1.ヤコブとヨハネの高慢は実行に移された
@誰が一番偉いかの議論で終わっていなかった
イエスは「自分を低くして子供のようになりなさい(マタ18:1-5)」と言われていた
にもかかわらず「王座の右と左に座らせてほしい(20:21)」と願っている
王座の左右の座=重要人物 重要人物になりたい 偉くなりたい
→ 誰が偉いかの議論で終わらず、偉くして下さいという実際の行動に出ている
ヤコブとヨハネの心の中に、いかに高慢な思いが根ざしていたかがわかる
それは彼ら二人だけの問題ではなく、弟子たちすべてに言える事だった
Aわたしの父によって定められた人々に許される
イエスの左右の座に就く人は、父なる神が決定することだった
イエスにも決められないことであるなら、人間なら、なおのことだった
神の決めることを人が決めてしまい、それを願う=越権行為も甚だしい=高慢
B罪人に根強く存在するのが高慢な思い
神に対する高慢な態度は、旧約の昔から続いている
アッシリアの王センナケリブは、神を偶像の神と同じとみなして蔑んだ(列王下19:20-28)
本来神の前にへりくだるべき神の民が、高慢になった
「シオンの娘らは高慢で首を伸ばして歩く(イザ3:8-16)」
2.悪魔こそが高慢そのものの存在
@悪魔は神のようになろうとした
悪魔の心は高慢『わたしは神だ』(エゼ28:2)と語っている
悪魔は人に対しても「神のようになれる」と誘惑した
人は誘惑に乗ってしまい高慢を選んで罪を犯した
人は悪魔と同じような高慢に、引きずり込まれてしまった
今すべての人間は、高慢を心に抱えながら生きている
A高慢は偶像の神「悪魔」を拝む行為と等しい
高慢は偶像崇拝に等しい(サム上15:23)
高慢は神を神とせず、自分を神の位まで上げてしまうこと
神を神としないのは「偶像崇拝」なので、高慢は偶像崇拝と等しい
自分を神の位置にまであげるのは、悪魔のしている事
高慢は悪魔と同じことを、神に対してしてしまっていることになる
私たちが高慢になる時、悪魔は喜びそこに付け込んでくる
悪魔は私たちが高慢になるように、けしかけてくる
B悪魔によって高慢になるよう唆され争い合ってきた
人間の高慢が、争いを生じさせ争いが続いてきた
高慢にふるまえば争いになるばかりだ (箴言13:10)
争いを生じさせる高慢は、主に忌み嫌われる罪そのもの
すべて高慢な心を主はいとわれる (箴言16:5)
高慢なまなざし傲慢な心は神に逆らう者の灯罪(21:4)
ヤコブとヨハネの高慢は、しょうがないなでは済まされないことだった
どうしても高慢から解放されなければならなかった
3.イエスは神の子なのに高慢とは程遠い模範を示した
@イエスは高慢の真逆=十字架の死に至るまで謙遜
高慢な弟子たちに対して、イエス・キリストは十字架の死を示された
その姿は高慢とは程遠い、最後まで全人類に仕える姿だった
へりくだって十字架の死に至るまで従順 (フィ2:8)だった
弟子たちはその姿を目の当たりにしたが、初めはただ単に恐怖に過ぎなかった
A聖霊の助けによって高慢から解放される事が可能
弟子たちが高慢から解放されて、主に用いられるようになったのは
聖霊に満たされた後だった。聖霊が彼らを高慢から解放したことがわかる。
聖霊は私たちを肉の欲望から解放し、私たちを助け導かれるお方
自分の力だけでは、どうしても高慢のままそこから抜け出すことができない
しかし、人にはできないことも神にはできる→願い求める
聖霊の助けを願い求める時、そこに主が働かれ聖霊の助けを与えて下さり解放へと導かれる
B私たちはキリストを模範にしあらゆる高慢を打ち倒す
まずキリストにならって、聖霊の力によって自分自身の高慢から解放されるべき
そして、周囲にあるすべての高慢を打ち倒してキリストに服従させる
私たちの武器はあらゆる高慢を打ち倒し (2コリ10:4-5)
私たちはキリストと同じように、高慢の真逆の姿を世に示し
愛と神の武器をもって、周囲の人々の高慢を打倒して
神に服従させてゆく働きをしていくために、召されている
むすび.高慢の誘惑を信仰の大盾で跳ね飛ばそう
神は高慢な者を敵とし謙遜な者には恵みをお与えになる(1ペト5:5)ことを
心にしっかりと刻み付け誘惑に打ち勝っていこう!
周囲の高慢に流されることなく、聖霊に助けられて謙遜な姿をもって
高慢を打ち破ってゆこう!