そんなことではない。それは……

  (イ)      神の御霊によって(6,8) 「御霊によって生まれる」
       それはどのようにしてわかりますか? 
     目に見えない「風」(音や木の揺れなどによってわかる)のように、
     新生した人の心や生活の変化によってわかります。
     例えば、心の平安がある。

 ― 新生は人の力ではなく神の御霊によるものです。

3.     新生の条件(10-15): 「信じる」(15,16)
  (ア)      青銅の蛇を「仰ぎ見る」(14、民数記21:9)それは……
  (イ)      十字架につけられたイエスを「信じる」(15)ことです。
       「人の子を信じる者がみな永遠のいのちを持つ」(1516)

 ー 信じる人は、「神の子ども」とされます。(ヨハネ1:12


     神の愛の中に生きる新しい人生が始まります。


2016.5.15 主イエスの名を呼ぶ者は、みな救われる
 ペンテコステ 主日礼拝
使徒2:1-21

イースター (主イエスの復活) から50日目 ( ギリシャ語でペンテコステース ) の五旬節 ( ペンテコステース ) の日に、初代教会の人々みなが、主イエスのことばに信頼して、一つの所に集まっていた(1)。七週の祭り、刈り入れの祭り、初穂の日とも呼ばれる。旧約聖書によれば、この日は、いかなる労働もしてはならず、民全体で聖なる会合を開き、主の前に出ることが義務づけられた。神との和解が感謝と恐れをもって確認され、エジプトの奴隷状態からの解放を記念する祭りであった。

① 罪から解放されていること、罪の奴隷ではないことの確認の時。
② 神との和解、神は味方であり、親子の関係がある事実の確認の時。
③ 神の手足、神のからだの一部、神の礼拝の民として、一人ひとりが尊く用いられることの確認の時。

突然、天から、激しい風が吹いて来るような響きが起こり、彼らのいた家全体に響き渡った。炎のように分かれた舌が現われて一人ひとりの上にとどまり、みなが聖霊に満たされ、他国のことば (「異言」とも訳せることば ) で話し出す奇跡が起きた(2-4)。周囲の人々はそれにあっけにとられ、「いったいこれはどうしたことか(8,12)。」と驚き怪しんだ(5-12)。酔っ払いの嫌疑もかけられた(13)

かつては身の程知らずの空威張りをして、いざという時逃げ出し、散々な無力の自分を体験したペテロが、聖霊によって新しくされ、毅然として立ちあがり、公然と声を張り上げ、人々にはっきりと主からのメッセージを預言書ヨエルの書から語った(14-21)

 時間をつくって、旧約聖書のヨエル書から神の声を聴こう

神の公正、厳粛なさばきが行われる。神は罪を放っておかない。神はその正しさと聖さのゆえに、罪をさばく。それは大いなる恐るべき時。人の隠れた善と悪が公正に判断され、隠れた善は報われ、隠れた悪は罰せられる。「太陽がやみとなり,月が血に変わる(20)。」ような大いなる恐るべき日がやがて来る。「しかし、主 (イエス) の名を呼ぶ者は、みな救われる(21)。」「 イエスさま、イエスさま

最も苦しく、恐ろしく、自業自得で自分で自分を責めて処分したくなるその真っ暗闇から絶対に救われる道がこの日に宣言された


2016.5.8 主にあって一致してください ピリピ4:1-9(1回目)

人生には常にトラブルがある。主イエスも「 労苦 ( トラブル ) はその日その日に、十分あります。」マタイ6:34、 と言っておられる。そのトラブルへの最善の対応として、「 天の父の義 ( 圧倒的な愛による赦しと新しいいのち ) と支配をまず第一に求めなさい。」と言われる。今日の1節にも、トラブルへの事前の心構えとして、「 主の中で、しっかり立つ 」ことが勧められている。波風を見つめるのでなく、主イエスを見つめる。もはや私が生きているのではなく、主イエスが「 聖なる霊 」として、私の中に生きていてくださる。信仰の創始者であり完成者である「 イエスの信仰 」を「 私の信仰 」としていただき、御霊の助けと導きによって歩むようにとの勧め。

①「 私は何のためにここにいるのか 」、「 神のみこころは何か 」、「 こんなことが私に何故起きたのか 」などを知らされることによって、私たちはトラブルから解放される。そのためには神と人との交流を妨げる罪 ( 的外れ、勘違い、思い込み、決めつけなど ) を告白して、「 神からの恵みを邪魔する罪 」から解放され、神のことばである聖書から明確に示される人知をはるかに越えたキリストの愛、「 十字架の贖いによる救い 」を知らされる必要がある。

②トラブルは、私たちが神のみ旨、みこころからずれている時に与えられる神様からのプレゼント。神からの恵み。辛いけれど、苦しいけれど、大事なことに気づかされるゆえに感謝すべきこと。トラブルによって、自分の的外れ、勘違い、思い込み、決めつけなどに気づかされ、自分の隠れた罪、気づいていなかった罪に気づかされ、「十字架の贖いによる救い」に導かれる。罪から解放され、神の恵みをあふれるばかりにいただけるようになる。 

2節に二人の婦人の不一致のトラブルが暗示されている。大切な隣人との不一致によって、神様との関係で何か大事なことがずれていることに気づかされる。人間の最善の限界。最善と最善が争い合う残念。本当の最善である主 ( ヤハウェ ) ご自身、同じ御霊に導かれている「すでに与えられている一致」に戻り、最善と最善が最悪を産むのではなく、「人知をはるかに越えたキリストの愛」を産みだせるとの約束を体験しようではないか。キリストの愛で互いに愛し合おう。


2016.5.1 人を変えることができる神の力
 招待礼拝
ローマ1:16,17

エデン ( 楽しみ ) の園の「善悪の知識の木」からの実を取って食べてはならないという神の唯一絶対の命令を、最初の人類が破った時に罪 (まとはずれ・勘違い) が生じた。罪の結果、「神からの祝福が実行されるゆえに恥ずかしがる必要のないところ」を恥ずかしがり隠すことになった。私たちがいただいた「 福音 ( 良い知らせ ) 」は、様々な表現が可能であるが、その典型的な聖書のことばは、以下の通りである。

