2024年12月1日  「聖霊による宣教の前進R『聖霊を受けさせることによる宣教の前進』」
          使徒言行録 19章6節
1.イエスを信じているのに聖霊を知らない人々がいた
@パウロは第二回伝道旅行でエフェソに立ち寄った
 コリント→プリスキラ,アキラと共に出発→ケンクレアイ(18)  →エフェソ:単身会堂に入り論じ合い即船出 (18:19-21)  →カイサリア→エルサレム→アンティオキア到着(18:22)
Aエフェソ残留中のプリスキラとアキラがアポロと出会った
 プリスキラとアキラはエフェソ残留→アポロが来る(24,25)  アポロはヨハネの洗礼しか知らなかった(不完全な知識)  プリスキラとアキラが正確に教えアポロはコリントへ渡る
B第三回伝道旅行でパウロはエフェソにやってきた(19:1)
 エフェソの弟子達12人はイエスを信じていたのだが...  イエスの名による洗礼を受けてなく聖霊も知らなかった
2.洗礼を受けたら当然聖霊のバプテスマも続けて受ける
@信仰に入った時聖霊を受けた?→当然受けると認識
 信じて洗礼を受けたら当然聖霊のバプテスマを受ける  「イエスを信じる」→「洗礼を受ける」→「聖霊も受ける」  この流れが、パウロにとっては「当然」のことだった この3つでワンセット
Aいいえ聖霊があるかどうか聞いたこともありません (2)
 エフェソの弟子達「聖霊を知らない」←えっ?おかしい!  「イエスの名で洗礼を受けたら、時を置かずに聖霊のバプテスマも受けるはず」という常識  どんな洗礼を受けた?→バプテスマのヨハネの洗礼  ヨハネの洗礼=イエスの来られる道備えのための洗礼   →ヨハネの洗礼は、バプテスマのヨハネの後に来られるイエスを迎えるための洗礼   →1)ヨハネの洗礼を受ける→2)イエスを迎える→3)イエスの名による洗礼を受ける→4)聖霊のバプテスマを受ける  ヨハネの洗礼←それだけでは聖霊と直接的には関連性はない  ヨハネの洗礼は、聖霊のバプテスマと直接結びつくものではななかった  聖霊のバプテスマは、イエスの名による洗礼を受けたのちに必然的に続くもの  要はイエスを受け入れて、イエスの名による洗礼を受けて聖霊のバプテスマを受けることが大事  イエスの名による洗礼を受けるなら、ヨハネの洗礼は受けていても受けていなくても問題ない  逆にヨハネの洗礼しか受けていないのなら、イエスを迎え入れてイエスの名による洗礼を受けなければならない  イエスを迎え入れているのにヨハネの洗礼しか受けていないのなら、  イエスの名による洗礼も受けなければならない  イエスの名による洗礼を受けて、その後に続く聖霊のバプテスマも受ける必要がある
Bパウロが彼らに洗礼を授け手を置くと聖霊が降った
 完全な洗礼=イエスの名による洗礼(19:5)→これこそが受霊(聖霊のバプテスマ)に続くもの  パウロは彼らにイエスの名による洗礼を授け、さらに彼らの上に手を置いた→  すると彼らは、異言を話したり預言をしたりした(6)=聖霊のバプテスマを受けた
3.信じたら当然聖霊を受けて聖霊の力で宣教していく
@聖霊のバプテスマはオプションではなく必要不可欠
 聖霊のバプテスマはイエスが約束された重要事項(1:8)  聖霊が降ると力を受ける→受けなければ力がないまま  聖霊の力で地の果てに至るまでイエスの証人となる
A使徒言行録における宣教は聖霊のバプテスマで始まる
 聖霊が降るまではとどまる→聖霊が降って始まる(2:14-)
B使徒言行録における宣教は聖霊の力で継続している
 ペトロ(4:8)一同(4:31)ステファノ(6:5,8,10)サマリア(8:15)  アナニアがパウロに洗礼「聖霊に満たされるため」(9:17)  ユダヤ,サマリア(9:31)異邦人(10:44)宣教命令(13:2-4)  アジア(13:52)→進路も(16:6) 人の力ではない! (ガラ3:3)
むすび.信仰者は聖霊を受けて信仰生活を送り宣教する
 洗礼だけで終わっていてはならない。聖霊の力が必須  すべてのクリスチャンが聖霊のバプテスマを受けるべき  今日も聖霊のバプテスマを求めよう!  日々聖霊に満たされて、導かれて、助けられて歩むのだ!  自分の力の限界を超えることができる  神の力によって、生きていくことができるのだ!