はじめに.ザアカイは金持ちだった
@ザアカイは少なくとも二通りの方法で蓄財していた
徴税人ザアカイは、徴税の仕事と、人から不正に奪うことで蓄財し、
施しをしないことで、財産を減らすことなく維持し続けていた
イエスに出会った前後でその姿勢が激変していることから、そのことがわかる
After: 財産の半分を貧しい人々に施します。
Before: 財産を貧しい人々になど施しません。
貧しい人々に施さずに蓄財し続け、金持ちになっていたことがわかる
After: だまし取っていたら四倍にして返します。
Before: だまし取ってでも私腹を肥やします。
徴税時に税金をだまし取って、金持ちになっていたこともわかる
A徴税人という仕事自体が「お金」中心の仕事
漁師は魚,羊飼いは羊,農家は作物を相手に働く
徴税人の仕事は人々からの税の徴収と、それらの上納を業務とする
税金を徴収し上納する仕事=初めから終わりまでお金を相手にする
漁師は魚のことを考え,羊飼いは羊のことを考え,
農家は作物のことを考え,徴税人はお金のことを考える
自然に頭の中は、お金お金になっていたことだろう
漁師は魚がたくさん取れることを願い
羊飼いは羊が健やかに繁殖することを願い,
農家は作物が豊かに実ることを願い,
徴税人は多額のお金が徴収できることを願う
徴税人として働けば働くほど、お金が増えることを願うようになっていったはず
Bお金のないことの大変さを実感していただろう
当時のユダヤ地方では人頭税が課せられていた模様
とすれば納税能力に関係なく、全国民に一定額が課されていたことになる
富んでいる人からも、貧しい人からも等しく徴収しなければならなかった
貧しい人々からの徴収で、お金がないことの大変さをリアルに見ていた
おそらく規定額の徴収ができないこともあったはず
貧しい人には徴税よりむしろ施しが必要なことぐらい、人一倍わかっていたはず
しかしそれでも徴収していたからこそ、徴税人の頭になれたのだろう
憐れみを捨て、徴税を優先していたはず
C確実に税金が徴収されていなければならないという圧力
「だまし取っていたら」→もしも税額が自由だったら「だます」という行為はあり得なかったはず
「規定の税額」というものがあったからこそ、規定以上に「だまし取った」
「規定の税額通り」徴収できなければ、上納額に満たなくなる→責任を問われることに
自分の地位(徴税人の頭)と立場(徴税人)が危うくなる
だが貧民が払えない→「それなら徴取できる人から多めに徴収してしまえ」だったか?
理由はどうであれ、不正に多く取り立ててしまっていた→私腹を肥やしていた
ザアカイは徴税の仕事で儲け、施しをしないことで富を維持していた=金持ち
1.ザアカイの心の支えは神でなくお金だった
@徴税人として生きる=罪人と言われながら生きる
当時の社会は律法学者に代表されるような、聖書の神を信じる信仰基盤の社会
「徴税人は神に従うのでなく、異教の神に従う異邦人に仕えて従っている」
「だから徴税人は、罪人だ!」
「あいつは罪人だ」と指をさされながら生きなければならなかった
A徴税人は「自分は所詮罪人だ」という開き直りの人生
徴税人である限り、罪人扱いなので所謂信仰的には生きられなかった
「そうです私は罪人です」と開き直るしかない悲しみと苦しみ
神に従おうとしていた人々の仲間には入れない、疎外感
徴税人のお金は「汚れた金」とみなされ、寄付も拒否されたよう
徴税人は裁判での証言は許されておらず、社会的地位もはく奪されていたよう
ローマ帝国の権限を使えるのに、ユダヤ社会では共同体に入れなかった模様
B頼りとなるのはお金だけ→お金こそが唯一の拠所
自分は罪人だから神に頼る資格などありません。だから神に頼れない
自分を罪人扱いするような周囲の人々にも頼れない。人にも頼れない
神にも人にも頼れない→頼りになるものをほかに探さなければならない
