2004627日三浦聖書教会礼拝メッセージ

使徒93235

「教会の交わりについて」


<主題>

 キリスト者の交わりは、主なるキリストと結び合わされて生きることを励まし合う交わりである。


I.全体の中での93243の意味

前回までで、エルサレムから始まった福音宣教は一応の区切りを迎え、今朝の箇所から新たな展開を見せて行きます。ここでもう一度、使徒の働きの初めにあった復活の主の約束を思い出しておきましょう。18、「しかし、聖霊があなたがたの上に臨まれるとき、あなたがたは力を受けます。そして、エルサレム、ユダヤとサマリヤの全土、および地の果てにまで、わたしの証人となります」。

ここには主の定められた福音宣教の範囲とおおまかな順序が記されています。前回までに、私たちはエルサレムからサマリヤの全土にまで及んだ福音宣教を見て来たのでした。しかしまだ主の約束は完全には果たされていません。「地の果てにまで」という約束が実現していません。それを、「異邦人宣教(あるいは伝道)」と言い換えることができます。エルサレムを首都とするユダヤの人々も、サマリヤ人も、元を辿れば同じイスラエル人です。しかしまだ、イスラエル人以外の所に福音は届けられていない。あのエチオピア人の宦官の救いは例外的にあったけれど、まだ大々的な、すなわち主の教会のわざとしての異邦人宣教は行われていません。それが、この箇所から宣べられて行くことになるのです。

しかし、今朝と来主日に見る9章の終わりには、異邦人伝道についてはまだ述べられていません。異邦人伝道は10章にある、ペテロによる、ローマの百人隊長コルネリオへの伝道から始まります。では、この9章の終わりの記事にはどういう意味があるのでしょうか。


A.コルネリオの記事への橋渡し

一つには、この9章の終わりの記事は、コルネリオの記事への橋渡し的な意味を持っています。コルネリオはペテロがヨッパにいるという噂を聞いて、カイザリヤからヨッパにいるペテロを呼び寄せます。ヨッパというのはイスラエルの西の端に位置しているのですが、なぜそこにペテロがいたのかということを、ルカはこの9章の終わりで説明している訳です。


B.主の権威を帯びた使徒たち

もう一つの意味は、ペテロや、恐らくはペテロを初めとする使徒たちが、イエス・キリストの権威を帯びた、いわばイエス・キリストの大使として、癒しのわざを行ったということを示すためであったと思われます。

ここには二つの癒しの記事が出て来ます。今日見るアイネヤの癒しの記事と、次回見るドルカスのよみがえりの記事です。

ルカはイエスによる同じようなわざを福音書の方に記しています。アイネヤの記事と似た記事は、ルカの福音書51726にあります。そこには友だちに連れられて来た中風の人がイエスに癒されて行った記事があります。あの、天井を破ってイエスの前に吊り下ろされた中風の人です。アイネヤも中風でした。またイエスはその時、「友よ。あなたの罪は赦されました」と言ってこの人を初め癒そうとされましたが、罪を赦す権威を持っているのは神だけだと言うパリサイ人たちの反対に遭いました。そこで彼らにご自分がその神の、罪を赦す権威を持っておられることを悟らせるために、次のように言い換えて癒されたのでした。「あなたに命じる。起きなさい。寝床をたたんで、家に帰りなさい」。アイネヤの場合にも、立ち上がることと、床を整えること(たたむという意味もある)が命じられており、この点でも似ています。もう一つのドルカスの記事と似ているのはルカ84156にある、会堂管理者ヤイロの娘がよみがえらされた記事です。よみがえらされたという意味でも似ていますが、やはりこの時癒しのために発せられた言葉まで似ています。イエスは「娘よ。起きなさい」と言われ、ペテロは「タビタ。起きなさい」と言っています。

ルカはこれらの記事を記す時、イエスがなさった同じわざを意識していたものと思われます。イエスのなさったことを今、ペテロがしている。まさにそれは、ペテロがイエスの権威よってわざを為しているということの証しでした。

