1.パウロは石で打たれて瀕死の状況になった
@パウロは聖霊に導かれ第一回伝道旅行に出かけた
パウロたちの第一回伝道旅行は、まずキプロス島へと船で向かっている
その後はキプロス島から船出して、以下のように進んだ
キプロス → アンティオキア → イコニオン → リストラ
しかし、アンティオキアからは追い出され(13:50)、
イコニオンでは長くとどまることができて、勇敢に福音を語ったが、
石打ちにあいそうになったため(14:3-) 避難することになった
Aリストラでは素晴らしい癒しの奇蹟が行われた
続いて行ったリストラでは、足の不自由な人がパウロによって癒された(14:8-10)
素晴らしい神のみわざが異教の地で起こっていった
リストラの人々は、パウロとバルナバを異教の神々が下ってきたと誤解するほどだった
Bユダヤ人たちが来てパウロを石打ちにしパウロは死んだようになった
パウロの噂を聞きつけたユダヤ人たちが、アンティオキアとイコニオンから来た
彼らは、パウロに石を投げつけ、パウロが死んでしまったものと思った
彼らはパウロを町の外へ引きずり出した
パウロは意識がない状態に陥った もしかしたら死んでいたのかもしれない
2.パウロは何事もなかったかのように起き上がり回復
@パウロは肉体的に完全な回復をしている
ところが、弟子たちがパウロの周りを取り囲むと、パウロは起き上がり町に入って行った
石打ちで死んだと思われたほどだから、あちこちから流血し重傷だったのではないか?
あざだらけで、軽いところでも打ち身、重いところは骨折や内臓破裂、脳内出血もしていたはず
しかしパウロは、平然と起き上がって町に入っている
そして翌日には、デルベへ向かい宣教を続けている
傷の治療をしたり、体の回復のために休んだりした様子がない
何か、超自然的な回復のわざが起きている
Aパウロのその後の旅程は健康な人そのものの行程
その後もパウロたち二人は、デルベで福音を告げ知らせ、多くの人を弟子にし
リストラ,イコニオン,アンティオキアへと引き返している(14:21)
とても重傷を負った人の行程ではなく、それは健康な人の動きとしか言いようがない
Bパウロは苦しみは宣教に付きものだと語る
パウロは、弟子達を力づけ神の国に入るには多くの苦しみを経る
と信仰に踏みとどまるように励ましている (14:22)
石打ちで死んだようになったパウロが語るその言葉には、重みがあった
そんなにひどい苦しみを受けても、このように回復するのだという
証しの言葉にもなっていた
宣教に苦しみは付き物だが、このように神は回復も与えられるのだということを示した
3.たとえ瀕死のような状況からでも神は回復させて下さる
@神は石で打たれ瀕死の状況になることをゆるされた
パウロは石打で回復したが、ステファノは石で打たれて殉教している
パウロも同じ状況だったから、あの時殉教していてもおかしくなかった
事実ユダヤ人たちは、パウロが死んでしまったと思っている
ステファノもパウロも福音を語って、反対者たちから石打ちの目にあった
どうして神は守って下さらなかったのだろうか?と疑問がわくかもしれない
しかしそこに神の計画があった事を教えられる
ステファノの殉教とそれに続く教会に対する大迫害は
福音が、ユダヤとサマリヤの全土に、爆発的に広がっていく起爆剤の役目を担った
パウロの石打ちの苦しみは、神の瞬間的な癒しと回復を証しするものとなった
Aパウロは、瀕死の状況が嘘のように宣教を継続した
パウロは石打で流血し骨折や打撲で重症だったはず
主の癒しは一瞬で完璧。次の瞬間起きて歩いている
宣教が始まったばかりでまだまだ彼には、使命があった
ステファノの使命は殉教で終わるものだったが、パウロの使命はまだまだ続きがあった
パウロは宣教の使命をまだまだ果たさなければならなかった
だから同じ石打の目に会ってもステファノは殉教し、パウロは回復している
その使命が残された者には、神は必ず回復を与えて下さり
残された使命を、最後まで果たすことができるようにしてくださる
パウロも残された使命を果たすべく、宣教を続けていったのだ
Bもうだめだという状況でも神は見事に回復される
神にはできないことなど一つもない
イエスを生き返らせた神は、瀕死の人をも回復させる
ステファノを回復させられなかったのでなく神の計画だった
神の使命の真っただ中にある私たちも、苦しみに会うのは確か
宣教には苦しみがついてくる
しかしその苦しみがいかに大きなものであろうとも、神は必ず回復を与えて下さる
むすび.瀕死のような状況でも神は回復させて下さる
人間的には絶望的な状況でも、神は見事に回復を与える
これを信じ続けて、自分自身に与えられた使命を全うしていくものとなって行こう
神が回復してくださることを疑わずに、神に信頼を置き続けていこう