2022年9月18日  「見ないと信じられないことからの解放」
          ヨハネによる福音書 20章24〜29節
はじめに.イエスの十字架前後の弟子たちの動揺
@弟子たちは皆「イエスがこの世にイスラエル王国を作る」と思っていた
 弟子たちはイエスを、聖書に預言されていたメシア(救い主)と思っていた  メシアなら王であって、あのダビデ王のようにいやそれ以上に堅固なイスラエル王国を  この地上にもたらしてくれるはずだ、そう思っていた  ヤコブとヨハネは、「イエスが王となった時に、王座の左右に座りたい」と願っている(マル10:35-37)  「栄光をお受けになるとき、わたしどもの一人をあなたの右に、もう一人を左に座らせてください。」  イエスがこれから作られるイスラエル王国での、名誉ある地位が欲しかった  復活後の昇天前にも、使徒たちは王国についてイエスに尋ねている  「主よ、イスラエルのために国を建て直してくださるのは、この時ですか」と尋ねた。(使徒1:6)  ローマ帝国の支配下から脱却させ、自分たちの王国を作ってくださるはずという認識だった
A弟子たちは「イエスが十字架で死んでしまう」とは予想もしていなかった
 まさかイエスが捕らえられて、裁判にかけられて十字架刑になるなどとは思いもしていなかった  何度もイエスは十字架と復活の予告をしていたのだが、彼らはそれを理解していなかった  だからゲッセマネでイエスが捕らえられた時、彼らは意表をつかれ驚き恐怖に捉えられた
B弟子たちはイエスの十字架での死後恐怖の中でおののいていた
 ゲッセマネで弟子たちは皆、イエスを見捨てて逃げ去っている  その後イエスは、ゴルゴダの丘で十字架につけられて死んでしまった  弟子たちの心の中は「恐怖」「動揺」「疑問」「絶望」などで、渦巻いていたことだろう  そこに「喜び」も「平安」もなく、ただただ失意のどん底で弱り果てた心があるばかりだった  「嘆き悲しみ」「悩み苦しむ」そんな弟子たちの姿だったことだろう  そこには、「イエスが死からよみがえる」という復活の信仰も皆無だった
C恐怖におののく弟子たちの中に復活のイエスが突然現れた
 そんな弟子たちの中に、突然復活したイエスが現れたのだから  弟子たちの驚きは、どれ程だったかしれない。  失意のどん底から喜びの頂点に引き上げられ、「恐怖」「動揺」「絶望」が払拭されたことだろう
D復活のイエスが現れた時、トマスはそこにいなかった
 ところがその時、そこにトマスがひとりだけいなかった  みんなが復活したイエスに会って喜んでいた時、トマスはそこにいなかった  トマスが帰ってきた時には、もはやイエスの姿はそこになかった
1.トマスはみんながどんなに語っても信じられなかった
@ほかの弟子たちは皆「私たちは主を見た」と言った
 他の弟子たちは皆ひとり残らず、「主イエスを見た」と語っていた  彼らの中で「いや私は見てなかった」「いやあれは違う」と語る人は無かった  皆声をそろえて、「イエスがよみがえった」と言っていた
Aトマスは「実際に見なければ決して信じない」と語った
 トマスは他の弟子たちの言葉を聞いて、どう思っただろう?  「そうか!イエス様はよみがえったのか!」と喜んだだろうか?  彼はこう語っている  「あの方の手に釘の跡を見、この指を釘跡に入れてみなければ、   また、この手をそのわき腹に入れて   みなければ、わたしは決して信じない。」(20:25)  「死んで墓に葬られたのによみがえるなんて、そんな馬鹿なことがあるか!」  「ちゃんと確認したのか?手に釘跡があったか?本当にイエス様だったか?」  トマスの心の中は、そういう思いだっただろう
B彼の周囲に流されない堅い意志と慎重さが逆効果に
 トマスは、極めて「常識的」な人だったことがわかる 論理的で常識的  トマスは、容易に人の言葉に左右されない「堅い意志を持つ人」だったこともわかる  自分の目で見て確かめるまでは、決して決めつけないという「慎重さ」も兼ね備えている  長所のように見えるが、信仰においては短所になった  神のみわざは、人間の常識を超えるみわざ  神が求めることは、「見ないで信じることであり聴いて信じること」  トマスはその逆で、自分の目で見ないことには信じられなかった
2.なぜトマスは見ないと信じられなかったのか?