ただし、イエスの場合とペテロの場合には大きな違いが幾つかあります。そのうちの一つは、イエスの場合、イエスと出会うまでは信仰を持っていなかった人をお癒しになったのですが、ペテロの場合は信仰者を癒したということです。

36節のドルカスの場合、そのことは明白です。しかしアイネヤの場合には翻訳聖書でははっきりしていません。しかし、よく読むと、アイネヤはほぼ間違いなくクリスチャンの一人であったことが分かります。32節を見ますと、ペテロは「ルダに住む聖徒たちのところへ」下って行ったとあります。ルダに下って行ったのではなく、聖徒たちのところへ下って行ったと言われています。そして33節には、「そこで」すなわち「聖徒たちのところで」アイネヤという人に出会ったとあります。ですからアイネヤは聖徒の一人であったと考えられます。

そうすると今朝の記事(またその次の記事)は、アイネヤという未信者に対するペテロの伝道についてのものではないということになります。したがって今朝の箇所は私たちに、伝道について教えているのではないということにもなります(もっとも伝道についても同じようなことが言えると思いますが)。むしろ、必要のある兄弟姉妹に対してどのように仕えて行くべきかという、信徒同士の交わりのあり方について教えているということでしょう。またその次に、「ルダとサロンに住む人々はみな、アイネヤを見て、主に立ち返った」とあります。教会の内部的なことが語られて、その次に教会の成長が語られている訳です。そうするとこれは、先週見た31節の実例ということが言えるかも知れません。

それでは短い箇所ですが、ここから私たちの交わりということについて学んでみたいと思います。


II.アイネヤの癒し

まずはもう一度、34節だけお読みしておきます。

ペテロは彼にこう言った。「アイネヤ。イエス・キリストがあなたをいやしてくださるのです。立ち上がりなさい。そして自分で床を整えなさい。」すると彼はただちに立ち上がった。


A.名前を呼ぶことに表された慈しみ

まずはペテロの「アイネヤ」という呼び掛けから学びたいと思います。ペテロは「アイネヤ」と、名前で、この中風の人に呼び掛けています。イエスもまた弟子たちや癒した人たちの名前を一人一人呼んでくださったのでした。

しかし実際に名前を呼ぶかどうかは重要なことではありません。むしろ、私たちの話し掛ける相手が話し掛ける人にとって本当に大切な人であるということ、いっぱいいる内の一人ということでなく、かけがえのない人であるということが分かるように呼び掛けるということが大切なことだと思います。

イエスは常にそうでした。先程挙げたルカの福音書の平行記事で、イエスは中風の人に「友よ」と呼び掛けておられます。けれどもパリサイ人たちは罪を赦す権威を問題としたので、イエスは権威を示すために、「あなたに命じる」と言い直されました。イエスは確かに、私たち一人一人の名前を親しく呼んでくださらなくてもいい、そういう方です。権威ある王です。けれどもそういう高貴な方が、敢えて人々の現実にまで降りて来てくださり、「友よ」と一人一人に呼びかけてくださるのです。その愛、恵み、あわれみは、変わることがありません。マタイ福音書の26章を見ますと、イエスは彼を裏切って捕らえにやって来たユダにさえ、「友よ」と呼び掛けておられますし、ルカの福音書の同じ場面を描いた箇所では、「ユダ」とその名を呼んでおられます。

この辺りが私たちの苦手とするところです。先日、ユニケ会(教会の子どもを持つ婦人たちの学び)の学びの中で「はっ」と気付かされたことがありました。そこで使っているテキストの中に、こんなことが書いてありました。「夫婦が互いに呼び合うとき、お父さん、お母さんと呼び合うが、お父さんとかお母さんとかいう呼び方は、子どもにとっての呼び方である。互いにとって互いがどうであるかという呼び方でない」。そういう意味のことが書いてありました。なるほどなあ、と思わされました。照れから来るのか、いずれにしても互いに正面から向き合っていない。そこで相手が「自分にとって」かけがえのない存在であるということが相手に伝わらない呼び方をしてしまう。確かに私たち夫婦の間にも思い当たる節がありました。「自分にとって」、自分の話し掛けている相手がどういう存在であるのか、本当に「自分にとって」かけがえのない大切な存在であるのか、そうでないのか、そういったことがはっきりと相手に伝わる呼び掛け方、話し方をする必要があると思わされました。

