1.主がこの世に来られなかったなら、全員が悪魔の奴隷状態で最後は永遠の滅び@世の支配者は悪魔〜この世は現在悪魔の支配下〜実際は、この世は現在悪魔の支配下にある(1ヨハ5:19) 主権在民、国民主権のように見えるが、実はそうではない 実際の支配者は、神に敵対する悪魔であり、悪魔がこの世界を牛耳っている 悪魔の意のままに罪人が動かされ、互いに憎み合い争い合うようにそそのかされている 争いの極みが国と国との戦争。悪魔は人と人を殺し合わせて滅ぼしたいと願っている 悪魔の支配下の世とその欲とは、確実に過ぎ去る(1ヨハ2:17) 今のこの世は悪魔の支配下にあるが、やがて確実に過ぎ去ってゆく 悪魔の支配が永遠に続いてゆくのではない。神の正しい裁きがやって来る この世の富や名声、地位や権力は虚しくはかない 悪魔の支配下にあるものは滅び去る 最後に世の支配者は滅び去る(ヨハ12:31)が、今はまだ大手をふるって行動している 悪魔は大手を振って、のさばり人々を絶望に貶めている 互いに憎しみ合わせ、傷つけ合わせ、殺し合わせているA世の支配者悪魔の下で人間は奴隷状態になってる世の支配者悪魔の下で、人間は奴隷状態になっていて抜け出せない 無分別,不従順,迷い,情欲,快楽,悪意,ねたみ(テト3:3)の奴隷状態 とりこの状態=自分ではどうしても抜け出せない 欲望の奴隷状態に陥り、次から次へと神以外のものを求めてゆく 神によってしか満たされないのに、神以外のもので満たそうとするので 求めても求めても満たされず、さらにさらに求めてゆく 負のスパイラル 良い言葉ではなく、悪口や陰口を語り合ってしまい、憎しみ合っている 互いに高め合うのではなく、貶め合ってしまう 赦し合うのではなくさばき合い、憐れみを捨てて隣人を立ち上がれなくしているB人生の終わりには悪魔と共に永遠の滅び(ヨハ3:16)イエスを主としないで生きることは、悪魔を主として生きることになってしまう 偶像崇拝は、実は偶像の先の悪魔を拝み悪魔を自分の主とする事に他ならない 悪魔を主としたままでは、最後は火の池に投げ込まれてしまう(黙示20:15) もし主イエス・キリストがこの世に来られなかったとしたら 全人類が滅びるほかなかった2.主は全人類を解放するために来られた(ルカ1:68)@悪魔に捕らわれている人を解放するために代価が支払われた解放とは? 代価を払って奴隷を解放するという意味なので 贖いと同じ (アフェシス) 代価は何か? 十字架の血潮が代価として支払われた 血を流さなければ → 赦されない (ヘブ9:22) 全人類の代価を払うためにイエスが十字架で血を流された 十字架で、全人類の贖いのための代価が払われた 完全な解放がここに実現したA解放→霊的盲目状態から霊的視力を回復させる悪魔に隷属した状態=霊的に盲目 真理が覆われてしまう結果、真理がわからずにさ迷う 神に作られた自分、神に生かされている自分、神に愛されている自分 神に使命を与えられている自分が、まったく見えない → ダメな自分しか見えない 盲人の道案内をする盲人→両方滅びる(マタ15:14) 霊的真理がわからないまま人を教えても、教えられた人もわからないまま それこそが「解放されていない」状態 解放されていない状態=霊的盲目状態 主イエスは、霊肉ともに「目の見えない人」の視力を回復させてくださった 主は完全な解放を与え、霊的な目を開いて下さったB解放→圧迫されている人が自由になるのが解放解放されていない状態は、圧迫されている状態 人間の上には、自分の罪の重荷がずっしりと載っている=罪の重荷による圧迫 罪の重荷で圧迫されてしまうと、どうなるか? → 本来なすべきことができない → 本来してはいけないことをしてしまう 本来すべきことを自由にできない、本来してはいけないことをやらずにはおれない 不自由極まりない生き方 解放されると圧迫が取り除かれて、自由になすべきことができる。 忍耐することも自制することもできるようになる。3.主による完全な解放を誰もが自分のものにできるいったいどうすれば、主による完全な解放を誰もが自分のものにできるのか?@神の御心に適った悲しみをもって悔い改める肉と霊のあらゆる汚れから自分を清める事 (2コリ7:1)から始める 自分自身の罪から、悪の束縛が始まる→罪の悔い改めが解放への第一歩 口先だけでなく、真心からの真の悔い改めが必要 キリストなしの解放はない=悔い改めることなしに解放はない 真心からの真の悔い改めが、どうしても必要不可欠 神の御心に適った悲しみが、真の悔い改めへと続いている(2コリ7:10) ↑ 神の視点で自分を客観視すると、神の御心の理解に進む 自分に対する神の御心がわかると、神の御心にかなった悲しみに至る 自己中心から、イエス・キリストを自分の主とする生き方へと変えられるA解放されて賛美が満ち溢れている天に目を向ける真に解放されるためには、罪の悔い改めで終わっていてはならない 神のおられる天に目を向けることが、大切 天には解放されていない人はいない→全員が解放されている 天では何が行われているのか?ということを、考える 解放された人々が何をしているのか? → 主を喜び賛美している 天では人も天使もみな賛美し、主への賛美があふれている いつも喜んで、主に賛美をささげているB地上が天のような状況になればよい→賛美を満たせ真の解放のためには、天のように主の聖なる臨在を求めること 賛美の中に主が住まわれる(詩編22:3)=主が住まわれるところはまるで天国 私たちが、主を真心から賛美するときに、そこはあたかも天のように主の臨在に包まれる 天では、全員が解放されているが、その天と同じ状況が地上に実現する 賛美しよう、主の臨在を求めよう、主の臨在の中で完全な解放を勝ち取ろうむすび.天を見上げて神を賛美し解放されて生きて行こう神の視点をもって自分を見つめ、主の御心にかなった悲しみをもって悔い改め 主を心から賛美して主の臨在を求め、主の臨在の中で主による完全な解放を体験していこう そしてその主による完全な解放を、隣人にも告げ知らせていこう! 主は私たちを完全に解放してくださるお方、 私たちに完全な解放を与えるために来られたお方なのだから!