@トマスは結構わかっていなかった
 (a) イエスが死んだラザロのところに行こうといった時   すると、ディディモと呼ばれるトマスが、仲間の弟子たちに、   「わたしたちも行って、一緒に死のうではないか」と言った。(ヨハ11:16)   トマスは「死んだラザロのところに行く=自分たちも死ぬ」と誤解している      実際は「死んだラザロを生き返らせに行こう」ということだった   イエスが、ラザロを「生き返らせに」行こうとしていたのに、   死んだラザロと「一緒に死のう」としているのだと、正反対のことを考えてしまった  (b) イエスが「天で場所を用意したら、戻って来くるよ」と再臨の予告をした時   トマスが言った。「主よ、どこへ行かれるのか、わたしたちには分かりません。   どうして、その道を知ることができるでしょうか。」(ヨハ14:5)  (c) 他の弟子たちが復活のイエスに会ったのに自分だけそこにいなかった時   そこで、ほかの弟子たちが、「わたしたちは主を見た」と言うと、トマスは言った。   「あの方の手に釘の跡を見、この指を釘跡に入れてみなければ、    また、この手をそのわき腹に入れてみなければ、わたしは決して信じない。」(ヨハ20:25)
Aわかっていないのに、自分の判断基準を優先し神の偉大な力を限定した
 彼の判断の基準は、すべて自分自身の経験と知識によって自分で構築したものの範囲内  大きな神の働きがそこに確かに「あった」のに、自分の考えで「そんなものはなかった」としてしまう  自分の考えが神のみわざと合わなかった時には、自分の考えの方を優先させてしまう  「いくら神でも、ここまでしかできない」と、神のみわざを自分の考えで限定してしまう  これは、「神のみわざ」よりも「自分の考え」を優先してしまうという、「自己中心」そのもの  トマスが否定していた時そこにあったのは「神のみわざよりも自分の考え」という、「自己中心」だった  しかし神のみわざは、彼の経験や知識を超えるもので確かにそれは起きていた  → 自分の経験と自分の知識による判断基準は、神のみわざを受け入れることを邪魔する   自己中心という堅い岩は、神のみわざを受け入れる障害となってしまう  それはナザレの人々が、イエスを受け入れられなかったことにも似ている  イエスが故郷にお帰りになって会堂で教えておられると、人々は驚いた。  「この人は、このような知恵と奇跡を行う力をどこから得たのだろう。この人は大工の息子ではないか。」(マタ13:54-56)  「大工の息子が何やってんだ?どうしてこんなに知恵があって、奇蹟をおこなえるんだ?」  大工の息子がメシアのはずがない、預言者なんかであるはずがない、という自分たちの判断  神の与えて下さった救い主イエスを、受け入れることができなかった  人々が不信仰だったので、そこではあまり奇跡をなさらなかった。(マタ13:58)
B結局イエスの復活を否定する不信仰告白に至った
 経験:トマスは、ラザロの生き返りの奇蹟も見ていた → 生き返らせたのはイエス     「イエスは、死人を生き返らせることができる」     これはトマスの判断基準にも確かにあった     事実、その他にもイエスが多くの死人を生き返らせていることを幾度も目撃していた  状況:そのイエスが死んでしまった → 墓に葬られた     ゲッセマネでトマスは逃げたが、イエスの十字架での死の事実と     墓に葬られた事実の誤認はなく、確かに死んで葬られたと確認している  判断:死んだイエスが、どうして自分自身を生き返らせることができるのか?     → イエスは確かに死んでしまった     → イエスはラザロを生き返らせることができたが、しかし     → 自分が死んでしまったら、自分自身を生き返らせることなどできるはずがない       ここに、自己流の判断基準で判断してしまう愚かさが露呈している  いくら「イエスはよみがえった」と多くの人から聞いても、それだけでは  自分の判断に固執することから離れられなかった 聞けば聞くほど、頑なに拒む  実際に自分の目で見れば確かにそうだと思うが、話だけではとても信じられない  神:「人にはできないことも神にはできる」  彼の判断基準には、神の全能性に対する認識が不足していた  神の全能性 → イエスをよみがえらせることもできる  「自分の見た事しか信じない」という、彼の判断の基準が間違っていた  この後トマスにも復活のイエスが現れて、彼は信じた トマスは答えて、「わたしの主、わたしの神よ」と言った。(ヨハ20:28)  文字通り「百聞は一見にしかず」の出来事だった  「百聞は一見にしかず」ではあるが、一見しなくても信じることが重要  イエスは「見ないで信じる者は幸いである」と言われた イエスはトマスに言われた。「わたしを見たから信じたのか。見ないのに信じる人は、幸いである。」(ヨハ20:29)
B語っている人たちに対する不信感=信頼していない
 他の弟子たちの言葉を全面的に信頼せずに、否定してしまった  彼らが間違っていると考えた。きっと見間違いだろう!  隣人の言葉を容易に受け入れず、逆に否定する傾向  「もっと詳しく聞かせてくれ」ではなく、あからさまな否定  トマスと一緒に、イエスの弟子として行動を共にしていた10人が語っているのに、  全面的に否定している まったく10人を信頼していない姿がそこにある  聞けば聞くほど、頑なに拒む
C皆よりも自分の方が正しい=自分が一番という傲慢
 他の皆の方がおかしい。自分の判断が唯一正しい  「自分が一番正しい」→「自分だけが賢い」→「自分が一番偉い」  「誰が一番偉いか」(ルカ22:24-26)という議論にも通じる、強い自我意識「オレが一番だ!」=自己中心性  「自分だけが正しくて、他のものはみんな間違い」というのは傲慢  傲慢=高ぶって、人をあなどり見くだす態度
3.見ないで信じるためにトマスから学べる事
@自己流の判断基準を捨てて神の基準に合わせる
 自己流の判断基準は、神のなさっていることとずれる  エマオの途上のクレオパも、自己流判断で理解できなかった  自己流の判断基準よりも、神に聴く姿勢の方が大切
A隣人を愛するとは隣人を全面的に信頼すること
 もしトマスが他の弟子たちを真に信頼していたら  彼らの言葉を受け入れ見ないで信じることができた
B自分が人々の中で一番正しいという傲慢を捨て去る
 自分こそが誰よりも正しいなどと、思いあがらない  正しいお方は神だけ。いつでも神に聴く姿勢を持つ
むすび.見ないで信じることを神は望んでおられる
 私たちが見ないで信じることを神は願い望まれている  トマスではなくアブラハムのように見ないで信じよう!