1.旧約の律法はキリストを写し出す写真のようなもの@動物犠牲:キリストの十字架の血潮を映し出す写真律法では罪のゆるしのためには動物の犠牲が必要 キリストの血潮だけが全人類の罪を赦すことができるA神殿:キリストによってのみ神に近づけることの写真神を礼拝する場所はエルサレムの神殿だけだった 神の前に行くことができる道はキリストだけB割礼:キリストを信じて神の民となることの写真神の民になるためには割礼を受ける必要があった キリストを信じるという信仰こそ神の民になる条件 以前は律法を守ることこそ重要だった2.キリストは律法の終わりになられた@キリストが律法を終わらせられた (ロマ10:4)動物犠牲も、神殿も、割礼も、大祭司も、祭りも終わった それらはすべてキリストを指し示すものだったから キリストが到来された時点で終了。十字架の言葉「完了した」Aキリストを信じたら律法を行って義を得ようとしない律法を行って自分を義としよう → 不完全な自分の力に依存 → 義とされることはない 信仰によって義とされる → 神の一方的な恵み → 完全に義とされる もはや私たちの努力は不要になった → 信じるだけでよいB殊更に律法を守って義とされようとするなら反逆行為キリストは律法を完全に守ったのと同じにして下さった → 私を、完全に義としてくださった にもかかわらず、律法を行って義とされようとするならそれを無にすることになる 「私はキリストによって義とされていません」という告白をしているようなもの たとえて言うなら、クリーニングに出してきれいになって返ってきた服を もう一度、自宅の洗濯機で洗い直そうとしているようなもの すでにきれいなのだから、洗う必要はない。クリーニング店を信用していないことになる ガラテヤの諸教会はその状態に陥っていた だから律法をおこなって義とされようとすることを、やめなければならなかった3.信仰が行動に示され、それが律法の要求を満たすことに@信仰は行動に表れてくるキリストの十字架による赦しを信じると、「神を愛し隣人を愛する」ように行動が変わる 律法の根幹は、「神への愛と隣人への愛」なので、 信仰の行動は自然と、律法の要求を満たすようになる 義とされようとして律法を行うことはなくなったが 信じた結果、信仰が行いとなって表れ、 それが、律法の要求を満たすことになってくるA信仰の行いは義と認められるためにするのではない人が良い行いをしようとする動機には、「人に見てもらいたいから」というものがある ファリサイ派の人々が、まさにそうだった 「自分は正しく良い人間ですよ」と人に示そうとして、良い行いをしていた 心の中は違うのにそれを隠して、立派な心で良い行いをしているようなふりをしていた そういう偽善的行いは、他人には立派に見えても神の前には罪そのもの 内側が罪によって汚いままで変わっていないのに、きれいに見せかけていた そのように自分の正しさを示そうとして、良い行いをしようとするのではなく イエスを信じ赦された愛を、全身全霊で喜び感謝することによって 外側に自然に表れてくる行動が、良い行いになる その良い行いが、律法の本来的要求を満たすようになる それが、クリスチャンの信仰による良い行動のあり方Bキリストを信じたら聖霊が良い行いへと導かれる信仰によって心が変化し、それが良い行動になって表れることになるが 信仰を持てば、いつもいつも完全に良い行いができるかと言えばそうではない 罪はゆるされても、罪人ゆえの弱さが残っている そこを、聖霊が助けてくださる 聖霊が助けて下さることにより、神の力によって 本来すべきだった行動ができるようになってゆく 律法によって義とされようとしてはいけないから、 「善い行いは、もはやしなくてもよい」というのではなく、 聖霊によって良い行いをどんどんしてゆくむすび.一方的な恵みによって義とされたことを確信自分の力で義とされているのではなく、神の一方的な恵みによって完全に義とされている 「律法をおこなわなければ救われない」のではなく、信仰で救われる 「立派な良い行い」は、私たちの救いとは全く無関係 「救われるために、立派な良い行いをせねばならない!」という思いを捨てる キリストの十字架によって救われていることを確信すること 私たちは、キリストを信じると「良い行い」ができるようになる 聖霊が善い行いをさせて下さるから、聖霊を求める 自分の力に頼るのではなく、神の力、聖霊により頼もう 聖霊が助けて下さることにより、神の力によって本来すべきだった良い行動が可能 「良い行いをしなければならない」という、律法主義的思いから解放されよう!