お金があれば多くのものが買える→お金は頼りになる→お金に頼るしかない
→蓄財が進む=金持ちになる
徴税人だったザアカイが支えとしていたのは、お金だったことだろう
2.お金はザアカイの心を支えられなかった
@いちじく桑の木に登ってまでもイエスを見たいと願う
もしザアカイの心が、お金で充足していたなら
木に登ってまで、イエスを見ることを求めなかったことだろう
むしろ「自分にはお金があるから、メシアなど関係ない」という思いだっただろう
お金では決して満たされなかったからこそ木に登ることまでして
イエスを見ることをしたと思われる
A神以外に心の支えとなるものはない
神以外のもので自分を支えようとしても一時鎬ぎに過ぎない
一時的な満足しかない → 次から次へと求めるのだが
→ それでもだめ → 際限なく求める → 依存的症状に
例:ギャンブル依存、アルコール依存、ゲーム依存などなど数多の依存症
本来神にしか支えられない心を、ほかのもので支えようとしても無理
神にしか埋められない心の穴を、ほかのもので埋めようとしても不可能
Bザアカイの心はお金でなくイエスによって満たされた
お金では支えられず満たされなかった彼の心は
イエス・キリストとの出会いによって変わった
本当の心の満たしはイエスにある神の愛だけによる!
3.イエスに出会ってお金への執着から解放された
@財産に対する依存心からの解放
「財産の半分を施します」→ もはや財産は、彼の依存先ではなくなった
真の依存先を見い出した それはイエス・キリスト
寄って立っていた財産を、ためらうことなく思い切りよく手放し
代わりにキリストを、自分の寄って立つ岩としている
A貧しい人から巻き上げていた良心の呵責からの解放
救われた時すぐに「財産の半分を貧しい人々に施します。」と語った
before: 支払能力のない貧しい人からも、強引な徴収をしていたのか?
→仕方がないと目をつむり → 憐れみの心を放棄していた?
→良心の呵責に攻め悩まされていたのかもしれない
真先に「貧しい人々」が出てきている所から
「貧しい人々」の苦しみが、脳裏に焼き付いていたのだろう
本当は哀れまなければならないのに...自分は何をしているんだ!という自責の念
それが「財産の半分を貧しい人々に施します。」という言葉として
出てきたのではないだろうか?
Bだまし取っていた良心の呵責からの解放
救われた時「だれかから何かだまし取っていたら、それを四倍にして返します。」
と語っている
before: ローマ帝国の権力があったので、だまし取る事も可能だった
何も言えないことを言いことに、税金を多くだまし取っていたが
それも良心の呵責として残存していたことだろう
本当はこんなに巻き上げてはいけないのに、自分は何をしているんだ!
という自責の念に、悩まされていたのではないだろうか?
それが「だれかから何かだまし取っていたら、それを四倍にして返します。」
という言葉として、出てきたのではないだろうか?
むすび.神の愛は富への依存からくる富への執着(貪欲)から人を解放する
ザアカイは金持ちだったが、決して幸福ではなく逆につまはじきの人生を送っていた
富み栄えることは、人生の支えにも目的にもならないことがわかる
私腹を肥やすことは、人生を豊かにすることでもなんでもない
ザアカイは、富ではなく神の愛をイエスを通して知り、そして変えられた
富への依存心、執着、貪欲から解放され、神の愛に生きる者となった
神の愛こそ、富に依存する思いから解放し自由にする
そこにこそ本当の喜びがあり、豊かさがある
富に依存する心が少しでもあるなら、捨て去ろう
富を目的とした生き方をしているとしたら、神を求める生き方に改めよう
自分自身がさらに、富への依存から解放されるとともに
富み栄えることを人生の目的にしている人々にも、神の愛を伝え
富への依存から解放されて、神の愛に生きられるように働いていこう!