2022年7月31日  「愛せない思いからの解放」
          ヨハネの手紙一 3章10節
1.はかり知れない神の愛で罪人のまま愛されたことを再確認すること
@病人のまま医者に行くように、罪人の姿そのままで愛された(ルカ5:31)
 キリストによる罪のゆるしは無条件。信仰のみ。  パウロの様に信者を苦しめ迫害し殺していても、  ザアカイのように憐れみの欠片もなくても赦された
A一切の行いとは無関係に愛された
 良い行いで救われるのではない (エフェ2:8-9)  逆に、救われる前は悪い行いと悪い考えと悪い言葉ばかりだった  ただ、イエス・キリストの十字架の血潮によって赦され救われた  一般的な結婚の相手選びは、品行方正で職場での評価もよく...だが  救いに関しては、そういうことは全く関係ない。  品行方正だろうがなかろうが、無職だろうが経営者だろうが関係ない。  ただただ神の一方的な愛によるもの。  酒におぼれて家を失い、健康も害して絶望のただ中にいるそんな人を  神は限りない愛で愛して、救いへと導かれる
B自分自身がどれほど神に愛されているかを正しく認識しよう
 1万タラントン赦されている (マタ18:24-27) =膨大な罪を私たちはもって生まれた  自分が正しかったから、愛され赦されたのではなかった  1タラントン=6千デナリ 1万タラントン=6千万デナリ  自分は6千万円の借金をゆるされていて、隣人は百円を自分に返せない。  隣人をゆるす時、この60万倍も大きな自分の罪が神の前に赦されていることを思うべき。  神の限りないはかり知れない愛を、思い起こそう!
2.一旦キリストを信じたら信仰を行いで現す
@キリストを信じることは男女の結婚と同様 (黙示19:9)
 信仰が行いに現れるのは、結婚した男女の行動が変わるのに等しい  今まで誰と交際したかにかかわらず、夫は妻だけを愛し他の女性には目を向けない  妻も夫だけを愛し他の男性には目を向けない  もし結婚したにもかかわらず、あの女性にもこの女性にも妻と同じように  接し続けてていたら、夫婦関係は破綻してしまう。もはや健全な夫婦とは言えない。  中途半端は夫婦関係に亀裂を入らせる。妻だけを愛する。妻にとっては夫が最優先。  結婚したのに夫が他の女性と一緒に住み続け、その女性との間に子供が生まれ  そこで女性と子供を養っていたとしたら、これはもう実質的に夫ではなくなっている。  妻の場合も同じ。他の男性の元に行って、その男性の間に子をもうけていたら...
A結婚したら行いが変わるように信仰も同じ
 夫が妻と結婚したなら他の女性の所には行かないように  キリストを信じて神の元に戻ったなら、神ではない偶像を拝むことは二度としない。  信仰によって、行動が変化する。信じたように行動する。  「神を信じます」「キリストを信じます」と言いながら、  偶像も拝み続けるなら、これは真実に神を信じたことにならない。  「真実に信じてはいません」ということを、行動に表していることになる。  それは信仰していないのと同じ。偽物。その終わりは永遠の滅び。  偶像を拝まないことだけでなく、神を愛し隣人を愛すということにおいても同じ。  神の愛を受け取ったら、今までの憎しみはすべて捨て去り逆に隣人を愛する
B本物の信仰は行いの伴う信仰 (ヤコ2:17)
 信仰は行いを見ればわかる 口先だけの信仰は不信仰と同じ  行いが伴っていなければ、本当は信じていないのだとわかる  これは大変なこと。最後は永遠の滅びに至ってしまう  一見行いが信仰的に見えても、振りをしているだけのこともある。  見せかけの行いは破綻する。岩ではなく砂の上に建てた家は、やがて倒れてしまう。  例:勉強のふりだけしていたなら、受験しても合格しない  キリストを信じて神の愛を受け取ったなら、愛されていることを行動で表してゆく  6千万円の借金をゆるされた人が、100円の借金返済をゆるすように  隣人をどんどん赦してゆく。隣人を受け入れ愛して赦してゆく。  これこそが、信仰が行いによってあらわされていることに他ならない  6千万円の借金をゆるされた人が、100円の借金返済をゆるせないようなら  「私は6千万円の借金をゆるされていません」と告白しているようなもの。  「私はあの人を愛せません」というのは、  「私は神に愛されていません」と告白しているようなもの。  信じていませんと言うことになってしまう。
3.感情的に愛せない場合どうすればよいのか?
@兄弟を愛さない者は神に属していないことを知ること
 イエスを信じたのに愛さないということは信仰の逆  イエスを信じたのに愛さないということは神に属していないことになる=救われていない→永遠の滅び  兄弟を憎む者=人殺し=永遠の命がない(1ヨハ3:15)
Aどんな兄弟も愛せるようにならなければならない
 「愛せない人がいてもよい」「しょうがない」のではない  何としても愛さない人を0人にする必要がある 神以外に何も拝まないようにするのと同じ。  隣人を愛さないことは、神を愛さないことになってしまう。大問題!
B愛せるようになるまで祈る→祈りは自分を変える
 愛というのは意志であって、感情ではないことに気を付けよう  その人に対する感情がどうであっても、自分の意志で「その人を愛します」という決断をする  そして今愛せないその人の祝福を祈る (ロマ12:14)  愛せないのは、私の問題なので祈りの中で自分の感情が変えられるように祈る  その人を愛せるようになるまでたゆまず祈る(12:12)  当時徴税人ザアカイを愛していた人はいなかっただろう。しかしイエスはザアカイを愛していた。  ザアカイを愛されたイエスを思い起こそう!
むすび.祈りの中で愛せない思いから解放されよう
 愛さないことは信仰を捨てることに等しい重大問題  聖霊の力によって迫害する者をも愛することができる  自分を石打で殺そうとしていた人のために祈っていた、ステファノの姿にならおう!  そして聖霊の力によって愛せない思いから解放されてゆこう!!