① 「 神は、知恵ある者をはずかしめるために、この世の愚かな者を選び、強い者をはずかしめるために、この世の弱い者を選ばれたのです。また、この世の取るに足りない者や見下されている者を、神は選ばれました。すなわち、有るものをない者のようにするため、無に等しいものを選ばれたのです。これは、神の御前でだれをも誇らせないためです。 」  コリントⅠ1:27-29

② 「 しかし、主は『わたしの恵みは、あなたに十分である。というのは、わたしの力は、弱さのうちに完全に現われるからである。』と言われたのです。ですから、私は、キリストの力が私をおおうために、むしろ大いに喜んで私の弱さを誇りましょう。ですから、私は、キリストのために、弱さ、侮辱(虐待)、苦痛、迫害、困難に甘んじています。なぜなら、私が弱いときにこそ、私は強いからです。 」 コリントⅡ12:9,10

今日の16節で、「私 (パウロ) は福音を恥とは思いません。」と書かれている。上の①と②の典型的な福音 (良い知らせ) をあなたは聞いて、信じているだろうか。あなたの弱さは何か。人は自分では思いもよらない弱さを、時に無意識に隠し持っているもの。そして、その弱さを嫌い、弱さから逃げ、弱さを克服できれば「いばり」、克服できなければ「いじける」という悪循環の中に閉じ込められている。しかし、①と②に代表されるような「良い知らせ」を恥とせず、信じ受け入れるならば、②の告白をあなたも必ずさせていただける。神はあなたを素晴らしく変えることができる。「 キリストの十字架の贖い の意味を教わりその贖いによってあなたの最も弱いところ罪深いところ汚れたところで絶対に救いだされることを今信じよう


2016.4.24 だから、こう祈りなさい
  太田和 功一 師
マタイ6:9-13

「主の祈り」と呼ばれているこの祈りは、イエス様が“こう祈りなさい”と教えられた大切な祈りです。礼拝でこの祈りをみんなで唱えますが、少しずつ自分にとっての意味を考えながら繰り返して祈ることもできます。今日は、最後の「私たちを試みに会せないで、悪からお救いください」(13節)に注目したいと思います。

1.その前に、この祈りの全体を見ると、前半は、父なる神様の御名、御国、御心についての祈りで、後半は神様の子供とされた私たちの必要のための祈りと見ることができます。では、前半は、誰のため、何のための祈りでしょうか。ある人は、この祈りについて“まずあなた自身がこの祈りの答えとなりなさい”と言っています。つまり、この祈りは、まず第一に、祈る者のあり方、生き方にかかわる祈りだと言うのです。

2.13節の祈りの“試み”は、“誘惑”とも、また、“悪から”は、“悪しき者から”とも訳されます。この祈りが必要なわけには少なくとも二つあるでしょう。第一は、私たちは、神様への信頼と従順から私たちを引き離そうとする誘惑にいつもさらされているということ、第二は、私たちの決心や努力だけでは、その誘惑する力に打ち勝つことはできないということです。悪しき者は、しばしば私たちの弱さや欲につけ込んで誘惑してきます。(ヤコブ1:1315)

3.イエス様は、この祈りをどのように祈ったらよいかについても教えてくださいました。
「誘惑に陥らないように、目をさまして、祈り続けなさい」(マルコ14:38) この時、眠りこけてしまい、それから主を三度も否定してしまったペテロは後に、悪しき者の誘惑に負けないためにこう言っています。「身を慎み、目をさましていなさい」(ペテロI 5:8)

この祈りを祈り続けるために大切なことは、“目をさましていること”ですが、それはどういう意味でしょうか。また、どうしたら日々の生活の中でそれができるでしょうか。


2016.4.17 主の中でしっかりと立つ ピリピ3:12-4:1(5回目)

「主イエスの十字架の贖いによる救い」に信頼する者の国籍は天にあることが確認された。そして、そこから主イエス・キリストが救い主として必ず来てくださる。それを待ち望もう(20)。天国、それは神の国。「愛そのもの、聖そのもの、義そのもの」の神が支配しておられる国に私たちの国籍がある。天国国籍を持つ者の特権と義務を確認しておこう。その中でもっとも素晴らしく、感謝なことをいくつか例をあげる。

① 神からの驚くべき恵み ( アメージング グレース ) 人が思いつかない神ならではの恵みを知ること。この恵みをくださる神を知ること。恵みそのものである救い主キリスト・イエスを知ること。

② キリストの十字架の敵として歩むことをやめること。自己充足や自己実現、自己満足や自己憐憫ではない救い。「キリストの十字架の贖いによる救い」と無関係の「その場限りの救い」ではなく、キリストの十字架による「永遠の救い」をいただくこと。

③ 「永遠の救い」とは、心の奥底の深刻なやっかいな「まとはずれな思い、勘違い、汚れ」が無条件に赦され、きよめられ、愛されて、神への信頼と感謝が腹の底からあふれてくる状態。「ことばに尽くすことのできない、栄に満ちた喜びにおどっている」状態。

④  ( アバ父 ) からの赦しをいただいて、隣人を赦し、敵をも赦すこと。 ( アバ父 ) からの愛をいただいて、隣人を愛し、敵をも愛し、自分を迫害する者のために祈り、祝福を与えること。

生まれつきのままの私たちには、これら①-④などは実行できないことを神は知っておられる。けれども、驚くべきことに神の恵みによってのみ誰でもこれらを実行させていただける。この永遠のいのちを「生」かされて「活」かされる「生活」。これが、天の国籍を持っていることの特権。信じ難いことに、その特権こそが義務とされる。

私たちには、どうころんでもできないと感じられてしまう「真のいのちある歩み」をキリストはさせてくださる(21)自分にないものをキリストがくださるただそれを感謝していただこう。「私の愛し慕う兄弟たち、私の喜び、冠 (ステパノ) よ。…… 。愛するひとたち。」とパウロがピリピの人々に熱く語りかけたように、神 ( アバ父 ) は、私たちに熱く語る、「この恵みそのものの主(ヤハウェ)キリストの中にしっかりと立つ」ように。すなわち、( アバ父 )の恵みの中にドップリとつかろう