そもそも私たちは互いをそのようなものとして意識しているでしょうか。意識していると思います。そうであるなら、表現においてもそれが伝わるような表現が出来るように、努力して行きたいと思います。


B.癒し主と結び付けること

とはいえ、どうしても人間的にウマが合わない、あるいは親しく呼び掛けることを躊躇してしまう、そういう相手もいるかも知れません。ましてやとてもイエスのように、自分を裏切る相手に対して友とは呼べない。そこで必要になって来るのが、第二番目のことです。私たちの交わりにとって必要な第二番目のことは、最初のものよりももっと大切なものです。それは「イエス・キリストにある交わり」です。

ペテロは「アイネヤ」という呼び掛けに続いてこう言っています。「イエス・キリストがあなたをいやしてくださるのです」。ペテロはここで、アイネヤを癒すのはペテロ自身ではなく、イエス・キリストだということをはっきりと宣言しています。彼は人を癒す時、イエスの御名に訴えました。すでに見た3章には、「美しの門」の前に座っていた生まれつき足の萎えた人をペテロが癒したことが記録されています。その時ペテロは言いました。「金銀は私にはない。しかし、私にあるものを上げよう。ナザレのイエス・キリストの名によって、歩きなさい」。

最近、病院に行くと、「医師や看護婦に対するお礼はいっさい受け付けておりません。ご遠慮ください」みたいな張り紙をよく見掛けます。私はこれは立派な態度だと感心していました。けれどもこの前テレビを見ていたら、その実際は巨額の礼金が払われることがよくあって、その額次第で有名な先生に見てもらえるかどうかが決まるということが今でもごく普通に行われているそうですね。

医者の傲慢を思います。「自分が治してやっている」、そんな思いが背後にあるのでしょう。けれども真の癒し主はお一人だけです。この方が治すと決めなければ、治る者も治らない。けれどもこの方が癒すと決めたら、どんな名医でも癒すことのできないような不治の病でも癒される。医者が本当の意味で傲慢から解放されるためには、この真の癒し主を知って、この方の前に謙り、祈り求めるようになるしかありません。その時初めて患者を一人の人として認め、血の通った治療ができるようになるでしょう。

私たちはどうでしょうか。病気を癒すだとかそんな極端な例でなくても、何か兄弟姉妹の必要を満たそうとする時、誰の名においてするでしょうか。多くの場合、それを自分のわざとしてはいないでしょうか。私たちが兄弟姉妹を受け入れることができないとしたら、それはこの辺りに原因があるのではないでしょうか。相手を自分の思い通りにできると思っている。相手を変えることができるのは主だけなのに、自分で相手を変えようとしたり、相手の真の必要を知って満たすことがおできになるのは主だけなのに、自分がその必要を満たしているような気になっている。私はそういう間違いをよく犯します。あの人に何とか変わって欲しい、そんな風に思って、でも祈りを欠きながら、自分の力で相手を変えようとしてしまう。その結果、相手との関係がギクシャクする。自分も苛立つ。皆さんにもそんなことはないでしょうか。真の癒し主の御前に謙って、この方の名においてことを為し、この方と自分の向き合っている相手を結び付けることに専心したいと思います。そうでなければ相手が本当の意味で癒されることも、私たちが相手の兄弟姉妹となることもできません。私たち一人一人がこの主の前に謙るとき、私たちの間にも本当の意味での交わりが生まれます。主にあって交わることを覚えたいと思います。


C.その人が主と共に歩むことを励ますこと

私たちの交わりについてここから学び取ることのできる三番目の事柄に進みたいと思います。それは、主と結び合わされた人から「手を離す」ということです。それは第二点の裏返しとも言えます。

ペテロはアイネヤに言いました。「立ち上がりなさい。そして自分で床を整えなさい」。何か突き放すような物の言い方だと思いませんか。今まで床に伏せっていた人に対して自分の足で立ち上がるように、そして自分で床を整えるようにと言うのです。「大丈夫ですか。手を貸しましょうか。どこか痛くありませんか。何か必要があったら言ってください。私が布団も畳んで上げましょう」とは、ペテロは言わない。自分のその足で立って、自分で床を整えなさい、自立しなさい、と言うのです。

