1.オネシモの解放 〜フィレモンに対する謝罪〜
@オネシモは主人フィレモンから逃げ自由を掴んだのか?
オネシモはフィレモンの元から逃げ去ってパウロの元にいた
だから奴隷から解放されて全く自由になっていたか?というとそうでもなかった
キリストを信じたオネシモの心の中に、自由を妨げるものがあった
Aオネシモの心の中の自由を妨げていたもの
その心の中には、絶えず自責の念が渦巻いていたと考えられる
「私は主人に損害を与えて逃げ去ってしまった」
オネシモの心は自責の念に縛られていたままだっただろう
キリストによって、神の前に罪を赦されても、
もし謝るべき人に謝っていないままであるならば
それは心の中に残存してしまう
B本当の解放は主人に謝り許しを受けること
オネシモにとっての本当の解放は、罪を悔い改めることにあった
罪を犯してしまった相手に対して、誠実に罪を告白して謝ることが必要だった
謝ることができて、初めて本当の解放が与えられた
2.フィレモンの解放 〜オネシモをゆるす〜
@オネシモに裏切られた事実
フィレモンに対してパウロは「自分が弁済する」と語っている
オネシモは、何らかの損害を与えていたのは確かなことだろう
フィレモンにとって、それは決して小さなことではなかったはず
A通常オネシモに対する怒りと恨みを抱くような状況
フィレモンにとって、奴隷オネシモは自分の所から逃げ去っただけでなく、
自分に損害も与えていた。フィレモンは、損害を被っていた。
通常なら、怒りと恨みを抱いてしまうところだっただろう
Bオネシモを許さなければならなかった
フィレモンにとって必要だったのは、そのオネシモをゆるすことだった
どんなにひどいことをされていたとしても、許さなければならなかった。
あのオネシモがやってくる。
面と向かって会った時に、許せるだろうか!
これがフィレモンのチャレンジだった。
自分には何の非もなく、一方的に相手だけが悪い
その時に、相手に対して怒らず、避難せず、恨みを覚えず、
何も責めずに、ゆるせるだろうか?
しかしこの赦しこそが、とても重要なことだった
フィレモンがオネシモを許さなければ、オネシモは解放されず、
またフィレモン自身も解放されなかった。
オネシモの解放もフィレモンの解放も、ひとえにフィレモンがゆるすかどうかにかかっていた。
フィレモンは、オネシモをゆるしたことだろう
そしてパウロの勧め通りに、彼をもはや奴隷としてではなく、奴隷以上の者、
つまり愛する兄弟として、受け入れたことだろう
3.私達の解放 〜謝罪とゆるしの両面〜
@何かの隠れた罪をそのままにしていないだろうか?
オネシモのように、私にも自由を妨げる何かが心の中にないだろうか?
神に、自分自身の心の中を探っていただこう
私が謝罪しなければならない人が、いないだろうか?
Aフィレモンのようにゆるしているだろうか?
許さないと、相手が解放されないだけでなく、
自分自身も「許さない」という思いに縛られたままで自分も解放されない。
被害が完全に弁済されていなくても、すべてをゆるすことがとても重要。
相手が謝ったかどうかに関係なく、赦すことが大切
謝る前にゆるすことが必要。「父よ彼らをゆるしてください」という
イエスの祈りは、彼らが悔い改める前の祈りだった
B神に赦されたなら人もゆるそう
人を許さないという人生は、悲惨な人生。
相手が苦しむだけでなく、実は自分が縛られたままになってしまう
最後は、救いから落ちてしまう可能性もある。永遠の滅びに至ってしまう。
1万タラントゆるされたのに、100デナリをゆるせなかった人のたとえを
思い出そう。6000万円の借金をゆるされた人が、自分が100円貸した人を
ゆるすのは当然のこと
むすび.ゆるしていない人がいないだろうか?
心の奥深い所で、誰かを恨んでなかっただろうか?
恨み憎しみから完全に解放されるように、神に祈ろう!
中途半端な解放ではなく、完全に解放されて自由になろう!