2016.4.10 私たちの国籍は天にあります ピリピ3:12-4:1(4回目)

 「私を見ならうように」(17)。パウロは「月足らずで生まれた者と同様な者」、「使徒の中で最も小さい者」、「使徒と呼ばれる価値のない者」、「神の教会を迫害した者」、「罪人のかしら」という強い自覚をもっていた。そんな失われたように見える者を探してキリストがパウロをとらえた。そして、神の役に立つ者へと替えられた。この「私にみならうように」との勧め。神の恵みに気づいた生き方をせよ。すなわち、人間の目にどうしようもないものをキリストが良いものに替えてくださる約束。このキリストにいのちがけで信頼するようにとの勧め。しかも、自分の力で信頼するのではなく、愛そのものの優しい、優しい神ご自身、神の霊 ( 御霊・聖霊 ) の力で信頼するように。神の力、すなわちキリストにとことん頼る。求める。導いていただく。イエスさま、助けてください。教えてください。導いてください。救ってください。と絶えず祈ろう。

 福音は、悪い知らせではなく、良い知らせ。私たちを殺すのではなく、私たちを生かすもの。いのちと平和・平安を与えるもの。私たちが大変厳しく感じるときでさえ、飛びっきりの優しさで私たち見てくださり、最善に導いてくださる神によって、あなたは絶対に生かさる。この神があなたの天の「おとうさん」、「パパ」としてあなたを生かし、輝かせ、憩わせてくださるのが福音。良い知らせ。この福音をはっきり聴き、この福音に信頼して、キリストの十字架の贖いを自分の罪深きことの赦しと救いのためであることを感謝していただこう。神の手足とされる恵みをいただこう。罪の増し加わるところには、恵みも満ちあふれる。

この恵みを知らないで生きること、自分の力次第でできるかできないかを決めること、これが「キリストの十字架の敵」(18)。自己充足と自己実現のわなを警戒せよ。自分の罪深さを知らない。それゆえに、神の赦し、神の愛を知らない。十字架の贖いが土台にない。そのために、赦しと愛がない。敵を愛さない。迫害する者の祝福を祈らない。自分を責め、人を責める。キリストの十字架の贖いと無関係に良い歩みができると誤解している。その最後は滅びである。欲望()が神となっている。神の前ではずべき傲慢やいじける思いがこころの中心にある。死んだあとの永遠のいのちと死のことを考えず、地上のことしか考えない。(19)

「けれども、私たちの国籍は天にあります。」(20)。国籍の特権と義務を考えよう。救い主キリストが来てくださる。この方を待ち望もう。


2016.4.3 こどものように自分を低くする幸い
 招待礼拝・こどもと大人と一緒の礼拝
マタイ18:1-4

マタイ18章は16章と並んで、イエスが教会について教えておられるところ。教会とは何か。教会の本質を考えるときに熟読すべきところと言われる。教会についてのイエスの最初のことばは「悔い改めなさい」ということ(3)。「悔い改め」、「心を入れ替える」、「向きを替えて元に戻る」。元のところに戻ってやり直す。生まれ変わってやり直す。なくならない愛、不変の愛の意図をもって神が人を造られた。あなたを造られた神があなたを最も「生」かし「活」かすことができる「生活」を導いてくださる。そこに何があっても戻ることを決意するとき、新しいいのち、なくならないいのちが始まる。キリスト (永遠のいのち) に戻る。

 キリストの支配する国の描写として次のようなものがある。「乳飲み子はコブラの穴の上で戯(たわむ)れ、乳離れした子はまむしの巣に手を伸べる。」イザヤ118。最も恐れているものを恐れないですむ世界。信じがたい平和、喜び。この乳飲み子のようにならせてくださるとの招き。

 「こどものように」とは具体的にはどのようになることか。「あなたは幼な子のように生きていますね。」と言ってもらえるかどうか。乳飲み子の何ともいえない安らぎと憩いの匂(にお)い。天国の匂いがする人にされる。弱く、何もできないように見えて、いのちと平安と希望があふれている存在。大人になってしまった私たちをもう一度やり直させてくださるという招き。新しく生まれ変わる。上から助けられて、天よりの力によって新しいいのちが始まり、いのちからいのちへと導かれる。

 誰が一番偉いか。こどものように自分を低くするもの(4)。「幼な子にとって最も大切なこと、それは幼な子は偉くないということ」。「自分を低くする」というのは、自分が偉くない、大きくないということをわきまえること。実際に大人ではあっても神の前で小さい者であることを意識していること。自立しているのが大人。自立できないのがこども。

幼な子や乳飲み子は、親や親の代わりになる者がいなければ生きていくこともできない。愛そのものである神なしには、希望と安らぎをもって生きていけないことに気づき、それを認め、乳飲み子が愛情豊かな母親の胸の中で憩い、育まれるように、神に完全により頼むいのちを生かされること。神を天の親として信頼して、神に育てていただこう。そこにいのちと平安 ( 平和 ) が与えられる。なくならない希望がそこにある。


2016.3.27 私の目を開いてください ルカ24:13-53

イエス・キリストの復活記念日イースターを感謝。また、同時に召天者記念礼拝を感謝。私たちの人生が死で終わりではなく、死んだあとに神の御力によって復活させられ、神の公平なさばきを受けることになることを人生の土台としよう。神は隠れた善と悪を公平にさばかれる。それゆえに、私たちはそのさばきを受ける備えが必要。私たちの罪 ( まとはずれ、勘違い、思い込み、決めつけ、汚れ、神を神として礼拝しないこと、等々) 、他人の目からは隠れている罪、自分でも気づいていない罪を放っておくならば、この地上でも気持ちよく生きていくことができず、死後には神の厳正なさばきによって、その罪に応じて罰せられてしまう。この罰をまぬかれる人はだれもいない。しかし、ここに良い知らせ ( 福音 ) がある。もし、私たちが自分の罪を言い表し、自分でも気づいていない罪、隠れている罪を認めて告白するなら、神はキリストの十字架の贖いによって、無条件でその罪を赦し、汚れをきよめ、キリスト・イエスの中にいる者として、決して私たちを罪に定められない。そればかりか、神を「お父さん」と呼べる立場の神の子とされる特権が与えられる。

