2022年3月13日  「富を求める貪欲からの解放」
          ルカによる福音書 19章1〜10節
はじめに.ザアカイは金持ちだった
@ザアカイは少なくとも二通りの方法で蓄財していた
 徴税人ザアカイは、徴税の仕事と、人から不正に奪うことで蓄財し、  施しをしないことで、財産を減らすことなく維持し続けていた  イエスに出会った前後でその姿勢が激変していることから、そのことがわかる  After: 財産の半分を貧しい人々に施します。  Before: 財産を貧しい人々になど施しません。   貧しい人々に施さずに蓄財し続け、金持ちになっていたことがわかる  After: だまし取っていたら四倍にして返します。  Before: だまし取ってでも私腹を肥やします。   徴税時に税金をだまし取って、金持ちになっていたこともわかる
A徴税人という仕事自体が「お金」中心の仕事
 漁師は魚,羊飼いは羊,農家は作物を相手に働く  徴税人の仕事は人々からの税の徴収と、それらの上納を業務とする  税金を徴収し上納する仕事=初めから終わりまでお金を相手にする  漁師は魚のことを考え,羊飼いは羊のことを考え,  農家は作物のことを考え,徴税人はお金のことを考える  自然に頭の中は、お金お金になっていたことだろう  漁師は魚がたくさん取れることを願い  羊飼いは羊が健やかに繁殖することを願い,  農家は作物が豊かに実ることを願い,  徴税人は多額のお金が徴収できることを願う  徴税人として働けば働くほど、お金が増えることを願うようになっていったはず
Bお金のないことの大変さを実感していただろう
 当時のユダヤ地方では人頭税が課せられていた模様  とすれば納税能力に関係なく、全国民に一定額が課されていたことになる  富んでいる人からも、貧しい人からも等しく徴収しなければならなかった  貧しい人々からの徴収で、お金がないことの大変さをリアルに見ていた  おそらく規定額の徴収ができないこともあったはず  貧しい人には徴税よりむしろ施しが必要なことぐらい、人一倍わかっていたはず  しかしそれでも徴収していたからこそ、徴税人の頭になれたのだろう  憐れみを捨て、徴税を優先していたはず
C確実に税金が徴収されていなければならないという圧力
 「だまし取っていたら」→もしも税額が自由だったら「だます」という行為はあり得なかったはず  「規定の税額」というものがあったからこそ、規定以上に「だまし取った」  「規定の税額通り」徴収できなければ、上納額に満たなくなる→責任を問われることに  自分の地位(徴税人の頭)と立場(徴税人)が危うくなる  だが貧民が払えない→「それなら徴取できる人から多めに徴収してしまえ」だったか?  理由はどうであれ、不正に多く取り立ててしまっていた→私腹を肥やしていた  ザアカイは徴税の仕事で儲け、施しをしないことで富を維持していた=金持ち
1.ザアカイの心の支えは神でなくお金だった
@徴税人として生きる=罪人と言われながら生きる
 当時の社会は律法学者に代表されるような、聖書の神を信じる信仰基盤の社会  「徴税人は神に従うのでなく、異教の神に従う異邦人に仕えて従っている」  「だから徴税人は、罪人だ!」  「あいつは罪人だ」と指をさされながら生きなければならなかった
A徴税人は「自分は所詮罪人だ」という開き直りの人生
 徴税人である限り、罪人扱いなので所謂信仰的には生きられなかった  「そうです私は罪人です」と開き直るしかない悲しみと苦しみ  神に従おうとしていた人々の仲間には入れない、疎外感  徴税人のお金は「汚れた金」とみなされ、寄付も拒否されたよう  徴税人は裁判での証言は許されておらず、社会的地位もはく奪されていたよう  ローマ帝国の権限を使えるのに、ユダヤ社会では共同体に入れなかった模様
B頼りとなるのはお金だけ→お金こそが唯一の拠所
