1.ユダヤ人信徒の誤解「律法を守り続けるべきだ」(15:5)
@「イエスを信じても律法を守らないといけない」という誤解 ←特に割礼
異邦人が救われ始めると新たな問題と議論が起きた。
ユダヤ人クリスチャンの主張「割礼を受けなければ救われない」(使15:1)
その理由は...
創17:14「無割礼の男は民の間から断たれる。」とはっきりと書いてある。
無割礼は神との契約違反になる。無割礼の異邦人クリスチャンは割礼を受けるべき。
「異邦人も救われる」ということはコルネリウスの件で明確になっていたが
「異邦人は割礼を受けてユダヤ人とされて救われる」という誤解が残存。
「救いに割礼は不要」というパウロたちと議論になった。
A大事なのは心に割礼を受ける事=心の覆いを取り去る
旧約聖書には、心の割礼こそが重要であるとも記されていた
「主は《心に割礼》を施し主を愛させ命を得させる(申30:6)」
「あなたたちの《心の包皮を取り去れ》(エレ4:4)」=心を露にせよ
→心の中の罪を神の前に覆い隠すのでなく、露にして悔い改めるのだ
B心の罪を露にし悔い改め神に従って生きることこそ重要
パウロは手紙の中でわかりやすく説明している。
「キリストの割礼」=「肉の体を脱ぎ捨てること」 (コロ2:11)
→クリスチャンにとっての割礼とは、肉の欲に生きる罪の生き方を捨てること=《悔い改め》
ステファノの最後のメッセージにも、割礼が語られている。
かたくなで《心と耳に割礼を受けていない人たち》(使7:51)
「心に割礼がない人たち」=「神に心と耳を開いていない人たち」=「悔い改めていない人たち」
割礼の意味するところは、「罪を悔い改めて主に従う」ことにあった。
悔い改めのない形式的な割礼など、本来無意味だということがわかる。
旧約時代も、神に従うからこそ割礼がその印として有効だった。
2.イエス・キリストは律法を終わらせ廃棄された (エ2:15)
@イエスが来て割礼は不要になり心の割礼こそ必要となった
律法の要求を実行すること → 割礼なしで割礼を受けたのと同じ(ロマ2:26)
肉体に割礼を受けなくても、割礼の意図することを実行しているなら割礼を受けたのと同じこと。
聖霊によって《心に施された割礼》こそ真の割礼(ロマ2:29)
「内面がユダヤ人である者こそユダヤ人であり、
文字ではなく“霊”によって心に施された割礼こそ割礼なのです」(ロマ2:29)
A律法=見合い写真と同じ→やがて来る花婿キリストを写していた
割礼は旧約聖書の律法に記されている重要な規定であった。
しかし律法そのものは、キリストを指し示す写真のようなもの。
過越祭:小羊を屠る→十字架で小羊「キリスト」が死ぬ
大祭司:民の贖罪→「キリスト」の十字架による罪の贖い
神殿 :神に犠牲を献げ礼拝する場所→「キリスト」ご自身
割礼 :神に従う民である印
→ 「キリスト」を信じて受ける聖霊による証印
「キリスト」において救いをもたらす福音を聞き、
信じて、約束された聖霊で証印を押された(エフェ1:13)
悔い改めて「キリスト」によって赦され、
聖霊を受け聖霊の証印を受けて、神の子とされ神に従う民となった。
肉体的な印は不要となった。目に見えない聖霊の証印に変わった。
Bイエスは律法の完成者であり律法を終わらせた (ロ10:4)
見合い写真は本人が来るまでの物。本人が来たら役目終了。直接会えるから。
律法も、キリストが来られた時点でその役目を終えた。
生贄も神殿も大祭司も祭りも割礼も、一切不要になった。→律法の終焉
律法が終わったからといって、神に従うことが終わったわけではない。
キリストを信じることによって、さらに自由に神に従えるようになった。
命じられてではなく、自発的に律法の要求を満たして生きられるようになった。
3.教会は律法の行ないが救いに不要なことを理解した
@「異邦人にも割礼を!」と言われたことで最終的に「割礼不要」が明確になった
従来は、形式的に割礼を受けるだけだった → 人々は、その真の意味を理解していなかった
割礼でなく大切なのは「新しく創造されること」(ガラ6:15)
割礼を受ける事自体でなく、割礼が要求していたことを行うことが求められていた。
「割礼を受けなければ救われない」という議論によって何が起きたか?
教会:肉体の割礼が、救いには一切不要で無関係という理解が定着した
今後の異邦人宣教における重要な課題が解決された。「割礼は不要」
A「律法がイエスによって完成した→人間側は信仰のみ」と教会全体が理解した
教会が理解したことは、律法がイエスによって完成したということ。
割礼をはじめとする律法の行いは、救いに不要だということ。
イエス・キリストによって、律法は終焉を迎えたということ。
絶対に守らねばならなかった律法の伝統が終了した。
旧約の律法は救い主が来るまでの限定的な物だった!
律法=養育係に過ぎなかった
聖霊に満たされた人々が集まっていた教会においてさえ、
このような伝統的慣習の打破は、容易ではなかった。
しかも聖書に明記されている規定であったからなおのこと。
しかし先祖から引き継がれてきた伝統的慣習は、打破されなければならなかった。
それはある人々の職を失わせることでもあった。
大祭司や祭司職についていた者たちにとって、それは職を失うことを意味していた。
そういう神学的誤解や職を失わさせるという「大きな壁」を乗り越えることによって
異邦人宣教のための神学的基盤が築きあげられ、宣教が進んで行った。
B「救いと律法に対する正しい理解」は、異邦人伝道を適正化した→「律法の行いは不要」
教会は、コルネリウスの件で異邦人も救われると理解していたが
更に第一回の異邦人伝道によって、多くの異邦人たちが救われ
「無割礼は問題ではないか?」と考える人たちによって、議論が引き起こされた。
しかしこの議論によって「イエス・キリストによる救い」に関する神学的理解が進んだ。
「信仰によって救われるのであって、律法の行ないは無関係」という共通認識が生まれた。
教会における律法の行いと救いに対する理解が進んだ。
「律法の行いは救いにとって不要だ」ということが明確化され、
教会の共通認識になることによって
→ 異邦人宣教が更なる前進をすることになっていった
むすび.異邦人宣教前進のため正しい理解が与えられた
異邦人宣教前進のためには、救いに関して正しい理解が必要だった。
教会の中に、少しでも誤った考えが残存していてはならなかった。
今回の議論によって教会は混乱しかけたが、正しい認識に落ち着いた。
異邦人宣教前進のため正しい理解が与えられたことにより
異邦人宣教はますます前進することになった。
私たちも、教会で伝統的に行っている事で、
もしかしたら「割礼を受けねばならない」というような、誤解によって
継続しているものがあるかもしれない。それらはきっぱりと捨て去らねばならない。