今日の箇所はエルサレムからエマオの村に行く途上の話。キリストが十字架で死刑にされたあと墓に葬られたが、その遺体が墓からなくなったできごとを話している二人の弟子たちに、復活されたイエスが近づいて共に歩くが、二人の目はさえぎられていてイエスだとはわからなかった(13-24)。イエスは二人の心の鈍さをはっきりと指摘し、聖書全体からご自分のことを説明された(25-27)。二人はいっしょに泊まることをイエスに無理に願って聞き入れられ、夕食を共にした。聖餐式のごとく、イエスがパンを裂いて渡したとき、二人の目が開かれ、イエスだとわかった。その後イエスは彼らに見えなくなるが、イエスの復活の事実を二人は知ることになった(28-31)私たちも心の目を開いていただいて復活のイエス罪を赦し汚れをきよめ最悪を最善に変える方がいつも私たちと共にいてくださることに気づこう。それは私たちの心がうちに燃えることによって知ることができる(32-35)。イエスは、私たちが取り乱し、心に疑いを起こすときに、格別な方法で私たちをあるべき信仰 ( 神様からいただく信仰 ) へ導いてくださる(36-43)。そして私たちの心を開いて聖書のいのちのことばを悟らせてくださる(44-53)

「天のおとうさん、私の目を開いてください。」と求め続けよう。


2016.3.20 すでに達しているところを基準として ピリピ3:12-4:1(3回目)

キリストは私たちに負えない重荷を負わせない。神の愛の計画の中で私たちが負わされた重荷によって、神は私たちを成長させ、すべての重荷を負いやすくしてくださる。キリストの十字架の贖い (「罪の手足とされている」ことから解放され、「神の手足とされている」という宣言) を信じて、人生という競技を走り通し、神が恵みとしてくださるごほうびとして、「死者からの復活」、「永遠のいのち」がはっきりと与えられる。神の恵みの約束を信頼しないとか、力を出し切らないで中途半端に終わるとかではなく、神の約束に信頼して安らぎながら自分の精一杯を生きる。この目標を目指して一心に走るようにと13,14節で語られた。

15節に「成人である者はみな」とある。「成熟」した者、本当の意味での大人になるようにとの勧め。成熟した者として、御霊に導かれているパウロの生き方、考え方に見習うように。聖霊に導かれて歩むように。自己満足 ( いばること ) や自己憐憫 ( いじけること ) の極端な考え方をしているなら、神がその考え方を本来の考え方 ( 謙遜 < こころを低くすること > と希望を持つように ) にしてくださるから、神にその「道」を求めるように。神に「真理」を求めるように。神に本来の「いのち」 ( すべての恐れから解放され、いつも喜び、絶えず祈り、すべてのことを感謝するいのち ) を求めるようにとの勧めが15節。「わたしが道であり、真理であり、いのちである。」と言われたキリストを求めよう。このキリストが信じる者の中に住んでいてくださる。

成熟に向けて、段階があり、過渡期があり、個人差がある。神は私たち一人ひとりのすべてを知ってくださっているので、人と比べることなく、キリストの十字架の贖いを信じる者、一人ひとりをその個性を重んじて、神が導いてくださる。すべてを働かせて益にしてくださるから、反省するときに初めからやり直さなくて良い。「すでに達しているところを基準として進む ( 隊列を組んで<励まし合って、一つとなって> まっすぐ歩む ) こと。」が16節で勧められている。

神の愛の招きに気づかされたとき、私たちは成熟への一歩を踏み出せる。人間の感覚として手遅れに感じるときも、焦る必要はない。すべてを益に変えることのできる方、キリストと結びあわされて、信じる者の中に住んでくださる聖霊の導きを求めながら、一歩一歩、一瞬一瞬、「生」かされてい「活」きる「生活」を喜び楽しもう


2016.3.13 目標を目ざして ピリピ3:12-4:1(2回目)

私たちにとってもっともすばらしいもの、文字通りの「死者からの復活」、様々なことにおいては、「最悪なことが最善なことに変えられること」を得るようにとキリスト・イエスが捕らえてくださっていることが12節にパウロの経験として宣言されている。私たちもキリストに信頼する時、キリストは私たち捕らえ堅くつかんでいてくださる。お母さんが最高の愛でこどもの手をつかみ、導くように。

パウロはキリストに信頼して、永遠のいのちをすでにいただいたことを確信している。けれど、同時に、パウロは現実の生活の中で油断せず、自分の最善、一生懸命をもって、一歩一歩、瞬間瞬間をキリストの中で生きていることが13,14節に告白されている。

「…私は、自分はすでに捕らえたなどと考えてはいません。ただ、この一時に励んでいます。すなわち、うしろのものを忘れ、ひたむきに前のものに向かって進み、キリスト・イエスにおいて上に召してくださる神の栄冠を得るために、目標を目指して一心に走っているのです。」

「うしろのものを忘れること」の必要。過去を引きずらない。すなわち、過去の栄光を引きずっていばらないこと。また、過去の失敗を引きずっていじけないこと。ひたむきに、全身を伸ばして、前に向かって進もう。全知全能の神に信頼して、明日の心配を主にゆだねて。

神に信頼し、「イエスさま、イエスさま」と神の名を呼ぶ者を、神が上 ( 神の国、天国、エデン < 楽しみ > の園、パラダイス < 絶対に見たい安らぎの素敵な大庭 > ) に召してくださる。神があなたをそこに来なさいと呼んでくださる。神が栄冠 ( 人生という競技を走りぬいたごほうび、賞、賞品 ) をくださる。神がくださるごほうびは、「死者からの復活」、「永遠のいのち」、「神の愛」。