 自分は罪人だから神に頼る資格などありません。だから神に頼れない  自分を罪人扱いするような周囲の人々にも頼れない。人にも頼れない  神にも人にも頼れない→頼りになるものをほかに探さなければならない  お金があれば多くのものが買える→お金は頼りになる→お金に頼るしかない  →蓄財が進む=金持ちになる  徴税人だったザアカイが支えとしていたのは、お金だったことだろう
2.お金はザアカイの心を支えられなかった
@いちじく桑の木に登ってまでもイエスを見たいと願う
 もしザアカイの心が、お金で充足していたなら   木に登ってまで、イエスを見ることを求めなかったことだろう   むしろ「自分にはお金があるから、メシアなど関係ない」という思いだっただろう  お金では決して満たされなかったからこそ木に登ることまでして  イエスを見ることをしたと思われる
A神以外に心の支えとなるものはない
 神以外のもので自分を支えようとしても一時鎬ぎに過ぎない  一時的な満足しかない → 次から次へと求めるのだが  → それでもだめ → 際限なく求める → 依存的症状に  例:ギャンブル依存、アルコール依存、ゲーム依存などなど数多の依存症  本来神にしか支えられない心を、ほかのもので支えようとしても無理  神にしか埋められない心の穴を、ほかのもので埋めようとしても不可能
Bザアカイの心はお金でなくイエスによって満たされた
 お金では支えられず満たされなかった彼の心は  イエス・キリストとの出会いによって変わった  本当の心の満たしはイエスにある神の愛だけによる!
3.イエスに出会ってお金への執着から解放された
@財産に対する依存心からの解放
 「財産の半分を施します」→ もはや財産は、彼の依存先ではなくなった  真の依存先を見い出した それはイエス・キリスト  寄って立っていた財産を、ためらうことなく思い切りよく手放し  代わりにキリストを、自分の寄って立つ岩としている
A貧しい人から巻き上げていた良心の呵責からの解放
 救われた時すぐに「財産の半分を貧しい人々に施します。」と語った  before: 支払能力のない貧しい人からも、強引な徴収をしていたのか?  →仕方がないと目をつむり → 憐れみの心を放棄していた?  →良心の呵責に攻め悩まされていたのかもしれない  真先に「貧しい人々」が出てきている所から  「貧しい人々」の苦しみが、脳裏に焼き付いていたのだろう  本当は哀れまなければならないのに...自分は何をしているんだ!という自責の念  それが「財産の半分を貧しい人々に施します。」という言葉として  出てきたのではないだろうか?
Bだまし取っていた良心の呵責からの解放
 救われた時「だれかから何かだまし取っていたら、それを四倍にして返します。」  と語っている  before: ローマ帝国の権力があったので、だまし取る事も可能だった      何も言えないことを言いことに、税金を多くだまし取っていたが      それも良心の呵責として残存していたことだろう  本当はこんなに巻き上げてはいけないのに、自分は何をしているんだ!  という自責の念に、悩まされていたのではないだろうか?  それが「だれかから何かだまし取っていたら、それを四倍にして返します。」  という言葉として、出てきたのではないだろうか?
むすび.神の愛は富への依存からくる富への執着(貪欲)から人を解放する
 ザアカイは金持ちだったが、決して幸福ではなく逆につまはじきの人生を送っていた  富み栄えることは、人生の支えにも目的にもならないことがわかる  私腹を肥やすことは、人生を豊かにすることでもなんでもない  ザアカイは、富ではなく神の愛をイエスを通して知り、そして変えられた  富への依存心、執着、貪欲から解放され、神の愛に生きる者となった  神の愛こそ、富に依存する思いから解放し自由にする  そこにこそ本当の喜びがあり、豊かさがある  富に依存する心が少しでもあるなら、捨て去ろう  富を目的とした生き方をしているとしたら、神を求める生き方に改めよう  自分自身がさらに、富への依存から解放されるとともに  富み栄えることを人生の目的にしている人々にも、神の愛を伝え  富への依存から解放されて、神の愛に生きられるように働いていこう!