以前の私ならば分かりませんでしたが、今の私にはこのペテロの優しさ、というかアイネヤに対する愛が、よく分かるような気がします。ペテロは冷たいのではない。その人が自分と結び付いてしまったら、自分にべったりになってしまったら、決してその人が救われることはない。その人が立ち上がることはない。自分で床を畳めるようにもならない。ただその人が主と結び合わされ、主と共に自分の足で歩こうとして初めて、その人は立ち上がることができる。ペテロはそのことを本当に信じていたし、主の愛と力に委ねる方がずっと安全だと知っていたので、こう言うことができたのです。ペテロはすべてのものをお造りになったのは主イエスであり、またすべてのものを保っておられるのも主イエスであり、人を癒すことがおできになるのも主イエスであると知っていたので、この人から手を離すことができたのです。

私はここを読む時、多くの先輩牧師たちのことを思い起こさせられます。中でもI先生のことを思い出します。これは奥様から聞いた話ですが、先生はA教会の牧会を退かれてからは、そこの教会員の方々との、牧会者と信徒としての交わりを見事に断ってしまったということです。何か教会員からの相談事と思われる手紙が来ると、それを見ずに破いて捨てたと言います。一つには、後を引き継いだ牧師に対する配慮からだったと思いますが、何よりもそれは、主と結び合わされた人たちが、本当の意味でその交わりの中を、救いの中を、生き続けて欲しいという願いからであり、真の主権者なる方に対する信頼とその方に委ねる信仰から出たものであったと思います。

H姉妹の葬儀の時にもご紹介したエピソードですが、あるスウェーデン人の老宣教師の方の話をここで紹介したいと思います。この方は私の友人である若い牧師に牧会を引き継ぐ時、こういう意味のことを言ったそうです。「あなたの、イエス様と結び合わされた片方の手を離して、その手で誰かの手を握りなさい。その次にその人の手を、自分がもう一つの手で握っているイエス様の手と結び合わせなさい。それからその人の手を離しなさい。それが牧会者の仕事です」。ペテロが今朝の箇所でしていることも、このことではないでしょうか。「アイネヤ」という呼びかけは、アイネヤと自分が手を結ぶ行為です。「イエス・キリストがあなたをいやしてくださるのです」という宣告は、アイネヤの手とイエスの手を結び付けることです。「立ち上がりなさい。そして自分で床を整えなさい」という命令は、イエスと結ばれたアイネヤの手を離すことです。一言で言うならば、私たちの交わりとはこのように、イエス・キリストと結び合わされて生きることを互いに励まし合う、そういう交わりと言うことができるのではないでしょうか。そこに、世の中にはない、本当の意味での教会の愛の交わりがあるのではないでしょうか。

そういう交わりを通して、アイネヤは癒されて行ったのです。


III.教会の証しによって主に立ち返る

その教会の交わりの実を見て、「ルダとサロンに住む人々はみな、…主に立ち返った」(35節)とあります。ペテロとアイネヤの間にあった交わり、当時の教会の交わりが、生きて働かれる主を中心とする交わりでなかったら、彼らが「主に」立ち返るということはなかったでしょう。

私たちの交わりはどうでしょうか。片方の手は主に、そして片方の手は兄弟姉妹に結ばれているでしょうか。時として両手共に神と結んでしまってはいないでしょうか。逆に、もっとありそうなことですが、両手共に人と、繋いでいるということはないでしょうか。またそういう兄弟姉妹が出て来た時に、私たちも一緒になって両手ともその人に結んでしまうようなことはないでしょうか。その人が主と結び合わされることを励まさないで、ただ同情するだけで終わってしまってはいないでしょうか。

どうか生きて私たちの間に働いてくださっている主が、私たちの交わりを主にある、真の愛の交わりへと進ませてくださいますように、またそういう私たちの交わりの中に入れられた方々が主と結び合わされて、救いを得ることができますように。お祈りして終わりにしましょう。