「死者からの復活」:キリストの死と復活により死刑の道具 (最悪) である十字架が救いの道具 (最善) に変えられた。「永遠のいのち」:キリストのこと(Ⅰヨハネ1:12)。また、まことの神を知り、キリストを知ること(ヨハネ17:3)キリストがあなたのうちに無条件で住んでくださりキリストと似たものに変えられていくということ。死んでもなくならないいのち。「神の愛」:あなたの最悪を最善に変えてくださる。脱出の道を絶対にくださる。あなたの負えない荷物を負わせず、すべての重荷を軽くし、負いやすいもの、心地よいものに変えてくださる。このキリストと一体とされていることに気づき続けることを目標にしよう。


2016.3.6 いのちがわきあふれる心を保て 箴言4:20-23

「目は口ほどにものを言う」とか「目は心の鏡」などと言われることがある。心にあるものが目にあらわれる。あなたの目はどのような目であるか。「どんな時にも、目が輝き、心の鏡である目にいのちがあふれる人生がある。

 「力の限り、見張って、あなたの心を見守れ。いのちの泉はこれからわく。」(23)

何かがあるたびに心の大切さを意識させられる。心を点検しなければ、いつのまにかに目はくもり、いのちみなぎる目をいただくチャンス、なくならない喜びをいただくチャンスを失う。私たちの勘違いや思い込みや、まとはずれな考え方がいのちの泉の源をふさいでしまう。身体の見えないところの病、問題を検査するために、レントゲン、CTMRIなどの目に見えない光線が重要視される。心の検査の場合は、神の生けることばである聖書によって可能である。神の生けることばであるキリストに信頼して、聖霊の力で聖書に聴く時、みことばの光が私たちの心を精密に検査してくれる。私たちの勘違い、思い込み、まとはずれを指摘し、それをキリストの十字架の贖いによって赦し、清め、救ってくださる。神のかたちに造られた尊厳を取り戻すことが許される。キリストがあなたの心を潤し新しくしてくださる

「わが子よ。私のことばを良く聞け。私の言うことに耳を傾けよ。それをあなたの目から離さず、あなたの心のうちに保て。見出す者には、それはいのちとなり、その全身を健やかにする。」(20-22)

新共同訳では、23節は「何を守るよりも、自分の心を守れ。そこに命の源がある。」と訳されている。

私たちは様々なものを守ろうとする。財産、金銭、地位、名誉、伝統、健康、家族、等々。あたなは何を守ってきただろうか。これから何を守ろうとしているだろうか。いのちの源を守ることが最優先。

私たちがキリスト・イエスに信頼して、すべてを見通すまことの光である神のことば、キリスト・イエスに求めて、「イエスさまイエスさままとはずれな生き方をしてしまう私を赦し導いてください。」と祈り、生きる時、あなたの心から「いのちの泉」がわき、あなたをうるおす。あなただけではなく、あなたからあふれて、あなたの周囲の人々をもうるおす。いのちがわきあふれるその心を保とう


2016.2.28 私を捕らえてくださった方 ピリピ3:12-4:1(1回目)

すべてが新しくされる「十字架の贖いによる福音」。求めてやめない者たちにこの福音を神が無条件で絶対に与えてくださる。あなたにもこの福音 ( 良い知らせ ) が与えられている。そして、何も恐れずに、すべてのことを捨てることさえできるほどの希望、死んでも復活するいのちが与えられていることが、7-11節に語られていた。

今日は、12節に注目。キリストの十字架の贖いをただ信じるだけで救われた。無に等しいと見なされていた者が、高価で尊い者と宣言された。その尊い救いを無条件でくださった方に感謝の応答をしたくなる喜びの救いをいただいた。霊と魂と心を救ってくださったお方に、日々の生活を新しくし続ける努力をもって感謝を表す。

アウグスチヌスのことば。「『キリスト者の完全について』。『キリスト者の完全』には謙虚という徳も含まれていなければならない。ところで謙虚とは、自分が完全だなどと言えない自覚である。だから、キリスト者が完全であるためには自分が完全なものになってしまったと言う思いが少しでもあれば、その瞬間に不完全になってしまう。」 謙虚であるためには、「自分は完全ではなくて、良くなっていかなければならない私なのだ」ということを理解しなければならない。

信じるだけで救われることを誰よりも理解し、伝えていたパウロは、同時にコリントⅠ 127で「私は自分のからだを打ちたたいて従わせます。それは、私がほかの人に宣べ伝えておきながら、自分自身が失格者になるようなことのないためです。」と言っている。

これは、修行をするとか苦行を選ぶというよりかは、サラブレッドの馬の力を最大限引き出すために必要な時に必要な回数を愛情をもってムチ打つときに似ているかもしれない。素晴らしいお父さんの愛情に気づいた子どもが、その感謝のゆえに父に喜ばれたくて喜んで自分のやれることに励み続けるのに似ている。より素晴らしいものを目指すこの努力の源は、「キリスト・イエスが私を捕らえてくださったから。」と12節にある。人間の目にどうしようもなく見える者を永遠の昔から選び、愛し、導いてくださっているキリストがあなたを捕らえてくださっている。このキリストに信頼して、求めてやめないとき、あなたの力は最大限に発揮され、死にいたるまで成長し続け、外なる人が衰えるようなことがあっても内なる人は日々、潤い、新しくされる。


2016.2.21 御霊によって礼拝する ピリピ3:1-11

 2章で愛をもってテモテとエパフロデトの派遣を強く願ったパウロは「最後に」と切り出す。「最後」といいながら、長く話は続く。大事なことを伝える時のパウロの特徴のようである。大事なこと。「主にあって ( 主の中で ) 喜ぶこと。主ご自身を喜ぶこと。」大変難しいことが現実にある。とても喜べないように感じる厳しい現実がある。けれども、それでも喜べるようにしてくださる方を見つめるようにとの勧め。不安定な場所で小石につまずいてころばない秘訣。「どんなときにも喜ばせてくださる方に信頼すること」が最も確かな安全な生き方(1)

( ユダヤ人にとって汚れた動物 ) のような人 (キリストの良い知らせを否定する人) 、悪い働き人 ( キリストを伝えると言いながら、キリストのためではなく自分のために働いている人 )、肉体だけの割礼の者 ( 外側の汚れのみを注意して、内側の汚れをおおい隠し、威張っている者 ) がいる。その人に気をつけるようにとの警告。「気をつけてください」と3度も繰り返している。本当に気をつけなければならないこと(2)。肉に頼るのではなく、御霊 ( ) に頼る。

