2022年2月20日  「主による解放を告げ知らせる」
          ルカによる福音書 4章18〜19節
1.主がこの世に来られなかったなら、全員が悪魔の奴隷状態で最後は永遠の滅び
@世の支配者は悪魔〜この世は現在悪魔の支配下〜
 実際は、この世は現在悪魔の支配下にある(1ヨハ5:19)   主権在民、国民主権のように見えるが、実はそうではない   実際の支配者は、神に敵対する悪魔であり、悪魔がこの世界を牛耳っている   悪魔の意のままに罪人が動かされ、互いに憎み合い争い合うようにそそのかされている   争いの極みが国と国との戦争。悪魔は人と人を殺し合わせて滅ぼしたいと願っている  悪魔の支配下の世とその欲とは、確実に過ぎ去る(1ヨハ2:17)   今のこの世は悪魔の支配下にあるが、やがて確実に過ぎ去ってゆく   悪魔の支配が永遠に続いてゆくのではない。神の正しい裁きがやって来る   この世の富や名声、地位や権力は虚しくはかない 悪魔の支配下にあるものは滅び去る  最後に世の支配者は滅び去る(ヨハ12:31)が、今はまだ大手をふるって行動している   悪魔は大手を振って、のさばり人々を絶望に貶めている   互いに憎しみ合わせ、傷つけ合わせ、殺し合わせている
A世の支配者悪魔の下で人間は奴隷状態になってる
 世の支配者悪魔の下で、人間は奴隷状態になっていて抜け出せない  無分別,不従順,迷い,情欲,快楽,悪意,ねたみ(テト3:3)の奴隷状態  とりこの状態=自分ではどうしても抜け出せない  欲望の奴隷状態に陥り、次から次へと神以外のものを求めてゆく  神によってしか満たされないのに、神以外のもので満たそうとするので  求めても求めても満たされず、さらにさらに求めてゆく 負のスパイラル  良い言葉ではなく、悪口や陰口を語り合ってしまい、憎しみ合っている  互いに高め合うのではなく、貶め合ってしまう  赦し合うのではなくさばき合い、憐れみを捨てて隣人を立ち上がれなくしている
B人生の終わりには悪魔と共に永遠の滅び(ヨハ3:16)
 イエスを主としないで生きることは、悪魔を主として生きることになってしまう  偶像崇拝は、実は偶像の先の悪魔を拝み悪魔を自分の主とする事に他ならない  悪魔を主としたままでは、最後は火の池に投げ込まれてしまう(黙示20:15)  もし主イエス・キリストがこの世に来られなかったとしたら  全人類が滅びるほかなかった
2.主は全人類を解放するために来られた(ルカ1:68)
@悪魔に捕らわれている人を解放するために代価が支払われた
 解放とは? 代価を払って奴隷を解放するという意味なので        贖いと同じ (アフェシス)  代価は何か? 十字架の血潮が代価として支払われた   血を流さなければ → 赦されない (ヘブ9:22)  全人類の代価を払うためにイエスが十字架で血を流された  十字架で、全人類の贖いのための代価が払われた  完全な解放がここに実現した
A解放→霊的盲目状態から霊的視力を回復させる
 悪魔に隷属した状態=霊的に盲目   真理が覆われてしまう結果、真理がわからずにさ迷う   神に作られた自分、神に生かされている自分、神に愛されている自分   神に使命を与えられている自分が、まったく見えない → ダメな自分しか見えない  盲人の道案内をする盲人→両方滅びる(マタ15:14)   霊的真理がわからないまま人を教えても、教えられた人もわからないまま   それこそが「解放されていない」状態   解放されていない状態=霊的盲目状態  主イエスは、霊肉ともに「目の見えない人」の視力を回復させてくださった  主は完全な解放を与え、霊的な目を開いて下さった
B解放→圧迫されている人が自由になるのが解放
 解放されていない状態は、圧迫されている状態  人間の上には、自分の罪の重荷がずっしりと載っている=罪の重荷による圧迫  罪の重荷で圧迫されてしまうと、どうなるか?   → 本来なすべきことができない   → 本来してはいけないことをしてしまう  本来すべきことを自由にできない、本来してはいけないことをやらずにはおれない  不自由極まりない生き方  解放されると圧迫が取り除かれて、自由になすべきことができる。   忍耐することも自制することもできるようになる。
3.主による完全な解放を誰もが自分のものにできる
 いったいどうすれば、主による完全な解放を誰もが自分のものにできるのか?
@神の御心に適った悲しみをもって悔い改める
 肉と霊のあらゆる汚れから自分を清める事 (2コリ7:1)から始める   自分自身の罪から、悪の束縛が始まる→罪の悔い改めが解放への第一歩   口先だけでなく、真心からの真の悔い改めが必要  キリストなしの解放はない=悔い改めることなしに解放はない   真心からの真の悔い改めが、どうしても必要不可欠  神の御心に適った悲しみが、真の悔い改めへと続いている(2コリ7:10)  ↑   神の視点で自分を客観視すると、神の御心の理解に進む   自分に対する神の御心がわかると、神の御心にかなった悲しみに至る   自己中心から、イエス・キリストを自分の主とする生き方へと変えられる
A解放されて賛美が満ち溢れている天に目を向ける
 真に解放されるためには、罪の悔い改めで終わっていてはならない  神のおられる天に目を向けることが、大切  天には解放されていない人はいない→全員が解放されている  天では何が行われているのか?ということを、考える   解放された人々が何をしているのか? → 主を喜び賛美している  天では人も天使もみな賛美し、主への賛美があふれている  いつも喜んで、主に賛美をささげている
B地上が天のような状況になればよい→賛美を満たせ
 真の解放のためには、天のように主の聖なる臨在を求めること  賛美の中に主が住まわれる(詩編22:3)=主が住まわれるところはまるで天国  私たちが、主を真心から賛美するときに、そこはあたかも天のように主の臨在に包まれる  天では、全員が解放されているが、その天と同じ状況が地上に実現する  賛美しよう、主の臨在を求めよう、主の臨在の中で完全な解放を勝ち取ろう
むすび.天を見上げて神を賛美し解放されて生きて行こう
 神の視点をもって自分を見つめ、主の御心にかなった悲しみをもって悔い改め  主を心から賛美して主の臨在を求め、主の臨在の中で主による完全な解放を体験していこう  そしてその主による完全な解放を、隣人にも告げ知らせていこう!  主は私たちを完全に解放してくださるお方、  私たちに完全な解放を与えるために来られたお方なのだから!