1.ナタナエルはフィリポの言葉を信じられなかった@フィリポは直接イエスに招かれてメシアと信じたフィリポはペトロとアンデレと同じベトサイダ出身 イエスはフィリポに「わたしに従いなさい」と言われた ペトロ、アンデレ、ヨハネ、ヤコブ同様直接招かれたAフィリポはナタナエルにイエスのことを伝えたフィリポはナタナエルに出会って体験を伝えた。 律法に記され預言者たちも書いている方=メシア に出会った。ナザレの人で、ヨセフの子イエスだBナタナエルはフィリポの言葉を信じられなかった「ナザレから何か良いものが出るだろうか」 初めから撥ねつけている=そんなことはあり得ない2.彼の不信仰は聖書を知らなかったからではなかった@ナタナエルは決して聖書について無知ではなかったメシアはナザレでは生まれない=正解! ベツレヘムからイスラエルを治める者が出る (ミカ5:1) ナタナエルはしっかり旧約聖書の言葉を覚えていたA無知ではなく知っていたからこそ信じられなかった聖書を知らなかったから信じられなかったのではなく 正しく理解し記憶していたからこそ信じられなかった 「ナザレ出身者」がメシアのはずがないベツレヘムだB聖書を正しく理解していても信じられないことがある聖書を読んで正しく理解することは信じるために必要 けれども聖書を理解するだけでは信仰に至らない3.ナタナエルは自分自身でイエスに出会って信じた@フィリポはナタナエルをイエスの元に連れて行ったフィリポは「来て、見なさい」と言って連れて行った とにかくあなた自身でイエスに会って確かめなさいAナタナエルはイエスと直接会って会話をしたイエスはすでにナタナエルを良く知っておられた 「まことのイスラエル人だ。この人には偽りがない。」 「あなたがいちじくの木の下にいるのを見た」Bナタナエルは自分でイエスの言葉を聞いて信じたナタナエルの疑いはイエスに出会って吹き飛んだ 友人の言葉だけでは疑いは払拭されなかったが 自分自身でイエスに会って聴いて信じることができたむすび.本人がイエスに出会って疑いから解放された周囲でなく本人がイエスの言葉を聴き信仰に進む! 信仰は、きわめて個人的なものであって本人の意思決断による。 いくらフィリポが熱心に信じていても、ナタナエルとは無関係だった 同様に、その人のために代わりに私が信じてあげようとか、 強制的に、信仰を無理強いしたりすることはしてはならない。 本人が自分自身で判断し、決断することが重要。 ナタナエルも自分自身でイエスに会って、そして信仰を持っている 聖餐式でも、あなたの代わりにわたしがあなたのパンを食べてあげましょう と言うことができないのと同じで、信仰の代行はできない。 本人が自分自身で気が付いて、信仰の決断ができるように助けるのが 私たち先に信仰を持った一人一人の役目