割礼とは、外側のみではなく、むしろ心の奥底の汚れをおおい隠すものを切って捨て去り、神の前に正直に罪 ( 自分のまとはずれ、負い目、勘違い、不純など ) を認め、キリストの十字架の贖い ( 罪の手足から解放されて、神の手足として尊ばれるように新しく生まれ変わらされること ) による赦しを、ただ感謝して受け取るということ。 「神の御霊で神に仕える者」、「キリスト・イエスを誇る者」、「肉 ( 人間的なもの、人間の善悪の知識を土台とするもの ) を頼みとしない者」、これが心に割礼を受けるということ(3)

パウロは人間的に頼りにできるものもたくさん与えられていた。生まれも育ちも能力、等々も(4-6)。しかし、キリストを知らされたとき、キリストのあまりのすばらしさゆえに、それを知ることを妨げるすべての得であったものを損と見なすことにした(7,8)。言うならば、キリストのために何かを捨てるというよりかは、本当のキリストを知ると、得であったものさえ、必要に応じて損と見なし、捨てたくなってしまうということ。これほどの力を持っているのがキリスト、「その十字架の贖いによる福音」(9-11)求めてやめない者たちにこの福音を神が無条件で絶対に与えてくださる。あなたにもこの福音が与えられている。そして、何も恐れずに、すべてのことを捨てることさえできるほどの希望、死んでも復活するいのちが与えられている。


2016.2.14 主イエスの中で望みを持つ ピリピ2:19-30

死も覚悟し、それでも喜べる喜びをピリピの教会の人々と共有したパウロ(18)が厳しい現実の中で望んだことがあったことが19節に書かれている。困難な中にあってもピリピの人々の信仰が成長していることを知って「励ましを受けるために」と愛弟子テモテをピリピに派遣したいと望んだ。これは死をも覚悟しているパウロにとって欠くことのできない望みであるゆえに、「主イエスにあって」望んでいると強調されている。たとえ何があろうと主イエスが必ず良くしてくださるという主イエスの支配への絶大なる信頼の告白である。自分の希望と違うことが起きても、どんなに難しい問題と向き合わなければならないとしても、愛そのものの神の許可のもとに今の事態が起きていることを知る時、ゆるがぬ平安が与えられる。ピリピの人々のことを思うことにおいて、テモテはパウロの息子であるかのごとくパウロと一致し、福音(良い知らせ)を伝えるために喜んで奴隷のごとく奉仕した(20,22)。そのテモテをピリピに派遣したいとパウロは望んだ(23)

人間の陥りやすい残念が21節に指摘されている。「だれもみな自分自身のことを求めるだけで、キリスト・イエスのことを求めてはいません。」せっかく熱心に神に奉仕しているのに、動機がずれている。自己実現のための奉仕はむなしく、やがて疲れ果てる。キリストのためにと言いながら、自分自身を求めている。道・真理・いのちそのもののキリストを求め損なっている。恵みをあふれるばかりにくださる神ご自身を求めず、神の恵みのみを求める自己実現は行き詰る。

神の許しがあれば、釈放されることもパウロは確信している。神の御手の中で全てが起きていることをいつも自覚しているパウロ(24)

テモテとともにエパフロデトの派遣を強く願った(25,28)。ピリピから贈り物をもって派遣され、パウロに仕えていたが、死ぬほどの病にかかり、神のあわれみによっていやされた。パウロを助け、パウロに仕えるために派遣されたのに、病によって倒れ、パウロに助けられ、パウロに仕えてもらい回復した。使命の半ばで、すべきことができなくなり、生きること自体に必死にならざるをえなかったエパフロデトをパウロは、「私の兄弟、同労者、戦友、ピリピからの使者(使徒)」として尊敬し、ピリピの人々にも彼のような人々を尊敬し、喜びにあふれて、主にあって、歓迎するようにピリピの人々へ勧めた(25-30)


2016.2.7 うるおいのあるいのちを ヨハネ4:1-26

パリサイ人 ( 自分たちが一番正しいと思いこんでいる人々 ) の無理解と敵対によって、イエスはユダヤからガリラヤに移動され、途中サマリヤを通られた(1-5)。サマリヤのスカルという町から約1.5キロメートルのところにあるヤコブの井戸のかたわらに、旅の疲れにより、イエスは腰をおろされた。食事の買い出しに弟子たちが町に出かけている間、時は真昼の12時ころ、そこに水をくみに来た女性にイエスは水を求めた(6-8)。そのサマリヤの女性は驚く。当時サマリヤ人とユダヤ人は付き合いがなく、歴史的な根深い敵意を持ち、敵対関係にあった。また、当時、イエスのような先生と呼ばれる立場の男性から女性に話しかけることはなかったゆえに(9)。イエスは優しく答えられた。「あなたに生ける水 ( わき出る水 ) を与えたい。」(10)。その井戸は約30メートルもの深さがあり、「水をください」と求めてきたイエスがくむ者を持っていないのに、「生ける水」をどのようにしてくれるのか(11)。女性は由緒あるヤコブの井戸を作った偉大なヤコブとの比較を主イエスに問う(12)。目に見える水 ( 人間の努力 ) の限界が宣言される(13)。目に見えない水、イエスの与える水 ( 赦しと愛、いのちと安らぎ ) は、私たちを人生の渇きから解放し、その人がうるおうだけでなく、その人のうちからわき出る泉となり、永遠のいのちにいたる恵みの宣言がされる(14)。目に見える水と目に見えない水の区別がわからないままこの女性はイエスに「生ける水」を求めた(15)。からだの渇きだけでなく、心 (たましい、霊) の渇きをうるおすために、イエスは女性のもっともつらいこと、悲しいこと、恥ずかしいことを温かく理解していることを伝えた(16-18)。女性はイエスがただなるぬ人であることを察知し、女性は自分の中の神に対する礼拝についての思いを伝える(19,20)。イエスはその知識のたりないことを優しく、温かく導き、女性に教えた。霊とまこと ( 真理 )、すなわちキリストによって礼拝するように(21-24)。そのイエスのことばの意味を十分に理解できない女性は、メシヤ ( 救い主 ) キリストを待ち望んでいる信仰を伝える(25)。イエスは、「あなたと話しているこのわたしがそれです。」と宣言された(26)私たちの心にすでにいてくださるキリストに気づこう

日々の生活の身近なところにある敵意・対立や、また人生の悲しい、つらい飢え渇きに対して、イエスは優しく関わってくださり、心 () の渇きを必ずうるおしてくださる。このイエスの名を呼ぼう。


2016.1.31 いのちのことばをしっかり握る ピリピ2:12-18 (2回目)

人生の優先順位で最も高いことの一つは、すべての絶望から「救われること」。だから「恐れおののいて自分の救いの達成のために努めなさい。」(12)。「おそれおののく」すなわち「重大事として、真剣に」。「達成のために努める」すなわちどのようにしたら救われるかを真剣に考え、「人間の力では絶対に救われず、神の力で絶対に救われるという神の福音(良い知らせ)の宣言に堅く信頼して、恵みとして救いをいただく」。神は、みこころ(好意、善意、厚意)のままに私たちの中に働いて志をたてさせてくださる。それだけではなく、神が私たちを通して事を行ってくださる。この神に堅く信頼する。そのためには、つぶやきと疑い、不平と理屈が大敵となる。人間の力(自分の力)に頼るとつぶやきと疑いにとらえられてしまい、不平と理屈をならべたて絶望する。それをやめて、神の力(キリスト)に頼ると道が開き、絶望から希望へと進み、死からいのちへと移される。(13,14)

「自分はだめだが、神はだめではない。」、「自分を信じること(自信)はないが、神を信じる(神信)。」。神を堅く信頼することにおいて非難されることのない者とされ、純真に神に堅く信頼する者とされるように。 いのちのことばをこころの奥底で真剣に受け止めよう。そこ()からいのちがあふれてくるようにしよう。神(愛そのものである方)を後回しにして、いばったり、いじけたりする愛のない残念な生き方が世の中にあふれている中で、一心に神の恵みをただいただいて、生活の中に愛があり、身近な人をまず愛するいのちの道、互いに愛し合ういのちの道を聖霊の力と祈りによって歩ませていただこう(15)

いのちのことばとは、深刻な罪と汚れに気づかせ、「キリストの十字架の贖い」によって赦しときよめと愛を神から無条件でいただける福音のこと。恵みのことばのこと。このいのちのことば(キリスト)をしっかり心の奥底にお迎えし、住んでいただこう。そして、私たちの日常生活にあふれていいただき世の光とされよう。この目標をパウロはかかげ、そのために大喜びで命を使っている(16-18)。大喜びの使命。

神は、神に堅く信頼する者の絶対的な味方である。しかも,この信頼自体を神からいただける(1:292:13)日々の静まる時を確保したっぷりと心を注ぎだしたっぷりとみことばに聴いて熱く神と交わろう神ともっと深く交わろう。その時すべてが賛美と感謝に変わる。


2016.1.24 生ける石として築き上げられなさい
 教会創立50周年 記念礼拝  D.ヘーゲル師
Ⅰペテロ2:1-10

ペテロ第一の手紙は、各地に「散って寄留している」(1:1)キリストを信じる者へと送られた手紙です。様々な苦しみを受け、迫害もされている彼らを励まし、力づけるために書かれています。

主イエス・キリストご自身がクリスチャンの一番の支えです。主は、「人には捨てられたが、神の目には、選ばれた、尊い、生ける石」であり、「霊の家」、すなわち、教会の「尊い礎石」である、ということです。

神ご自身が据えた信仰の礎に「信頼する者は、決して失望させられることがない」ばかりか、「聖なる祭司として」用いられます。それは、お互いに励まし合い、支え合うことです。更に、キリストに在る者は「やみの中から、ご自分の驚くべき光の中に招いてくださった方のすばらしいみわざを、宣べ伝えるため」にも立てられている、ということです。

その尊い務めを果たすべくペテロは、クリスチャンが自らを「生ける石として、霊の家に築き上げられる」ことの大切さも指摘しています。「霊の家に築き上げられる」こと、それは、主の取り扱いを受け続けることです。イエス様に「わたしは、このペトラ(岩)の上にわたしの教会を建てます。」(マタイ16:18)と言われたペテロ(小石)自身も、生涯必要としていた、主のあわれみによる取り扱いです。


2016.1.17 神の働きを真剣に求めよう ピリピ2:12-18

1-11節でキリストの励ましをいただける約束を確認した。まずは、喜びと感謝をいただける恵みのみことばをしっかりと聴く。聖霊の慰めと励ましを受ける。罪深い自分が無条件で受け入れられているという「 何があってもなくならない喜びと感謝 」を神からいただき、自分の心が整えられることを求める。福音書からキリストの歩まれた足跡を思い巡らす。キリストの背中を見つめながら歩む。

そして、12節。見ている人がいるかいないにかかわらず、「自分の救いの達成に努めなさい。( 新改訳第3) 」。「恐れおののいて」、すなわち最も大事なこととして。この大事なことの実行に当たって、忘れてはならないことが13,14節。

自分の救いをどう達成するか。主イエスの恵みのことばを忘れてはならない。「いのちを与えるのは御霊です。肉 ( 神を後回しにする生き方 ) は何の益ももたらしません。わたしがあなたがたに話したことばは、霊 ( 神との深い交わりを何より優先する生き方 ) であり、またいのちです。」ヨハネ6:63神を後回しにして自分の力頼みで右往左往してもその結果は何の益ももたらさないまずは神を第一に求めよう

神がみこころ ( 「意志・計画」の意味よりもむしろ「良い思い、好意」の意味 )のままに、私たちの中に働いてくださり、大事な志 ( 望み ) を与えてくださり、しかも事を行わせてくださるという恵みの約束。「私には能力がない、意志が弱い、決断できない。」等々と嘆きたくなるときに、この13節の約束を思い出す。自分の力に信頼するのではなく、神の力 ( キリスト ) に信頼して、助け・救いを求めよう。しかも真剣に。「恐れおののいて」すなわち、最も大事なこととして、頼るものを間違えないで、キリストに信頼する。自分の意志、努力、決断を根こそぎ導き、惜しみなく与えてくださる方に、まずは真剣に求め続けよう。キーワードは「 主 ( ヤハウェ ) イエスへの信頼 」大敵は「つぶやきと疑い」14節。昔、神に選ばれたイスラエルの民が数々の不思議と奇跡を何度も体験しながら、苦しくなると神を疑い、つぶやき、最後には自滅した。神がせっかく本気の愛で激しく怒ってくださり、神のご厚意で本来のいのちの道に強制的に戻してくださろうとされたのに、イスラエルの民はそれに気づかず信頼せず、つぶやき、疑い自滅した。この深刻な「つぶやきと疑い」から解放してくださる神の力( キリスト ) の働きに信頼して求め続けよう。詩篇106107篇を読もう。


2016.1.10 キリストによる励まし ピリピ2:1-11

救い主キリストのために、信仰だけでなく、苦しみも恵みとして与えられ、良い知らせを伝えるゆえに避けられない戦いがあることが12930節で語られた。そのように神に選ばれて救われていたピリピの人たちに課題があったようだ。「何事でも自己中心や虚栄からすることなく、へりくだって、互いに人を自分よりもすぐれた者と思いなさい。自分のことだけではなく、他の人のことも顧みなさい。」(3,4)

せっかくすばらしいキリストの救いをいただいたのに、ピリピの人々の中には、「自己中心」、「虚栄」、「高慢」、「自慢」、「他の人への無関心」がしばしば見受けられたと推測される。「それは良くない。もったいない生き方だ」とパウロは改善を勧めている。伝道をするゆえの対外的な戦い、誤解をされ、苦しみを受けるという課題と、その伝道をする拠点である教会の内側の改善されるべき課題がここにある。

内側をまず整える必要がある。一人ひとりの心が整えられる必要がある。それをしないで外側に向かうと、そこには 「喜びや感謝が動機」ではなく、「義務や恐れが動機」になり、すばらしい伝道をしているはずなのに、「伝道したくない、奉仕したくない」と辛さだけが心の奥底に隠されていくことになる。それゆえに、まずは、喜びと感謝をいただける恵みのみことばをしっかり聴こう聖霊の慰めと励ましを受けよう罪深い自分が無条件で受け入れられているという「 何があってもなくならない喜びと感謝 」を神からいただき自分の心が整えられることを求めていこう。

2節に理想的な教会の姿が描かれている。「一致を保ち(同じ思い、呼吸)」、「同じ愛」、「心(たましい)を合わせる」、「志(思い、呼吸)を一つにする」 キリストの一つの御霊に導かれているゆえに「すでに与えられている一致」を大事にする。互いに思いやりをもって寄り添い続ける群れ。それがキリストの教会。「自己中心」、「虚栄」、「高慢」、「自慢」、「他の人への無関心」とは真逆の姿。理想的な教会として歩むためには、1節の条件を神からいただこう。「キリストにある励まし」、「愛の慰め(語らい)」、「御霊の交わり(共通の御霊が与えれているゆえの交流)」「愛情(<内臓>からの愛)」、「あわれみ(母胎の愛)」を神に求めていただこう。特に「キリストにある励まし ( 罪深き者をかたわらに呼んでくださり、慰め、助けてくださる)」、聖霊とその働きを求めていこう。


2016.1.3 主イエスの教会 マタイ16:13-19

 2015年を恵みの中で過ごし、2016年を迎えられたことを感謝。この一年を歩ませていただくにあたり、16-18節が信仰生活の土台であることを確認したい。シモン・ペテロの信仰告白。私たちの信仰告白。舞台はピリポ・カイザリヤ(13)。ガリラヤ湖の北方、美しいヘルモン山のふもと。イスラエルの中で最も風光明媚と言われる場所。それゆえに、自然崇拝や、ヘロデ王の避暑地があり、皇帝崇拝が行われていた霊的には暗闇の地であった。

その人間の目には素晴らしく見えるが、霊的には暗闇の場所でペテロの信仰告白が行われた。当時、人々はイエスのことをバプテスマのヨハネ、預言者エリヤ、エレミヤなどどうわさしていた(13,14)。人々が好き勝手に言う中で、イエスは弟子たちに問われた。「あなたがたは、わたしをだれだと言いますか。」(15)。「あなたは、生ける神の子キリスト(救い主)です。」とペテロが告白した(16)。その告白に対してイエスは宣言をされた。「あなたは幸いです。」 続けて「このことをあなたに明らかに示したのは人間ではなく、天にいますわたしの父です。」(17)と信仰告白がどこから来るかを明言された。

 更なる主イエスの宣言が18,19節に続く。シモンに「ペテロ()」と言う名前が与えられていたことの意味が解き明かされる。キリストご自身が「岩」なる方として私たちのいのちの土台となっていてくださる。そのお方を心の中心にお迎えし、そのお方と一体とされ、そのお方によって生かされる歩み。ペテロと同じように、イエスがキリスト(救い主)であることを告白(賛美)するものたちによって教会が営まれる。人間には不可能な罪・汚れからの恵みによる解放が宣言される。十字架の贖いによって成し遂げてくださったキリストの恵みの福音。キリストがすべてのすべてである群れ。それが「わたし(イエス)の教会」 

ハデス(「見えないもの」、「死の世界」)の門(立ちはだかるもの)にも負けることがない。圧倒的な勝利の約束。私たちを脅かす見えない先々の不安、悩み、恐怖、刻々と近づいてくる死の厳しい力でさえも勝つことができないもの。それが「主イエスの教会」。 主イエスの教会には、天の御国のかぎが与えられ、罪の束縛、汚れの呪縛、言い知れぬ不安、悩み、閉ざされた道からの解放の力が与えられている。私たちはこの主イエスの恵みの教会の一員とされていることを覚えよう。




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